オリフィス




 夏が過ぎ、暦の上では秋になった。とはいえまだ残暑とも言える暑さである。
 美術準備室では、窓を開けても風はあまり入らず、古い紙と絵の具と、少し湿った木の匂いが部屋の隅に溜まっている。ココロ先輩は机に向かって自習をし、ダンと祈本は床に座って漫画を読んでいる。俺はスマホを眺めていたが、画面の文字にも飽きて、うーんと背伸びをした。

「祈本、今日も問読みできる?」
「いいよ」

 祈本はあっさり返事をして、読んでいた漫画を棚に戻した。

「ボクに次いで、新たなる犠牲者が」

 ダンが冗談めかして笑う。去年までは、俺の練習に付き合う問読み担当はほとんどダンだった。けれど最近は祈本に頼むことが増えたので、ダンはようやく問読み地獄から解放されていたのだ。

「犠牲でもなんでもないだろ。ここ一応クイズ研究部なんだけど?」
「名ばかりだけどね」

 ココロ先輩が、参考書から顔を上げずに言った。

「クイ研でクイズやってんの実質俺だけなのっておかしくね? なんでみんなそんなクイズに興味ないの?」
「だって難しくて答えられないんだもん。あと久我山くんとクイズしてると、あーこの域に達するのは無理だなって諦めがついちゃう」

 褒められて嬉しい気持ちと、誰も一緒にクイズをしてくれない寂しさが、胸の中で変なふうに混ざった。俺はただクイズがしたいわけじゃない。人とクイズがしたいのだ。誰かと同じ問題を聞いて、押して、間違えて、笑って、悔しがって、また次の問題を待ちたい。

 俺は祈本のほうを見た。

「……祈本もさ、自分で読むばっかじゃなくて、読んでくれって言うなら俺も読むからな」
「……別にいいよ」
「なんで?」

 祈本はすぐには答えなかった。漫画を戻したあとの、何も持っていない手を見つめ、少し考えてから静かな声で言った。

「クイズって、頭悪い奴にとっては無知晒しゲームだろ」
「はぁ? そんなこと思ったことないけど」
「それは久我山が頭良いからじゃん。人と比較して楽しむゲームなんだから、負け続ける側からしたら……」

 その言い方に、頭の奥がカッと熱くなった。

「負け続けたことも無いくせに、弱者の代表ヅラで言うなよ」
「お前だって負け続けたことないだろ」
「無いけど、まともにクイズやったことすらない奴に言われたくない」
「ストップ」

 ココロ先輩の声が、すっと間に入った。

「部室で喧嘩しないで」
「はぁい」
「……すみません」

 祈本が小さく謝った。ココロ先輩はいつも穏やかだから、たまにこうして静かに止められると逆らえない。

「ほら、お前のせいでココロ先輩に怒られた」
「……ごめん」
「いーよ。なかなか言わないお前の本音も知れたし」
「いや、本音っていうか……」
「とりあえず、三十問の問読みお願い。冬に『栄光杯』の二連覇がかかってるから仕上げておきたい」

 そこでやめればよかったのに、俺は口を止められなかった。

「負け続ける側の気持ちなんか、一生知りたくないし。努力もしないで言い訳ばっかり上達する奴は、そうやってずっと日陰で腐っとけって思う」

 祈本が、ごくりと唾を飲んだ。
 相手に向かって放った言葉が、時間差で自分自身にも重くのしかかってきた。もう怒りというより、ショックだった。あまり自分の中身を見せない祈本が、ようやく口にしたものがそれだった。ずっと中身を知りたいと思っていたのに、やっと出てきた本音は、俺がいちばん好きなものを否定する言葉だったのだ。

「……問題、読むから」

 祈本は小さくそう言って、問題集を開いた。



「問題。難読名字で、「六月一日」/」
「はい。うりわり」
「正解。問題。全国に、高等裁判所は八ヶ所ありますが、地方/」
「はい。五十」
「正解。問題──」

 祈本の声は、いつも通り落ち着いていた。さっきの言い合いなんてなかったみたいに、淡々と問題を読む。俺は前のめりになり、祈本の唇の動きを見た。問題文は、ボタンを押された瞬間に止まる。けれど人間の口は急には止まれない。止めたあとにも、次の一、二文字が漏れる。その音や、唇の形から、答えが導かれることもある。

 秋から冬にかけて、名ばかりのクイズ研究部は、ようやくクイズ研究部らしくなる。毎年二月、日本一の参加者数を誇るアマチュア競技クイズ大会、GLORY CUP――通称、栄光杯がある。俺は前年優勝者で、今年は史上初の二連覇を狙っていた。だからこの季節だけは、どうしても本気になる。

「──はい、三十問終了」

 数分の過集中のあと、祈本の声でようやく肩の力が抜けた。部屋の空気が戻ってくる。

「……お前、声良いな」
「え?」
「聞き取りやすいし、聞いてて気持ちいい」

 それは本当だった。祈本の声は、低いわけではないのに、妙に耳へまっすぐ届く。落ち着いていて、澄んでいて、余計な力がない。その声を追い、唇と舌の動きから次の言葉を予測して、答えを引きずり出すのは、頭の奥がじんわり熱くなるようで気持ちよかった。

 祈本は何も言わなかった。
 照れているのか、不機嫌になったのか、それとも何も感じていないのか。俺にはわからない。ただ、祈本はしばらく問題集に目を落としたまま、ページの端を指で押さえていた。