地獄からバイバイ

「ん……」

「おきた?」

 夢も見ないほど深い眠りから、体が揺れる感覚で引き戻される。
 目を開けると、俺はイコに背負われていた。
 そして――

「ヒッ……!!」

 ――周囲には、遺体の山と血の海が広がっていた。

「なっ、なんで……!!」

「あばれたら危ないよ、おろすから、ね」

 驚いてもがくと、イコは俺を背から下ろした。
 ぴちゃ、と血溜まりを踏んでしまい、再び悲鳴を上げる。
 ただ、転がっている遺体には見覚えがあった。

「……ここ……教室……?」

 クラスメイトの渡瀬が、仰向けに倒れて、光のない目で俺を見ていた。
 他の遺体にも見覚えがある。ここは、俺の教室だった。

「うん。サンちゃんのカバン、いるかなって」

 窓際の一番うしろ。俺の席の横にかけてあった紺色の指定カバンを、イコは鉄パイプの先端で器用に持ち上げた。

「こんな時にカバンなんて……いるか……?」

 カバンには教科書とノート、文房具、財布、弁当と水筒くらいしか入っていない。

 紺色のカバンの表面には、わかりにくいものの、点々と血が染み込んだ跡があった。
 あまり触りたくはない。
 眠る俺を背負って、遺体の中に踏み入るほど重要なものだとは思えなかった。

「ごはん、いるでしょ?」

「ご飯……弁当のこと?」

「うん。おみずも、だいじ」

「そういえば……ご飯や水を口にするなって言ってたな」

 俺がトイレに籠城している時、イコは言っていた。

『ごはんは食べちゃだめ。みずも飲んじゃだめ』

 あの時はそれどころじゃなくて聞き流したけれど、何か問題があるんだろうか。

「しんだ人が差しだしたものを、食べたり、飲んだりすると、しんじゃうからね。ぜったい、食べちゃだめ」

「え……!?」

「ぼくは葉っぱとかをたべて、川のみずをのむけど、サンちゃんはおなかをこわしちゃうからね」

「そ、そうなんだ……」

 怖すぎるな、地獄。
 つまり俺は、一食分の弁当と水筒で3日間しのぐか、サバイバル生活をするしかないのか。

 慌てて、カバンを受け取った。
 川の水を飲めるほど、胃腸が強い自信はない。
 血がついていることなんて気にしていられなかった。このカバンは、俺の生命線だ。

 カバンは、朝に家を出た時と同じ重さだった。
 開けて中を見ると、母さんが作ってくれた弁当が入っている。

 胸がぎゅうと締め付けられた。
 会いたい、母さんに。
 戻りたい、日常に。

「……あれ、そういえば」

 ふと、違和感に気づいた。

「なんでカバンに弁当が入っているってわかったんだ?」

 この学校は学食もあるから、弁当を持ってくる生徒は半数くらいだ。
 俺も、母さんの気が乗らない時は学食を利用している。

 今日、カバンに弁当が入っているのは幸運だったけれど、どうしてそれをイコが知っていたんだろう。
 確証がなければ、わざわざ取りに戻ったりはしないんじゃないか。

「においでわかったよ」

「におい?」

 思わずスンと嗅いでみると、鼻に慣れつつあった血臭が直撃して、吐きそうになった。慌ててこらえて、「行こう」と廊下に出る。

「本当に、あんな中で弁当の匂いなんてわかったの……?」

「うん。ぼくは鼻がいいんだ」

「へえ……」

 イコは力が強く、足も速い上に、鼻までいいのか
 特技が多くて羨ましい、なんて場違いなことを考えてしまう。
 この状況に慣れてきたのか、それとも無意識の現実逃避なのかは、わからなかった。





 俺たちは学校を出て、山へ向かうことにした。
 目的地の山は大きくない。ふもとまでは2時間も歩けばたどり着くし、ふもとから頂上までは1日もかからない。
 学校で俺が目を覚ました時点で、1日目の夕方。
 3日目の夜までに山の頂上へたどり着くというのは、難しくないように思えた。

