・
・【12 瓦解】
・
僕は通信制の高校に月に二回、本校に通っている。そこでテストを受けたり、規定となっている体育を行なう。
その自宅への帰り道、今日はお父さんもお母さんも仕事で遅いらしいから、近間でパンを買ってから帰ることにした。
こういう時、菓子パンって楽で美味しいよなぁ、と思いながらバッグにパンを入れて、自分の家の前に来たところで、僕は懐かしい声に話し掛けられた。
でもその声は、快活なバカ笑いを想起させるような男子の声ではなくて、じとっとカビクサい記憶がフラッシュバックするような女子の声だった。
「泰我、アタシさ、本当に改心したから付き合ってほしいんだ、本当に、本当に反省して、生まれ変わったから、改めてアタシと付き合ってほしいんだ」
その声の方向を見ると、あの頃と同じような黒髪のおかっぱで、俯きがちで陰気なオーラ全開の、ナツキだった。
僕は脂汗がぶわっと噴き出した。今なら余裕で僕のほうがクサいと思う。
ナツキはべらべらとたくさん喋ってくる。
「アタシは本当に悪かった。培養された思い出というものを見てアタシは自分の異常性に気付いた。だからこそカウンセリングを受けて新しいアタシになれた。そんな新しいアタシは新しいアタシだから付き合ってほしい。だってそうでしょ、新しいアタシになったんだから。そりゃカウンセリングの林田先生からは直接泰我くんに会うことは辞めたほうがいいと言われているけども、新しいアタシになったんだから別に正しいというか、新しいアタシになったら付き合ってくれるんだよね、だって本物の彼女になったんだからそれでいいんだよね?」
正直意味の分からない文章だけども、意味が分かってしまうところもあって。
培養された思い出の中で確かに僕は、あまりとげとげしい言葉になり過ぎないように、どこか手心を加えてナツキを叱っていた部分があった。
”本物の彼女なら”みたいな感じの”本当に好きなら優しくしてほしい”とか、そういう本当の彼女ならこうあるべきだみたいな言い方をしてしまっていた。
だから自分のダメさに気付き、改心出来たら本当の彼女になれると曲解してしまったんだ。しまった、これは完全に僕のミスだ。とは言え、こうなるとは思ってもいなかったわけで。
まさかここまでナツキが異常だとは思わなかった。ある種僕はナツキの異常性を舐めていたんだ。何であんな嫌なことをされたのに、僕は手心を加えてしまったんだ。
「アタシが新しいアタシになったら本物の彼女でいいんだよね?」
何か否定しなきゃ。でもナツキは大和にナイフで突き刺そうとして、さらには訳分からないことを言って泣き叫んだヤツだ。変に刺激を与えたら何か良くないことが起きるかもしれない。
僕は何かを言うことが怖くて出来ない。日は暮れ始めている。早く家に逃げ込みたいけども、僕の家の前にナツキが立っているので、逃げ込むことは出来ない。
怖い、怖い、純粋に怖い、語彙消失だけども、そんな凝った感情なんて浮かぶはずが無くて。
ナツキは一定の距離を保ってくれているけども、ずっとずっと同じような意味不明なことを言い続けている。
「アタシは新しいアタシになったんだ、だから付き合ってほしいんだ、いいよね? アタシは改心したんだから。ちゃんとしたアタシになったんだから」
いいはずないでしょ。カウンセリングの先生からも直接会うのは辞めたほうがいいと言われているんでしょ? 本当に頭がおかしい。
いつの間にか夜が訪れて、街灯にも電気がついたにも関わらず、ずっと同じようなペースで喋るナツキ。
いい加減分かってほしいのに、ずっとずっと喋ってきて、おかし過ぎる。
その時だった。
スマホから通知音が聞こえて、僕は反射でポケットに入れたスマホを取り出すと、大和からで、大和ならと思って僕がすぐに通話を押すと、大和が即座にクリックしてくれたみたいで、大和の声が聞こえてきた。
「どうした? いつものLINEスタンプが来ないけども」
ナツキが一歩こっちへ踏み込んできて、その真意が分からず、僕は硬直してしまった。
するとスマホの大和が何かを察したのか、
「今どこだ?」
と言ったので、僕は勇気を振り絞って、
「今! 家の前!」
と叫ぶと、大和が、
「分かった、今行く」
と言ってくれた。
ナツキはじりじりと詰め寄り始めて、僕はなんとか足を動かして、一歩一歩後ずさりする。
ナツキが止まったところで、僕も立ち止まると、ナツキが、
「今の誰? 彼女なんてまだ出来ていないよね、だってそれくらい調べているわけだから。じゃあまた大和? 何で大和? 最近会っていないんじゃないんの?」
さすがにLINEだけでやり取りしていることは知らないみたいだけども、ナツキってどこまでこっちのことを調べ上げているのか……もしかすると両親が今日遅いことも知っているということ?
