手当てを終えた後、俺たちは駅を出て、死者に襲われないように慎重に進んだ。
空が赤くなり始める頃、山のふもとにたどり着く。
この頂上が、目的地だ。
「イコ、本当に大丈夫?」
「うん、もういたくないよ」
繰り返し確認する俺に、顔の腫れが引いてきたイコは大丈夫だと頷いてみせる。
でも、その姿は全然大丈夫そうには見えない。
――イコの右足と左手は、動かなくなっていた。
鉄パイプを杖代わりに、俺も肩を貸して、なんとかここまで歩いてきたんだ。
「今日はふもとで休もうか。まだ1日あるし、夜の山は危ないから」
「あっちに、かくれられるところが、あるよ」
「じゃあ、そこに行こう」
俺はもう、イコのことを疑わない。
言われた通りの方向へ行く。
そうしたら、水路に出た。
水路といってもトンネルのようなものではなくて、舗装された、開けた川のような感じ。
ただ川と違うのは、水の流れの両側に歩ける道や、休めるベンチなどがあること。
イコは「こっち」と、水路に降りて、舗装された道を歩く。
コツ、コツ。
俺たちの足音に、控えめな音が混じっていた。
イコが杖代わりにしている鉄パイプだ。
カラカラと引きずらないよう、いちいちちゃんと持ち上げて、コツ、と小さな音を鳴らしている。
会ったばかりの頃、俺がカラカラという音に驚いていたからだ。
もう気にしなくていいと何度も言ったのに、イコはずっと気にしてくれている。
どうして、こんなにいいやつを疑ってしまったんだろう。
――いや、出会いがあれだったから仕方ないか。
初対面が血まみれだった相手をすぐに信じられる人は、多分そんなにいないと思う。
「ここ。みえにくくて、かくれやすいよ」
水路の分かれ道、格子で塞がれた場所をイコは示した。
少し凹んでいるから、そこに2人くらいなら簡単に入れそうだ。周囲に植物も多くて、目隠しになっている。
「いいね。ありがとう」
「ふふふー」
お礼を言うと、イコは嬉しそうに笑った。
手助けをしてイコを座らせてから、自分も座る。
水路の壁にもたれかかって、はあと息を吐いた。
疲れがどっと押し寄せる。
「お腹すいたな……」
せっかく残していた弁当は、公民館に置いてくるしかなかった。
お腹が空いた。喉も乾いている。
「ごはん、とってくるね!」
「取ってこなくていい……!」
片手と片足が不自由なくせに、イコはアクティブに動こうとする。慌てて引き止めた。
「……靴、置いてきちゃったな」
ふと、イコの足元が目に入る。
弁当と同じように、イコの靴も公民館に置き去りだ。
でも幸い、怪我はしていないようだった。
「ぼく、このほうが、いい。くつ、ほんとはにがて」
イコは動かせる左足だけ、足首をグルグルと回す。
「そうなんだ?」
「うん……」
イコは口ごもった。
何を言いたいのか、俺はなんとなく察する。
イコの右目は、救急箱で見つけたガーゼ眼帯で再び隠されている。でもその下に何があったのか、忘れたわけじゃないから。
くろぐろとした、闇。
ナナシさんたちはそれを見て、イコを化け物だと呼んだ。
「イコ、言いたくなかったら無理に言わなくていいよ。でも……イコの正体がなんだとしても、怖がらないって約束する。イコはイコだから、怖くないよ」
「ん……」
イコは何度か、もごもごと口を動かす。
そして――意を決したように、告げた。
「ぼくね、ほんとうは、いぬなの」
「いぬ?」
いぬという妖怪だろうかと一瞬思う。
でも妖怪に詳しくない俺でも、多分妖怪ではないなと思い至った。
「いぬってもしかして……犬!? DOG!?」
「どっぐ……?」
「あ、いや、ええっと、あの四本脚で歩いて、頭に耳がある、動物の犬……?」
俺は自分の頭に手をやって、耳を表現してみせた。
「うん。そのいぬ」
「い、犬だったんだ……そっか……」
驚くと同時に、納得感があった。
イコの言葉は人にしてはたどたどしいし、舌っ足らずだ。
それに学校のトイレで、蛇口の下に潜り込んで全身で水浴びしていたのも、その後にぶるぶると体を振って水をきったのも、わかってみれば犬のしぐさだった。
イコだけ死者から狙われなかったのも、犬だからだろう。
死者は『生きている人』を狙う。
多分他にも、犬っぽいところはあった気がする。
まさか正体が犬だとは思わないから、わからなかっただけで。
『このせかいでは、こころのかたちが優先される』
