地獄からバイバイ

「人ではない、何か……」

 そんなはずはなかった。
 イコはどう見ても人間だ。

 それなのに、ナナシさんが嘘をついているようにも見えなくて、困る。

「しょ、証拠、とか」

 疑うようで申し訳ないけれど、問いかけてみる。
 ナナシさんは、いい人だと思う。
 でも、イコも……悪いやつだとは思えなかった。

「イコくんの、眼帯の下を見たことはありますか?」

「……ない、です」

「それならば、覗いてみてください。おそらくは、彼が化け物だという正体の、片鱗が隠されています」

「そ、そんな……」

 たしかに、あの眼帯は気になっていた。
 イコがわざわざ、何を隠しているんだろうと。

 化け物の片鱗?
 イコが、化け物?

 胸がザワザワする。
 何かの間違いであってほしい。
 あの眼帯は、ものもらいとかじゃないんだろうか。それか人にうつるようなもので、俺にうつさないよう、隠しているだけじゃないだろうか。

「サンくん」

 戸惑う俺の手を、ナナシさんが両手で包み込む。
 ナナシさんの手は、温かかった。トクトクと、血の巡る振動が伝わってきた。

「山の頂上に行かなくても、私は君を現世へ返すことができます。少し時間が必要だけれど、一週間もかかりません。
――だからどうか、私を信じてください。
イコくんと行動を共にするのは、危険です」

「で、でも……」

 イコは、3日の夜までに頂上へ行く必要があると言っていた。
 ナナシさんの言葉通りに一週間待つと、3日は過ぎてしまう。

 ナナシさんを信じるなら、イコの提案を切り捨てなければならない。

 それに、ナナシさんの言葉に引っかかるところもあった。

「一週間で返せるのなら、どうして他の人が……小さな子とかも、残っているんですか?」

 さっき、新しい人はしばらく入っていないと言っていた。
 それならあの小さな子は、それなりの期間、この拠点にいることになる。

「……残っている人たちは、家族を探しているんです」

「家族を……?」

「彼らは家族と一緒にこの世界へ迷い込み、そして家族とはぐれてしまいました。もちろん、私は彼らを現世へ返すことができる。でも彼らはあえて残って、家族を探し続けています」

