目を覚ますと、僕の目に飛び込んで来たのは灰色だった。
「…………」
何が起こったのか理解できず、寝起きにも関わらずバクバク動く心臓を僕は落ち着かせた。
なんだかすごく嫌な夢を見ていた。
きっとここは車の中だ。
僕は車の後ろの席で、寝てしまっていたんだ。
冷静になると、段々さっきの事を思い出した。
別行動を取って、静かにパニックになった僕は樋角さんとお兄さんに引き摺られて車の中まで帰って来たんだった。
樋角さんは冷静に僕の体調なんかを気にしていたけど、お兄さんは霊の祟りだと一緒にパニックになりそうな勢いだった。
僕は休むように言われて、後ろで横になっていたんだ。
一度目を瞑って、静かに呼吸を整える。
気付けば、のんびりした平和そうなbgmと何かが弾けるような爽快な効果音が不規則に車内で響いてた。
何かのゲームの音だろうか。
そしてそれを無視するように、落ち着いたトーンで何か話している声も聞こえる。
「……ごめん、シンプルに意味わからん。浮気だろ?別れるだろ」
小さく子供の歓声と拍手する効果音が車内に響き、何かの広告の音声が始まる。
「いやでも、相手の事は好きではないらしい」
「……一気に色々起こりすぎだろお前」
広告が終わり、また元ののんびりとしたbgmが流れだす。
「いや、これは数ヶ月くらい前からの話で、俺がちょっと優希の事でダウンしてたから一旦置いといて、そばにいてくれたの」
「それで今落ち着いたから、改めてどうするかってなったって事な」
「そう」
僕はなんとなくお兄さんの複雑な人間関係についての話だと理解し、気まずい気持ちになった。
「お前はどうしたいの」
樋角さんはいつも通り声から面倒臭そうにしているのがわかる。
「……わかんない、一緒にいてくれたの正直めっちゃありがたかったんだよ。でも……、なんか、だから尚更わかんなくて」
「もうさ、シンプルにそこは切り離した方がいんじゃね」
「切り離したら別れるだけじゃん」
「ハァ?それでいいだろ?」
「いや〜……」
恋愛の事はよくわからないけど、僕はなんとなく別れてしまえばいいと思った。
「めんどくせぇ、オレじゃなくてAIに相談しろよ」
「…………。俺と結婚も考えてるって言ってたんだよ?」
「サイコパスだろソイツ。てか結婚すんのお前?」
「結婚は俺はちょっと……、なんかなぁ、そう言う相手ではない気がする」
「お前もサイコパスだろ」
これ、僕が起きなかったらしばらく続きそうだな。最後まで聞いてしまったら僕はもう元に戻れなくなってしまう気がした。
盗み聞き良くない。やめよう。
僕は顔を上げた。真っ先に樋角さんのスマホを覗いた。樋角さんは絡まった紐を解くゲームをしてたみたいだ。
「あ、メッシくん起きた」
「え?あ、おはよ〜、大丈夫?」
「あ、はい……ごめんなさい、なんか……」
「コイツ浮気されてんだって」
「おいっ」
「どう思う?」
「えっ……」
「ダメダメ、目広くん俺の事女殴ってそうに見えてるらしいから」
それを聞いた樋角さんは、スマホを持ったまま楽しそうに手を叩いて笑った。
「すげー、当たってるじゃん」
「当たってねーよ!」
二人はさっきの落ち着いたトーンを忘れてしまったかのように、楽しそうに話している。
「面白くないです」
僕は自分でも動揺するくらい、はっきりそう口に出していた。
「えっ……!目広くん?」
「恋愛とか、僕はよくわかんないんですけど、普通に、浮気とか、ありえない気がするんですがっ」
「メッシくん面白」
「お兄さんを傷付ける人と、」
言いかけてお兄さんに遮られる。
「いや別にそんな傷付いたとかじゃないよ?ちょっとびっくりしただけで」
「びっくりさせるような人と」
僕も遮り返す。今は黙って話を聞いて欲しい。カーブミラー越しに樋角さんと何回も目が合った。
「そんな人と、一緒にいて欲しくないです。辛い時優しくされたからって……」
お兄さんが身を乗り出して僕の方を向いた。
「目広くん話聞いてたでしょ、寝たフリしてた?」
お兄さんは何故か嬉しそうにニコニコしていて、僕は居た堪れない。
「してません」
咄嗟に嘘をつくとお兄さんは何故かもっと目をキラキラさせて、更に顔を近付けて来た。
「それで目広くんは、どんな人とだったら一緒に居て欲しいの!?」
「馬鹿かお前」
「知りません」