やっぱり異常だ、ナツキは本物の異常者だ、どうしよう、早く大和には来てもらいたいけども、
「アタシが彼女になってあげるから、新しいアタシだから絶対に大丈夫だから、カウンセリングの林田先生とかビビり過ぎだよ、だって会ってもこんな楽しいんだもん、いっぱい話聞いてくれてるんだもん、アタシは新しいアタシになって本当に正しくなったんだからさ、どんなことにも真面目に受け答えをやっているし、アタシは正しいんだから、パパも喜んでくれているし、アタシのこと正しいって言ってくれるし、アタシはやっぱり正しかったわけだし、だからこんなに自由に今も生きているんだから、全部全部正しい新しいアタシになったんだからさ、アタシほどの最高の彼女いないよ? もったいないよ? というかもう付き合っているよね、こんな夜にまで二人で喋っているんだから、本当カウンセリングの林田先生ってバカみたいだよね?」
文末を知らない人の名前で終えるなんて、もう会話の基本がなっていない。反応しようがないし、悪口だし。まあどっちにしろ怖くて何も言葉が出ないけども。
「アタシは全て改心したんだから絶対良いに決まっているんだから。会うなっておかしいよね? だって泰我も会いたかったよね、だって改心したアタシなんだもん、だって改心したアタシなら全部OKなんだもんね、アタシ嬉しいよ、こんなに歓迎されるなんて、アタシはやっぱり泰我の彼女なんだって思うよ、アタシ泰我のこと大好き、ずっと一緒だよ、改心したアタシだから本当だよ、カウンセリングの林田先生って本当に男女の機微に疎いというか、逃げ腰の人間なんだろうね、アタシはそんな人間にはならない、全て自分で決めることが出来るし、パパもそれがいいと言ってくれるし、アタシは本当に大丈夫な人間だから、幸せになれるよ、泰我は」
「会うなって言われてるだろぉぉおおおおおお! 帰れぇぇえええええ! ナツキぃぃいいいいい!」
後ろからバカデカい声が聞こえてきたと思ったら、大和だった。
ナツキは大和を見るなり、何も言わず走って逃げていった。もうそれが答えじゃん。大和が来たら一目散でいなくなることこそ答えじゃん。
大和は息を切らして、膝に手をついて、でも僕の傍まで来てくれて、
「どうなってんだこれ……カウンセリングもしているんじゃないのか?」
「何か、分からないけども」
と僕が喋り出していることに自分で気付いて、内心本当に安堵しているんだということが分かった。
僕は深呼吸してから続ける。
「カウンセリングの先生には会うなと言われているけども来たみたいな、カウンセリングの先生のことをビビりだってバカにしていたよ」
「意味分かんねぇ」
と吐き捨てるように言った大和。
大和は僕の肩に手を置いて、
「とりあえず泰我の両親が帰ってくるまでいるから、家の中に入ろうぜ」
と言ってくれて、その日はそれ以降はずっと安心だった。
大和は過剰にナツキの話は振らず、でもどんな言動だったかだけは聞いてくれて、大和はメモしていた。
その日以降、平均すると一週間に一回くらい、ナツキが朝に家の前で待ち伏せしているようになってしまった。
両親が出勤したあとにやって来るので、ナツキがいる日はもう家から出られなくなってしまう。
最初はただただ耐えていたんだけども、大和と久しぶりに二人で遊んでいる時に、ファミレスでなんとなくその話になると、大和がこう言った。
「じゃあさ、俺とシェアハウスすればいい。というか俺の家に住めばいいじゃん。そうしたら解決だよ」
「え、でも、そういうの迷惑じゃない……?」
「迷惑じゃないし、むしろ毎日泰我と居れて幸せだよ。つーか一緒に大学へ来てもいいよ。培養された思い出を経験した人間として、教授は話も聞きたいだろうし」
「いやいや、それはさすがに邪魔になるよ」
「なんない。別に大学ってその大学以外の人もいっぱい出入りしているし。研究室もサークルとかも、あと学食も、いろんな人いるよ。何なら中学生が勉強しに来ている研究室もあるし」
「でも……」
「あんまこういう言い方したくないけどさ、大学生の俺のほうが大学に詳しいから。絶対大丈夫」
そう胸を叩いた大和。
大和はハンバーグを一口食べてから、
「というかシェアハウスはしようよ、泰我の両親って共働きで忙しいじゃん。多分俺のほうが時間に融通利くし。大学の図書館で本読んでもいいし、レンタルスペースで通信の授業も受けられると思うよ」
「いいのかな……」
「いいんだよ、俺がシェアハウスしたいって言ってるんだから。別に泰我が一方的に助けてくれって言ってるわけじゃない。むしろ俺が一方的にシェアハウスしてほしいって言ってるんだよ」
僕は大和の言葉を噛みしめて、うんと大きく頷いてから、
「有難う、大和。シェアハウス、僕もしたい」
「じゃあ決定だな! ニトリでベッドでも買って俺の家へ行こうぜ!」
そこからはシェアハウスするためのアイテムを買うショッピングとなり、二人で笑い合いながら揃えていった。
その日は一旦帰って、両親にそのことを話すと、両親も「大和くんなら安心だ」と言ってくれて、了承してくれた。
シェアハウスを始めて楽しいことばかりだけども、一個だけ嫌なところがあり、それは二週間に一回くらいは必ずナツキが大和のマンションの前にいるということだ。
僕のせいで大和の家の前に現れるようになってしまったことが本当に心底ツライ。
