「来るな! 止まれ! 寄ってくるな!!」
あれから俺は、眼帯の男から逃げ回っていた。
もつれる足でクラスメイトだった人たちをまたぎ、一目散に教室から飛び出して。
最上階である3階の教室から、最初は1階の玄関口まで駆け下りた。
でも眼帯男の足は速く、すぐに回り込まれて「サンちゃん」と呼びかけられた。
俺は慌てて2階に上がり、放送室横のトイレに逃げ込み、個室に入って鍵をかけた。
「サンちゃん、そこにいるよね?」
「だから、来るなって!!」
眼帯男は鉄パイプをカラカラと引きずりながら、トイレの中へと入ってきた。
閉まっている個室は一つだけ。俺がいることはバレバレだ。
俺は何度も、個室の鍵がかかっていることを確認した。
そして、半分ほどに減っているトイレットペーパーをホルダーから外して握る。ドアの上の隙間から眼帯男が顔を出したら、これを投げつけて反撃するつもりだった。
ガタガタと手が震えているから、当たりっこないだろう。クソエイム確定だ。
でも何も準備しないでいるのは、心臓が潰れるほど恐ろしかった。
カラカラ、カラカラ……カラン。
俺がいる個室の前で、鉄パイプの音が止まる。
はー、はー……。
自分の呼吸音がうるさかった。
俺はドア上の隙間を睨みつける。
ああでも下から来るのか? それともドアをこじ開けられる?
視線を忙しなくあちこちへ動かす。
鉄パイプがドアを割って、俺の頭も一緒にかち割る光景を想像してしまい、胃がぐっと縮んだ。
「サンちゃん」
「ヒッ……!!」
何が起こるか色んな想像をして緊張していたけれど、静かに声をかけられるとは思っていなかった。
全力の悲鳴を上げて、腰を抜かす。蓋が閉まった便器の上に、落ちるように座り込んだ。
手からは力が抜けて、トイレットペーパーが床を転がる。
「……ぼくが怖いの?」
「…………ッ!!」
俺は恐怖のあまり、眼帯男の声を遮るようにドアを蹴りつけた。
バァンと、想像より大きな音がして、自分でも驚いて肩が跳ねる。
冷や汗が止まらない。バクバクする心臓を片手で抑える。そうでもしないと、胸を突き破って出てきてしまう気がした。
「……どうすれば、怖くなくなる?」
眼帯男の声が、落ち込んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
ドアごしでは表情は見えないのに、なぜか眼帯男の悲しそうな顔が想像できた。
でも、ほだされるようなことはない。
こいつはクラスメイトを殺したからだ。次は俺だろう。
あんな風になりたくない。痛いのは嫌だ。怖い、怖い、怖い!!
「消えろよ……どっか行けって……!!」
震えるか細い声で、どうにかそれだけ絞り出した。
解放してほしい。俺をこの恐怖から。
帰りたかった。ほんの数十分前の、つまらないと思っていた日常へ。今朝目覚めた時の、二度寝するかどうかで悩んだくだらない瞬間へ、時間が戻ってほしかった。
「わかったよ」
舌っ足らずな声がそう答えた時、俺は意味を理解できなかった。
だからカランという音とともに、ドア下の隙間からなにかが入り込んできた時、驚きのあまり全身を丸めて壁にすがりついた。
「これで、じぶんを守るんだよ」
ドア下からゆっくりと伸びてくるそれは、よく見たら鉄パイプだった。
ドア下の隙間なんてそんなに広くないから、凹んで曲がった鉄パイプは時折引っかかりながら、ズリ、ズリと個室の中へ押し込まれてくる。俺が落としたトイレットペーパーが鉄パイプに押されて、奥の方へと転がっていった。
「あいてから目をはなさないで、ちゃんと当ててね。ためらったらだめだよ」
全く理解ができなかった。眼帯男が言っていることも、今起きていることも。
恐ろしい凶器を、なぜ眼帯男は俺に渡そうとしているんだろう。鉄パイプがない眼帯男は脅威なのか、そうじゃないのか、わからない。
殺人鬼から武器を渡されて、戸惑わない人はいるんだろうか。どうするのが正解なのか、全くわからない。
「な、なんで……」
問いかけてみても、続きの言葉が出てこない。
知りたいことが多すぎた。
なんで、クラスメイトを殺したの。
なんで、俺をサンちゃんと呼ぶの。
なんで、鉄パイプを渡してくるの。
なんで――悲しそうな声なの。
「サンちゃん、ころされる前にころしてね」
