地獄からバイバイ

 俺たちはしばらくくっついていたけれど、落ち着いてきて気恥ずかしさが勝ったころ、そっと離れた。
 イコは「これが……なみだ……」とか、感情を手に入れたロボットみたいなことを言いながら、頬を濡らした涙を拭う。

 濡れていたのは左側だけで、ガーゼ眼帯の下には、やはり目はないらしい。

「イコ……その目、なんでそんなことになったの?」

「え? ん……んー……まえに、いろいろあった」

「そうなんだ……」

 露骨に聞いてほしくなさそうだ。
 まあ、イコが言いたくなった時でいいか。

「でも、イコって名前だったっけ? 聞き覚えがないんだけど……」

 俺は意識して話をそらす。
 でも、名前のことが気になっていたのも本当だ。犬がいたことは思い出せたけれど、昔のことだから細部までは覚えていない。
 イコという名前にも、いまいちピンときていなかった。

「んと、ぼく、なまえいっぱいあったよ」

「そういえばそんなこと言ってたな」

 イコに名前を聞いたのが、ずいぶん前に思える。
 たしか、沢山の名前があって、よく呼ばれていたのが『イコ』だと言っていた。

「どんな名前があったの?」

「えっとね、カワイ」

「か、河合!?」

 なんだ河合って。苗字みたいだ。
 うちの親、そういうことするタイプには見えないんだけど。

「あとは、カシコイネとか、サンポとか、ゴハンとか……」

「……なるほど」

 続いた言葉に、俺は納得する。
 どうやらイコは、よくかけられていた言葉を、全部名前だと認識していたらしい。
 他のラインナップを考えると、「カワイ」はおそらく「河合」ではなく、「可愛い」だろう。

 となると、「イコ」は「いい子」かもしれない。もしくは「行こう」とか……その両方かもな。だから一番呼ばれた名だと思っているのかも。

 俺が納得している間も、イコは目をぐるぐるさせながら、記憶を掘り返している。

「あとはあとは、ナデナデとか、ムギとか、ムーチャンとか……」

「! それだ!!」

 ようやく、記憶を刺激する音が出てきた。
 ムギ。ムーちゃん。
 そうだ、俺の兄弟の犬は、そう呼ばれていた!
 毛の色が小麦色だったからだろう。今のイコの髪と同じ色だ。

「ムーちゃんって、呼んでた覚えがある!」

 幼い俺は、ムーちゃんムーちゃんと呼びながら、犬だったイコの後ろをついて回ったものだ。

「え……でも、イコともよばれたよ? あと、カワイも……」

「う、うん。それも言った。沢山言った。でもムギ以外は、名前じゃなくて褒め言葉だよ。ムギは沢山褒められていたんだよ」

 そう言うと、イコは目をまんまるにする。

「そうなの? えへへ~」

 辞書の『破顔』の項目に挿絵を乗せるなら、今のイコの顔がいいだろう。
 それくらい、トロトロに顔をほころばせていた。

「名前、これからはどう呼ぼう? ムギがいい? イコがいい?」

「えと、イコも、ほめることば?」

「うん。『いい子』だと思う」

 イコは地獄で何度か、俺に「いい子」と言ってくれた。でも今まで結びついてはいなかったらしい。犬の思い込みって可愛いな……。

「じゃあ、イコがいい。ぼく、いい子だから!」

 イコは嬉しそうに言った。
 今のイコに尻尾があれば、ブンブン振っていただろうな。

「イコ、絶対に一緒に帰ろう」

 俺は暮れかけの夕陽の中で、改めて決意する。
 もう、イコを孤独にはしない。

「うん!」

 そう答えるイコの顔は、陰になって、見えなかった。





 翌日、俺たちは太陽が昇り出すより前に起きて、登山口へと向かった。
 タイムリミットは、今日の夜。山は大きくはないけれど、片手片足が動かないイコはゆっくりとしか歩けないから、急ぎたい。

 ただ、イコ曰く死者はこの山に近づこうとしないらしい。
 鬱蒼と木々が生えた山で、茂みから死者が飛び出してくるのを警戒しないで済むのは、ありがたかった。

「お、案内看板がある」

 山はある程度整備されている。小学校6年生の頃、遠足で来た覚えがあった。

 見れば、山の絵の上に、4つの地名が書かれていた。

 頂上に『人形塚』。
 そこをアナログ時計の12時の位置とした時、3時に『地獄谷』、6時に『針の山』、9時に『血の池』と書かれている。

「あーそうそう、こんなんだったな。小さかった頃は、結構怖かったなあ」

 遠足で行ったのは、地獄谷にある展望台だ。開けた場所で、街を一望できる。
 ただそこに行くために、谷にかかった吊橋を渡る必要があって、生徒からは不評だった。
 俺たちが遠足に行った2年後から、この山への遠足は廃止されたと風の噂で聞いて、羨ましかったものだ。

