地獄からバイバイ

「は……?」

「あれ、聞こえませんでした? 君が死ぬかイコくんが死ぬか、君が選んで良いんですよって、言いました」

 ナナシさんがわざわざ、言い方を変えて繰り返す。
 俺に、思い知らせるように。

「な、なんでこんなにひどいことが、できるんですか」

 思わず、そう聞いていた。今の俺がこんな質問をしても、相手を喜ばせるだけだって、なんとなくわかるのに。
 でも、どうしても理不尽が怖かった。こんなにひどいことが、理由もなく起きるなんて思いたくなかった。せめて何かちゃんとした理由があれば、俺はまだ正気でいられるような気がした。

「人が絶望する姿が好きなんです」

「…………ッ!」

「騙されて、苦痛に苛まれながら生者が死者に変わる瞬間が、たまらない」

 ナナシさんは、うっとりとした顔で語る。
 その姿は、俺を絶望に突き落とした。

 こんな悪夢みたいな人が、本当にいるんだ。俺を座敷牢に閉じ込めて、最悪の二択を突きつけているんだ。

「現世に病気の娘を残してきたという母親が来ました。彼女は良かったなあ……」

 震えて青ざめる俺に構わず、ナナシさんは言いつのる。

「彼女には、次に迷い込む生存者を殺せば甦れると嘘を教えた。
そうしたら泣きながら、謝りながら、迷い込んできたサラリーマンを殺していました。
嘘だとネタバラシした時の顔、あれは本当に良かった! 皆で笑いましたよ。殺してくださいと土下座するから、死者の群れへ放り込んであげました。死にたくないという最後の悲鳴まで、楽しませてもらいましたよ」

「う……オェッ……!!」

 あまりに胸が悪くなる話に、俺はえずいた。胃液が逆流して喉を焼く。

「おや、子どもにはまだ刺激の強い話でしたかね」

 楽しそうに、ナナシさんは笑う。
 その顔は初めて、本心からの笑顔に見えた。今までのは全部偽物の笑みだったのだと、思い知った。

「では、本題に行ってあげましょう。
まれに、君たちのような仲の良い二人を見つけることがある。
そういう時は、選んでもらっているんですよ。
自分の命か、相手の命かを、ね」

 ナナシさんは声を弾ませる。
 ――俺たちだけじゃないんだ。
 こんな最悪の選択をせまられた被害者が、過去にもいたんだ……多分、1組2組どころじゃなく。

「君がその鉄パイプでイコくんを殺せば、解放してあげます。
これは嘘じゃないですよ。自分が生きるために大切な相手を殺した人間は、生かしておく方が面白いんです。
だから、あなたが嫌がったって、丁寧に生かしてあげますよ。
そして……」

 ナナシさんは、湯呑みに入ったお茶を指さした。

「そのお茶には、地獄の泥を混ぜてあります。
ヨモツヘグイをしたらどうなるか、教えてあげましょう。
まず、全身の力が抜けて、指一本動かせなくなります。しかし意識は明瞭なまま、神経を丁寧にちぎられるような苦痛を味わうそうです。
運がよければ、24時間程度で死ぬことができますよ。
――君が死ぬ方を選ぶなら、それを飲みなさい。
君が死ねば、イコくんを解放してあげます。
ただ約束はできません。私の気が変わったら、イコくんにも同じお茶を飲ませるかも」

 最悪なことに、ナナシさんの説明はわかりやすかった。
 痛みと苦しみを、想像できてしまった。

「おすすめは、イコくんを殺す方です。だって、そっちの方が、確実に片方が助かるんだから、得じゃないですか?
イコくんを殺したところで、責める人はいません。
イコくんも、君が助かるなら本望ですよ。
痛めつけている間ずっと、サンちゃんに手を出すなってうるさかったから」

「!!」

 イコは、こんなになるまで暴力をふるわれても、俺を守ろうとしてくれたのか。
 そんなこと、してくれなくていいのに。俺がいなければイコは、ナナシさんに騙されることもなく、無事に生きていけたのに。

 情けなくて、涙が出そうになる。
 ――でも、泣いている場合じゃない。
 泣いていたら、イコが死ぬ。殺される。
 今イコを助けられるのは、俺だけだ。

 涙をこらえて震える俺を、ナナシさんはせせら笑う。

「選びたくないですか? でも、こうなったのは君のせいなんですよ。
さっきや昨日、お茶を飲んでいたら、こんな選択せずに死ねたのにね?」

 ナナシさんは、満面の笑顔だった。
 俺はそれを無視して、湯呑みを拾い上げる。

「……おや、お茶を選ぶんですか? 殺すほうが楽なのに、わかりませんねガキの考えは」

 不本意な選択なんだろう。ナナシさんは不機嫌になった。
 もちろん、そんなことはどうでもいい。
 俺はジャージの袖で口元を拭った後、お茶に口をつける。

「だめ、サンちゃん……!!」

 声を出すのも辛いだろうに、イコは俺を止めようと、必死に叫んだ。

 ――ごくん。
 俺の喉仏が動き、地下室に音が響く。
 それを見て、邪悪な観客たちは沸き立つ。

「はは、本当に飲みやがった」
「あっちに賭けてるの誰だったっけ?」
「うーわ、また負けた。あのガキ使えね~」

 好き勝手言われているのを聞きながら、俺は喉を押さえてうずくまった。
 空っぽになった湯呑みが手の中からこぼれ、カビだらけの畳の上を転がる。

「う……ぐ、ぅう……!!」

「サンちゃん……サンちゃん……!!」

 何度も俺に呼びかけるイコに、そんなに叫ばなくていいと、伝えたかった。
 俺がこうしたいって思ったんだから。

 守ってもらったのに、疑ってごめん。
 俺のせいで、痛い目に遭わせてごめん。

 ――今度は、俺が守るから。

「あははははははは! まあ、これも悪くないですねえ!」

 倒れた俺を見下して、ナナシさんが高らかに笑う。

「せっかくだから、君が生きている間に、イコくんが死ぬところも見せてあげましょう」

 ガチャンと、音がした。座敷牢が開く音だ。

 横目に、ナナシさんが新しいお茶を持って、入ってくるのが見えた。

「う、ぁ、あ……」

 俺はかすれた声で叫ぶ。

「あははははは! やめろって言いたいんですか? だめですよ~こうなるってわかっていて、選んだんでしょう?」

 ナナシさんは俺の横に、しゃがみこんだ。
 わざわざ俺に見せつけるように、顔の前までお茶が入った湯呑みを持ってくる。

「イコくんは、君のせいで死ぬんです」

 本当に性格が悪いなこの人、と思った。

 でも、その方が助かる。

 ――手加減しなくて、済むから。

 俺は鉄パイプを握りしめ――ナナシさんの顔面に向かって、思いっきり振り抜いた。

 めきょ、という音がする。
 ナナシさんの鼻が折れ、血が盛大に吹き出した。