地獄からバイバイ

「に、2回目……!?」

 俺は思わず大きな声を出していた。
 慌てて自分の口を塞ぐ。音で死者が寄ってくるかはわからないけれど、なるべく身を潜めていたかった。

「2回目って、どういうこと……?」

 小さい声でヒソヒソと尋ねるも、イコは普通の声量で「うーん」とうなる。

「小っちゃい時に、おねつが、でたでしょう?」

「おねつ……熱か」

 イコの語彙は独特だ。お熱なんて、小児科の先生でも俺が中学校になる頃には使わなくなっていた。

「熱といえば……たしか俺が5歳くらいの時に、かなりの高熱を出したって聞いたことがあるような……」

 詳細は知らない。俺は覚えていないし、親の口もなぜか重いからだ。
 だから俺が知っているのは、親戚が酒を飲んで口を滑らせた内容くらい。

「なんか死にかけて、3日くらい意識がなかったって……まさか」

 3日という期間に引っかかる。
 この世界から俺が脱出するために与えられた猶予と、全く同じだった。

「まさか、その時も……イコが?」

「うん。いっしょにいたよ」

「え……どういうことだ? まさか11年も、ここに……?」

 イコは、ずいぶん地獄に慣れてる様子だった。
 でもイコは俺と同じ年くらいに見える。兄だというのが本当だとしても、イコは一人でずっと11年間、地獄にいたっていうのか?

「な、なんでその時、一緒に帰らなかったんだ? イコは兄なんだよな? ずっと地獄にいたのか? 一人で?」

「え!? えーっと、えっとね、えっと、ひとりじゃなかったよ。ま、まよいこみやすいひとは、たまにいて、そういうひとに、たたかいかたとか、おしえてもらったし……」

 ほらじょうずでしょ!とイコは鉄パイプを握り、空中にむかってブンブンと振り回した。

(こいつ、今、ごまかした……!)

 明らかなごまかしだった。

 質問が、イコにとって触れられたくないことだったのだろうか。
 それとも――俺を、騙そうとしているんだろうか。

 ごくり、と喉が鳴る。
 先ほど見た赤いイモムシを思い出した。

『このせかいでは、こころのかたちが優先される。
人は、このせかいですごす間に、じぶんが人だって、わすれていくみたい』

(イコが本当に地獄で11年も過ごしていたなら――どうして、人の形を保てているんだろう)

 俺は、イコを信じてもいいんだろうか。
 あのまがまがしく感じた山の頂上へ、本当に、イコと行ってもいいんだろうか。


 答えは、出せなかった。





「サンちゃん、ほんとうにだいじょうぶ?」

「うん。早めに行きたいし」

 橋の下で、イコは俺に一眠りを勧めてきた。
 でも今はイコの前で無防備に眠る気にはなれない。朝が来る前に、山の方へと向かうことにした。
 街灯が照らす住宅街の道を、早足で歩く。

「むちゃは、だめだよ」

「……イコもな」

 イコは大丈夫なんだろうか。俺が見た限り、一度も休んでいない。

 でも、イコは得意げに胸を張る。

「ぼくは、だいじょうぶ! つよいからね!」

「……へぇ」

 だめだ。イコのことを疑っている場合じゃないのに、この男に嘘がつけるとも思えないのに、鉄パイプをちらちらと気にしてしまう。
 あれが、俺の頭に振り下ろされるところを想像してしまう。

 そう、こんな風に――

 鉄パイプが、俺の方へと振り下ろされた。

「!?」

 身をすくめた俺の耳の横を、ぶおんと音をたてて鉄パイプが通り過ぎていった。

 直後にめきょ、と音がして、びしゃりと俺の腕に生温かい何かがかかる。

 硬直して振り向くことができないまま、イコを見る。
 イコは返り血を浴びた顔で、ニコリと笑った。

「あぶなかった~ごめんねサンちゃん、だいじょうぶ?」

「な、なにが……」

 なにがおきた、と言う前に、答えは前方からきた。
 家から出てきた、エプロンをつけた女性がいた。
 彼女は軽快な足取りでこちらへ近づいてきて――その顔は優しく微笑んでいた。
 けれど、手には包丁を逆手に持っていた。
 女性は笑顔のまま、俺に包丁を向けて、駆け寄ってきた。