鉄パイプがすべて個室の中に押し込まれた。眼帯男の指先がドア下から少し見えたけれど、すぐに消える。
ドアの向こうで、立ち上がるような衣擦れの音がした。
「殺すって……だれ、を?」
ようやく、理解が追いついてきた。
眼帯男は護身用に、俺にこの鉄パイプを渡したらしい。眼帯男が持っている唯一の武器を。
そして、殺せと言っている。
俺にこの鉄パイプで、誰かを殴って殺せと。
「みんなだよ。ぼくときみじゃない人、ぜんいんをうたがって」
そんなの嫌だ。
殺したくなんてない。人を殴ったことさえ、一度もないのに。
でもそんな反論は、緊張ですべて喉に張り付いて、口から出て行きはしなかった。
ぺた、という音がする。
頼りないそれは多分、眼帯男の足音だ。
ぺた、ぺたとゆっくり遠ざかっていく。
「ごはんは食べちゃだめ。みずも飲んじゃだめ。
――ぼくがなんとかするから、きみは生き延びて」
舌っ足らずな声と足音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「………………………………」
しばらく、俺は息を殺して硬直していた。
眼帯男が戻って来るかもしれない。いや、立ち去ったフリをして、俺が出てくるのを待っているかもしれない。
そんな疑念と恐怖が、俺を硬直させていた。
ふと、鉄パイプを拾おうと思い立つ。
トイレットペーパーよりも、よっぽど安心できる武器だからだ。長いし、威力もあるだろう。
人を殴る覚悟はないけれど、殺人鬼が持っているよりは、俺が持っている方がまだ安心だ。
あの鉄パイプでクラスメイトたちが殺されたことは忘れていない。忘れられるはずがない。
でも緊急事態だから、背に腹は代えられない。と、自分に言い訳をする。
血まみれの鉄パイプを拾おうと、手を伸ばした。
そして、気がつく。
鉄パイプの血は、拭われていた。
完全にキレイとは言えないけれど、拭い取ろうと何度もこすったような跡があった。
「なんでわざわざ、拭いて……」
トイレに逃げ込む前、最後に見た時は間違いなく鉄パイプにはべったりと血がついていた。眼帯男は、真っ赤なそれを気にもとめずに握っていた。
拭う理由なんてないはずだ。
眼帯男は血を嫌がらない。
血や凶器に怯えていたのは――俺だ。
「俺に渡すために……拭いた、のか……?」
にぶっていた頭が、動き出す。
眼帯男の悲しそうな声が脳裏に響く。
――これで、じぶんを守るんだよ
――ぼくがなんとかするから、きみは生き延びて
「…………っ!!」
俺は鉄パイプを拾い上げ、鍵を開けて飛び出した。
見回し、他の個室を見ても眼帯男の姿はない。
「どこに――あ!?」
トイレの窓の外、校庭の方に、返り血まみれの茶髪の背中が見えた。
雨が降りそうなほどの曇り空の下、眼帯男は校庭を突っ切り、正門の方へと向かっている。
そして、正門の向こうに――恐ろしい光景があった。
松明、というんだろうか。火のついた角材をかかげている人がいる。
大きなスコップをかまえている人がいる。
小さくてよく見えないけれど、松明の灯りでキラキラ光るのは、包丁などの刃物だろうか。
そういった凶器を持った、年齢も性別も服装もバラバラの、凶器さえなければその辺にいそうに見える人たちが、10人以上はいた。
その人たちは、閉まった正門を乗り越えようとしているようだった。
眼帯男は、手に傘を持っていた。多分、普通の黒い傘だ。玄関口の傘立てにあったんだろう。
傘は、振り回すと危ないと言われはする。でも正門のところにいる人たちが持っている凶器に比べると、あまりにも頼りなかった。
「行くな! 行くなよ、おい!!」
俺は窓を開けて、眼帯男の背に向かって叫んだ。
自分でも何がしたいのか、よくわかっていない。
あの殺人鬼はクラスメイトを殺した恐ろしい男だ。関わりたくはない。
でも彼は、俺を守るとも言ったんだ。
その言葉は、多分、嘘じゃない。
俺が生き延びるために、彼は必要な気がした。
しかし、俺が叫んでも男は足を止めない。
聞こえていないのだろう。距離があった。
「っ、そうだ! 放送室!」
俺は隣の放送室に向かって走る。
1年生の時に放送委員をやっていたから、ここの鍵は固くて締めづらく、怠慢な生徒は閉めずに鍵だけ返却して済ますことを知っていた。