イコは犬だけれど、こころが人の形をしていたから、この地獄では人の姿をしているのか。
「あれ? じゃあ俺のお兄ちゃんっていうのは……」
イコが兄を名乗った時、半信半疑ながらも俺に死別した兄でもいるのかと思っていた。
でも正体が犬だということは……。
「イコ、もしかしてうちにいたの? その、犬の時に」
「うん」
「でも俺んち、ペット禁止だけどな……」
両親は、絶対にペットを飼おうとしなかった。
庭付きの一軒家だし持ち家だから飼えそうなものなのに、俺が昔から何度ねだっても、絶対に駄目だと言われた。
俺は一人っ子だから、それこそ兄弟のような動物が欲しくて何度も頼んだっけ……
「……あ」
一度だけ、しつこい俺に根負けした父が、漏らしたことがあった。
『サンくんは、ペットがいなくなったら大泣きするだろう。だからダメ』
そう言われて、大泣きするかなんてわかんないじゃん、と拗ねた気がする。
父が、適当な言い訳をしたのかと思っていた。
でもあれが、実際の経験から来る言葉だったとしたら。
「ぼくのこと、おぼえてない……?」
イコがおずおずと、俺を見てくる。片方しかない、黒い瞳で。
その目を見て――急に、記憶の蓋が開いた。
「あ……い、いた! 俺がすごく小さかった頃……家に、犬が、いた……!!」
俺が本当に幼い、小学校に上がるよりも前のこと。
家には確かに犬がいた。
茶色い毛並みの、中型の犬。
俺にとっては大きくて、親と並んで大きな家族だと認識していた。
そう……兄だと、思っていた。
「でも、あれ? なんでいなくなったんだっけ?」
少なくとも、5歳の時に熱を出すまでは、いたと思う。
病床で、犬を枕にして、すがりついて寝ていた気がする。
でも、それ以降の記憶に犬はいない。
理由は知らない――いや、今の俺ならわかるはずだ。
5歳の時の熱。
死にかけて、地獄へ迷い込んだらしい俺。
その時一緒にいた、イコ。
それから11年間、地獄にいたという、イコ。
俺は呆然と、つぶやく。
「あの犬は、俺と一緒に地獄に来て――俺だけ帰ったんだ。だから、いなくなったんだ――……」
そして俺は突然いなくなった兄を悲しんで、強烈なペットロスに陥った。
だからうちでは、ペット禁止になったんだ。
驚愕してイコを見ると、イコはのほほんとニコニコ笑っていた。
「おもいだしてくれて、ありがとう」
「お前なあ……!」
なんて壮絶な人生だ。いや犬生か。どうでもいい。
俺は手を伸ばし、イコを抱きしめた。
幼い頃、犬にくっついていた、あの時のように。
「なんで一緒に地獄なんて来ちゃったんだよ!! なんで一緒に帰らなかったんだよ!!」
「……きみが、ままのおなかにいたときにね」
イコは母さんを、ママと呼ぶ。
俺が小学校に上がるまで、家では両親のことはパパ、ママと呼んでいた。
イコの語彙は、その頃のままなんだ。お熱とかも、幼児である俺に対して使われたものを、覚えていたんだ。
「お兄ちゃんになるから、まもってあげてねって、いわれたの」
「…………ッ」
「きみがうまれて、ぼくはきみが、だいすきになった。だから――」
その先は、聞かなくてもわかった。
だって最初からずっと、イコは言ってくれていたから。
「きみは、ぼくが命にかえても守るんだ」
イコは右手で、俺をそっと抱きしめ返してくれた。
肩を震わせて泣く俺の背を、ぽんぽんと優しく叩く。
「あのときは、きみをかえすことしかできなかった」
イコは静かに続けた。
「そのあと、会った人に、いちどまよいこんだ人は、まよいこみやすくなるって、おしえてもらった。
だからサンちゃんがまた、まよいこんだときのために、いきてきたんだ」
イコの11年間を、俺は想像もできない。
普通のペットだったはずなのに、地獄にすっかり慣れていた。この過酷な世界で、11年も生き延びてきた。
人の形で、武器をふるえるようになるまで。
どれだけ過酷な日々だったんだろう。
全ては、俺が再び迷い込んだ時のためだった。
そして迷い込んだ俺を――イコはすぐに見つけてくれたんだ。
俺は顔を上げて、乱暴に涙を拭う。
それでもまだうるむ目で、イコに向き直った。
「守られるばかりは、嫌だ」
鼻声でみっともないけれど、精一杯の全身全霊で、伝える。
「俺もイコを助ける。絶対一緒に帰って、その足も治すし、幸せにする」
「……うん」
イコは、口元を震わせる。
その目から一雫、涙がこぼれた。
「ありがとう、サンちゃん」