あと今日は僕の通信制の高校への登校の日なので、その日は大和も大学を休んで僕についてきてくれるとことが申し訳無く思っている。
どう知り得ているのかは分からないけども、僕が通信制の高校へ行く日の時は必ずナツキはマンションの前で立っている。
大和が睨みをきかすとすぐに逃げていくけども、本当に気持ちが悪い。ナツキ自体の大学や仕事は一体どうなっているのだろうか。
高校の授業が終わり、大和と一緒の帰り道に、大和が、
「もう俺、我慢ならないよ、改めて警察にさ、ナツキの待ち伏せの件を言ったほうがいいよ」
僕も大和の熱意に押されて、一緒に一番近くの交番へ行くことにした。
ちゃんと説明したんだけども、おじいさん警察官はニヤニヤするだけで、ちゃんと話を聞いているかどうかも不明瞭だ。
おじいさん警察官はニタァと笑ってから、
「それだけじゃねぇ、過剰とは言えないんだよねぇ、そもそもねぇ、若いんだから一回付き合ってみればいいんじゃにぃかなぁ、ふひひひひ」
と言って、もうこの警察官のことも不快だった。
あまりにも全然親身になってくれないので、大和は、
「もういいです! 別の交番行きます!」
と言って、僕の腕を引っ張って、別の交番に足を運んだ。
そこの交番には警察官が二人いて、年寄りの警察官はあのおじいさん警察官と同じようなトーンで、気持ち悪い。
でもバディを組んでいるような若い警察官のほうが溜息交じりに、
「まーなー、こんな末端にも噂が来るくらい有名だから言ってあげるけども、あの子の父親は警視総監だからねぇ」
と言われて、何故執行猶予が付いたのか合点がいった。
家に戻って来るなり、大和が、
「意味分かんねぇよ! 本当に!」
とキレてくれただけで僕は嬉しかった。それだけで本当に大和と一緒で良かったと思った。
家へ戻って来て、二人で夕食を作り始めた。
元々、大和は自炊していたので、料理が作れたんだけども、僕のほうが暇というか時間があるので、大和に習ったり、自分で動画を観たり、大学の図書館で勉強したりして、僕も料理が作れるようになった。
今日も二人で一品ずつ作っている。僕はシチューを作ることにした。大和は野菜炒めを作るみたいだ。
僕のシチューは米粉から作って、ルーを使わない。何故なら僕はルーのシチューを食べると、子供の頃からよく吐いてしまっていたからだ。何の成分のせいか分からないけども、二杯以上食べてしまうと吐いてしまうのだ。じゃあ何で二杯以上食べてしまうかと言うと、普通に美味しいから。口内や喉が痺れたりするわけじゃないからアレルギーとかではなくて。
でも大学の図書館で読んだシチューの作り方をすると、僕は何杯食べても吐かなくなったのだ。とは言え、三杯くらいしか食べないけども。そんな大食でもないし。
というわけで僕はまず食材を切って、鍋でオリーブオイルを使って炒める。多分そういうルーを使わないシチューの場合はバターを使うことが多いんだろうけども、このシチューで使う乳製品は牛乳だけだ。
既に六回くらい作っているけども、まだ手順には自信が無いので、ちゃんと自分の脳内で反芻しながら作らないといけない。
今回の具はタマネギと人参と魚肉ソーセージだけ。具はそんなに凝らない。あくまで大和と二人で食べるだけの料理だから。
食材がしっかり加熱されたり、タマネギが透き通るようになったら、米粉を入れて、混ぜ合わせる。
粉っぽさが無くなったところで、牛乳を入れるわけだけども、それは徐々に入れて、都度混ぜる。
米粉は小麦粉に比べてダマになりづらいというけども、一応僕はこの小麦粉での作り方でやる。
600ミリリットル作る場合は、400牛乳・200豆乳にして、いろんな栄養素が入るようにする。
多分全部牛乳にしないところも、僕が吐かないポイントなんだろうなぁ、と思う。
味付けはほんだしを使ったり、塩だけにする場合もあるけども、ここ二回はこのヒガシマルのうどんスープを使っている。
ヒガシマルのうどんスープは小葱も入っているので、今回の具がタマネギや人参や魚肉ソーセージだけの場合は緑が映えて良いのだ。
僕がシチューを作っているうちに、大和も野菜炒めを作っていく。大和の野菜炒めに入れるもやしはレンジで加熱していくらしい。
フライパンの中で加熱すると、細胞が崩れて水っぽくなってしまうという話だ。
だからもやしは最高潮に温まったフライパンの上で焦がすだけにするというこだわりがある。
大和はまず人参とキャベツの芯を炒めていく。細かく千切りされたモノ。さらに手でちぎったキャベツの葉の部分も炒めていく。
同時進行で、もやしをレンジで加熱している。僕はこの同時進行ということが出来ない。大和は本当に何でも出来るなぁと思ってしまう。いや同時進行なんて料理している人からしたら余裕なのかもしれないけども、僕はまだ出来ない。
料理している最中は僕は黙ってしまうほうだ。手順を脳内で反芻しないといけないということもあって、僕が黙りがちになってしまうのだ。
いつしか大和も話し掛けては来なくなったんだけども、僕はそれが決して苦ではない。
むしろ一緒にいるだけで安心感がある。背中で大和を感じているだけで心が安らぐというか。
勿論コンロの前に来たら、僕の横にいるわけだけども、僕は大和がフライパンを振るっているところも好きだ。
力強くフライパンを動かすことは僕は苦手で、だから僕は煮込む料理がほとんど。それが出来る大和は文武両道みたいな感じでカッコイイ。