――ビンゴ。ドアが開いている。
中に飛び込んで、放送委員の時の記憶を頼りに機械を立ち上げた。
全校放送のスイッチを入れて、マイクに向かって怒鳴るように叫ぶ。
『返すから、受け取れ……!!』
そしてすぐにトイレへ駆け戻り、窓へと向かった。
窓から見下ろした眼帯男は、驚いた顔で足を止めていた。
こちらを向いてきょとんとしていたが、俺が鉄パイプを振りかぶると、なぜかパアッと笑顔になる。
俺はそんな眼帯男に向かって、全力で鉄パイプを投げた。
この方が、直接渡しに行くより速いと思ったのと、やはりまだ眼帯男に近づくのは怖かったからだ。
でも、俺の頭は恐怖でポンコツになっていた。
運動など授業以外でろくにやっていない俺の投げる力なんて、大したものじゃないということを忘れていたんだ。
俺の手を離れた鉄パイプが槍投げのようにキレイに飛んでいく光景を想像していたけれど、実際は力なく落ちていき、眼帯男よりも遥か手前に落ちた。
いや。
遥か手前に――と思っていたけれど。
眼帯男が嬉しそうに、校舎の方へダッシュで戻っていた。
そして落ちかけた鉄パイプを、スライディングで受け取る。
「すげえ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
あいつ、50メートル何秒なんだろう。クラスで一番速い長野よりも速く見えた。
俺がそんな場違いにのんきな感想を持てたのは、鉄パイプを持った男が晴れやかに笑いかけてきたからだ。
ああ、もう大丈夫だなと思った。
あんな風に笑う男が負けるところが、想像できなかった。
――それから何が起きたかは、ちゃんと見ていない。
正門を乗り越えてきた人たちに、眼帯男が飲み込まれるように囲まれたのは遠目にわかった。
鉄パイプがぶん回されて、人が吹き飛んでいくのも見えた。
そこで俺は恐ろしくなって、トイレの床にへたりこんでしまった。
(……やっぱりあいつ、ちゅうちょなく人を殺せるんだな……)
眼帯男が俺を殺さない確証なんて、ない。
(あいつを信じていいのか……? クラスメイトを殺したのに……? なんで俺は殺されないんだ……?)
何を信じればいいのか、生き延びるためには何が正解なのか。
答えの出ない問いがグルグルと頭の中を回る。
そうして、どれくらい時間が経っただろう。
ぺた、ぺたという足音と、カラカラという鉄パイプを引きずる音が近づいてきた時、俺は不思議と、恐ろしいとは感じなかった。
「サンちゃん、これ、ありがとう。かえすね」
入口に背を向けて座り込んでいた俺に、舌っ足らずな声がかけられる。
真新しい、血の臭いがした。
「……いいよ、お前が持ってて」
「そーう?」
俺は殺人鬼に向かって背を向けたまま、会話を続けた。
なんというか、投げやりになっていた。
さっきは一瞬だけ正気に戻れた気がしたけれど、壊れた日常に、そんなにすぐに適応できるはずはなかった。
どうすればいいのか、何もわからない。いっそのこと、鉄パイプで頭をカチ割って、この悪夢から解放してほしいとすら、どこかで思っている。
早く夢から覚めたかった。――多分これは、現実なんだろうけど。
そんな俺の背に触れたのは、冷たい鉄パイプではなかった。
温かい手のひらが、俺の背を何度もゆっくりと撫でる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
舌っ足らずな声が優しく聞こえるのは、俺が弱っているからだろうか。
「きみは、ぼくが守るからね」
「……ぐすっ……うぇ……ひっく……」
嗚咽が漏れる。
声を上げて泣き始めると、緊張の糸がぷっつりと切れたのが自分でもわかった。
「うぇ、うえええええええん!」
我ながら、高校生とは思えない泣き方だった。
涙腺が壊れたように涙が止まらないし、体はガタガタと震え、声を抑えることもできない。
恥ずかしげもなく、子どものように泣きじゃくる。
「うわあああああああん! うえええええん、もうやだ、やだよぉ……!!」
怖かった。あんまりにも、怖かった。
この、おそらくは一時間も経っていない間に、俺の日常は壊れて、心は弱りきってしまっていた。
頬を伝った涙が、ぼたぼたと床に落ちる。
眼帯男は「だいじょうぶ、もうだいじょうぶだからね」と何度も声をかけた。
