十一月。
秋は深まり、窓の外の木々は少しずつ色を失っていた。放課後の美術準備室には、冬の手前の冷えた空気が入り込んでいる。ココロ先輩は予備校、ダンは兼部しているオカルト研究部へ行っていて、部室には俺と祈本だけが残っていた。
「祈本、今日はこれ読んで」
俺はまた、寝る前に絵本を読んでほしがる子どもみたいに問題集を差し出した。
「いいよ」
祈本はいつもそうだった。ココロ先輩やダンは気分によって断ることもあるのに、祈本は問読みを頼まれるとほとんど必ず引き受ける。断れないタイプなのかもしれないとも思うけれど、祈本は高校生だし、本当に嫌なことは嫌と言えるだろう。何より、俺にとって都合がよかったので深くは考えないことにしていた。
問題集を受け取った祈本は、表紙を見るなり「あ」と小さく声を出した。
「これ、前に何回も読み込んだから覚えたよ」
「覚えたって、なにが?」
「ここに書いてある解答全部」
三百問ほどある問題集。全部覚えた、なんてずいぶん傲慢な言い方だ。
「じゃあ、問題出していい?」
「いいよ」
少し意地悪な気持ちで俺はページを適当に開き、ランダムに問題を出した。十問、二十問、三十問。祈本は、すべて正解した。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れた。
なにが無知晒しゲームだ。なにがわからないから押せないだ。あるじゃないか。ちゃんと、こっち側に来られるだけのものが。ぼんやり生きてきて、自分でも気づいていないだけで、お前にはクイズをやるための土台があるじゃないか。
そんな能力があるなら、やってくれよ。俺と一緒に、クイズをしてくれよ。
最初は、祈本がクイズを好きになってくれたらいいなと思っていた。けれど、どうやら好きにはなってくれないらしいと気づいた。それから「クイズをつまらないと思ってほしくない」とか「どうやったら知識のない人でもクイズを好きになって、一緒にやろうと思ってくれるだろう」という思いになって、何が正解なのかわからぬまま、試行錯誤して時が過ぎていた。
でも、まさか自分で読んだ問題集を、丸ごと覚えているとは思わなかった。
「お前ってもしかして頭いい?」
「いや、まったく」
だよな、と口には出さずに思った。祈本と話していても会話が弾むことはあまりない。学校で習うことだけではなく、テレビ番組も、芸人も、スポーツも、本も、彼はあまりに知らなすぎるのだ。
「じゃあ、記憶力良い?」
祈本は少し悩んでから、曖昧に言った。
「普通だと思う」
「……問題。パーシー・ビッシュ・シェリーによる英語の格言である『金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に』としばしば要約される、条件に恵まれた研究者は優れた業績を挙げることでさらに条件に恵まれるという現象を何効果というでしょう?」
「……マタイ効果」
ほとんど間を置かず、答えが返ってきた。
手のひらに変な汗がにじむ。胸の奥が、どくどくと鳴っていた。口の中が乾く。
クイズに勝つために必要なものはいくつもある。押しの速さ、問題文を読む力、勝負勘、度胸。それでも、第一に必要なのは記憶量だ。知識が入っていなければ、そもそもペーパークイズを通過できない。好きなジャンルだけ極端に強くても、大きな大会では通用しない。広く、深く、たくさん覚えられる人間が最後に残る。
でも、祈本なら。
こいつなら、冬の『栄光杯』へ一緒に行けるかもしれない。
「……お前って本当にクイズ嫌いなの?」
「……はぁ?」
祈本は、間の抜けた声を出した。
「そんなこと一言も言ってない」
「無知晒しゲームだって言った。わざわざクイズなんかやる人の気がしれないって言った!」
「そ、そこまではいってないだろ……」
「同じことだろ!」
「全然違う! 全然違うけど……」
祈本は言葉を探すように少し黙る。それから、ためらいつつも言った。
「まだ、早押しクイズの意義がわからない。なんで問題文の途中で止めて、答えを早く言えたら勝ちなのかって。知識の本質ってそうじゃないだろ」
返す言葉がすぐには見つからなかった。
「でも、嫌いじゃない」
祈本は続けた。
「むしろ、嫌いじゃないから困ってる」
それは、少しわかる気がした。
俺だって、早押しクイズの意義は何か、と問われたら困ってしまう。答えを早く言えたら偉いのか。名前だけ知っていて、中身を知らなくてもいいのか。そんなことは、考え始めるといくらでも自分を刺してくる。
それでも、ボタンが鳴る瞬間が好きだった。問題文の奥にある答えを、自分だけが先に見つける感覚が好きだった。自分の知らない名前が誰かの口から呼ばれて、その場で出会える瞬間が好きだった。
俺は立ち上がり、部室の棚から問題集を漁った。少し迷ってから、一冊の薄い本を取り出し、祈本に差し出す。
「これ、貸す」
「これって……」
俺は、震える左手を握りしめた。
「……俺が初めて作った問題集」
表紙には、『人の子』とだけ書かれている。A4サイズで三十ページほどしかない、薄い自費出版の本だった。俺はそっとページを割り開き、彼に見せる。
Q.近松門左衛門の作品の主人公で、梅川・忠兵衛といえば『冥土の飛脚』、ではお初・徳兵衛といえば何という作品?
A.曽根崎心中
Q.3ヶ国語を話せる人をトリリンガル、2ヶ国語を話せる人をバイリンガルといいますが、1ヶ国語しか話せない人のことを何というでしょう?
