お兄さんと樋角さんとの味気ないと言うには濃いが色気はほぼなく乾いたピクニックから数日が経った。
樋角さんの山で撮りまくった写真をモキュメンタリーホラーっぽく意味深なブログにするんだと意気込んでいたお兄さんから招集を受け、学校帰りに僕はまたユキの家に来ていた。
玄関の鍵はどうせ掛けられてない事も、勝手に家に入ったとしてもお兄さんは怒らない事も知っていたが僕はインターフォンを押す。
少しして、膨らんだようなノイズがかったお兄さんの声が返事する。
『おつかれ、リビングまでそのまま入ってきていーよ』
相変わらず散らかってるのに腹立たしい程フルーティーな匂いがする玄関を通り過ぎ、リビングに入室する。
薄暗い室内は、いつもより少し整頓されていた。片付いてはいない、少し整頓されてるだけだ。
「あ、気付いた?ちょっとお片付けしたの」
お兄さんはキッチンでウフウフ笑いながらコップにコーラーを注いでくれていた。
「ほんとにちょっとですね」
「だって始めたらら五分くらいで目広くん来ちゃったから……はやいよ〜、もう。そんなに俺に会いたかったの〜?」
「用ってなんですか」
お兄さんの気色悪い軽口を無視して用件を聞くと、お兄さんは白けた顔をする。
「あー、うん。大した用事じゃないんだけど、ほら俺が作るブログの写真選び一緒にして欲しいなーって」
「えっそんな事で?」
思っていたよりくだらない上にわざわざ呼び出すような用件じゃなかった驚きで自然と大きな声が出てしまった。
「どうせ暇でしょ?」
「事実だとしても他人に決めつけられるとイラッとします」
「めっちゃわかる」
わかるならすんじゃねえよ、とお兄さんを軽く睨む。お兄さんは変わらず嬉しそうにウフウフしていた。そんなお兄さんを見て、僕は少し安心していた。
数日前の車内での失恋後、お兄さんはずっと調子が悪そうにしていたからだ。でもラーメンはしっかりトッピングと替え玉をしてチャーシュー丼まで食べていた。お兄さんは奢られる時は、かなりの健啖家になるようだった。だけどずっと儚げな態度になっており、途中からあの樋角さんが気を遣って機嫌を取ろうとする程だった。
「元気そうでよかったです」
特に何も考えず、そんな感想が口から出ていた。
コップを持って近くまでやってきていたお兄さんが、「えっ」と呆けた顔をした。
「……え、あっ、いや、……その、失恋した人って落ち込むって、言うじゃないですか」
たいした言い訳の言葉が浮かばず、適当な発言で間を引き延ばす。
「えっ、失恋!?……あ、俺のことか」
お兄さんは中笑いくらいの笑い声を短く上げながら天井を仰いだ。
「なんか、ごめんね?大丈夫。俺もあの人も、お互い、別にそんな好きじゃなかったから」
差し出されたコップを流れのまま受け取る。コップからはパチパチと小さな音が聞こえてきた。
「付き合ってたんじゃないんですか」
「付き合ってはいたけど」
お兄さんはぷらぷらと歩いて、開きぱなしのノートパソコンが置かれた煩雑なテーブル前の椅子に腰掛ける。
僕も近くのテーブルにコップを起こうとしたが、置く隙間がない。仕方ないので何口か飲みながら半分衣類で埋まった茶色い革のソファにゆっくり腰を下ろした。
「ちょっと、なんでそっち座るの。こっち来てよ」
「あぁ、はい」
僕は立ち上がり、慎重にお兄さんの近くへ向かう。そしてこれまた書類やペットボトルがたくさん置かれたテーブルのなけなしの隙間にコップを置いて、立ったまま座ったお兄さんの後ろから覗き込む形でパソコンの起動を待った。
「いや家庭教師かよ、隣座れば?」
そうは言うけどお兄さんの隣の椅子にはなんか大事そうな書類がたくさん重なっていて退けるのがめんどくさそうな事にお兄さんは気付いているのだろうか。
僕が黙っていると、その事に気付いたのか、ウフウフ笑いながら肩を竦めた。
「ごめんごめん、俺の膝にちょんちょんする?」
「ハァ?」
「冗談じゃん!そんなキツい声出さなくても……」
「?」
「優希は普通に俺の膝に座ってたけどな」
「それは最近ですか?」
「えっ、言われてみれば……最近はしてなかったな」
ブゥンと、パソコンが起動した。お兄さんがパスワードをカタカタ打ち込みロックを開く。
「あ、最近ってこれからもないのか」
小さな声だった。多分言った本人もあまり意識してなさそうで、本当に意味のない独り言だったのだろう。
僕は意味を理解するまで数秒の時間を要した。
その間パソコンのブーーンという音以外は何も聞こえてこなかった。
「……僕もこれから先、誰の膝に乗る予定もありませんけど」
お兄さんは操作に集中していてこっちを見なかったけど、小さく喉の奥で笑った。