――これは俺が見る最初で最後の、イコの涙だった。
空が赤くなり始める頃、山のふもとにたどり着く。
この頂上が、目的地だ。
「イコ、本当に大丈夫?」
「うん、もういたくないよ」
繰り返し確認する俺に、顔の腫れが引いてきたイコは大丈夫だと頷いてみせる。
でも、その姿は全然大丈夫そうには見えない。
――イコの右足と左手は、動かなくなっていた。
鉄パイプを杖代わりに、俺も肩を貸して、なんとかここまで歩いてきたんだ。
「今日はふもとで休もうか。まだ1日あるし、夜の山は危ないから」
「あっちに、かくれられるところが、あるよ」
「じゃあ、そこに行こう」
俺はもう、イコのことを疑わない。
言われた通りの方向へ行く。
そうしたら、水路に出た。
水路といってもトンネルのようなものではなくて、舗装された、開けた川のような感じ。
ただ川と違うのは、水の流れの両側に歩ける道や、休めるベンチなどがあること。
イコは「こっち」と、水路に降りて、舗装された道を歩く。
コツ、コツ。
俺たちの足音に、控えめな音が混じっていた。
イコが杖代わりにしている鉄パイプだ。
カラカラと引きずらないよう、いちいちちゃんと持ち上げて、コツ、と小さな音を鳴らしている。
会ったばかりの頃、俺がカラカラという音に驚いていたからだ。
もう気にしなくていいと何度も言ったのに、イコはずっと気にしてくれている。
どうして、こんなにいいやつを疑ってしまったんだろう。
――いや、出会いがあれだったから仕方ないか。
初対面が血まみれだった相手をすぐに信じられる人は、多分そんなにいないと思う。
「ここ。みえにくくて、かくれやすいよ」
水路の分かれ道、格子で塞がれた場所をイコは示した。
少し凹んでいるから、そこに2人くらいなら簡単に入れそうだ。周囲に植物も多くて、目隠しになっている。
「いいね。ありがとう」
「ふふふー」
お礼を言うと、イコは嬉しそうに笑った。
手助けをしてイコを座らせてから、自分も座る。
水路の壁にもたれかかって、はあと息を吐いた。
疲れがどっと押し寄せる。
「お腹すいたな……」
せっかく残していた弁当は、公民館に置いてくるしかなかった。
お腹が空いた。喉も乾いている。
「ごはん、とってくるね!」
「取ってこなくていい……!」
片手と片足が不自由なくせに、イコはアクティブに動こうとする。慌てて引き止めた。
「……靴、置いてきちゃったな」
ふと、イコの足元が目に入る。
弁当と同じように、イコの靴も公民館に置き去りだ。
でも幸い、怪我はしていないようだった。
「ぼく、このほうが、いい。くつ、ほんとはにがて」
イコは動かせる左足だけ、足首をグルグルと回す。
「そうなんだ?」
「うん……」
イコは口ごもった。
何を言いたいのか、俺はなんとなく察する。
イコの右目は、救急箱で見つけたガーゼ眼帯で再び隠されている。でもその下に何があったのか、忘れたわけじゃないから。
くろぐろとした、闇。
ナナシさんたちはそれを見て、イコを化け物だと呼んだ。
「イコ、言いたくなかったら無理に言わなくていいよ。でも……イコの正体がなんだとしても、怖がらないって約束する。イコはイコだから、怖くないよ」
「ん……」
イコは何度か、もごもごと口を動かす。
そして――意を決したように、告げた。
「ぼくね、ほんとうは、いぬなの」
「いぬ?」
いぬという妖怪だろうかと一瞬思う。
でも妖怪に詳しくない俺でも、多分妖怪ではないなと思い至った。
「いぬってもしかして……犬!? DOG!?」
「どっぐ……?」
「あ、いや、ええっと、あの四本脚で歩いて、頭に耳がある、動物の犬……?」
俺は自分の頭に手をやって、耳を表現してみせた。
「うん。そのいぬ」
「い、犬だったんだ……そっか……」
驚くと同時に、納得感があった。
イコの言葉は人にしてはたどたどしいし、舌っ足らずだ。
それに学校のトイレで、蛇口の下に潜り込んで全身で水浴びしていたのも、その後にぶるぶると体を振って水をきったのも、わかってみれば犬のしぐさだった。
イコだけ死者から狙われなかったのも、犬だからだろう。
死者は『生きている人』を狙う。
多分他にも、犬っぽいところはあった気がする。
まさか正体が犬だとは思わないから、わからなかっただけで。
『このせかいでは、こころのかたちが優先される』
イコは犬だけれど、こころが人の形をしていたから、この地獄では人の姿をしているのか。
