地獄からバイバイ

「お兄、ちゃん……?」

 イコが何を言っているのかわからない。
 俺は一人っ子のはずだ。兄なんていたことはない。

「そうだよ! ままとぱぱに聞いたこと、なーい?」

「ない……」

「そうなんだ……」

 イコは目に見えてしょぼん……とした。うつむいた前髪から、新鮮な返り血がしたたって、すがりついていた俺に落ちる。

「うわっ、血!」

「あ、ごめんねえ」

「洗おう、そのままじゃ病気になる」

 俺がよろめきながら立ち上がろうとすると、イコは腕で支えてきた。細身に見えるけれど、やっぱり力がかなり強い。
 でもその腕にも血がべったりで、俺の制服のシャツが、イコの腕の形に赤く染まった。
 気持ち悪い。最近は血なんて鼻血くらいしか見ないから、目が回りそうだった。

「……洗い場で流そう」

 吐き気をこらえて、血まみれのイコからも目をそらしながら、洗い場へと向かう。
 イコはぺたぺたカラカラと、鉄パイプを引きずりながら大人しくついてきた。

 洗い場に3つ並んだ蛇口の、一番入口に近い側を俺はひねった。
 ジャーと勢いよく水が出始める。

 イコはできれば一番離れた場所を使ってほしいなと思っていたら、なぜか俺が出した水の中へと頭を突っ込んできた。

「は!?」

 蛇口から出た水がイコの頭に跳ね返って、周囲に飛び散る。薄まった赤が俺の制服のシャツやペンキ塗りの壁を、ほの赤い点々模様に染めていった。

「な、何してんだよ!! 汚いな……!!」

 俺は血混じりの水が目や口に入らないよう、手でガードするのが精一杯だった。
 イコは水音で俺の声が聞こえていないのか、手洗い場に体ごと乗り上げて、全身で水をかぶろうとしていた。

「やめろ、やーめーろって!」

 俺は数歩離れて、イコが握ったままの鉄パイプを足で軽く蹴りつけた。
 何度かコンコンと蹴り続けると、ようやくイコが顔を上げる。

「どうしたのー?」

「どうしたって……水、すごい跳ねてるんだけど」

「だめなの?」

「…………」

 駄目か、と聞かれると返答に困る。
 殺人鬼相手だと、どこまで常識をといていいんだろう。

「俺にかかるのは、嫌だ……」

 困った末に、とりあえず思ったままを告げてみた。
 するとイコは少し首をかしげたあと、「わかった」とうなずく。

 そしてぺたぺたと、手前のトイレ個室へと入っていく。
 なんとなく見ていると、ぶるぶるぶるっ! と音がして、扉の閉まっていない個室から通路にまで水がびしゃびしゃと飛んできた。

 少しして、個室からペタペタとイコが戻ってくる。

「水、かからなかった?」

 首をかしげてそう問われると、

「うん……」

 俺も、力なく頷くことしかできなかった。





「なんで誰もいないんだろう……」

 あれから俺たちは保健室に向かい、予備の着替えとして保管されているジャージを借りて着替えた。イコは俺より少し背が高く、俺でちょうどいいサイズのジャージからは、日焼けしていない白い足首が出ていた。

 制服のポケットに入れていたスマホは、着替えの時に確認したけれど、濡れて壊れてしまったのかどう操作しても電源が入らなかった。

 着替えた時、保健室には誰もいなかった。
 まさかと思いながら職員室や、他の教室も覗いてみる。
 どこもがらんとしていて、放課後でも見たことがないほど、人の気配がなかった。

「カバンとかはあるのに……」

 教室には生徒のカバンがあり、職員室にはまだ温かい、カップに入ったコーヒーがあった。
 人だけがいない。煙のように、消えてしまったみたいに。

 俺が校内を調べている間、イコは後ろから大人しくついてきた。
 イコは服と一緒に血まみれの靴も捨て、今は下駄箱から借りたスニーカーを裸足で履いてトコトコと足音を立てている。
 血染めになった眼帯も、新しいものに変えてあった。
 鉄パイプは、いつからか引きずるのをやめて、肩にかついでいる。
 俺がカランという不意の音に、たまに驚いていたせいかもしれない。

 なんだか、イコが殺人鬼というのは、俺が見た幻覚だった気さえしてくる。

「うちの教室は……」

 本当に幻覚だった可能性をかけて、おそるおそる、俺がいた教室にも足を運んでみる。
 近づくだけでも気が遠くなるくらい、血の臭いがした。一瞬だけ覗き込むと、変わらず遺体が折り重なっている。

「ぅぐっ……」

 吐き気をこらえて、すぐに目をそらした。
 幻覚なんかじゃない。あれは、本当にあった出来事なんだ。
 夏川が担任の首を締めて、渡瀬が夏川の目をえぐって、クラス全員がおかしくなって、そして――イコが、皆を殺した。

「だいじょうぶ?」

 廊下の隅でえずく俺に、イコは優しげな声をかける。背中をゆっくりと撫でられるが、今はそうされるたびに鳥肌が立った。

「イコ……」

 絞り出した声はかすれていた。

「どうして、皆を殺したの……?」

 涙目で睨みつけると、イコは困ったように眉を下げる。

「きみが、ころされてしまうから」

 俺は首を激しく横に振った。

「皆は、そんなことしないよ……!」

「うーん……」

 イコはうなり、首をかしげる。

「このせかいの人は、きみをころすよ」

「この世界……?」

 この世界って、変な言い方だった。
 でも、なんとなく聞いたことはある。アニメとかゲームで、パラレルワールドとか、異世界とか、そういう俺の知らない世界が出てきた。

「ここって地球じゃないの……?」

「ちきゅう? よくわかんない、けど、えっと、」

 イコは視線をぐるぐるさせて、頭の中から言葉を探しているようだった。
 もしかしたら、イコはあまり言葉を知らないのかもしれない。舌っ足らずな口調も、喋り慣れていないからだろうか。そんな印象を受けた。

