地獄からバイバイ

「俺たち以外にも、生きている人っていたんだ……」

 驚く俺に、ナナシと名乗った人は優しく微笑みかける。

「ええ。何人もいますよ。私たちは生存者でコミュニティを作っているんです」

「! 生存者の集まりがあるんですか!?」

 そういえば、イコも『迷い込みやすい人はたまにいる』と言っていた。
 あれは本当だったんだ。地獄にも、話が通じる人がいた。

「よかったらお越しになりますか? 疲れている様子ですし、寝床も食料もありますよ」

「いいんですか!? じゃあ――」
「だめ」

 ぜひ、と言いかけた俺の声を、イコがさえぎった。

「だめだよ、サンちゃん。おべんとうじゃないものは、食べちゃだめ」

「え……でもあれは、死者のものは食べちゃだめって話だろ……?」

 死者は生者を殺そうとしてくるとは聞いた。
 でも、相手が生者なら大丈夫なんじゃないだろうか。

 ナナシさんは、「ああ」と手を打った。

「そこの君は、ヨモツヘグイを警戒しているんですね。大丈夫、我々の食料は安全ですよ」

「ヨモツヘグイ……?」

 聞いたことがない単語だった。イコを見ると、知らないと言いたげに、首を横に振る。
 そんな俺たちを、ナナシさんは興味深そうに見ていた。

「ふむ……どうやら中途半端な知識しかないようですね。提案ですが、この辺りは危ないので、拠点まで来ませんか? その方が、落ち着いて説明ができる。食事も、安全だとわかってから食べればいい」

「それなら……いいんじゃないか?」

 俺もちょうど、知識が必要だと思っていたところだ。渡りに船の提案だった。

「ん……いいよ……」

 イコも渋々といった様子だがうなずく。

「では、決まりですね」

「あ、俺すず――」
「だめ」

 礼儀として、鈴木ですと名乗ろうとした俺を、イコが止めた。
 ナナシさんも、うなずいてみせる。

「この世界では、本名は名乗らない方がいいですよ。生者は、魂のみでこの世界に迷い込んでいる。名前は魂と密接に関係しているから、悪用されかねません」

「た、魂……」

 日常では聞かない単語に、改めてとんでもないことになっているなと冷や汗をかく。

「もしかして、そのために、ナナシなんですか?」

 初対面の人だからつっこめなかったけど、ナナシってすごく偽名っぽいなとは思っていた。

「はい。先ほど聞こえたのですが、君は『サンちゃん』と愛称で呼ばれていましたね。私は、『サンくん』と呼ばせてもらっていいですか?」

「あ、はい」

 俺はイコに『サンちゃん』と呼ばれているけど、ナナシさんは気を使ってくれたようだ。16歳になって初対面の人から『サンちゃん』呼びはきついから、ありがたい。

「そっちの君は……」

 ナナシさんはイコへ視線を移す。

「……イコ」

 イコは不機嫌そうに、それだけ告げた。

「イコくんですね。よろしく」

 ナナシさんは気を害した様子もなく、「では、拠点はこちらです」と歩き出す。
 その背を追いながら、俺は隣のイコを見上げた。

(普通に名乗ったってことは、イコは本名じゃないんだな……)

 たしかに名前っぽくはないけれど、じゃあイコの本名って、なんなんだろう。
 いつか、聞ける時は来るんだろうか。





「わあ、すごい……!」

 ナナシさんに案内されてたどり着いたのは、明るい公民館だった。俺も小さい頃に何度か来たことがある場所だけど、今は周囲にバリケードと照明が設置されていて、見たことがない雰囲気になっている。

 ナナシさんは死者の察知と隠れることが上手く、ここまで一度も襲われないまま、たどり着くことができた。

 公民館の窓には木の板が打ち付けられている。
 唯一の出入り口である玄関には、竹槍を持った見張りの人が2人、立っていた。

「戻りました。お客さんも一緒ですよ」

「おかえりなさいナナシさん。そちらは新入りですか?」

「まだ決まってないよ。休んでもらうために来てもらいました」

「若いのに大変だなあ。疲れただろ、ゆっくりしていきなよ!」

「は、はい。ありがとうございます」

 見張りの人たちはナナシさんに頭を下げた後、俺たちにも笑いかけてくれた。
 ここが地獄だということを忘れそうになるくらい、普通の優しい人たちだ。

「さあ、この中は安全ですからね。死者は入ってこれません」

 ナナシさんが開けてくれた入口ドアには、無数の御札が貼られていた。なんと書かれているか、俺には読めない。でもご利益がありそうな、立派なものだった。

「ナナシさん、おかえりなさい!」

「おかえりなさーい!」

 公民館の中は、想像よりも賑やかだった。
 広い室内には老若男女かかわらず20人近くいて、一番小さな小学生くらいの女の子が駆け寄ってきて、ナナシさんに抱きついた。

(こんなに小さな子まで……)