 包丁の切っ先が俺に迫る――よりも前に、鉄パイプが女性の顔へとめり込んだ。

「ヒ……ィ……!!」

 今までは目をそらしたり、うつむいてきたから、暴力をこれほど間近で見るのは初めてだった。
 女性の折れた歯が飛んできて頬をかすめる。嫌な感触に、ジャージの袖を使って必死にぬぐった。

 俺がそうしている間にも、イコは何度も何度も、女性が動かなくなるまで鉄パイプを振り下ろした。

 その光景に、先ほど食べたものがこみあげてくる。

「ウェ……ッ」

「はいちゃだめだよ」

 うつむこうとした俺を、イコが鉄パイプを持ったままの血まみれの右手で止めた。

「えいようをとらないと、もたないよ」

「う……うぅ~~~~……!!」

 吐くような光景を作り出している当人が言うなよと、理不尽さに泣きそうになる。
 でもイコが言うことは間違っていない。せっかく無理して食べたのに、今吐いてしまっては台無しだ。
 目をそらして空を見上げ、必死に吐き気をおさえこむ。

「これ、なんだっけ。あぶなくて痛いやつ。サンちゃん、いる?」

「んー! んー!!」

 そんな俺に、イコは主婦が持っていた包丁を差し出してきた。
 地獄の死者とはいえ、殺された人が持っていたようなものは、持ちたくない。
 俺は必死で首を横に振った。

「そっか。うん、あぶないもんね」

 カランと、金属が投げ出される音がする。
 イコは一連の流れの中、動揺のかけらさえ見せず、いつも通りだった。

(……なんで、イコは平気なんだろう)

 この世界の人は、生きている人を苦しめたり怖がらせたりして殺すのだと、イコは言っていた。
 イコも生きているのだから、今の俺のように、頻繁に狙われてきたはずだ。だから戦い方を知ったのだろうし。

 ――いや

(イコ、今まで狙われていたか……?)

 これまでのことを思い出す。
 教室には、イコから乱入してきた。
 校庭ではイコが囲まれていたけれど――あの時の人々は、今思えばイコを狙うというよりは、学校内に入ってこようとしていた気がする。その途中でイコが邪魔したから、イコを殺そうとしていたような。

 化け物じみた人たちも、イコのことは狙わなかった。
 黒いもやに追いかけられたのも、巨大な手に捕まりそうになったのも、イモムシに幻覚を見せられたのも――全部俺だ。

(イコは生きているはずで、だって心臓が動いていたのに、じゃあ、なんでイコだけ狙われないんだ……?)

「……どうかした、サンちゃん」

 そう尋ねてくるイコの顔を直視することができなかった。
 化け物に、見えてしまいそうで。

 バクバクと痛いほど跳ねる心臓を、手でおさえる。

(……俺、疲れているんだ、きっと。意地をはらずに、もう少し休ませてもらえばよかったかも)

 今、自分が正常な判断をできているとは思えない。
 イコが化け物に見えることや――イコの言葉を信じて、山を目指していることも。

 もう少し、俺なりにちゃんと調べてから、山へ向かうべきじゃないだろうか。イコが色々知っているということは、この世界に全く情報がないわけじゃないだろうし。

「おや、珍しい! 新顔ですか?」

「!!」

 ふいに背後から声がして、俺はびくりと肩を震わせた。
 イコがすかさず声の主と俺の間に立ち、鉄パイプをかまえる。

「ああそんなに警戒しないで。私は味方ですよ」

 落ち着いた、優しげな大人の声だった。中性的な声で、性別はわからない。
 イコの背中越しに見てみると、白いシャツにグレーのパンツ、ベージュのカーディガンを着た20代くらいの中性的な人が立っていた。

 その人は、胸に手を当てて頭を下げる。

「私はナナシ。君たちと同じ、生者です」