地獄からバイバイ

「サンくん。……食事にしましょう」

「……俺はいいです。食欲、ないから」

 イコがいなくなった部屋で膝を抱えていたら、いつの間にか朝日がすっかり昇りきり、ナナシさんが呼びに来た。

「いけません。あなたは今、正常な状態ではない。心が疲れ、栄養も足りていない。そんな状態では、落ち込むばかりになってしまいます」

 ナナシさんはこっちを気遣うように言う。
 でも、この人の指示で、イコは乱暴に連れて行かれたんだと思うと、心がささくれだった。

「魂だけなのに、栄養とかいるんですか」

 つい、そんな反抗的な返事をしてしまう。

「魂だからこそ、ですよ。美味しく栄養をとることで、体だけではなく心までが癒やされるんです。現世にいた時も、そうだったでしょう?」

「…………」

 悔しいけれど、反論は出てこなかった。
 たしかに、サプリや完全栄養食があっても、美味しそうなごはんがあれば俺はそっちを食べたいと思う。

「でも俺、自分の弁当があるし……」

「持ち込んだんですか? もう傷んでいるでしょう。それに、できたてのものの方が、心が安らぎますよ」

 ナナシさんは俺を説得しようとしてくる。
 大人としての、正義感だろうか。だとしたら本当に立派な人だ。

 俺はもう、抵抗する気力も湧かなかった。

「着替えてから、向かいます……」

「わかりました。食堂まで案内するので、部屋の外で待っていますね」

 ふらふらと立ち上がる。その時、窓が視界に入った。
 窓は板張りがされている。
 外敵から守ってくれる頼もしい存在に見えていたそれが、今は俺を閉じ込めているかのように思えた。

 俺はカバンからジャージを取り出して、羽織る。イコの手や顔を拭いたシミがついているけど、着ないよりはましだ。
 それから――いくつか、他のものも取り出した。

「サンくん? 時間がかかっているようですが、どうかしましたか?」

 外から、気遣わしげにノックされる。

「今行きます」

 俺は和室の畳から下りて、靴を履く。
 もう一つの靴が残ったままなのが、気になった。
 イコは裸足のまま、ここを出て行かされのか。





「食堂はここです。人数が多いから、別れて食べています」

 食堂は公民館の小さな会議室で、10人ほどが座れる机があった。
 そこに個別の食事が並べられ、8席は埋まっている。昨日見た人たちだった。あの小さい子もいる。
 イコを連れて行った4人の男がいないことに、少しだけほっとした。あの人たちを見ると、余計に食欲がなくなりそうだ。