まあ今は僕が煮込み、大和が焼く料理と、ちゃんと分担しているといった感じだけども。
僕も大和もそんな肉料理は好きじゃないため、意識しないと肉が食卓には出てこない。豚肉というか牛肉というか鶏肉の肉。
魚肉ソーセージは保存が利くので、今回も僕は使っている。
大和の野菜炒めは佳境に入り、レンジ加熱されたもやしとピーマンを入れて、調味料も加える。
ピーマンは炒め過ぎないほうが美味しいと大和談。加熱し過ぎると苦みが出てしまうみたいだ。確かに大和のピーマンはあまりに苦くない。
大和いわく、ピーマンは加熱し過ぎないようにするか、逆にがっつり加熱するかのどちらかが良いらしい。
ご飯は料理の前に僕が炊いていて、大和の野菜炒めが完成したところで夕食となった。煮込み料理はいつでも時間が合わせられるので。
大和はコンロにはこだわりがあり、二口以上は勿論のことIHじゃなくてコンロのほうが良い、と。
やはりコンロの火のほうが焦げが上手くつくという話だ。
確かに大和の野菜炒めは焦げが美味しい。食べて噛みしめてから、
「美味しい」
と、つい口についてしまうと、大和が優しい笑顔で、
「有難う」
と言ってくれることが何よりも幸せだ。
大和も僕のシチューを食べてくれて、
「泰我も本当に美味しいよ」
と言ってくれて、心が躍る。
そこから他愛も無い雑談というか、意味の無いボケ・ツッコミが始まった。
「泰我のシチューは本当に大黒柱だなぁ」
「支柱ってこと? いや料理としては大和の焼く料理のほうがメインでしょ」
「いいや、おおよそメインとは程遠いよ」
「おおよそって約ということ? どうしてそんな言葉遊びの扉を開いてしまったんだ」
「下から上へガラガラガラー」
「シャッターを扉とは多分言わないよ」
「あ、今のうがいね」
「下から込み上げてくる胃液でうがいしないよ」
「ちょっと、それは食事中にはダウトでしょ」
と言ってから、空気で本当に頬を膨らませた大和。
いや、
「じゃあ食事中にボケ過ぎだよ」
「ツッコミ過ぎかもしれないよ」
「じゃあツッコまないよ」
「それはちょっと、社会じゃないよ」
「壮大なテーマにしないでよ、親友のボケ・ツッコミなんて局地的も局地的だよ」
「郵便局地的」
「それはもう純粋に郵便局だよ、郵便の局地はただの郵便局だよ」
大和は満足そうに鼻息をフンスーと飛ばすと、
「まあまあ、そう慌てず食べなさい」
「大和がいっぱいボケていたんだよ!」
とデカめにツッコんだところで笑い合った。
ずっとこんな生活が続けばいいのに、朝になると今日はナツキが待ち伏せしている日だった。
大和はカーテンを一回閉めてから、
「まあいつも通り一緒に大学行こうぜ。ワーキングスペースで授業の動画見れるでしょ」
「そうだけども」
そうだけども。
そうだけども、いつまでこんな生活が続くのだろうか。
大学に居れば人もいっぱいで、安心だけども、本当にいつまで、どこまで僕の人生にナツキは出現するのだろうか。
諦めるとかないのかな、根負けしてくれないのかな、それともこっちが根負けしないといけないのか、そんなことは嫌過ぎる。
あんな薄氷の人間となんて人付き合いしたくない。
僕と大和は出掛ける準備をして、二人一緒にエレベーターを降りて、出入り口から出ると、ナツキが遠巻きにじっと見てきていた。
僕がナツキのほうを向いていてしまっていると、大和が、
「行くぞ」
と声を掛けてくれて、僕は自然に大和のほうを向くことが出来た。
そこから電車に乗って、大和の大学に着き、大和はまず研究室に、僕はワーキングスペースへ行き、そこで授業の動画を見始めた。
ワーキングスペースは鍵を掛けられるところもあるので、安心だ。
鍵はあれど、四面のうちの一面はガラスなので、周りの様子も確認出来るし。逆に確認されるということでもあるけども、ここにナツキが出現したことはない。
三時間、授業の動画を見たところで、大学の図書館に行き、本を読む。
昼の時間になったところで、その図書館で大和と落ち合って、最近は護身術を二人で習いに行く。それも大学構内にある。
本来は女性向けらしいけども、僕や大和以外の男性や、高校生くらいの男子もいて、肩身狭い思いはしない。
そこでみっちり、男性の生徒は足を掛けて転ばせる、投げのような練習をしてから、軽く食事をして、また大和とは別れる。
授業の動画を一時間見たら、また図書館で本を読む。本は読み飽きない。今まで読めなかった分を取り返すように読んでいく。
大和は授業は勿論、研究室での研究もあるので、夜までやるべきことがある。
まあ僕と一緒に住むようになり、徹夜などは入れないように配慮してくれているらしいけども、そうやって大和の活動を制限していることがやっぱり申し訳無く思う。
大学の図書館は夕方六時で戸締りとなるので、僕は図書館を離れて、大学の構内を散歩することにしている。
まだまだ構内には人がたくさんで、安心感を抱きながら歩くことが出来る。
大和から連絡があり、西校門の前で待ち合わせして、一緒に家路につく。
電車に乗って、残りは徒歩といったところで、大和が、
「ちょっと靴紐」
と言ってしゃがんだので、僕は立ち止まって待っていると、思ったよりも近くで声がした。
「泰我くん! やっぱりアタシ! 泰我くんじゃないとダメなんだ!」
ナツキが僕に向かって、まるで映画のように、僕の身体に飛び込む感じで抱き締められようとしてきたのだ!
