オリフィス




 病室の小さなテレビの中に、きみを見つけた。

『うう、苦しい! 助けてくれえー!』

 それは、古い教育番組だった。
 宇宙服も着ないまま宇宙へ飛び出し、息ができないと大げさに手足をばたつかせる、ちょっとドジな博士。その隣に、サロペットを着た小さな男の子が立っていた。丸い眼鏡に、丸い頬。その子こそが、「丸メガネのゆいちゃん」だった。

『ここでクイズ! どうして宇宙に空気はないのかな?』

 ゆいちゃんは、頬に拳を当てて考えるふりをした。それから、ぱっと顔を明るくして、人差し指を立てる。

『みんなも一緒に考えてみよう!』

 その動きはどこか仕事じみていた。五歳くらいの子どもがカメラの前で決められた通りに笑い、決められた通りに驚いている。俺は病室のベッドに横たわったまま、そんなふうに生きている彼を可哀想に思った。

「……なんでだと思う?」

 そばにいた看護師に話しかけられたが、無視をする。テレビからひとときも目を離せずにいた。看護師は「血圧測るからね」と言って、俺の右腕の服をまくりカフを巻いた。そして、ボタンひとつですぐに右腕を締め付けてくる。どく、どく、と脈打つこの感じは何度やっても慣れない。毎日繰り返される、血圧測定の時間。

 クイズの答えは知らない。というか、宇宙に興味を持ったことがなかった。俺は生まれてこのかた、小児病棟から家までの往復で忙しい。遠い宇宙のことを考えられる人間は、自分に関係のないことまで思考を巡らせる余裕と暇があるほど恵まれた環境にいる。どうせ宇宙になんか行けないまま俺はこの病院で死ぬのだし、知ったところで何も変わらない。

『うーん。ブラックホールが全部飲み込んじゃったのかな?』

 画面の中で、ゆいちゃんが言った。
 たぶん、それは正しい答えではない。ゆいちゃんは毎回間違えるのだ。どうしてそんなに堂々と間違い続けられるのかと思うほど。

「………」

 宇宙空間だと、酸素が死滅するとか、そういうことかな。
 そう、ぼんやり考えた。考えただけで口にしなかった。どうせ間違っている。間違っていることをわざわざ声に出すのは、何も言わないよりずっと恥ずかしい。
 看護師が俺の言葉を待つように視線を向けていたけれど、気付かないふりをした。

『正解は〜。空気は引力の強い星の表面だけに集まるものだから!』
 
 博士が明るい声で言った。それからこう説明した。

 金星と火星には空気に似たものがあるけど、地球の空気と違ってほとんどが二酸化炭素なの。金星や火星より小さい水星や月には、空気がないよ。なぜなら、地球と比べて水星や月の引力は弱いからね。だから引力の弱い星や、星と星の間の宇宙のような引力の弱いところには空気がないんだ。

 説明は耳に入ってきた。けれど、頭の中をそのまま通り抜けていった。あとに残ったのは、ただひとつ。

 俺が考えていたことは、間違っていた。
 口にしなくてよかった、と思った。
 
『世界って、ふっしぎ〜!』

 クイズの後には、ゆいちゃんがお決まりのセリフで締め括った。
 不思議だった。そんなことを不思議と思ったことが、ないからだった。ゆいちゃんはたくさん疑問を持って、たくさん間違い、世界の細かな全てを不思議と言った。
 
 クイズコーナーが終わると、番組はエンディングの歌に変わった。画面の中のゆいちゃんは、両手を振りながら九九の歌を歌い始める。少し外れた音程が、かえって耳に残った。気づけば、口の中で同じリズムをなぞっていた。