「そんな事ない!絶対何か希望があるはず!」
「声でけえ」
「ありません!」
「うるせえってお前ら」
樋角さんの怠そうな声をしてるけど、ミラー越しにしっかりと僕を見ていた。
鋭い目をしているから、睨まれているんじゃないかと不安になってしまいそうになる。
「ひ、樋角さんだって、別れた方が良いと思いますよね?」
「シンプルにどうでもいい」
「ええっ……」
同調してくれると思ったのに梯子を外されてしまった。
「……まぁ、別れるよな。泣くまで殴るわ」
「女の子殴んな!ダメでしょ!」
「関係ねえだろ、な、目広くん」
「それはちょっとよくわからないです」
「はぁ?」
意図せず仕返しみたいに僕も梯子を外してしまい、樋角さんがした半目の変顔みたいな表情がミラー越しに一瞬見えた。
お兄さんは、体を正面に戻しながら笑っていた。
「あー、もういい、帰ろう。用は済んだんだろ」
そういいながら樋角さんはガコガコと手元の操作をはじめた。
「うん、ありがと樋角くん」
行き同様、あまり馴染みのない邦ロックがまた流れ出し、車内はいつの間にか遠足の帰りのようなムードになっていた。
「待ってください」
「どした?忘れ物?」
「いや、話の続きでしょう、別れないんですか?」
僕が言うのと同時にお兄さんはその場で吹き出すと、くねくね笑いながら頭を抱えた。
「どうせ別れねーよ、コイツ女の前だとドMになるから」
「ならねえよ!ていうか女の子の前の俺がどんなとか知らんでしょ!」
車がゆっくり発進しだした。車内がぐらぐら揺れる。
「目広くん腹空いてないの、オレは朝飯遅かったからそんなだけど」
「え?これって俺もゴチれる流れですかセンのパイ」
「ウゼ〜」
お兄さんと樋角さんの真ん中にある電子時計はもうすぐ11時になりかけそうだった。いつの間にかこんな時間が経っていたんだ。
「お腹は空きました。それでお兄さんはどうするんですか」
「しつこいなこの子……」
お兄さんは笑ったままでもだんだん困っているような気がした。
それでも僕はここでこの会話を終えたくなかった。僕は今人生ではじめてこんなに人にしつこく会話で絡んでいた。いつからか右手をキツく握り込んでしまっていたがまだ解く気にはなれずそのまま強く握り続けた。
「寿司と肉とラーメンどれがいい」
樋角さんはもう僕たちの話に興味がなくなっているみたいだった。
「ラーメンがいいです」
「俺もラーメン」
「ラーメンか〜、……はいはい」
樋角さんの微妙にテンションが下がった声がギターの音に掻き消される。ラーメンの気分じゃないなら、なんで選択肢に混ぜたんだろう。
僕だけがラーメンだったら、別にラーメンじゃなくて良いですよって言えたけど、お兄さんもラーメンが良いらしいから僕はその事に関しては何も反応しなかった。その代わり僕はお兄さんをできる限りの角度で覗き込んだ。
「それで別れるんですか」
「ヤバイってこの子」
「今別れるかそのうち別れるか決めてください」
「そのうち別れるなら今別れても一緒でしょ……」
「ずっとそう言ってます」
「なんで目広くんは別れさせたいのよ俺とふーちゃんを」
「誰だよフーって」
話の流れ的にお兄さんの彼女以外あり得ないけどそういう事じゃないんだろう。
「なんでフーさんに浮気されたのに、一緒にいたいんですか」
「逆になんで一緒にいて欲しくないの?」
「そ、それは……僕、としてはリア充が嫌いなんで」
「爆発してほしい?……なんていうか、そういうのって今時の中学生にもあるんだね」
「オレの周りにはそんな奴いなかったけど」
「あーはいはい、でしょうねって感じ。目広くんと俺はどうせジメジメした青春だよねー?」
お兄さんが「ジメジメした青春」はちょっと白々しいな。それに僕の今を勝手にジメジメされるのも心外だ。僕はもう一度右手を握り込んだ。
「そんな事ありません。僕にはユキがいます」
車内に嫌な沈黙が停滞した。今は名前を知らないアーティストだけが僕たちの静寂を埋めてくれている。
「僕は、リア充が嫌いだから、生半可な関係なら気持ち悪いから別れて欲しい、です。でも、なんていうか、でも……でも……」
僕はこんなにも自分の頭の中の言葉数と回らない舌と、うまく切り取れない感情を憎たらしく思った事が今まであっただろうか。伝えたい事はきっとシンプルなのに僕の気持ちは何も伝わらないだろう。行き場の無い「でも」を十回くらいは繰り返した時だった。