「優しいなぁ」
僕は返事をしなかった。好きに解釈してくれて構わなかった。
お兄さんはクラウドサービスを開くと、僕が後ろにいると言うのに気にせず画像フォルダを漁り出す。見られて困る写真とかないのだろうか。しかし僕の心配をよそにほとんどはユキの写真かスクリーンショットだった。ユキの私服や家で撮られたと思われるふざけてる写真が、まるで大した価値もなさそうに大量に流れて行く。もう少しゆっくり見て欲しいと思う間もなくすぐにつまらない山の景色ばかりの画像欄になった。
「心霊写真撮れてないかなって見たけど撮れてなかったんだよなぁ」
「そりゃそうでしょ」
「あ、なんか写ってる」
お兄さんが、画像欄のうちの一枚、山中の廃墟内の写真をクリックする。殺風景な建物内、画像の隅にはだらしない姿勢で歩く僕が小さく見切れていた。
「あっ!ハハハハハ!なんか可愛いね」
お兄さんは大袈裟にぱたつきながら笑い、これみよがしにお気に入りに登録した。
「やめてください、消してください」
マウスを奪い削除してやろうとお兄さんと軽く揉み合うが、お兄さんの長い腕が簡単にそれを阻止する。
「そんな事言わないの!思い出ね」
こんな思い出、僕はいらない。画面の中の明らかに疲れた顔をした自分自身を睨みつける。
「あっ!?」
お兄さんが大声を上げ、カーソルで僕がいる隅とは反対の隅をくるくると囲むような仕草をする。
「見てこれ!?オーブじゃね!?」
「ええっ?」
確かにカーソルはうどんの汁が一滴落ちで出来たシミみたいな白い丸をくるくると回ってる。
だけどそれだけだ、光の加減で埃が発光して見えたとかそんなものだろう。
「なんかさ……」
お兄さんはその先を言わなかった。でもなんとなく言おうとしたことはわかる。『ユキがまるでここに来たみたいだね』とかそんな事を言おうとした気がする。
僕達は死んだユキを素材に、電子上で程度の低い怪談をばら撒いている。悪趣味な行為だ。なのにこのシミをユキと見なされる事の方が僕は、反吐が出そうなくらい程度が低く感じられた。
どうしてこんなにむかついて仕方ないんだろう、その上お兄さんに対してちょっとした裏切りもほのかに感じてしまっていた。
ユキはこんな所に来ない、ユキは山でなく川で死んだのだから。
ユキは僕なんかに会いに来ない、だって自殺だから。僕が必死に必死に会おうとしてやっと会えるかもしれない希望が見える可能性がある、そんな存在だ。
僕の拗ねた苛立ちを知らないお兄さんは、さっさと次の写真を開いている。
「動画もちょっと撮っておいたんだよね、使えるかな」
画面が動画フォルダへと切り替わる。
カーソルをうごかす音だけが、部屋に響く。お兄さんは表示の仕方を間違えてしまったのか、随分と古い日付が記載された欄が映っている。
「あ、懐かしいコレ」
見るからに、今探している動画と関係のない動画をお兄さんはクリックする。
読み込みのタイムマークが数秒表示され、動画は再生された。
昼間の外で撮られたようだ。画質が悪い、いつのスマホで撮られた動画だろう。
ブレが酷いカメラワークは2秒もしないうちに、小さな男の子を中心に映した。
3歳くらいの男の子は青いTシャツを着ていて、黄土色のズボンは、おむつのせいかパンパンに膨れている。
そしてこの動画を撮られている理由であろうその姿は、黒い泥で全身がドロドロになっていた。よく見ると近くに水たまりと遊具がある。
カメラの画角はざく、ざく、と足音を立てながらその男の子に近付いていく。
男の子は撮影者に気付いたのか、楽しそうに両手の泥を短い腕で頭上に掲げ、よくわからない言語を口にした。
『やっちゃいましたね〜』
てっきりお兄さんの声がするかと思っていた僕は、突然のユキの声に動揺する。
『え〜、言い訳をすると俺が目を離したのはたった数秒です。ご覧ください、やばいよコレ、どうなってんの』
ふざけ気味にリポートするユキの半分呆れて、半分笑ってる声がした。男の子は嬉しそうに撮影者の方へとどてどて歩いた。
『ちょっ!と!ダメダメダメ!止まって止まって』
そう言ってじりじり後ずさるユキにもお構いなしで、泥まみれの男の子は『にいに!』とユキの足に抱きついた。
『ぎゃ〜〜〜!!』
ユキが変な声で悲鳴を上げると、男の子は満足そうに笑いながら、『だっこちて!』と叫んだ。
そこで動画はぷつりと終わった。きっと男の子を抱っこしてあげるために。
最初の画面の静止画の上に白い再生ボタンマークが現れる。お兄さんはクスクス笑ってた。
「可愛いでしょ、この頃俺のフォルダユキばっか」
ユキは声しかいなかったが、ユキにスマホを奪われてばかりだったということだろうか?