撫でられる背が、温かい。
弱い俺は、もう、この温もりにすがるしかなかった。
「な……まえ……」
「んー? なあに?」
「なまえ、なに! おまえの!」
眼帯男に背を向けたまま、癇癪を起こしたように声を荒げてしまう。そんな自分に驚いた。
感情がグチャグチャだ。全く平常ではいられない。
しかし、不躾な俺の態度に眼帯男が気分を害した様子はなかった。舌っ足らずな口調で、のんきに「うーんとね……」と考え込んだ。
「なまえ、色々あるんだけど……よく呼ばれたのは『イコ』かな」
「イコ……?」
「うん、イコ!」
やっぱり、聞いたことがない名前だった。
イコがどうして俺の愛称を知っているのか、俺を守ろうとするのか、わからない。
でも、今はこれ以上、何かを知りたいとは思えなかった。とっくに許容量を超えていた。
「イコ……!!」
俺は振り向き、イコにすがりつく。
返り血で真っ赤に染まったシャツに、俺の涙も吸い込まれた。
「俺、死にたくない、死にたくないよぉ……!!」
ようやく動き始めた俺の頭を埋め尽くすのは、命をおびやかされる恐怖だった。
クラスメイトの凶行と死。正門の人たち。
あまりにも恐ろしい光景だった。
誰より恐ろしいのは、目の前の男なのかもしれない。
でも、誰よりも強いのも、目の前の男だった。
「死にたくない、怖い、怖いよ!! 嫌だ!! 死ぬのは嫌だ!!」
必死に叫ぶ。クラスメイトや担任が全員死んでも、自分はまだ生きていたかった。死ぬのは怖かった。
「うん、だいじょうぶ」
イコは鉄パイプを握ったまま、俺の頭を抱きしめる。
「きみはぼくが、命にかえても守るからね」
俺が落ち着くまで、イコは何度もそう繰り返す。
「ぼくは、きみのお兄ちゃんだからね」
あれから俺は、眼帯の男から逃げ回っていた。
もつれる足でクラスメイトだった人たちをまたぎ、一目散に教室から飛び出して。
最上階である3階の教室から、最初は1階の玄関口まで駆け下りた。
でも眼帯男の足は速く、すぐに回り込まれて「サンちゃん」と呼びかけられた。
俺は慌てて2階に上がり、放送室横のトイレに逃げ込み、個室に入って鍵をかけた。
「サンちゃん、そこにいるよね?」
「だから、来るなって!!」
眼帯男は鉄パイプをカラカラと引きずりながら、トイレの中へと入ってきた。
閉まっている個室は一つだけ。俺がいることはバレバレだ。
俺は何度も、個室の鍵がかかっていることを確認した。
そして、半分ほどに減っているトイレットペーパーをホルダーから外して握る。ドアの上の隙間から眼帯男が顔を出したら、これを投げつけて反撃するつもりだった。
ガタガタと手が震えているから、当たりっこないだろう。クソエイム確定だ。
でも何も準備しないでいるのは、心臓が潰れるほど恐ろしかった。
カラカラ、カラカラ……カラン。
俺がいる個室の前で、鉄パイプの音が止まる。
はー、はー……。
自分の呼吸音がうるさかった。
俺はドア上の隙間を睨みつける。
ああでも下から来るのか? それともドアをこじ開けられる?
視線を忙しなくあちこちへ動かす。
鉄パイプがドアを割って、俺の頭も一緒にかち割る光景を想像してしまい、胃がぐっと縮んだ。
「サンちゃん」
「ヒッ……!!」
何が起こるか色んな想像をして緊張していたけれど、静かに声をかけられるとは思っていなかった。
全力の悲鳴を上げて、腰を抜かす。蓋が閉まった便器の上に、落ちるように座り込んだ。
手からは力が抜けて、トイレットペーパーが床を転がる。
「……ぼくが怖いの?」
「…………ッ!!」
俺は恐怖のあまり、眼帯男の声を遮るようにドアを蹴りつけた。
バァンと、想像より大きな音がして、自分でも驚いて肩が跳ねる。
冷や汗が止まらない。バクバクする心臓を片手で抑える。そうでもしないと、胸を突き破って出てきてしまう気がした。
「……どうすれば、怖くなくなる?」
眼帯男の声が、落ち込んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
ドアごしでは表情は見えないのに、なぜか眼帯男の悲しそうな顔が想像できた。
でも、ほだされるようなことはない。
こいつはクラスメイトを殺したからだ。次は俺だろう。
あんな風になりたくない。痛いのは嫌だ。怖い、怖い、怖い!!