「ここは、しんだ人が、あつまるせかい。きみは、いきたまま、まよいこんだ。いきている人は、しんだ人から、こ
わがらされて、くるしめられて、ころされる」

 たどたどしい説明は、わかりにくかった。
 でも意味を理解した時、背筋がぞっと冷える。

 ――俺は死者の世界に生きたまま迷い込んだ。
 ――そして、死者たちから、苦しめられた末に殺されようとしている。

 そんなの、地獄だ。
 ここは多分、地獄なんだ。

 でも俺は、朝起きた時はたしかにいつもの日常にいた。
 いつ、どうして地獄に来たのか、わからない。まったく当たりがない。

 だけど、この世界が本当に、俺のいた世界と違うなら――それはほんの少しの救いだった。

「も、元の世界に戻れたら、皆は生きてるってことか!?」

 今日起こった恐ろしい出来事。
 あれは、地獄だから起きたこと。
 だとしたら、元の世界では、誰もおかしくなったり、殺し合ったりなんて、していないはずだ。

「たぶん……そうだとおもう」

 イコは断言しないまでも、俺を安心させるようにコクコクとうなずいた。
 それが嘘だとは思いたくない。気休めであったとしても、今の俺には必要だった。

「よ、よかったぁ……」

 安堵のあまり、体中から力がぬけ、へなへなと尻もちをつく。

 まだ鼻の奥には、血の臭いがこびりついている。恐ろしい光景も、脳裏に焼き付いたままだ。
 それでも、少しだけ光明が見えた。
 この世界がおかしいだけで、俺の馴染んだ現実は、まだ壊れていないのだと。

 ここは悪夢の世界のようなもの。
 夢から覚めれば、きっとなかったことになる。

「もとの世界に帰る方法、知ってる?」

「うん」

「え……知ってるの!?」

 駄目だろうなと思いつつ聞いてみたら、イコがあっさりとうなずいたから、俺は驚いた。

「あっち、みえる?」

 イコは鉄パイプを握った右手を俺に差し出す。
 鉄パイプを握ると、ぐっと持ち上げられ、立たせられた。片手だけで、すごい力だ。

「あっちの、お山」

 イコが鉄パイプの先端で、廊下の窓の外を示した。
 そっちは街の北側で、駅がある。東と西をつなぐ線路の手前が街で、向こう側には大きな山がひとつあった。

 生まれた時からこの街で暮らしている俺にとっては、見飽きた山だ。
 でも、今はなんだか雰囲気が違う。空が曇っているせいだろうか。なんだか薄暗く、まがまがしく見えた。

「お山のてっぺんに、ほこらがある。
お月さまが3回のぼるまでに、そこにいけば、とびらがある。
そのとびらで、サンちゃんは、もとのせかいにかえれるよ」

「……あそこに、行くの?」

「うん。かえるほうほうは、それだけだから」

「…………」

 イコを信じてもいいんだろうか。
 嘘をついているようには見えない。人を殺したのだって、ここが地獄で俺を守るためだというのなら、信じたい。

 でも、俺の兄だというイコは、本当は何者なんだろう。
 なぜこの地獄にいて、いろんなことを知っているんだろう。

 イコも死者なんだろうか……?
 親が俺に教えなかっただけで、死んだ兄がいたんだろうか?

 聞くのは怖い。今の俺にはイコしか頼れる人がいないから。
 でも、死人の隣を歩く勇気も、俺にはなかった。
 だからおそるおそる、尋ねる。

「イコも、死んだ人なの……?」

「ぼく?」

 イコはきょとんとする。

「ちがうよ。ぼくは、いきてるよ」

「! そうなの?」

「うん。ほら、さわってみて」

 イコは鉄パイプを握った手で、自分の胸を指した。
 俺は手を伸ばし、触れてみる。

「とくんとくん、してるでしょ?」

「うーん……? わからないかも……」

 イコは多分、心音のことを言いたいんだろう。でも、触っただけではいまいち、わからなかった。

「そう? じゃあ、おいで」

 イコは鉄パイプを廊下の壁に立てかけて、俺を引き寄せた。
 俺は少しかがんで、イコの胸に耳を当てる。

 ドクン、ドクン。
 心臓が動く力強い音が、低く伝わってきた。

「生きてる……」

「でしょ?」

 イコは少し誇らしげに言う。
 その声と、心音。そしてイコの体温に、俺は安心したのか、気が緩んだのか、急激に眠気が襲ってきた。

「うぅ……」

 眠気に抗いきれず、ずるずるとへたり込む俺を、イコが支える。

「つかれたんだね。おやすみ、サンちゃん」

 イコも座って、俺の体を寄りかからせてくれる。

「……きみは、ぼくが守るからね」

 眠りに落ちる前、そんなささやきが聞こえた。

「うん……」

 俺はイコの服を握りしめ、最後の力を振り絞って、うなずく。

 ――イコのことを、まだ信じ切るわけにはいかない。
 でもこの異常な世界で、今は、その言葉にすがるしかなかった。