 でも、この目算は間違っていた。
 ここは地獄で、俺たち生きている人間は命を狙われているのだから。

「ヒッ!」

 路地の横から唐突に、巨大な手が現れ、俺に襲いかかってきた。
 あまりにも非現実的な光景に、ここが地獄とわかっていても驚きすぎて固まってしまう。
 イコがすかさず腕を引っ張ってくれなければ、捕まっていただろう。もしくは、叩かれた蚊のように、地面との間でぺちゃんこになっていたか。

「サンちゃん、下がってて」

 イコはすぐさま鉄パイプを、巨大な手に向かって振り下ろした。
 どん、と鈍い音がする。けれど、巨大な手はびくともしない。
 クラスメイトが殴られた時のめきょという音は、骨が壊れる音だったんだなと俺は知った。知りたくはなかった。

「はしって、サンちゃん!」

「う、うん!」

 イコの声に従って走る。イコも、巨大な手を何度か殴りつけた後、走って追いついてきた。この男は本当に足が速い。

「はぁ……ぜぇ……」

「サンちゃん、だいじょうぶ?」

「……ごめん、むりかも……」

 足が震えて、頭は酸欠なのかぼうっとしていた。
 学校で結構しっかり寝たつもりだったが、俺の体力も精神力も、早くも尽きかけていた。

 学校を出てから、俺たちは今みたいに何度か襲われていた。
 普通っぽい人や、黒いモヤのような人影や、今の巨大な手のようなものが、俺とイコを執拗に狙ってくる。
 イコがいなければ、俺はとっくに殺されていただろう。
 生き延びているとはいえ、命を狙われ続けるストレスが、俺を蝕んでいた。

「サンちゃん、こっち。あそこの、はしのしたで、やすもう」

「うん……」

 情けなかった。学校を出た時は夕方だったのに、逃げ回る間に空はすっかり真っ暗になった。
 でも、駅までの道の半分もまだ進めていない。

「ごめん、イコ……」

 肩を貸してくれたイコを見上げる。
 本来なら、見慣れつつある茶髪と眼帯が、こちらを向いているはずだった。

 ――しかしそこには、ぶつぶつと無数の穴の、集合体があった。
 よく見ればそれは皮膚だった。
 イコの皮膚に無数の、黒々とした深い穴が、えぐれたように開いて、時折ランダムに、パクパクと開いたり閉じたりしていた。
 黒い穴の中には、なにか丸い塊のようなものがあって、まるで目のように、一斉にこちらを向いた。

「う、うわああああああ!?」

 俺はイコを突き飛ばした。でもイコの体幹は強くて少しよろめいただけで、倒れたのは俺の方だった。

「サ ン ちゃ ん ドウ死た ノ ダイジョうぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」

 ぶつぶつの化け物は、ひび割れた声でハエのような音を出しながら、かがんで、俺に近寄ってくる。
 俺は尻もちをついたまま、逃げようと必死に地面を這った。

「サ ン ちゃ …… サ……ちゃん…… サンちゃん!」

「!!」

 大きな声で呼びかけられて、ハッと我にかえる。
 目の前には、化け物じゃない、人の姿で肌もえぐれていないイコがいた。身をかがめて心配そうに、俺の顔を覗き込んでいる。