「消えろよ……どっか行けって……!!」
震えるか細い声で、どうにかそれだけ絞り出した。
解放してほしい。俺をこの恐怖から。
帰りたかった。ほんの数十分前の、つまらないと思っていた日常へ。今朝目覚めた時の、二度寝するかどうかで悩んだくだらない瞬間へ、時間が戻ってほしかった。
「わかったよ」
舌っ足らずな声がそう答えた時、俺は意味を理解できなかった。
だからカランという音とともに、ドア下の隙間からなにかが入り込んできた時、驚きのあまり全身を丸めて壁にすがりついた。
「これで、じぶんを守るんだよ」
ドア下からゆっくりと伸びてくるそれは、よく見たら鉄パイプだった。
ドア下の隙間なんてそんなに広くないから、凹んで曲がった鉄パイプは時折引っかかりながら、ズリ、ズリと個室の中へ押し込まれてくる。俺が落としたトイレットペーパーが鉄パイプに押されて、奥の方へと転がっていった。
「あいてから目をはなさないで、ちゃんと当ててね。ためらったらだめだよ」
全く理解ができなかった。眼帯男が言っていることも、今起きていることも。
恐ろしい凶器を、なぜ眼帯男は俺に渡そうとしているんだろう。鉄パイプがない眼帯男は脅威なのか、そうじゃないのか、わからない。
殺人鬼から武器を渡されて、戸惑わない人はいるんだろうか。どうするのが正解なのか、全くわからない。
「な、なんで……」
問いかけてみても、続きの言葉が出てこない。
知りたいことが多すぎた。
なんで、クラスメイトを殺したの。
なんで、俺をサンちゃんと呼ぶの。
なんで、鉄パイプを渡してくるの。
なんで――悲しそうな声なの。
「サンちゃん、ころされる前にころしてね」
鉄パイプがすべて個室の中に押し込まれた。眼帯男の指先がドア下から少し見えたけれど、すぐに消える。
ドアの向こうで、立ち上がるような衣擦れの音がした。
「殺すって……だれ、を?」
ようやく、理解が追いついてきた。
眼帯男は護身用に、俺にこの鉄パイプを渡したらしい。眼帯男が持っている唯一の武器を。
そして、殺せと言っている。
俺にこの鉄パイプで、誰かを殴って殺せと。
「みんなだよ。ぼくときみじゃない人、ぜんいんをうたがって」
そんなの嫌だ。
殺したくなんてない。人を殴ったことさえ、一度もないのに。
でもそんな反論は、緊張ですべて喉に張り付いて、口から出て行きはしなかった。
ぺた、という音がする。
頼りないそれは多分、眼帯男の足音だ。
ぺた、ぺたとゆっくり遠ざかっていく。
「ごはんは食べちゃだめ。みずも飲んじゃだめ。
――ぼくがなんとかするから、きみは生き延びて」
舌っ足らずな声と足音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「………………………………」
しばらく、俺は息を殺して硬直していた。
眼帯男が戻って来るかもしれない。いや、立ち去ったフリをして、俺が出てくるのを待っているかもしれない。
そんな疑念と恐怖が、俺を硬直させていた。
ふと、鉄パイプを拾おうと思い立つ。
トイレットペーパーよりも、よっぽど安心できる武器だからだ。長いし、威力もあるだろう。
人を殴る覚悟はないけれど、殺人鬼が持っているよりは、俺が持っている方がまだ安心だ。
あの鉄パイプでクラスメイトたちが殺されたことは忘れていない。忘れられるはずがない。
でも緊急事態だから、背に腹は代えられない。と、自分に言い訳をする。
血まみれの鉄パイプを拾おうと、手を伸ばした。
そして、気がつく。
鉄パイプの血は、拭われていた。
完全にキレイとは言えないけれど、拭い取ろうと何度もこすったような跡があった。
「なんでわざわざ、拭いて……」
トイレに逃げ込む前、最後に見た時は間違いなく鉄パイプにはべったりと血がついていた。眼帯男は、真っ赤なそれを気にもとめずに握っていた。
拭う理由なんてないはずだ。
眼帯男は血を嫌がらない。
血や凶器に怯えていたのは――俺だ。
「俺に渡すために……拭いた、のか……?」
にぶっていた頭が、動き出す。