どうやらナツキからは大和が見えていないらしい。大和が慌てて立ち上がろうとして、よろけているところが間接視野で見えた。
僕は咄嗟にその飛び込みを利用して、足を引っ掛けて、その場に転ばせた。護身術の練習の成果だろうか。
ナツキは明らかに顔を×といった表情にしながら、中腰で立ち上がった大和の足元にダイブするように顔からアスファルトに突っ込んで倒れた、まま、動かない。
大和はナツキの表情を街灯の光で確認し、どうやら気絶しているようだった。
その時、僕は一つ案が浮かんだ。
「気絶しているナツキに、赤黒い培養菌で再教育出来ないかな?」
大和はう~んと唸り声を上げてから、
「あの時みたいに適量かどうかの検査をしないと出来ない」
と言ったんだけども、これがラストチャンスかもしれなくて、
「ゴメン! 大和! 僕! 本当にナツキの付きまといが嫌なんだ! 培養菌って確かシャーレに入れずに空気中に置いておくと十数分で死滅するんだよねっ? じゃあシャーレから出した状態なら、どんなに濃い赤黒い培養菌でも大丈夫なんじゃないかな! 本当にここが最後のチャンスかもしれないんだって!」
記憶にある言葉がこのくらいで、実際はもっと何倍も何倍も大和に懇願したと思う。
すると大和は根負けしてくれて、ナツキを近くの、草がぼうぼうと生い茂っている空き地に移動させてから、僕と大和で家に戻って、赤黒い培養菌が入ったシャーレを持って、ナツキが倒れている空き地に戻った。
ナツキはまだちゃんと気絶していて、そんなナツキの顔の横にシャーレの状態じゃなくて赤黒い培養菌を直に置くことにした。
空気に触れると赤黒い培養菌はすぐに死ぬから時間的にもちょうどいいかもだし、何よりもシャーレの状態で置いていたら、大和が置いたということがバレるし、回収するにはリスクがあるだろうし、そもそも起きたナツキが持ち帰るだろうし。
大和が赤黒い培養菌を綿棒でちょんちょんとナツキの耳元に置いたんだけども、何だかそれでは量が少ないと思って、僕は、
「そのシャーレの中の培養菌全て置いてほしい!」
とお願いすると、大和も悩みに悩んだ末、濃い赤黒い培養菌を全て置いてくれた。
僕と大和は素知らぬ顔で家へ戻って来て、昨日の残りのシチューだけで食事を済ませた。
・【12 瓦解】
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僕は通信制の高校に月に二回、本校に通っている。そこでテストを受けたり、規定となっている体育を行なう。
その自宅への帰り道、今日はお父さんもお母さんも仕事で遅いらしいから、近間でパンを買ってから帰ることにした。
こういう時、菓子パンって楽で美味しいよなぁ、と思いながらバッグにパンを入れて、自分の家の前に来たところで、僕は懐かしい声に話し掛けられた。
でもその声は、快活なバカ笑いを想起させるような男子の声ではなくて、じとっとカビクサい記憶がフラッシュバックするような女子の声だった。
「泰我、アタシさ、本当に改心したから付き合ってほしいんだ、本当に、本当に反省して、生まれ変わったから、改めてアタシと付き合ってほしいんだ」
その声の方向を見ると、あの頃と同じような黒髪のおかっぱで、俯きがちで陰気なオーラ全開の、ナツキだった。
僕は脂汗がぶわっと噴き出した。今なら余裕で僕のほうがクサいと思う。
ナツキはべらべらとたくさん喋ってくる。
「アタシは本当に悪かった。培養された思い出というものを見てアタシは自分の異常性に気付いた。だからこそカウンセリングを受けて新しいアタシになれた。そんな新しいアタシは新しいアタシだから付き合ってほしい。だってそうでしょ、新しいアタシになったんだから。そりゃカウンセリングの林田先生からは直接泰我くんに会うことは辞めたほうがいいと言われているけども、新しいアタシになったんだから別に正しいというか、新しいアタシになったら付き合ってくれるんだよね、だって本物の彼女になったんだからそれでいいんだよね?」
正直意味の分からない文章だけども、意味が分かってしまうところもあって。
培養された思い出の中で確かに僕は、あまりとげとげしい言葉になり過ぎないように、どこか手心を加えてナツキを叱っていた部分があった。
”本物の彼女なら”みたいな感じの”本当に好きなら優しくしてほしい”とか、そういう本当の彼女ならこうあるべきだみたいな言い方をしてしまっていた。
だから自分のダメさに気付き、改心出来たら本当の彼女になれると曲解してしまったんだ。しまった、これは完全に僕のミスだ。とは言え、こうなるとは思ってもいなかったわけで。
まさかここまでナツキが異常だとは思わなかった。ある種僕はナツキの異常性を舐めていたんだ。何であんな嫌なことをされたのに、僕は手心を加えてしまったんだ。
「アタシが新しいアタシになったら本物の彼女でいいんだよね?」
何か否定しなきゃ。でもナツキは大和にナイフで突き刺そうとして、さらには訳分からないことを言って泣き叫んだヤツだ。変に刺激を与えたら何か良くないことが起きるかもしれない。