 俺はこの場に幼い子がいることに、密かにショックを受ける。

 こんなに幼いのに地獄に迷い込んで、どれだけ怖かっただろう。
 この子が今、ナナシさんと笑顔でいることが救いだった。
 辛いばかりでなく、安心できる場所があってよかった。

 俺は、どうだったんだろう。
 5歳の俺は、怖かったのか、それとも――イコのそばで、安心できていたんだろうか。

 熱のせいか、当時の記憶は全然ない。
 今、思い出せないことが歯がゆかった。少しでも覚えていたら、イコを信用できたかもしれないのに。

「1階が共有区画、2階が個人区画になっています。2階に空き部屋があるので、そちらで話しましょう」

「あ、はい」

 ナナシさんの先導で、2階へ上がる。イコも大人しくついてきた。

「こちらへどうぞ」

 案内されたのは、一番奥の8畳の和室だった。隅っこに布団が数組、積まれている。

「仮眠室としても使われている空き部屋です。君たちさえよければ、ここで休んでいってください。もちろん、このまま住んでも構いませんよ」

 ナナシさんは靴を脱いで畳に上がり、正座した。

「さあ、説明しますから、こちらへどうぞ」

 俺たちも同じように和室へ上がった。
 俺は正座、イコはあぐらで、ナナシさんの前に座る。

「……住んでもいいって、親切ですね……」

 ここには、すでに沢山の人間がいる。
 その上、俺たちも受け入れようとするなんて、懐が深すぎるんじゃないだろうか。

「この辛く苦しい地獄で、生者には少しでも人として、安らぎと共に過ごしてほしいのです」

 ナナシさんがそう話した時、お茶が運ばれてきた。
 湯気をたてる湯呑みが3つ。おぼんごと畳の上に置いて、持ってきてくれた人は退室する。

 俺とイコは、湯呑みに触らなかった。
 喉は乾いているけれど、ナナシさんのことはまだ信用しきれない。
 ……言葉通りの、いい人であってほしいとは思っている。

 ナナシさんはお茶を一口飲み、微笑んだ。

「夜も遅いし、疲れているだろうから、簡単に説明しますね」

「……はい、お願いします」

 たしかに、疲れがひどい。
 本音では今すぐにでも、そこにある布団へダイブしたかった。いや、布団なんてなくていい。畳の上でいいから、眠りたかった。

「礼儀正しい子ですね」

 ナナシさんはニコリと笑う。あどけないイコと比べると、落ち着いた、安心感のある笑顔だった。

「君は、ここが死者の世界で、君や私たちのような生者は命を狙われるということは、知っていますね?」

「はい」

 俺はうなずく。
 その辺りはイコから聞いていた。ナナシさんも、俺たちのそぶりから、それくらいは知っていると推測したんだろう。

「――ここは、悪人の魂が集まる地獄です。悪人は死ぬと、この世界に来て、やがて人としての形を喪ってさまよう。そして、いつか消滅する時まで、苦痛と共に暮らします。彼らが襲ってくる理由は不明ですが、苦痛のない生者に嫉妬しているのではないか……という説が今のところ有力ですね」

「そんな……」

 嫉妬ってなんだ。
 そんなもののために、俺や小さな子が、恐ろしい目に遭っているのか。

「そして、ヨモツヘグイとは」

 ナナシさんは湯呑みのふちを、指でなぞった。

「『死者の国のものを食べると、死者になってしまう』という伝説です。
実際、この世界で死者が差し出すものは地獄の泥でできたまがいものであり、食べたら彼らの仲間入りなので、気をつけてください。
この拠点の飲食物であれば、私たちが調達したものなので、安全ですよ」

 俺はちらりとイコを見る。喉が乾いていて、体が目の前のお茶を求めていた。
 でも、イコは湯呑みを見てもいない。つまらなさそうに、畳の境目を睨んでいた。
 俺は湯呑みに伸ばしかけた手を、ぐっとこらえる。