A.モノリンガル
Q.ロシア民謡『一週間』の歌詞で、「友達が来て」と歌われているのは何曜日でしょう?
A.水曜日
Q.フランス語では「愛のリンゴ」という意味の「ポム・ダムール」と呼ばれる野菜は何でしょう?
A.トマト
恥ずかしかった。なんだか裸を見せているような気分になる。これは、自分の好きなもの、考えたこと、面白いと思ったものを丸裸にしたもの。自分の本質を限界まで晒した問題集だ。自分だけの、誰の手も入っていない稚拙な処女作。今見ると文字は小さいし、改行も少ない。問題文もところどころ不器用で、はじめてが丸出しの本だ。一年かけて作った。ネットで調べ、図書館に行き、問題と答えが本当に正しいか確かめた。自分が日頃から興味のあることや、トレンドだと思うこと、生きていて新しく得た知識や、日常でふと発見して誰かに話したかったこと。そういうものを一問ずつ拾って詰めた、三百問あまりの薄くて熱い宝物。
「……ありがとう」
祈本は、それを両手で受け取った。この本が俺にとって大切なものだと、最初からわかっているみたいに。
クイズの問題集なんて、ダンに渡しても「いや、読まないですよ」と言われる。クラスメイトに見せても、「これの何が面白いん?」「クイズできたからなんなの?」と笑われる。そのたびに俺は、「まあ、受験にはまったく必要ないしな」と笑って返してきた。実際、そうだった。
でも、祈本はまるでラブレターを受け取るみたいに、問題集を大事に受け取った。彼が受け取ったということは、何度もこれを読み込んで覚えてきてくれる、ということだろうと、信じられた。それが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。問題集に触れた彼の白い指を見つめた。なにか言いたかったけれど、口を開くとうっかり泣きそうになって、唇をギュッと固く結んだ。
俺の期待通りに、祈本は一週間後「覚えた」と言って、問題集『人の子』を返してきた。何問か適当に読んでみると、祈本はやはり、ひとつも間違えなかった。ページのどこを開いても、少し考えるだけで正確に答えが返ってくる。
「なんで『人の子』?」
問題集の表紙を指で撫でながら、祈本が訊いた。
「えー……」
俺は痒くもない頭を掻いた。自分でつけたタイトルなのに、いざ人に説明するとなると恥ずかしい。
「……クイズで問われるのは固有名詞が圧倒的に多いだろ?」
窓の外を見る。十一月の夕暮れは早い。空はもう青と紫のあいだみたいな色になっていた。
「人名、作品名、地名、法則名……。どれも最初に名前をつけた人がいて、誰かがそれを呼んで、みんなが同じものとして認識するようになる。人名は言わずもがな、元素の名前でも、惑星の名前でも、なんでも。名前があって初めて共通認識として人に伝わるように話せるんだ」
言いながら、少しずつ自分でも熱が入っていくのがわかった。
「美しさは言葉にできないとか、よく言うけどさ。感動があっても人と共有ができなければ寂しいと思う人間なんだ、俺は」
自嘲気味に笑って見せる。
「さみしくて、わかってほしくて人は全てのものに名前をつけるのかもしれない。そんな数多の人の子とも言える名前を、『知らない』で切り捨てるんじゃなくて、年月が経ってもう忘れ去られてしまった、誰かが一度は一生懸命取り組んだ事柄や発見を、人を、その名前を、クイズの場で拾い上げる。そうするとほんの一瞬だけ、消えかけていたものに命が戻るような気がする……」
そこまで言って、はっとした。
喋りすぎた。しかも、かなり感覚的なことを。
慌てて祈本を見ると、彼はじっとこちらを見ていた。聞き流している顔ではなかった。黒い目に、夕暮れの光が薄く映っている。
「ごめん。オタクの早口で」
「そんなに好きなんだ」
「好きっていうか……」
自分だけが熱を持っているみたいで、急に恥ずかしくなった。
「てか、お前もこういうの好きなんじゃねえの? 一週間で全部覚えてくるなんて好きでも難しいのに」
「……クイズが好きなわけじゃないよ。俺は……」
祈本はそこで言い淀んだ。そのまままっすぐ俺を見る。熱に浮かされたような目だった。いつも底の見えない黒い瞳が、そのときだけ、何かを言おうとしているように揺れていた。
息が詰まった。
外から女子生徒たちの笑い声が聞こえて、その明るい声にハッとして目を逸らし、問題集を棚に戻した。
「……また貸してくれる?」
祈本が訊いた。
「うん。ていうか、ここから好きに取ってっていいから」
俺は、棚に並ぶ問題集の背表紙を見ながら続けた。
「まあでも、新しい順に読んだほうがいいかもな。今だと聖徳太子が厩戸王表記になったり、冥王星が太陽系の惑星から外れたり、常識ってけっこう変わるし。正解は、その時点での事実だから。クイズにも流行り廃りがある」
そう言って問題集を選んでいると、すぐ後ろに祈本が立っている気配がした。距離が近い。振り返らなくてもわかる。なぜか胸がドキドキする。
夕暮れの美術準備室は藍色ともピンクとも言えない薄暗さで、不思議な心地がした。
「……これとか」
俺は一冊選んで、振り返った。
祈本は何も言わず、それを受け取った。前と同じように、両手で、大事そうに。