「あれ? じゃあ俺のお兄ちゃんっていうのは……」
イコが兄を名乗った時、半信半疑ながらも俺に死別した兄でもいるのかと思っていた。
でも正体が犬だということは……。
「イコ、もしかしてうちにいたの? その、犬の時に」
「うん」
「でも俺んち、ペット禁止だけどな……」
両親は、絶対にペットを飼おうとしなかった。
庭付きの一軒家だし持ち家だから飼えそうなものなのに、俺が昔から何度ねだっても、絶対に駄目だと言われた。
俺は一人っ子だから、それこそ兄弟のような動物が欲しくて何度も頼んだっけ……
「……あ」
一度だけ、しつこい俺に根負けした父が、漏らしたことがあった。
『サンくんは、ペットがいなくなったら大泣きするだろう。だからダメ』
そう言われて、大泣きするかなんてわかんないじゃん、と拗ねた気がする。
父が、適当な言い訳をしたのかと思っていた。
でもあれが、実際の経験から来る言葉だったとしたら。
「ぼくのこと、おぼえてない……?」
イコがおずおずと、俺を見てくる。片方しかない、黒い瞳で。
その目を見て――急に、記憶の蓋が開いた。
「あ……い、いた! 俺がすごく小さかった頃……家に、犬が、いた……!!」
俺が本当に幼い、小学校に上がるよりも前のこと。
家には確かに犬がいた。
茶色い毛並みの、中型の犬。
俺にとっては大きくて、親と並んで大きな家族だと認識していた。
そう……兄だと、思っていた。
「でも、あれ? なんでいなくなったんだっけ?」
少なくとも、5歳の時に熱を出すまでは、いたと思う。
病床で、犬を枕にして、すがりついて寝ていた気がする。
でも、それ以降の記憶に犬はいない。
理由は知らない――いや、今の俺ならわかるはずだ。
5歳の時の熱。
死にかけて、地獄へ迷い込んだらしい俺。
その時一緒にいた、イコ。
それから11年間、地獄にいたという、イコ。
俺は呆然と、つぶやく。
「あの犬は、俺と一緒に地獄に来て――俺だけ帰ったんだ。だから、いなくなったんだ――……」
そして俺は突然いなくなった兄を悲しんで、強烈なペットロスに陥った。
だからうちでは、ペット禁止になったんだ。
驚愕してイコを見ると、イコはのほほんとニコニコ笑っていた。
「おもいだしてくれて、ありがとう」
「お前なあ……!」
なんて壮絶な人生だ。いや犬生か。どうでもいい。
俺は手を伸ばし、イコを抱きしめた。
幼い頃、犬にくっついていた、あの時のように。
「なんで一緒に地獄なんて来ちゃったんだよ!! なんで一緒に帰らなかったんだよ!!」
「……きみが、ままのおなかにいたときにね」
イコは母さんを、ママと呼ぶ。
俺が小学校に上がるまで、家では両親のことはパパ、ママと呼んでいた。
イコの語彙は、その頃のままなんだ。お熱とかも、幼児である俺に対して使われたものを、覚えていたんだ。
「お兄ちゃんになるから、まもってあげてねって、いわれたの」
「…………ッ」
「きみがうまれて、ぼくはきみが、だいすきになった。だから――」
その先は、聞かなくてもわかった。
だって最初からずっと、イコは言ってくれていたから。
「きみは、ぼくが命にかえても守るんだ」
イコは右手で、俺をそっと抱きしめ返してくれた。
肩を震わせて泣く俺の背を、ぽんぽんと優しく叩く。
「あのときは、きみをかえすことしかできなかった」
イコは静かに続けた。
「そのあと、会った人に、いちどまよいこんだ人は、まよいこみやすくなるって、おしえてもらった。
だからサンちゃんがまた、まよいこんだときのために、いきてきたんだ」
イコの11年間を、俺は想像もできない。
普通のペットだったはずなのに、地獄にすっかり慣れていた。この過酷な世界で、11年も生き延びてきた。
人の形で、武器をふるえるようになるまで。
どれだけ過酷な日々だったんだろう。
全ては、俺が再び迷い込んだ時のためだった。
そして迷い込んだ俺を――イコはすぐに見つけてくれたんだ。
俺は顔を上げて、乱暴に涙を拭う。
それでもまだうるむ目で、イコに向き直った。
「守られるばかりは、嫌だ」
鼻声でみっともないけれど、精一杯の全身全霊で、伝える。
「俺もイコを助ける。絶対一緒に帰って、その足も治すし、幸せにする」
「……うん」
イコは、口元を震わせる。
その目から一雫、涙がこぼれた。
「ありがとう、サンちゃん」
――これは俺が見る最初で最後の、イコの涙だった。