「ナナシさんは……詳しいんですね」

 イコも色々知っているけれど、ナナシさんの淀みのなさはすごい。
 ナナシさんも長期間、この地獄にいるんだろうか。

「ああ、肝心なことを言っていませんでしたね」

 ナナシさんは微笑む。

「私は今から数えておよそ300年前の人間です。この地獄の中では、一番の古株と言ってもいいのではないでしょうか」

「さ、300年!?」

 俺は目を丸くした。
 ナナシさんはどう見ても、20代だ。20代前半だ。10代といわれれば信じるかもしれないくらいで、30代以上には絶対見えない。

「300年ほど、この地獄で、迷い込んできた生者を現世へ還しているのです」

「え……なんで300年も……。ナナシさんは、帰らないんですか?」

 還す方法を知っているのなら、自分だって帰れるはずだ。
 こんな辛い世界に、300年も居続けるなんて、俺には耐えられない。

「…………」

 ナナシさんは、少し困ったように眉を下げた。

「サンくん。この場所は、君にはどう見えていますか?」

「どう、って……畳の部屋、ですけど」

 質問の意味がわからなかった。
 見回しても、公民館の和室でしかない。

「……私には、ここは小さな村の倉庫に見えています。
ですが人によっては、ここは洋館だったり、病院だったり、はたまた自分の家に見えている人もいます」

「人によって、見え方が違うんですか……?」

「はい。我々は魂だけの存在ですから、魂の記憶に沿って、認識が調整されるようなのです」

 俺には公民館の和室に見えるここが、人によっては全然違う場所らしい。
 にわかには信じられない話だ。畳の質感も、すごくリアルに感じ取れるのに。

「証明してみせましょうか」

「証明?」

「ここを、こうすると――」

 ナナシさんは、指の関節で、畳を叩いた。
 しかし響いたのは、コンコンという、畳とは思えない高い音。

「――聞こえましたか?」

「畳の音じゃ、ない……」

「私にとっては、ここは板張りの床なんです。こうやってほんの少しなら、私の認識を伝えることができる。実用性はほとんどありませんが、説明にはちょうどいい」

 確かに、こんなことをされたら、違う世界を見ていると信じるしかない。
 地獄は不思議な空間みたいだ。
 俺にとっての生まれ育った街のように、その人にとって慣れ親しんだ土地が反映されるのかもしれない。

「私の村は、洪水で滅びました。だから現世へ還るより、ここにいることを選んだのです。ここで、人のために働こうと」

「え……」

 ドキリとする。
 16年の人生で、故郷を喪った人に会ったことがなかった。いたのかもしれないけれど、話を聞く機会はなかった。
 ナナシさんはなんでもないことのように言うけれど、大変なことなんじゃないだろうか。

「すみません、俺、無神経だったかも……」

「いいんです。もう300年も経ったので、とっくに割り切っています」

 ナナシさんは、あっけらかんと笑う。
 俺は胸を撫で下ろした。

「人のために働く、って、ここから元の世界に帰る方法を知っているんですか?」

「はい、もちろんです」

 力強くうなずくナナシさんが、頼もしく見えた。

「しかし、その話は長くなります。よければ、明日に」

「え、でも……」

 帰り方なんて今すぐにでも知りたいのに、ナナシさんは首を横に振る。

「もうとっくに、日付が変わっている時間です。疲れているでしょう? サンくんも、イコくんも」

「あ……」

 俺も眠いけれど、イコはたしかに、仮眠さえしていない。

「ぼくはだいじょうぶ。ねなくても、うごける」

 イコは低い声で言う。けれど、強がりだということはすぐにわかった。
 イコは嘘が下手だ。わかりやすく目をそらしている。

 1日中鉄パイプを振り回して戦っていたんだから、俺よりもよっぽど疲れているだろう。

「休ませてもらおう、イコ」

「……うん」

 不承不承だけれど、イコはうなずいた。

「では、また明日。ゆっくり休んでください」

「色々と、ありがとうございます、ナナシさん」

 立ち上がり、退室するナナシさんへ頭を下げる。
 なんだか、信用してよさそうな気がした。

「いい人そうでよかった。イコはナナシさんと、会ったことはなかったの?」

 イコが11年もこの世界にいるということを信じられていなかったけれど、300年前の人がいるなら、そういうこともあるのだろうと思えた。

「ない。しらない」

「そっか……」

 俺は部屋の隅に積んである布団を持ってきて、広げる。
 その時、置かれたままの湯呑みに気がついた。

「あ、せっかくだからお茶もらおうか」
「だめ」

 このままじゃこぼしそうだからと、湯呑みへ伸ばした手が、イコに掴まれて止められる。

「ナナシさんも飲んでいたし、いい人そうだったけど……?」

「だめ。ごはんも、おみずも、だめ。サンちゃんがもってきたおべんとうと、おみずだけ。やくそくして」

 俺の手首を掴む力は強くて、痛いくらいだった。

「わ、わかった」

「……ん」

 俺はおぼんを入口近くに移動させて、布団をしく。

「イコ、そのままだと布団で寝れないな。拭こう」

 イコは返り血で少し汚れていた。
 俺はジャージの上着を脱いで、イコの手や顔についた血を拭う。

 イコは大人しくしていた。
 よく見ると、時折眠たげに目を細めて、ウトウトしている。

 俺は手早く拭き終えると、ジャージを畳んでカバンに突っ込む。
 布団を2組敷いて、意識が半分飛びかけているイコを引きずってきて、寝かした。

 イコの隣の布団に、自分も横たわる。
 柔らかな布団で完全に横になれるのは、随分久しぶりな気がした。たった1日しか経っていないのに、ひどく疲れていた。

 眠る前、忘れないうちにと、寝返りをうってイコを見る。

「イコ、今日はありがとう。……俺を、守ってくれて」

「うん……? うん」

 俺の言葉に、眠そうだったイコが、少しだけ目を開けた。
 そして、この建物に来てからずっと硬かったイコの表情が初めて和らぐ。

「ふふふー、どういたしまして」

 正面からお礼を言うのは気恥ずかしかったけど、嬉しそうに笑うイコに、言ってよかったなあと思う。
 俺も少しだけ嬉しくなりながら、眠りについた。