僕は何かを言うことが怖くて出来ない。日は暮れ始めている。早く家に逃げ込みたいけども、僕の家の前にナツキが立っているので、逃げ込むことは出来ない。
怖い、怖い、純粋に怖い、語彙消失だけども、そんな凝った感情なんて浮かぶはずが無くて。
ナツキは一定の距離を保ってくれているけども、ずっとずっと同じような意味不明なことを言い続けている。
「アタシは新しいアタシになったんだ、だから付き合ってほしいんだ、いいよね? アタシは改心したんだから。ちゃんとしたアタシになったんだから」
いいはずないでしょ。カウンセリングの先生からも直接会うのは辞めたほうがいいと言われているんでしょ? 本当に頭がおかしい。
いつの間にか夜が訪れて、街灯にも電気がついたにも関わらず、ずっと同じようなペースで喋るナツキ。
いい加減分かってほしいのに、ずっとずっと喋ってきて、おかし過ぎる。
その時だった。
スマホから通知音が聞こえて、僕は反射でポケットに入れたスマホを取り出すと、大和からで、大和ならと思って僕がすぐに通話を押すと、大和が即座にクリックしてくれたみたいで、大和の声が聞こえてきた。
「どうした? いつものLINEスタンプが来ないけども」
ナツキが一歩こっちへ踏み込んできて、その真意が分からず、僕は硬直してしまった。
するとスマホの大和が何かを察したのか、
「今どこだ?」
と言ったので、僕は勇気を振り絞って、
「今! 家の前!」
と叫ぶと、大和が、
「分かった、今行く」
と言ってくれた。
ナツキはじりじりと詰め寄り始めて、僕はなんとか足を動かして、一歩一歩後ずさりする。
ナツキが止まったところで、僕も立ち止まると、ナツキが、
「今の誰? 彼女なんてまだ出来ていないよね、だってそれくらい調べているわけだから。じゃあまた大和? 何で大和? 最近会っていないんじゃないんの?」
さすがにLINEだけでやり取りしていることは知らないみたいだけども、ナツキってどこまでこっちのことを調べ上げているのか……もしかすると両親が今日遅いことも知っているということ?
やっぱり異常だ、ナツキは本物の異常者だ、どうしよう、早く大和には来てもらいたいけども、
「アタシが彼女になってあげるから、新しいアタシだから絶対に大丈夫だから、カウンセリングの林田先生とかビビり過ぎだよ、だって会ってもこんな楽しいんだもん、いっぱい話聞いてくれてるんだもん、アタシは新しいアタシになって本当に正しくなったんだからさ、どんなことにも真面目に受け答えをやっているし、アタシは正しいんだから、パパも喜んでくれているし、アタシのこと正しいって言ってくれるし、アタシはやっぱり正しかったわけだし、だからこんなに自由に今も生きているんだから、全部全部正しい新しいアタシになったんだからさ、アタシほどの最高の彼女いないよ? もったいないよ? というかもう付き合っているよね、こんな夜にまで二人で喋っているんだから、本当カウンセリングの林田先生ってバカみたいだよね?」
文末を知らない人の名前で終えるなんて、もう会話の基本がなっていない。反応しようがないし、悪口だし。まあどっちにしろ怖くて何も言葉が出ないけども。
「アタシは全て改心したんだから絶対良いに決まっているんだから。会うなっておかしいよね? だって泰我も会いたかったよね、だって改心したアタシなんだもん、だって改心したアタシなら全部OKなんだもんね、アタシ嬉しいよ、こんなに歓迎されるなんて、アタシはやっぱり泰我の彼女なんだって思うよ、アタシ泰我のこと大好き、ずっと一緒だよ、改心したアタシだから本当だよ、カウンセリングの林田先生って本当に男女の機微に疎いというか、逃げ腰の人間なんだろうね、アタシはそんな人間にはならない、全て自分で決めることが出来るし、パパもそれがいいと言ってくれるし、アタシは本当に大丈夫な人間だから、幸せになれるよ、泰我は」
「会うなって言われてるだろぉぉおおおおおお! 帰れぇぇえええええ! ナツキぃぃいいいいい!」
後ろからバカデカい声が聞こえてきたと思ったら、大和だった。
ナツキは大和を見るなり、何も言わず走って逃げていった。もうそれが答えじゃん。大和が来たら一目散でいなくなることこそ答えじゃん。
大和は息を切らして、膝に手をついて、でも僕の傍まで来てくれて、
「どうなってんだこれ……カウンセリングもしているんじゃないのか?」
「何か、分からないけども」
と僕が喋り出していることに自分で気付いて、内心本当に安堵しているんだということが分かった。
僕は深呼吸してから続ける。
「カウンセリングの先生には会うなと言われているけども来たみたいな、カウンセリングの先生のことをビビりだってバカにしていたよ」
「意味分かんねぇ」
と吐き捨てるように言った大和。
大和は僕の肩に手を置いて、
「とりあえず泰我の両親が帰ってくるまでいるから、家の中に入ろうぜ」
と言ってくれて、その日はそれ以降はずっと安心だった。