「この子は従兄弟とかですか?」
「……えっ?ユキだよこれ」
「えっ?……撮影者が?」
「撮影者は俺だよ!?見て!2017年でしょ!」
カーソルが日付の周りをくるくると囲っている。
僕はまた動揺した。
先ほどの動画はまるっきりユキの声にしか聞こえなかった。お兄さんの手の上からマウスを弄り、もう一度動画を再生させる。
『やっちゃいましたね〜』
『え〜、言い訳をすると俺が目を離したのはたった数秒です。ご覧ください、やばいよコレ、どうなってんの』
『ちょっ!と!ダメダメダメ!止まって止まって』
『ぎゃ〜〜〜!!』
どれを聞いてもユキの声にしか聞こえなかった。語尾の伸ばし方、おどけた時の喋り方、変な声の出し方、喋り方。
完全にユキじゃないか。
「あ、声?確かに俺がこの時、14歳かな……、ユキに似てるね?ていうか俺、こんな声だっけ……?」
お兄さんに対して驚いた様子はない。一覧に戻り、適当な動画を選択し、クリックする。
『うああああん!!!』
一つ前の動画と違い、すぐに再生が始まるとつんざくような子供の泣き声が部屋に響き渡った。
「うおっ!」
「わっ!音でかっ」
驚いた僕は、その場で小さくのけぞってしまった。しかしその振動は大きくテーブルに伝わり、無理やり置いたコップを倒してしまう。
「あっ!」
割れはしなかったが、中に入ったコーラが勢いよく溢れていく。お兄さんはすぐに近くの椅子に掛かっていた白シャツを掴み、液体を押さえ込もうとした。
溢れたのは僕のせいなんだけどコーラをシャツで拭くお兄さんにドン引きしてしまい、一瞬思考がフリーズする。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫大丈夫」
『どうしたのー?』
パソコンからユキの声がした。
そんな場合じゃないのに僕は画面へと目を向けてしまう。
動画は室内のようだった。泥まみれじゃないさっきの男の子……幼い頃のユキが大きな目を真っ赤に充血させ、大粒の涙を流して泣いている。
『どうちたの、ユキたん。はい、拭こうねー』
ユキ……今よりも若いお兄さんは優しく甘え声を出すと、ティッシュでちょんちょんとユキの涙や涎を拭っている。
「目広くん!ちょっとごめん、洗面所からタオル持ってきて!」
「あ、はいっ」
少し面影はあるけど、随分低くなったお兄さんの必死な声に呼び戻される。
『大丈夫だよー』
ユキみたいな昔のお兄さんの声がまたする。ついそっちを向きそうになる。釣られてしまう前に僕は洗面所へ駆け足で向かった。
『あー、どこ行くのー?』
パソコンからは優しくて甘いユキそっくりの声が響いていた。知らないフリをしながら、僕は不思議な気持ちになった。
だって僕はパソコンの画面を見ていないから、この声がユキじゃないなんて証明ができないじゃないか。
「やっぱ片付けってちゃんとしなきゃダメだわ」
溢れたコーラをタオルや濡れたキッチンペーパーで一通り拭き終わったお兄さんはげんなりすると、椅子に大げさにもたれかかった。
ディスプレイはいつからかスリープモードに入っていた。
僕はお兄さんの指示に従ってウロウロものを集めただけだったから、少し申し訳ないかもしれない。
「いっそ断捨離するかぁ」
「いいんじゃないんですか」
「『いいんじゃないんですか』って……」
お兄さんは吹き出すと、気の抜けた笑い声を上げたかと思ったら「ワァァ!」と弱い悲鳴を上げた。
「なんですか」
「ズボンもバリ濡れてた!なんか冷たいと思った……」
いちいち騒がしい人だなこの人は。お兄さんの下半身を見ると、ちょっと恥ずかしい所が見事に濡れていたため、僕はそれとなく顔を見られないようにお兄さんから離れた。
「おい!笑ってるの見えてんぞ!」
「着替えた方がいいっすよ」
「も〜……俺の部屋からとってきてくれる?入ったらすぐわかるから」
「どんなやつですか」
「なんでもいいよ、いっぱい布団の上にあるから適当に」
なんで布団の上なんだろう。箪笥買ってもらえなかったタイプなのかな。
「わかりました」