「サンくんは、そちらへどうぞ」

「はい」

 俺とナナシさんは空いていた2席に並んで座る。

「「「いただきまーす!」」」

 皆で手を合わせてから、食事が始まった。
 俺は大きな声を出す気になれなくて、かすれた声で「……す」しか言えなかったけど。

 食事は、白いご飯と、野草っぽいものの炒め物。それから、缶詰の魚らしきものが2口分。
 他の人は一斉に、ワイワイガヤガヤと食べ始める。

「今日は朝から豪勢だなあ!」

「C地点から缶詰が見つかったらしい」

「りーちゃん、お魚キラーイ」

「好き嫌いせず食べないとだめだよ」

 食料は、外部から調達しているんだろうか。
 大変だろうに、それを俺に分け与えていいんだろうか。

 食事を前にぼうっと考えていると、俺の前に湯気がたつ湯呑みが置かれた。

「サンくん、お茶をどうぞ」

「……ありがとうございます」

 お茶はセルフサービスで、ナナシさんが俺の分も持ってきてくれたらしい。
 軽く頭を下げる。

「おや。……食べれる分だけでも、食べてくださいね」

 箸を手にとってすらいない俺に、ナナシさんは優しく声をかけた。
 俺は、後ろめたさに目を逸らす。

「あの……俺、やっぱりいいです。食料って、こんな世界だと貴重だと思うし……」

「そんなこと、子どもが気にしなくていいんですよ。成長期の子が、お腹を減らしていることの方が問題です」

「…………」

 ナナシさんは優しい。
 でも、やっぱり箸を持つ気にはなれない。

「……あの、ナナシさん」

「なんですか?」

 ナナシさんは食事を始めていたけれど、俺が声をかけると、手を止めてこちらを向いてくれた。

 誠実な人の仕草だ。
 この人を信じたい。

 だけど――どうしても、信じきれなかった。
 上手く言葉にできないけれど、小さな違和感がずっとある。

「イコは、どうなりました?」

 意を決して、尋ねた。
 どうか、本当のことを言ってほしい。そうして、俺のおそれなんて勘違いだとわからせてほしかった。

「ああ……やはり彼のことが気になっていたんですね。安心してください、解放しましたよ」

 ナナシさんは微笑んで、はっきりと言う。

「そうですか……。イコは俺に伝言とか、しませんでしたか?」

「伝言……?」

 ナナシさんは首をかしげる。

「いえ、何も。解放したら本性をあらわして、悪態をつきながら逃げていきましたよ」

 ――嘘だ。

 俺は奥歯を噛みしめる。

 疑いたくなかったのに。

 本当に、いい人だったらよかったのに。

『きみは、ぼくが命にかえても守るからね!』

 イコは初めて会った時、そう言った。
 血まみれだったから、信じるまでに時間はかかった。けれど、あれは嘘じゃない。
 怖がって逃げ回る俺に、イコは自分の身を守れと鉄パイプを渡したり、飲食をしないようにと精一杯伝えてきた。

 イコは言葉通りずっと、俺を守ろうとしてくれた。
 イコに本性なんてない。
 今までのイコが、本性だ。

 それなのに、俺を心配するようなことも言わず――まして悪態をつくなんて、するはずがない。

「イコをどこにやったんですか……!」

「え……? 落ち着いてください、サンくん。何を言っているんですか?」

 戸惑った様子のナナシさんに、俺はくってかかる。

「あなたは嘘つきだ! イコが、何も言わずに消えるはずがない! イコをどこにやった!!」

「声を落としてください、皆も驚いていますよ」

「皆さんはナナシさんのこと信じているんですか!? ……って……」

 俺は振り向いて、ゾッとした。

 全員の視線が、こちらに向いていたからだ。

 異様だった。
 俺の剣幕に戸惑って見ているならわかる。

 でも、違う。
 全員が無感情な暗い目だった。

「…………ッ!」

 全身にぞわりと鳥肌がたった。

 俺がみじろいでも、彼らは動かない。
 暗い目でじっと、じっと、じっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじっとじ……っと、見続けている。

「ご、ごめんなさい……あの……おれ……」

 異常さに、俺の方が先に音を上げた。
 こちらを見るにしても普通、もっと何か反応とかするんじゃないだろうか。感情が乗るんじゃないだろうか。
 もしくは目を逸らしたりするんじゃないだろうか。

 多くの目が、感情のない顔が、こちらを向き続けている。
 その光景に、生理的な恐怖が湧き上がった。


「ぷっ……ぷくくくく……」

 そんな沈黙を破ったのは、吹き出すような笑い声だった。

「ナナシさぁ~ん。もう無理じゃない?」

 あざけるように言う声は、高くて幼い。

 おそるおそる見れば、りーちゃんというあの小さな子が、悪い大人のように下卑た笑顔を浮かべていた。
 その向かいに座っていた白髪の男も、笑いながら膝を叩く。

「ボウズ、あのバケモンに、すっかり骨抜きにされたみてえだなあ。何されたんだ? 股でも舐めてもらったか?」

「ボウズが舐める側だったりしてな~」

 あーっはっはっはと、皆が笑い出す。
 楽しそうだけれど、俺には何を言われたかも、彼らがなぜ笑っているかも、わからなかった。

「な、なに……?」

 戸惑う俺の隣で、ガタンと音がして、机が揺れる。
 見ると、ナナシさんが皿を蹴散らして机に足を乗せ、ふんぞり返っていた。

「チッ、ガタガタうっせぇなガキがよぉ~!!」

 ――不機嫌に言い放たれた低い声がナナシさんのものだと、俺が気づくまで時間がかかった。

 ずっと穏やかな大人然としていたナナシさんが、別人のように顔をしかめて、俺を睨みつけている。