眼帯男の悲しそうな声が脳裏に響く。
――これで、じぶんを守るんだよ
――ぼくがなんとかするから、きみは生き延びて
「…………っ!!」
俺は鉄パイプを拾い上げ、鍵を開けて飛び出した。
見回し、他の個室を見ても眼帯男の姿はない。
「どこに――あ!?」
トイレの窓の外、校庭の方に、返り血まみれの茶髪の背中が見えた。
雨が降りそうなほどの曇り空の下、眼帯男は校庭を突っ切り、正門の方へと向かっている。
そして、正門の向こうに――恐ろしい光景があった。
松明、というんだろうか。火のついた角材をかかげている人がいる。
大きなスコップをかまえている人がいる。
小さくてよく見えないけれど、松明の灯りでキラキラ光るのは、包丁などの刃物だろうか。
そういった凶器を持った、年齢も性別も服装もバラバラの、凶器さえなければその辺にいそうに見える人たちが、10人以上はいた。
その人たちは、閉まった正門を乗り越えようとしているようだった。
眼帯男は、手に傘を持っていた。多分、普通の黒い傘だ。玄関口の傘立てにあったんだろう。
傘は、振り回すと危ないと言われはする。でも正門のところにいる人たちが持っている凶器に比べると、あまりにも頼りなかった。
「行くな! 行くなよ、おい!!」
俺は窓を開けて、眼帯男の背に向かって叫んだ。
自分でも何がしたいのか、よくわかっていない。
あの殺人鬼はクラスメイトを殺した恐ろしい男だ。関わりたくはない。
でも彼は、俺を守るとも言ったんだ。
その言葉は、多分、嘘じゃない。
俺が生き延びるために、彼は必要な気がした。
しかし、俺が叫んでも男は足を止めない。
聞こえていないのだろう。距離があった。
「っ、そうだ! 放送室!」
俺は隣の放送室に向かって走る。
1年生の時に放送委員をやっていたから、ここの鍵は固くて締めづらく、怠慢な生徒は閉めずに鍵だけ返却して済ますことを知っていた。
――ビンゴ。ドアが開いている。
中に飛び込んで、放送委員の時の記憶を頼りに機械を立ち上げた。
全校放送のスイッチを入れて、マイクに向かって怒鳴るように叫ぶ。
『返すから、受け取れ……!!』
そしてすぐにトイレへ駆け戻り、窓へと向かった。
窓から見下ろした眼帯男は、驚いた顔で足を止めていた。
こちらを向いてきょとんとしていたが、俺が鉄パイプを振りかぶると、なぜかパアッと笑顔になる。
俺はそんな眼帯男に向かって、全力で鉄パイプを投げた。
この方が、直接渡しに行くより速いと思ったのと、やはりまだ眼帯男に近づくのは怖かったからだ。
でも、俺の頭は恐怖でポンコツになっていた。
運動など授業以外でろくにやっていない俺の投げる力なんて、大したものじゃないということを忘れていたんだ。
俺の手を離れた鉄パイプが槍投げのようにキレイに飛んでいく光景を想像していたけれど、実際は力なく落ちていき、眼帯男よりも遥か手前に落ちた。
いや。
遥か手前に――と思っていたけれど。
眼帯男が嬉しそうに、校舎の方へダッシュで戻っていた。
そして落ちかけた鉄パイプを、スライディングで受け取る。
「すげえ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
あいつ、50メートル何秒なんだろう。クラスで一番速い長野よりも速く見えた。
俺がそんな場違いにのんきな感想を持てたのは、鉄パイプを持った男が晴れやかに笑いかけてきたからだ。
ああ、もう大丈夫だなと思った。
あんな風に笑う男が負けるところが、想像できなかった。
――それから何が起きたかは、ちゃんと見ていない。
正門を乗り越えてきた人たちに、眼帯男が飲み込まれるように囲まれたのは遠目にわかった。
鉄パイプがぶん回されて、人が吹き飛んでいくのも見えた。
そこで俺は恐ろしくなって、トイレの床にへたりこんでしまった。
(……やっぱりあいつ、ちゅうちょなく人を殺せるんだな……)
眼帯男が俺を殺さない確証なんて、ない。
(あいつを信じていいのか……? クラスメイトを殺したのに……? なんで俺は殺されないんだ……?)