「そんな……ことが……」

 胸が痛む。
 こんな地獄で暮らすなんて、どれだけ不安だろう。
 それなのに、家族のために残ったのか。あんなに小さい子まで。

 彼らの家族は、どうしているんだろう。
 地獄で一人、生き延びているんだろうか――イコのように。
 そうだったらいいなと思う。
 いつか、再会できたらいい。

「……ナナシさん、すみません」

 ナナシさんの手を、そっとほどく。
 俺は、初めて会った時のイコの笑顔を思い出していた。

『きみは、ぼくが命にかえても守るからね!』

 イコは教室でそう言った。
 クラスメイトを惨殺した後で、返り血まみれだったけれど、あの言葉が嘘だとは、どうしても思えない。

 俺の兄だと名乗ったイコ。
 昔、5歳の俺とともにいて、それから11年間、地獄で生き延びてきたらしいイコ。

 ――俺の心は決まった。

「俺は、イコを信じたいです」

 ナナシさんの目を見返し、はっきりと告げる。

「……そうですか」

 ナナシさんは困ったように眉を下げた。

「わかりました。でも一つだけ、約束してください」

「なんですか?」

「イコくんの眼帯の下を、確かめてください。そして危ないと思ったら――すぐに、助けを求めてくださいね」

「……はい」

 ナナシさんは真剣だった。真剣に、俺の身を案じていた。
 その勢いに気圧されて、うなずく。

「忘れないで。私たちは、君の味方です」

 力強い言葉だった。……でも俺は、イコを信じたい。
 ナナシさんへ曖昧に会釈をして、足早に部屋へと戻った。





「サンちゃん! どこいってたの? だいじょうぶ?」

 戻ったら、いつの間にか起きたらしいイコが飛んできて、俺のまわりをグルグル回った。
 起き抜けによくそれだけ動けるよな、と思うくらい俊敏だ。

「トイレだよ、大丈夫。イコは眠れた?」

「うん! いっぱいねた!」

「そっか、よかった」

 俺が言うと、イコはぴたりと動きを止めた。
 俺の顔をじいっと覗き込んでくる。

「サンちゃんは、ねた? まだ、つかれてそう」

「あんまり寝れなかったかも」

「もうちょっとねる!? ぼくね、おうたうたえるよ!」

「お歌?」

「ねんねんー、ころりー、おころりー」

「子守唄かよ」

 思わず苦笑いが出る。さすがに、子守唄で寝かしつけられる年齢じゃない。それにひどく音程が外れていた。あれでは、寝た子も起きるだろう。

「なあ、イコ」

「んー?」

 イコは俺の布団をめくって、手招きする。
 寝ろと言いたいんだろうけど、俺は布団にあぐらをかいて座った。

 イコの顔を覗き込む。
 左だけの、真っ黒い瞳がこちらを見ている。
 俺はイコの右目を覆う眼帯に、視線を動かした。

「眼帯の下って、見せれる……?」

 イコは、ギクリと肩を跳ねさせた。
 動揺、したのか。

「…………どうして?」

 その声は、妙に低く聞こえた。

「いや、その……隠したいのはわかってるんだけど、病気とか傷とかなら俺、気にしないし……見せてほしい」

 俺はしどろもどろになりながら、言い訳のようにあれこれ言う。
 ようにじゃなくて、言い訳だ。隠しているものを暴こうとする、後ろめたさがあった。

「……だめ」

 だから、イコが小さな声で断った時、内心でほっとする。

「そっか。ごめん、変なこと言って」

 気にはなるけれど、イコが隠したがるなら、無理に見たくなかった。
 俺が諦めたとわかると、イコはぱあっと表情を明るくする。

「あのね、サンちゃん――」

 イコが何か言おうとした、その時だった。

「隠したがるとは、やはり化け物のようですね」

「!?」

 声に驚いて出入り口を見ると、ナナシさんが立っていた。その後ろには、体格の良い大人の男の人が4人、並んでいる。

「な、なんですか……?」

「やれ」

 ナナシさんが合図をすると、4人の男が入ってくる。
 そしてイコが抵抗する間もなく、床に押し付けるようにして取り押さえた。

「ううー! ううううー!!」

 イコは口にタオルを詰め込まれ、暴れながらうめく。

「ちょ、ちょっと! 何するんですか!? やめさせてください!」

 俺はイコを押さえる男たちに掴みかかりながら、ナナシさんへ怒鳴った。
 男たちは、びくともしない。それどころか鬱陶しげに、俺をふりはらった。

「うわっ!」

「んんー!!」

 俺の悲鳴と同時に、イコが焦ったような声を上げる。
 男の腕で弾き飛ばされた俺は、ナナシさんの足元に転がった。

「ナナシさん……どうして……」

 ナナシさんはしゃがんで俺の腕を掴むと、立たせてきた。俺はよろめきながらも、どうにか立つ。

「すみません、サンくん。君は子どもで、子どもを守るのは大人の義務なんです。……眼帯を外しなさい」

「はい」

 イコを押さえつける男が、むしり取るように眼帯を奪った。
 その下から現れたものに、息が止まる。

(なんだ……あれ……)

 そこにあったのは、闇だった。
 目があるべき場所に、ぽっかりと闇がある。穴じゃなくて、闇だ。
 それは真っ黒で、まがまがしかった。あの山と同じような、不自然な暗さ。
 見ているだけで精神が不安定になりそうな、不気味さがだった。

「やっぱりバケモンだこいつ!!」

 男の一人が、抵抗できないイコの頬を殴りつける。

「んぐっ!」

「やめてください! イコにひどいことしないで!!」

 駆け寄ろうとした俺の肩を、後ろから伸びてきた手が掴んで、止めた。

「わかりましたか、サンくん。あれは化け物なんです。あなたの命を狙っている」

 ナナシさんが背後に立って、俺の目を片手の手のひらで塞いだ。

「で、でも、あんな目だけじゃ判断なんて……イコと話をさせてください!」

 俺は全力でもがく。でも、ナナシさんの手から逃げられない。

「サンくん、そろそろ聞き分けなさい! 私の方が知識も経験もあるんです。これはあなたのためなんですよ」

「…………ッ!」

 ナナシさんが、初めて声を荒げた。

 ずっと笑顔で穏やかだったのに、有無を言わさない口調。
 振り向くと、眉根を寄せたナナシさんが、真剣な顔で俺を見ていた。

「……声を荒げてしまって、すみません。すぐには納得できないでしょう。でも、あれは危険なんです。どうか、わかってください」

 切実な声だった。

「い、イコは、どうなるんですか」

 俺は何を信じればいいかわからなくなって、声が震える。

「……君が望むなら、離れた場所で、解放します。正体がこちらにバレた以上、やつも戻ってはこないでしょうから」

「…………」

 ということは、イコと離れ離れになるのか。
 本当にそれでいいんだろうか。
 ――でも、イコがこれ以上痛めつけられるのは、嫌だった。

「……わかりました。イコに、ひどいことをしないと約束してくれるなら」

 俺はうなずく。
 それを見たナナシさんが合図をすると、男たちが4人がかりで、イコを廊下へと連れ出した。

「んー!! んんー!!」

 イコは暴れていた。
 俺はその姿を、黙って見送ることしかできなかった。