「だいじょうぶ? ごめんね、きづいてあげられなくて」

「え……?」

「サンちゃんに、これがくっついてたの。これは、おきているのに夢みたいな……ええと、マボロシ? っていうんだっけ。わるい夢みたいなやつを、みせてくるんだ」

 そう言ってイコは鉄パイプで、足元を示した。
 そこには、つぶれた赤いイモムシのようなものがいた。かなり大きくて、俺の靴くらいある。

「まぼろし……を、見せる……虫? うわっ! あ、頭が、ひ、人の形……!?」

 イモムシの頭部は、50代くらいの男に見えた。肌色の男の頭から、赤いイモムシの体が生えていた。

「これはね、なれのはてって、いうんだって」

 イコは鉄パイプを置き、俺に手を貸して立たせた。
 前みたいに鉄パイプを差し出さなかったのは、多分そこに虫の体液がべったりとついていたからだろう。

「成れの果て……?」

「うん。このせかいでは、こころのかたちが優先される。
人は、このせかいですごす間に、じぶんが人だって、わすれていくみたい」

「……じゃあ、あれは元は……」

 人間だったのか。とは、口にできなかった。おそろしすぎて、言葉にしたくなかった。

 多分、今まで俺たちを襲ってきたものも、すべて人だったんだろう。
 人の形をしていなかった黒いモヤも、巨大な手も――このイモムシも。

 俺は黙ったままイモムシから目を逸らし、イコとともに橋の下まで歩いた。

「すこし、やすもう。ごはん、食べて」

 イコは俺を座らせると、川へと向かった。汚れた鉄パイプを洗っているのを見ながら、弁当を取り出す。

 フタを開けると、嗅ぎ慣れた母さんの料理の匂いがした。
 少し端に寄っているけれど、綺麗だ。好物のウインナーもカラアゲも入っている。

 でも、食欲なんて全然なかった。一口も食べられる気がしない。

「すこしは食べないと、だめだよ」

 弁当のフタを閉めようとすると、戻ってきたイコが言葉で止める。

「うん……」

 イコの言うことはわかっている。
 ただでさえイコの足を引っ張っているから、空腹で倒れるようなことは避けたかった。
 生きて帰るためにも。

 俺はウインナーをつまみ、口に放り込んだ。しょっぱさは今の俺に必要なものだけど、気が沈んでいるせいか、砂を噛んでいるのと変わらなかった。

 俺は弁当箱をイコに差し出す。

「イコ、どれ食べる?」

「ぼく?」

 イコは目を丸くした。

「ぼくにも、くれるの?」

「当たり前だろ」

 イコは葉っぱとかを食べると言っていたけれど、何度も俺を助けてくれた相手を横目に、自分だけいいものを食べるわけにはいかない。いくら極限状況でも、そこまで無神経にはなれなかった。

「わあ……! ふふふー!」

 イコはパァッと明るく笑い、鼻歌のように笑いながら、俺の左隣に腰をおろした。

「いいこだねえ、サンちゃん!」

 鉄パイプを地面に置いて、頭を撫でてくる。

「ちょ、やめろよ……」

「ふふふふふ~いいこ、いいこ!」

 気恥ずかしくて振り払おうとするも、イコはしつこく撫でてきた。

「ありがとね。でも、ぼくは食べなくてだいじょうぶ。それは、サンちゃんのごはんだよ」

「でも……」

「すこしずつ食べて、げんきでいてね」

 イコはブロッコリーをつまむと、俺の口に入れてきて、そして勝手に弁当箱のフタを閉めてしまった。そこまでされては、俺も食い下がれない。

「おみずも飲んでね。ぼくは、さっき飲んだから」

 イコはそう言って川の方を見た。暗くてよく見えないが、サラサラと水が流れる音がする。
 虫の体液を洗った川で、水を飲んだんだろうか。だめだ、想像すると、食べたものを吐きそうになる。

 俺は水筒を開けて、麦茶をコップに注いだ。

「……イコは川の水を飲んで、お腹壊さないのか?」

「ぼくはつよいからね」

「ふーん」

 水筒にはまだ氷が残っていて、麦茶は冷たかった。少しだけ、気分がすっきりする。二口飲んで、水筒をしまった。

「……少し、話がしたい」

「おはなし? いいよ~」

 イコはあぐらをかいて、こちらを向く。
 地獄でも夜には街灯が点くみたいで、水面に反射した光がイコの頬を照らしていた。
 黒い瞳がキラキラと、笑いながら俺を見る。

 その顔を見ていると、ここが地獄だということを忘れそうになった。
 そういえばイコは、初めて会った時から笑顔だったな。

「イコは、この世界……地獄に、かなり慣れているみたいだけど、いつからここにいるんだ?」

「いつから、かぁ……」

 イコは首をかしげて、考え込んだ。

「わかんない」

「そんなに長くいるの?」

「うーん……じかんのことは、むずかしくて……」

 イコは目をぐるぐるする。

「えっとね、ここに来たとき、サンちゃんはもっと小っちゃかったなぁ」

 イコは、これくらいと言って、座る自分の肩くらいを手で示した。

「……ここに来た時?」

「うん。覚えてない?」

 黒い瞳が、きょとんとこちらを見つめてきた。

「サンちゃんが、このせかいにまよいこむのは、2かいめだよ」