何を信じればいいのか、生き延びるためには何が正解なのか。
答えの出ない問いがグルグルと頭の中を回る。
そうして、どれくらい時間が経っただろう。
ぺた、ぺたという足音と、カラカラという鉄パイプを引きずる音が近づいてきた時、俺は不思議と、恐ろしいとは感じなかった。
「サンちゃん、これ、ありがとう。かえすね」
入口に背を向けて座り込んでいた俺に、舌っ足らずな声がかけられる。
真新しい、血の臭いがした。
「……いいよ、お前が持ってて」
「そーう?」
俺は殺人鬼に向かって背を向けたまま、会話を続けた。
なんというか、投げやりになっていた。
さっきは一瞬だけ正気に戻れた気がしたけれど、壊れた日常に、そんなにすぐに適応できるはずはなかった。
どうすればいいのか、何もわからない。いっそのこと、鉄パイプで頭をカチ割って、この悪夢から解放してほしいとすら、どこかで思っている。
早く夢から覚めたかった。――多分これは、現実なんだろうけど。
そんな俺の背に触れたのは、冷たい鉄パイプではなかった。
温かい手のひらが、俺の背を何度もゆっくりと撫でる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
舌っ足らずな声が優しく聞こえるのは、俺が弱っているからだろうか。
「きみは、ぼくが守るからね」
「……ぐすっ……うぇ……ひっく……」
嗚咽が漏れる。
声を上げて泣き始めると、緊張の糸がぷっつりと切れたのが自分でもわかった。
「うぇ、うえええええええん!」
我ながら、高校生とは思えない泣き方だった。
涙腺が壊れたように涙が止まらないし、体はガタガタと震え、声を抑えることもできない。
恥ずかしげもなく、子どものように泣きじゃくる。
「うわあああああああん! うえええええん、もうやだ、やだよぉ……!!」
怖かった。あんまりにも、怖かった。
この、おそらくは一時間も経っていない間に、俺の日常は壊れて、心は弱りきってしまっていた。
頬を伝った涙が、ぼたぼたと床に落ちる。
眼帯男は「だいじょうぶ、もうだいじょうぶだからね」と何度も声をかけた。
撫でられる背が、温かい。
弱い俺は、もう、この温もりにすがるしかなかった。
「な……まえ……」
「んー? なあに?」
「なまえ、なに! おまえの!」
眼帯男に背を向けたまま、癇癪を起こしたように声を荒げてしまう。そんな自分に驚いた。
感情がグチャグチャだ。全く平常ではいられない。
しかし、不躾な俺の態度に眼帯男が気分を害した様子はなかった。舌っ足らずな口調で、のんきに「うーんとね……」と考え込んだ。
「なまえ、色々あるんだけど……よく呼ばれたのは『イコ』かな」
「イコ……?」
「うん、イコ!」
やっぱり、聞いたことがない名前だった。
イコがどうして俺の愛称を知っているのか、俺を守ろうとするのか、わからない。
でも、今はこれ以上、何かを知りたいとは思えなかった。とっくに許容量を超えていた。
「イコ……!!」
俺は振り向き、イコにすがりつく。
返り血で真っ赤に染まったシャツに、俺の涙も吸い込まれた。
「俺、死にたくない、死にたくないよぉ……!!」
ようやく動き始めた俺の頭を埋め尽くすのは、命をおびやかされる恐怖だった。
クラスメイトの凶行と死。正門の人たち。
あまりにも恐ろしい光景だった。
誰より恐ろしいのは、目の前の男なのかもしれない。
でも、誰よりも強いのも、目の前の男だった。
「死にたくない、怖い、怖いよ!! 嫌だ!! 死ぬのは嫌だ!!」
必死に叫ぶ。クラスメイトや担任が全員死んでも、自分はまだ生きていたかった。死ぬのは怖かった。
「うん、だいじょうぶ」
イコは鉄パイプを握ったまま、俺の頭を抱きしめる。
「きみはぼくが、命にかえても守るからね」
俺が落ち着くまで、イコは何度もそう繰り返す。
「ぼくは、きみのお兄ちゃんだからね」
