怪奇!ユキ!マジック!


寝てる場合じゃない。
そう強く意識し、慌てて僕は目を覚まし体を起こした。
「わっ起きた!」
さっきコーラを溢したテーブルで、お兄さんが驚いた顔で僕を見ていた。
「……えっと、僕は」
すぐにお兄さんが、近くに駆け寄ってくる。
現在の状況を理解するため、周りを軽く見た。散らかった部屋にいる。
僕は一階のソファに寝かされていたみたいだ。
「大丈夫……?」
お兄さんが床に膝をつき僕と目線を合わせながら、覗き込んできた。心配そうに僕の体調を気にかける言葉を口にしている。いつも通りの優しいお兄さんだった。
だけど僕はお兄さんの事が怖くて仕方なかった。
怖いだけじゃない。怖くて、なんだか頭の中で思考が暴れて、自分でも抑えきれない言葉が口から出てくるかもしれなかった。
頭の中でさっきのゆらゆら動く垂れ下がったロープが何度も再生されていた。
僕が黙って俯いていると、不意にお兄さんが僕に向かって手を伸ばしてきた。
少しビビってしまったけど、逃げずにそのままでいると額にお兄さんの手がぴったりくっつく。
お兄さんの手は僕より低い温度で、柔らかいグミみたいにしっとりとした肌だった。
「……熱は、無いね」
お兄さんの手がゆっくり離れて行く。
「今日はもう帰ろっか。送ってくよ」
僕の事気遣ってくれているだけだ。僕の事を心配してくれていて、僕に何かあったらいけないと思っている。
今までもずっとそうだった。なのに、今は急に無責任な白々しさを感じる態度に思えて僕は寂しかった。
このまま帰ったら僕たちはもう二度と会えない他人同士になる。嫌だ。ユキを、お兄さんを手放したくない。
眉間から頭にかけて染みるような頭痛に襲われる。
僕は段々と歪む視界を抑える事ができずに両手で顔を覆った。
「……死なないでください」
両目から溢れて邪魔な涙を力いっぱい拭き取ってお兄さんの顔を見た。
それでも一瞬、お兄さんの傷付いたみたいな困った表情が見えただけですぐにまた視界は歪んでボヤける。
「死なないでください、死なないでください……」
口の中に入ってしまった涙は塩辛い。
お兄さんは「あ……」とか「う……」とか言って、ゆらゆら揺れていた。だから僕はその揺れをやめて欲しくて正面から抱き締めた。
「死なないでください……」
お兄さんはゆらゆらとした揺れは治ったけど、小さく震えると優しい力で抱き締め返してくれた。
「ごめん。ごめんね……本当に。死なないから、死なないよ俺……」
お兄さんの声は少し鼻声になっていた。その声を聞くと僕はやっと安心した。お兄さんが何かしら言ってくれるまで僕は「死ぬな」と言い続けるbotになる所だった。
「さっきのお兄さん、こ、怖かった……」
「マジでごめんね……」
「死ぬなら、せめて隕石とか、サメとか、デスゲームとかで死んでください」
「わかった」
お兄さんの声がやっと笑った。僕は結構真面目に言ってるんだけど。
「でも俺、デスゲームだったら絶対勝ち抜く気がする」
「絶対最初の犠牲者です」
お兄さんはカラスみたいな声を上げて笑うと、僕の背中をバンバン叩いた。痛かったけどやめてと言って水を刺したくなかった。
「……ごめんね、俺死なないよ。アレの事は忘れて」
「…………」
「死なないよ、絶対絶対死なないよ。俺結構Mだから、我慢するの好きだし」
「おえっ」
急な気持ち悪発言をした人から逃れるために離れようとしたのに、お兄さんは僕が逃げないように力を強めた。
「ユキがね、自殺か事故か分かってないの知ってるよね?」
「!」
「遺書が部屋から見つかったんだ」
「違います」
「えっ?」
お兄さんが体を離し、驚いた顔で僕を見つめる。目が真っ赤に充血していて、なぜかその時、僕ははじめてお兄さんを綺麗だと感じた。
「違います。それは、ユキがもし自分に何かあった時のために数ヶ月ごとに書いてる、いつもの悪趣味です」
お兄さんは、口を開けたままその場に固まった。
「たまたま更新した日が近かっただけです。……じ、事故です」
声が震えてしまわないよう、僕は一言一言慎重に話した。
「ユキのカバンが置いてあった所、あの辺りに最近、子猫がいたんです……写真、撮ってました」
僕だけが知っていたユキの事。ずっと僕だけの中の永遠の一つにしたかった。だけど僕はきっとそんな器じゃなかったんだ……。
観念した僕は、スマホをポケットから取り出しユキのSNSのアカウントを開いた。
フォロワーは僕しかいない鍵付きの初期アイコン。ユーザーネームは「遺書」と書いてある。ユキの悪趣味なユーモア。
最後の投稿は、カバンが見つかった付近の猫の写真だった。
日時はユキが死んだ日、僕が濡れながら帰ってる頃。
それを伝えるとお兄さんはフニャフニャとその場に座り込んだ。そして放心していた顔をみるみる歪ませると、ソファに顔を抑え付け叫び声を上げた。
釣られて僕も両手を顔面が変形しそうな程強く抑え付けた。本当はずっと僕だけが知っていた。
ユキは自殺なんかじゃない。
事故だ。本当はきっと死にたくなかったんだ。助かろうともがいたんだろう。冷たい水の中でお兄さんに何回も助けを求めただろう。
僕は最愛のユキが苦しんでいる時、濡れながら帰宅して温かいお風呂に入っていた。ユキの死体が川で流されている間、直前に撮られた猫の写真を見ていつものように満足していた。
自分がいかに愚か者か認めたくなくて、いっそ自殺だった事にしてしまいたかった。
僕たちはしばらく各々泣いていた。
そしてそのしばらくの後、僕は市小屋家をお暇した。お兄さんが車で送ってくれると言ってきたが、丁重にお断りした。