「……わかった!」
お兄さんが勢いよく自分の足をパンと叩いた。
「今から一回電話するわ、それで声聞いてどうするか決める」
お兄さんは車内に流れる曲の音量を一気に下げる。
「なんで痴話喧嘩聞かされないといけねーんだよ」
「しないしない、俺たち喧嘩なんかした事ないし」
お兄さんはスマホを操作しながらチラッと僕を見た。いつもみたいにウフウフした雰囲気はなかったけど少し笑っていた。
お兄さんはすぐに前を向くとスマホを耳に当てた。ガラス越しに表情が見えないかと思ったけど、よくわからなかった。
微かに呼び出し音が聞こえ、何コール目かにフーさんが出たみたいだった。
「あ、もしもしふーちゃん?ごめんね、忙しかった?……今大丈夫そ?」
僕と樋角さんは(樋角さんは興味が無かっただけかもしれない)黙っていた。奇妙な静けさの中、ごとごと揺れながらお兄さんはそれを感じさせないくらい普通に喋っている。大体、こんなに研ぎ澄ますように堂々と盗み聞きしてる人間がいる目の前で、お兄さんはよく平静と会話できるな、とすこし感心する。
こっちを一瞬でもいいから見て欲しくてお兄さんの方を凝視するけどお兄さんはちっともこっちを向かなかった。喋るたびに何度か少し角度が変わって、くるくるしたまつ毛だけが0.2秒くらい見えた。目は合わなかった。
「…………なんていうかさ、………………うん、……………………え!?あ、はい。……本当に?……あ、はい。…………うん、ありがとう?」
樋角さんがもし隣にいたらきっと怪訝な顔で目を合わせていたと思う。何の会話をしてるんだろう。
「…………じゃーね、うん」
お兄さんが耳からスマホを離した。そして何故か、お兄さんが怪訝な顔で僕の方を向いた。
「……えっと、何の話してたんですか?」
「……あの、別れる事になりました」
「え!?」
樋角さんがすぐさま大きな声で笑い出した。晴天に突き抜けていきそうな程爽やかな笑い声で、少し樋角さんの印象が変わる。
「面白い??」
樋角さんは笑いながら普通に無視してる。車内のスピーカーが操作され電話する前に流れてた曲の途中が徐々に音量を大きくなり、うるさいくらいになる。そしてさっきまでごとごと走っていた車が急にスピードを上げた。結局樋角さんもお兄さんが彼女と別れるか気になってたみたいだった。
「満足?」
お兄さんが不意に後ろを振り向き僕を睨みつけた。不貞腐れたみたいに泣きそうな目で、ぷるぷるした唇を見せつけるみたいに尖らせていた。
「…………」
僕は困って何も言えずにいると、お兄さんはすぐに前を向いて、樋角さんを矛先にしたのか「わらってんじゃねーよ!」と左肩を何回も叩いている。
僕はこの車に乗っているのを恐ろしく感じた。ゲラゲラ笑う運転手、運転手の肩を感情のままに叩く助手席。こういう人たちがきっと事故を起こすんだ。
この恐ろしい状況に耐えられず僕はいっそ寝てしまおうと考え、目を閉じて体の力を抜いた。
すると自然と握りしめていた右手も解けていった事に気付き、僕はそっと目を開き右手を見る。
開いた右手の中には、劣化してカリカリになった輪ゴムが千切れかけていた。
「………………」
ユキのゴムはどこに行ったんだろう……。
ユキはどこに行ったんだろう……。一日が過ぎる度にユキが存在した過去は遠くなっているはずなのに、ユキは日毎に僕を侵食していっている。
まるで実感がないんだ、ユキが死んだ事が。
急に心細くなる。ユキがここにいない事に胸苦しさを覚えて仕方がない。
ユキは前に、自分の兄を憐れむメッセージを送信してきた。それがどんな状況だったのか、お兄さんがその事を知っていたのか、今となってはわからない。
ユキが感情を分け与えていた人物は彼の兄くらいしか(高解像度のpdfは除く)僕は知らない。
お兄さんはきっと傷を誤魔化すため、一時凌ぎで更に傷を深めるような選択肢を取るような人だ。その上優しいから自分を守る事が下手で、雑に言い表すと痛々しい人だ。
その痛々しさは、せっかくユキに分け与えられた感情も無駄にするだろう。
僕はきっと、お兄さんの中のユキを少しでも生かしたいんだ。だからお兄さんが少しでも大切にされて欲しいと思ってしまうんだろう。
