地獄からバイバイ

「俺はテメェが死ぬ方に賭けてんだよ。さっさと死んでくんねーかなぁ!」

 ナナシさんは、吐き捨てるように言い放った。

「え……? し、死ぬ方……? 賭け……?」

 俺は呆然と繰り返す。
 言葉の意味がわからなかったわけじゃない。ただ、ナナシさんの言葉が信じられなかった。

 別人のように、豹変している。

「チッ。来い、ガキ」

 ナナシさんは椅子を蹴倒して立ち上がる。
 同時に、俺の胸ぐらを掴み上げた。
 そのまま引きずるように、食堂の出口へと引っ張られる。

「あ、あの、ナナシ、さん……?」

「黙ってろやボケが! ガキが勝手に話すんじゃねえ!!」

 バシ、と音がして、視界が揺れる。
 何が起きたのかわからなかった。頬が焼けるように熱くなって、初めて「あ、叩かれたんだ」と呆然と理解する。

 俺は今まで、誰とも喧嘩とかしたことない。親も叩くようなしつけはしなかった。
 だから、人に叩かれたのは初めてだ。理不尽に浴びせられた純粋な暴力に、足がすくむ。

 でも転ぶわけにはいかなくて、胸ぐらをつかまれたまま、もつれる足で必死に、ナナシさんについていく。
 そうするしかなかった。でなければまた殴られるという恐怖が、俺の足をつき動かしていた。

 後ろから、食堂にいた人たちもついてくる。

「サンくん震えてる~かわいそ(笑)」

 笑い混じりに言う声は、幼いりーちゃんのものだった。

「ぶたれたの初めてか? 漏らすんじゃねえぞ~? 金玉潰すぞ~?」

「ギャハハハハッ! いいなそれ! 潰した時、気絶するかどうかで賭けねえ?」

「いいじゃない。私気絶に一票~」

 大人たちも、好き勝手話す。
 俺は歯の根が噛み合わないほど震えていた。

「な……なんで……優しそうな人たちだったのに……」

「あ、まだナナシさんの嘘信じてる系~?」

「上手いもんなあ。300年モノの演技」

 後ろをついてくる人たちがケタケタと、おもしろそうに笑った。

「あたしぃ、地獄に来て80年だよ。ナナシさんの次に古株~」

 わざわざ俺の隣に並んでそう言ってきたのは、りーちゃんだった。

「え……」

 リーちゃんはどう見ても、小学生くらいだ。

「学校で小動物殺してるのがバレてね~逃げようとしたら川に落ちてここに来たんだけどぉ、この姿だとだーれも警戒しないから殺し放題! 成長なんてしてたまるかってーの! キャハハッ!」

「俺らも似たようなもんだよな~。地獄で殺しがしたくて、ナナシさんとつるんでるってワケ」

「そんな……」

 愕然とする。
 イコは化け物だと言われた。でも人の形をした化け物は、イコじゃない。こっちだったんだ……。

 あまりの衝撃に、引っ張られるまま歩くしかできなかった。
 階段をいくつか降りて、たどり着いたのは、牢屋のような格子の部屋。

 初めて見る。格子の向こうには、カビた畳があった。異様な空間だ。

「なに、これ……」

「サンくん、座敷牢見るの初めて~? 知らないコ、増えたよねえ」

「平成キッズは知らねえだろ」

「平成なのか? 元号が令和に変わったとか、前に殺したやつが言ってなかったっけ」

「令和のガキってまだ四つ足歩行なんじゃねえの、知らんけど」

「え……変だよ、おかしい……」

 俺はキョロキョロと見回す。ちゃんと道を見ていなかったけれど、窓がなくて出入り口は階段の方にしかないから、ここは多分地下だ。

 公民館にそんな部屋があるはずがない。
 多分、ナナシさんが認識する世界にある部屋ということ。

「ここ……村の倉庫だって……」

 でもナナシさんは、ここが村の倉庫だと言っていた。

 ――そういえば、今にして思えばおかしかった。
 言葉にできなかった違和感が、形をとっていく。
 なぜ村の倉庫に、複数の階段やトイレがあるのか、俺はもっと早く気づくべきだったんだ。