二階のお兄さんの部屋は行ったことがなかったけど、階段は見える所にあったから特に迷わず二階へ向かう。上がったら上がったで何枚かある扉の一番手前の扉に『se-ichiro』とネームプレートが掛けられていた。
良い年して恥ずかしくないのだろうか、ローマ字で書かれた自分のネームプレートが掛けられた部屋にただいまするのは。
「おじゃまします」
部屋のノブを回すと簡単に扉は開いた。
どんな汚い部屋が僕を待ち受けているのだろうと身構えていた僕は、案外片付いている部屋を見て拍子抜けした。
締め切られたカーテンは遮光カーテンらしい、部屋は薄暗い、すぐ近くにあったスイッチをつけると、真っ白い光がすぐに付く。
明るくなった部屋を見て僕はこの部屋に対して違和感を感じた。
お兄さんの部屋は片付いているというより、物がほとんどなかった。だけどミニマリストの部屋にも見えなかった。何も入っていない大きな本棚、机の上にはアニメキャラのフィギュアが不均等に並べられていたり、壁は僕も知ってるゲームのポスターが貼られているし、話に聞いていた通り布団の上には大量の服が寝かされている。
はっきり言ってチグハグな部屋だ。
一階より遥かに清潔な空間だと言うのにあまり居心地が良いとは言えなかった。
僕は布団の上に大量に重ねられた服の上の方にあるズボンを適当に掴み、部屋を出た。
その時僕はお兄さんにズボンを与える事しか頭になかった。さっさと扉を閉めて、一階で股間がコーラで濡れておもらしみたいになっていたお兄さんに早くズボンを渡してあげないと……。
左手にズボンを抱えたまま、「se-ichiro」の扉を閉める。
パタン、と閉まる音と共にどこかで物音がした。近くだ。すぐ近く、後ろの方で音がした。
僕は反射的に音の方を向く。
階段と反対側の廊下、お兄さんの部屋の斜め向かいの部屋の扉がいつの間にか開いていた。
さっきの物音は扉が開いた音のようだった。扉にかけられた「ゆきのへや」とあるネームプレートが小さく揺れている。
僕は無意識に唾を飲み込んでいた。体がぎっしり、固まったみたいに重くなる。
「………………」
お兄さんが僕を怖がらせるためのイタズラなんて、そんなことするわけがない。
偶々だ、元々しっかりしまってなかったんだ。そんな状態で僕がお兄さんの部屋を行ったり来たりしたせいで風が発生したのだろう。タイミング的にも、きっとそうだ。
僕は一度目をつぶって息を吐いた。体の緊張はすぐに解けた。
一瞬だけ、ユキの部屋を見たらすぐに戻ろう。開いてる部屋を少し覗くだけだ。
ユキを前にした僕は、恐怖心より好奇心が勝ってしまう。僕はまだ少し揺れているユキの部屋の前に向かった。
少し開いた隙間から、お兄さんの部屋と壁紙の色が見える。
ユキがここで寝て、宿題をして、ゲームをして、考え事をしていたんだ。
僕はできるだけソッと、ゆっくり扉を開いた。
ユキの部屋も遮光カーテンなのか、薄暗い。
薄暗い中でも、ユキの部屋はごちゃごちゃと物がたくさんあるのがわかった。
僕は扉近くの電気を静かに押した。
ゆっくりつけても、電気は唐突は速さでユキの部屋を照らす。
明るくなると、ごちゃごちゃな部分の色も目にたくさん入ってくるため、さらに煩雑な部屋だと感じる間もなく、僕は部屋の中央で垂れ下がり、静かに揺れているある物に釘付けになってしまった。
茶色いロープだった。
天井の頑丈そうな鉄のフックに引っ掛けられたそのロープは先が大きな丸を描き、また元の垂直に絡みつくように何重にも結ばれていた。
僕は、数歩後退りした。二、三歩ですぐに廊下に出る。フローリングで靴下が滑り、その場で尻餅を付いた。
痛い、そう悲鳴を上げる事もできなかった。今すぐにこの部屋から離れたい。
腰が抜けたまま、階段を見る。
階段にはお兄さんがいた。ちょうど登っている階段の途中から僕をじっと見ていて、全く同じ目線の位置にお兄さんの目が合った。
「…………!」
お兄さんの何を考えているかわからない暗い目が僕を見据えている。
「……見た?」
小さく動いた口から聞こえたのは、初めて聞くいつもよりも低い声だった。きっとお兄さんの素の声だ。
僕はその場で、自分の体の力が抜けていくのを感じ、堪える暇もなく、意識を手放した。