 俺は、まともに学校へ通っていない。小学生になっても九九の全ての段を覚えていなかったし、世の中の物事をほとんど知らなかった。
 医者にも、母にも、はっきりとは言われていないけれど、自分でもなんとなくわかっている。俺はきっと、大人になる前に死ぬ。それでなくとも、いつ、どうなるかわからない。
 だから、勉強なんか必要ない。
 雲の流れを見つめる。味のしない食事をする。機械の音を聞きながら眠る。そんなふうに、毎日を何事もなくこなしていくことで精一杯だ。それでじゅうぶんなはずだった。

 なのに。それなのに、明日もあの番組を見たい。ゆいちゃんが出す問題の答えを知りたい。できることなら、同じように驚きたい。
 おかしいよね。いい大学に行きたいわけでも、いい会社で働きたいわけでもないのに。宇宙に空気がない理由を知ったところで、地球が完全な円じゃなくて楕円だと知ったところで、俺の人生どうなる?
 病気を治してくれるわけじゃない。知識なんて、詰め込んだって明日にはすべて消えてしまうかもしれない。今すぐでなくたって、人は死ぬ。最後には、地位も名誉も知識もお金も、どうせ何もかもがなくなってしまうのに。
 それでも、なぜだろう。
 知りたいことがあるんだ。
 


 シャーッ、とカーテンレールを引く音で目が覚めた。
 いつの間にか眠っていたらしい。病室を仕切る薄いカーテンが、白い波のように開いていく。

「今日は体調良さそうだね」
「ママ」

 すぐそばに立つ母は、橙色の花を抱えていた。規則正しく鳴る機械の電子音が、静かな部屋に溶け込んでいる。

「ねえ、ママ……」

 呼びかけても、母はこちらを見ない。茎の長さを整え、丁寧に活け直している。花なんか本当はどうでもいいのに。どうせすぐ枯れる。
 それより、ねえ、ママ。俺を見てよ。
 
「いつ退院できるの?」
 
 そう聞くと、ようやく母の手が止まった。母は半袖を着ているから、外は暑いのだろう。もうすぐ夏が来るのかもしれない。

「もうじきね」

 母は曖昧に言った。

「もうじきって、いつ」
「もうすぐ」
「治るの?」
「治るよ」
「俺ってなんの病気?」
「脳の病気」
「そうじゃなくて、病気の名前」

 そう聞くと、少しだけ間があいた。

「なに、急に。そんなこと知ってどうするの」
「知りたいだけ」
「病名で検索する気でしょ」
 
 ぎくりとした。
 母が振り返る。その目は、全部見透かしているみたいだった。

「もう、やめてよ。大したことない病気でも、稀に起こる手術の失敗例とか、悲惨な体験談ばっかり情報収集して、自分の人生をむやみやたらと悲観したがるのが人の性なんだから」
「…………」
「無駄に不安なまま毎日を過ごしてたら、治るものも治らなくなるでしょう」
「……でも」

 声が小さくなった。

「まったく知らないのも怖いよ」

 母は、少しだけため息をついた。それから、拗ねた子どもをなだめるような声で言った。

「考え事ばっかりしてると、ヌヌダラヘロマンニャが来るよ」
「…………」
「なにも考えずに、北に向かってお祈りしていなさい。ママも毎日お祈りしてる。だから、絶対に大丈夫」

 そう言って、母は俺の頭を撫でた。昔と変わらぬ優しい触り方だった。その熱い手に甘えたくって、そっと頬擦りをしようと手を伸ばす。そのとき、担当医が部屋に顔を出し、「どうも」の一声で母をあっさり連れ去ってしまった。伸ばした手は宙に取り残され、行き場をなくしてゆっくりと冷えていく。仕方なく、布団の中に引き戻した。そのとき、冷たくぬるりとした感触が指先に伝わった。思わず息が止まる。もう片方の手で、そっと布団をめくった。暗い、狭い空間。光の届かない、トンネルみたいな穴の奥。

「───もう、いる(・・)よ。」
 
 しんと静まり返った病室の中で、名も知らぬ橙色の花だけが、生き生きと咲いていた。