大和は過剰にナツキの話は振らず、でもどんな言動だったかだけは聞いてくれて、大和はメモしていた。
その日以降、平均すると一週間に一回くらい、ナツキが朝に家の前で待ち伏せしているようになってしまった。
両親が出勤したあとにやって来るので、ナツキがいる日はもう家から出られなくなってしまう。
最初はただただ耐えていたんだけども、大和と久しぶりに二人で遊んでいる時に、ファミレスでなんとなくその話になると、大和がこう言った。
「じゃあさ、俺とシェアハウスすればいい。というか俺の家に住めばいいじゃん。そうしたら解決だよ」
「え、でも、そういうの迷惑じゃない……?」
「迷惑じゃないし、むしろ毎日泰我と居れて幸せだよ。つーか一緒に大学へ来てもいいよ。培養された思い出を経験した人間として、教授は話も聞きたいだろうし」
「いやいや、それはさすがに邪魔になるよ」
「なんない。別に大学ってその大学以外の人もいっぱい出入りしているし。研究室もサークルとかも、あと学食も、いろんな人いるよ。何なら中学生が勉強しに来ている研究室もあるし」
「でも……」
「あんまこういう言い方したくないけどさ、大学生の俺のほうが大学に詳しいから。絶対大丈夫」
そう胸を叩いた大和。
大和はハンバーグを一口食べてから、
「というかシェアハウスはしようよ、泰我の両親って共働きで忙しいじゃん。多分俺のほうが時間に融通利くし。大学の図書館で本読んでもいいし、レンタルスペースで通信の授業も受けられると思うよ」
「いいのかな……」
「いいんだよ、俺がシェアハウスしたいって言ってるんだから。別に泰我が一方的に助けてくれって言ってるわけじゃない。むしろ俺が一方的にシェアハウスしてほしいって言ってるんだよ」
僕は大和の言葉を噛みしめて、うんと大きく頷いてから、
「有難う、大和。シェアハウス、僕もしたい」
「じゃあ決定だな! ニトリでベッドでも買って俺の家へ行こうぜ!」
そこからはシェアハウスするためのアイテムを買うショッピングとなり、二人で笑い合いながら揃えていった。
その日は一旦帰って、両親にそのことを話すと、両親も「大和くんなら安心だ」と言ってくれて、了承してくれた。
シェアハウスを始めて楽しいことばかりだけども、一個だけ嫌なところがあり、それは二週間に一回くらいは必ずナツキが大和のマンションの前にいるということだ。
僕のせいで大和の家の前に現れるようになってしまったことが本当に心底ツライ。
あと今日は僕の通信制の高校への登校の日なので、その日は大和も大学を休んで僕についてきてくれるとことが申し訳無く思っている。
どう知り得ているのかは分からないけども、僕が通信制の高校へ行く日の時は必ずナツキはマンションの前で立っている。
大和が睨みをきかすとすぐに逃げていくけども、本当に気持ちが悪い。ナツキ自体の大学や仕事は一体どうなっているのだろうか。
高校の授業が終わり、大和と一緒の帰り道に、大和が、
「もう俺、我慢ならないよ、改めて警察にさ、ナツキの待ち伏せの件を言ったほうがいいよ」
僕も大和の熱意に押されて、一緒に一番近くの交番へ行くことにした。
ちゃんと説明したんだけども、おじいさん警察官はニヤニヤするだけで、ちゃんと話を聞いているかどうかも不明瞭だ。
おじいさん警察官はニタァと笑ってから、
「それだけじゃねぇ、過剰とは言えないんだよねぇ、そもそもねぇ、若いんだから一回付き合ってみればいいんじゃにぃかなぁ、ふひひひひ」
と言って、もうこの警察官のことも不快だった。
あまりにも全然親身になってくれないので、大和は、
「もういいです! 別の交番行きます!」
と言って、僕の腕を引っ張って、別の交番に足を運んだ。
そこの交番には警察官が二人いて、年寄りの警察官はあのおじいさん警察官と同じようなトーンで、気持ち悪い。
でもバディを組んでいるような若い警察官のほうが溜息交じりに、
「まーなー、こんな末端にも噂が来るくらい有名だから言ってあげるけども、あの子の父親は警視総監だからねぇ」
と言われて、何故執行猶予が付いたのか合点がいった。
家に戻って来るなり、大和が、
「意味分かんねぇよ! 本当に!」
とキレてくれただけで僕は嬉しかった。それだけで本当に大和と一緒で良かったと思った。
家へ戻って来て、二人で夕食を作り始めた。
元々、大和は自炊していたので、料理が作れたんだけども、僕のほうが暇というか時間があるので、大和に習ったり、自分で動画を観たり、大学の図書館で勉強したりして、僕も料理が作れるようになった。
今日も二人で一品ずつ作っている。僕はシチューを作ることにした。大和は野菜炒めを作るみたいだ。
僕のシチューは米粉から作って、ルーを使わない。何故なら僕はルーのシチューを食べると、子供の頃からよく吐いてしまっていたからだ。何の成分のせいか分からないけども、二杯以上食べてしまうと吐いてしまうのだ。じゃあ何で二杯以上食べてしまうかと言うと、普通に美味しいから。口内や喉が痺れたりするわけじゃないからアレルギーとかではなくて。