「ああ、あれは嘘です」

 ナナシさんは、なんでもないことのように言い捨てる。

「ここは私の屋敷ですよ。座敷牢付きのね」

「全部、嘘だったんですか……?」

「いいえ? 本当のことも沢山言いましたよ」

 ナナシさんはさっきの豹変ぶりが嘘のように、前と同じ微笑みを浮かべて、こちらを見た。
 でも俺の胸ぐらを掴む手の力は、変わっていない。

「嘘を信じさせるには、本当のことに混ぜるのが、一番効果的ですからね」

 優しく微笑んだままそんなことを言えるのが、恐ろしかった。
 正真正銘の化け物だ。

「う……」

 その時、座敷牢の中から声が聞こえた。
 見れば座敷牢の暗闇の中に、もぞりと動くなにかがいる。

 俺は、声だけですぐにわかった。

「イコ!」

 もがくと、元から離すつもりだったのかナナシさんの手が外れた。
 慌てて座敷牢へ駆け寄り、格子にすがりつく。

「う……サンちゃ……?」

 目を凝らすと、カビだらけの畳の上に、ぐったりと横わるイコがいた。
 顔が腫れ上がっている。そのせいで、口を上手く動かせないようだった。

 しかし、イコはもごもごと、必死に口を動かす。
 耳を澄ますと、か細い声が聞き取れた。

「にげ……て……」

 俺は首を横に振る。

「逃げないよ……イコを置いていくわけない!」

「どのみち逃がさねえよボケが!!」

 ガン、と格子が蹴りつけられる。
 ナナシさんだった。また豹変して、威圧的に顔を歪めていた。

「ご、ごめんなさい……」

 俺は反射的に、謝っていた。

 本当はこんな人に謝りたくなんてない。
 でも、暴力が怖かった。俺は大人の男の人に、怒鳴られたことさえない。
 自然に身がすくむ。目には、涙が滲んでいた。

「……さて、サンくん」

 急に、ナナシさんは口調を戻す。

「な、なんですか……」

 俺はすっかり心が折れて、ナナシさんの機嫌をうかがうように見上げた。

 ナナシさんは唇の端を片方だけ上げて、こちらを見下す。

「イコくんを、君の手で殺してあげなさい」

 告げられたのは、信じられない内容だった。

「嫌です!!」

 俺はすぐさま全力で、首を横に振った。
 いくら心が折れていたって、絶対にできないことはある。
 人を殺すなんて。それも、イコを、この手でだなんて、想像もしたくなかった。

「勘違いしないでください。これは、優しさなんですよ」

「や、優しさ……?」

 ナナシさんは柔和に微笑んで、しゃがむ。
 優しいと錯覚するほど丁寧に、俺と視線を合わせた。

「イコくんは今、苦しんでいる。全身を痛めつけましたからね、息をするだけでも苦しいはずです。すぐにでも痛みから解放してあげるのが優しさだと、君も思うでしょう?」

 呆然とする。

(何を言っているんだ、この人……)

 理解したくなかった。
 こんなおぞましいことを言う人がいるなんて、信じたくない。

 そして同時に、恐怖を感じた。イコを痛めつけたのは、間違いなくこの人たちだ。それなのに、あまりにも平然と言うから、自分の方が間違っている気がしてくる。

 ――嫌だ、違う、間違いじゃない!

「どの口が……そんなことを!」

 俺は気力を振り絞り、嫌悪感とともに叫んだ。

「あなたの言うことは信じない!! イコを、解放してください!!」

 折れた心が、立ち直っていく。
 俺が折れたままだと、イコが殺される。そんなの絶対に、嫌だった。
 自分のためには頑張れなくても、イコを助けるためなら、気力が湧きあがってくる。

「ぎゃははははは! 言われちゃったな~ナナシさん!」
「正論、正論すぎるって~!」

 周囲の人が、どっと笑う。
 何がおもしろいのか、ゲラゲラと笑い続けた。

 笑っていないのは、ナナシさんだけ。

「あれを」

 ナナシさんは冷静に、階段の方へと声をかけた。
 すると上から、誰かが降りてくる。

 体格のいい男の人――イコを連れ去ったやつらの一人だ。

 男は、鉄パイプを持っていた。
 部屋に置きっぱなしだった、イコのもの。

「それ、イコの……返せ!」

「言われなくても返してやる……よっと!」

 突然横から、脇腹を蹴られた。ナナシさんだ。
 俺は足をもつれさせ、よろめく。
 咄嗟に、目の前にあった畳に片手をついて、転ぶのだけは防いだ。

 その時、背後でガチャンと音がする。
 振り返ると、座敷牢の扉に鍵をかけられるところだった。

 ナナシさんは俺を蹴りつけて、座敷牢の中に入れたのか。

「ほら、これが欲しかったんでしょう。あげますよ」

 鉄パイプが、格子の隙間から放り込まれる。

 そして、湯呑みも差し入れられた。
 先ほど俺が食堂で飲まなかった、あのお茶だ。

「なに……?」

 座敷牢の中には、鉄パイプと、お茶。そして俺と、イコ。
 ナナシさんの意図がわからない。

 でも、ナナシさんの後ろの人たちはわかっているようだ。
 楽しげに、ニヤニヤと笑っている。

「簡単な話ですよ、サンくん」

 ナナシさんは格子ごしに、柔和な笑みを浮かべる。
 もう優しそうだとは思えなかった。
 ただひたすらに、邪悪だった。

「今から君には、自分の命とイコくん命、どちらを助けるかを選んでもらいます」

 ナナシさんは笑顔のまま、そう告げた。