オリフィス




 二月の朝六時はほとんど夜である。

 仙台駅のステンドグラス前で待ち合わせた俺たちは、電灯だけがぽつぽつ灯る暗いバスターミナルで鉢合わせになった。

「うす」
「おー」

 互いにそれだけ言った。二人ともすでに雪でびしょ濡れだった。今日は大雪警報が出ている。
 俺はまず、祈本の格好に目を留めた。

「なんで制服?」

 今日は日曜だ。それなのに祈本はいつも通り制服を着ていた。

「これしか服無い」
「マジか」

 プールに行ったとき、こいつが何も食べなかったことを思い出す。家庭の事情に踏み込みすぎるのはやめておこうと思い、俺は話題を変えた。

「てか雪ヤバくね? 今日」
「うん。パンツまで染みてる」
「着替え持ってきた?」
「持ってきてない」
「またかよ」
「買えばよくない?」
「朝六時に服屋なんか開いてないって。コンビニでパンツは買えても、ズボンとか服は無理だろ」
「……そっか」

 こいつは本当に、何も考えずに生きている。プールに水着を持ってこなかった日から、何も変わっていない。

「俺、持ってるから。パンツ以外は貸す」
「え? でも、お前のは?」
「二着ずつ持ってきたから大丈夫」

 そう言うと、祈本は尊敬するみたいな目で俺を見た。

「すごいな、久我山って」
「普通だろ」
「お母さんみたい」
「なんかやだ、それ」

 俺が笑うと、祈本も少し笑った。

「最大限の褒め言葉なのに」
「マザコンか」
「俺、しっかりしてる人が好きなのかも」
「お前がしっかりしてなさすぎて、周りがしっかりせざるを得ないんだろうな。あー、なんか想像つくわ。お前のお母さん、大変そう」
「……否定できない」

 その渋い顔を見て、なんだ、こいつも人の子か、と思った。一つ上の高校生なのに、自分よりずっと年下の子どもみたいに見えた。

 冷えた手をポケットに突っ込んだまま、バスターミナルから階段を上がり、西口のペデストリアンデッキへ出る。仙台駅西口のペデストリアンデッキは、駅から広く伸びる国内最大級の歩行者専用通路だ。クイズプレイヤーは、国内最大とか、日本最古とか、そういうものを覚えるのが好きなのだ。
 その国内最大級のデッキが、一面、白く染まっていた。

「……うわっ!」

 祈本が傘を開いた瞬間、びゅうう、と強い風が吹いた。傘はあっさり裏返り、細い祈本の体ごと持っていかれそうになる。俺は反射的にその腕を掴んだ。二人まとめてメリーポピンズみたいに飛んで、東京まで運んでくれたら楽なのに、と想像した。いや、よくない。寒すぎる。

「雪が目に入った」
「先に傘閉じろって」
「うわあああ」

 また強風が吹き、横殴りの雪が顔に叩きつけられた。自然と目が細くなる。世界は白と黒だけになっていた。積もった雪は白く、空はまだ夜の色を残したまま暗い。

「ちょっ、ヤバくない? これ行けんの? 新幹線止まってないよな?」

 俺は早口でまくし立てた。

 今日は『栄光杯』当日だ。仙台駅から新幹線に乗って、九時までには東京の会場へ着かなければならない。

 駅構内へ入ると、湿ったぬるい空気が肌にまとわりついた。とりあえず着替えるために、祈本は駅のコンビニで下着を買い、男子トイレへ入る。俺は持ってきていたビニール袋を一つ祈本に渡し、自分はさっさとジャージに着替えた。濡れた服を袋に詰めてリュックに押し込み、鏡の前で前髪を直しながら待つ。

「まだー?」
「待って」
「おせーよ、どうした?」

 そう言うと、個室の扉が開き、祈本が出てきた。
 俺の部屋着の紺色のジャージを着ている。いつもの制服姿とはまるで違って、幼く見えた。

「……変じゃない?」
「なんか、変」
「やっぱり?」

 二人で笑った。
 祈本の制服はいつもぴんとしていて、皺もほつれもない。そんな彼に、俺のくたびれたジャージは似合わないのは当然だ。それなのに、なぜだろう。少しだけ、かわいいと思った。



 新幹線の改札へ向かうと、電光掲示板の赤い「遅れ」の文字が目に入った。改札前には、スマホで運行情報を確認する人や、払い戻し窓口に並ぶ人がいる。不安になっていると、チャイム音のあとにアナウンスが流れた。東北新幹線は、大雪と強風の影響で十五分から三十分ほど遅れているらしい。ただし、運転は見合わせていない。順次発車している、とのことだった。

「止まってるわけじゃないらしいね」
「良かった」

 胸を撫で下ろした。ここで新幹線が止まって栄光杯に参加できなかったら、最悪どころの話ではない。

 それでもアナウンスは、今後の天候次第ではさらに遅れる可能性があると告げていた。俺たちは少しだけ不安を抱えたまま、二十分遅れで到着した新幹線に乗り込んだ。祈本を窓際に座らせ、俺はその隣の通路側に座る。六時半のかなり早い便にしておいたのが幸いして、なんとか間に合いそうだった。

 濡れた鞄を足元に置き、スマホを開く。暗記アプリを立ち上げた。ここ一年、ずっとやってきた。昨日もやった。それでも不安は消えない。不安は、直前まで削れるだけ削っておくものだ。


Q.中世の日本で、男子が元服する際に将来の庇護を期待して立てた仮親のことを──
A.烏帽子親(えぼしおや)

Q.1891年に設立され、ドヴォルザークの『新世界より』やガーシュウィンの『パリのアメリカ人』が初演された──
A.カーネギー・ホール


 覚えた問題は左へ。曖昧な問題は右へ。そうやって、自分の苦手なものだけが残るファイルを作っていく。

 ふと隣を見ると、祈本は俺とは反対に、窓の外を見ていた。まるで雪国のように雪がちらちらと降っている。車内なのに冬の匂いがするような景色だった。先ほどよりは明るくなったもののまだ外は薄暗く、しかし真っ白だ。

「余裕だな」

 口にしてから、余計な一言だったと思った。大会前はいつも、こころが尖る。不安が攻撃のかたちになるのだ。
 祈本は困った顔でこちらを振り返った。

「仙台でこんなに雪が降るのって、珍しいから」
「そうか? 去年はもっとひどくなかった?」
「え……そうだっけ……? そうかも……?」

 祈本はあたふたして、また窓の外を見た。それから、こちらの視線に耐えきれなくなったみたいに言う。

「……あ、ねぇ、対策してきた問題出し合おうよ」

 俺が食いつくと分かって出した話題だろう。それには気づいたが、案としては悪くなかったので頷いた。

 それから俺たちは、小さな声で問題を出し合った。今季オリンピックの受賞者、最新の芸能ニュース、環境問題、ここ数ヶ月で話題になった新語。祈本は時事問題が異様に苦手だった。知識を本や問題集から吸い上げる力はあるくせに、今この瞬間に世の中で起きていることには弱い。

 東北新幹線の座席で、俺たちは肩を寄せるようにして問題を読み合った。同じスポーツブランドのジャージを着て、濡れた鞄を足元に置き、雪の中を東京へ向かう。はたから見れば、よほど仲のいい男子二人に見えたかもしれない。実際のところ、俺たちはまだ、友達と呼べるのかもよくわからないままだった。