 他の場所も、話は聞いたことがある。
 人形塚は、大きな石碑が建っていて、その下に人形が沢山収められているらしい。
 そのためか、人形を置いていく人が多くて、石碑の回りも人形だらけだとか。インパクトがあるから、テレビが取材に来たこともある。

 針の山はトゲトゲした岩が多くて、転ぶと大怪我するから近寄らないようにと言われている。
 遠足の途中、立入禁止と書かれた道があって、あっちが針の山なんだろうなと、クラスメイトとヒソヒソ話した。

 血の池は、赤い――赤すぎてほとんど土色の池だ。池を探していると迷って落ちると言われていて、そこも立ち入り禁止。獣道はあるらしい。

「イコが言ってたほこらって、人形塚のあたり?」

 今日の夜までに、頂上のほこらに行くようイコは言っていた。

「うん。にんぎょうが、たくさんあるところのちかくに、ほこらがあるよ」

「そっか。じゃあ、行こう」

「うん」





 山道は、思ったよりも整備されていた。
 少し険しい階段などもあったけれど手すりが完備されていて、イコは杖がわりの鉄パイプを俺に預け、一人で登ることができた。

「意外とあっけなくついたな……」

 頂上の人形塚についた時、太陽は頭の上にあった。昼を少し過ぎたくらいだろうか。

 頂上にはベンチが備え付けられていた。
 イコが座るのに手を貸していたら、俺のお腹がぐぅ~と鳴る。

「あー、さすがに腹減ってきついな」

「サンちゃん、これ!」

 座ったイコが、意気揚々と何かを差し出す。
 思わず受け取ると、それは親指くらいのサイズの、緑の実だった。
 手のひらいっぱいにある上に、イコはジャージのポケットからどんどん追加で出してくる。

「え……これ、木の実?」

「いっぱいとったよ! たべて!」

「す、すごいな……いつの間に……」

 道すがらとったんだろう。さすが、11年間も生き延びてきただけあって、頼もしい。

「ありがとう。半分もらうな」

「あ、うん」

 半分をイコに返して、ベンチで隣に座る。

「いただきます」

 かじると木の実はサクッとしていて、甘酸っぱかった。
 空腹の体に、染み入る。

「うまい……! イコ、うまいよこれ!」

「よかったぁ!」

 イコは嬉しそうにニコニコと笑う。
 俺は夢中で、木の実を食べきった。

「はー、うまかった……。ありがとう、イコ。あれ、イコももう食べたのか?」

「うん」

「そっか。じゃあ……って、この後どうしたらいいんだろう。夜まで待てばいい?」

 頂上に来たのはいいけれど、元の世界に帰れる扉のようなものは、見当たらない。

「えと、そこにかいてあるって」

「……看板?」

 イコが指さした先は、俺からは木に隠れて死角になっていたけれど、看板が立っていた。
 神社や観光地で、その場所の由来とかが書いてあるようなやつだ。

「まえは、まよいこんだひとに、やりかたをおしえてもらった。その人が、もしまた、まよいこんだら、これをよめって、いってたよ」

 イコがたどたどしく説明してくれる。
 話を聞くに、イコも俺も、地獄へ迷い込み慣れた人にずいぶん助けてもらったらしい。
 元の世界に戻ったら、お礼を言いたいな。

「ありがたいな。えっと……」

 看板を読むと、『蘇り伝説について』というタイトルで、神話が書かれていた。

 なんでも、地獄に迷い込んだ人が、『3つの試練』を突破し、『3つの捧げ物』をして、蘇ったらしい。

 この山の地名は、その神話になぞらえてつけられたそうだ。

「試練は3つ……怖いこと、辛いこと、迷うこと。地獄谷で怖いことを突破して、針の山で辛いことを突破して、血の池で迷うことを突破した……」

 そして神話の人は、試練のたびに、体の一部を捧げていったらしい。

「捧げ物は、働くために必要なもの、人といるために必要なもの、生きるために必要なもの……?」

 いまいちわからなかった。

 看板を更に読む。

『蘇っても、一部を失っては、生きられませんでした。今後同じ試練を受ける人の肩代わりをするために、人形が備えられるようになったのです』

 文章は、そこで終わった。

「じゃあ人形を借りて、地獄谷とかでその一部を捧げてくればいいのかな……あ、そうだ」

 難しさに頭を抱えてしまったけれど、すぐそこに経験者がいることを思い出す。

「イコも、昔もこれをやったの?」

 俺は人形を一体手に取り、尋ねる。
 人形はポーズからして雛人形の、弓を持っている人のようだった。

「うん。3つのしれんと、3つのささげもの、したよ」

「そっか。じゃあ、やろう」

「ぼくは、ここにいる。あるけないから」

「え。でも……一緒にやらないとダメなんじゃないの?」

「だいじょうぶ」

 イコは自信満々に、うなずいた。
 でもそうか、これが元の世界への扉を開く儀式なら、扉さえ開けば二人でくぐればいいのか。

「じゃあ、ここにいてな」

「うん」

「がんばってね、サンちゃん。まってるね」

 イコの応援を背に受けながら、俺は地獄谷の方へと歩き出した。