でも大学の図書館で読んだシチューの作り方をすると、僕は何杯食べても吐かなくなったのだ。とは言え、三杯くらいしか食べないけども。そんな大食でもないし。
というわけで僕はまず食材を切って、鍋でオリーブオイルを使って炒める。多分そういうルーを使わないシチューの場合はバターを使うことが多いんだろうけども、このシチューで使う乳製品は牛乳だけだ。
既に六回くらい作っているけども、まだ手順には自信が無いので、ちゃんと自分の脳内で反芻しながら作らないといけない。
今回の具はタマネギと人参と魚肉ソーセージだけ。具はそんなに凝らない。あくまで大和と二人で食べるだけの料理だから。
食材がしっかり加熱されたり、タマネギが透き通るようになったら、米粉を入れて、混ぜ合わせる。
粉っぽさが無くなったところで、牛乳を入れるわけだけども、それは徐々に入れて、都度混ぜる。
米粉は小麦粉に比べてダマになりづらいというけども、一応僕はこの小麦粉での作り方でやる。
600ミリリットル作る場合は、400牛乳・200豆乳にして、いろんな栄養素が入るようにする。
多分全部牛乳にしないところも、僕が吐かないポイントなんだろうなぁ、と思う。
味付けはほんだしを使ったり、塩だけにする場合もあるけども、ここ二回はこのヒガシマルのうどんスープを使っている。
ヒガシマルのうどんスープは小葱も入っているので、今回の具がタマネギや人参や魚肉ソーセージだけの場合は緑が映えて良いのだ。
僕がシチューを作っているうちに、大和も野菜炒めを作っていく。大和の野菜炒めに入れるもやしはレンジで加熱していくらしい。
フライパンの中で加熱すると、細胞が崩れて水っぽくなってしまうという話だ。
だからもやしは最高潮に温まったフライパンの上で焦がすだけにするというこだわりがある。
大和はまず人参とキャベツの芯を炒めていく。細かく千切りされたモノ。さらに手でちぎったキャベツの葉の部分も炒めていく。
同時進行で、もやしをレンジで加熱している。僕はこの同時進行ということが出来ない。大和は本当に何でも出来るなぁと思ってしまう。いや同時進行なんて料理している人からしたら余裕なのかもしれないけども、僕はまだ出来ない。
料理している最中は僕は黙ってしまうほうだ。手順を脳内で反芻しないといけないということもあって、僕が黙りがちになってしまうのだ。
いつしか大和も話し掛けては来なくなったんだけども、僕はそれが決して苦ではない。
むしろ一緒にいるだけで安心感がある。背中で大和を感じているだけで心が安らぐというか。
勿論コンロの前に来たら、僕の横にいるわけだけども、僕は大和がフライパンを振るっているところも好きだ。
力強くフライパンを動かすことは僕は苦手で、だから僕は煮込む料理がほとんど。それが出来る大和は文武両道みたいな感じでカッコイイ。
まあ今は僕が煮込み、大和が焼く料理と、ちゃんと分担しているといった感じだけども。
僕も大和もそんな肉料理は好きじゃないため、意識しないと肉が食卓には出てこない。豚肉というか牛肉というか鶏肉の肉。
魚肉ソーセージは保存が利くので、今回も僕は使っている。
大和の野菜炒めは佳境に入り、レンジ加熱されたもやしとピーマンを入れて、調味料も加える。
ピーマンは炒め過ぎないほうが美味しいと大和談。加熱し過ぎると苦みが出てしまうみたいだ。確かに大和のピーマンはあまりに苦くない。
大和いわく、ピーマンは加熱し過ぎないようにするか、逆にがっつり加熱するかのどちらかが良いらしい。
ご飯は料理の前に僕が炊いていて、大和の野菜炒めが完成したところで夕食となった。煮込み料理はいつでも時間が合わせられるので。
大和はコンロにはこだわりがあり、二口以上は勿論のことIHじゃなくてコンロのほうが良い、と。
やはりコンロの火のほうが焦げが上手くつくという話だ。
確かに大和の野菜炒めは焦げが美味しい。食べて噛みしめてから、
「美味しい」
と、つい口についてしまうと、大和が優しい笑顔で、
「有難う」
と言ってくれることが何よりも幸せだ。
大和も僕のシチューを食べてくれて、
「泰我も本当に美味しいよ」
と言ってくれて、心が躍る。
そこから他愛も無い雑談というか、意味の無いボケ・ツッコミが始まった。
「泰我のシチューは本当に大黒柱だなぁ」
「支柱ってこと? いや料理としては大和の焼く料理のほうがメインでしょ」
「いいや、おおよそメインとは程遠いよ」
「おおよそって約ということ? どうしてそんな言葉遊びの扉を開いてしまったんだ」
「下から上へガラガラガラー」
「シャッターを扉とは多分言わないよ」
「あ、今のうがいね」
「下から込み上げてくる胃液でうがいしないよ」
「ちょっと、それは食事中にはダウトでしょ」
と言ってから、空気で本当に頬を膨らませた大和。
いや、
「じゃあ食事中にボケ過ぎだよ」
「ツッコミ過ぎかもしれないよ」
「じゃあツッコまないよ」
「それはちょっと、社会じゃないよ」
「壮大なテーマにしないでよ、親友のボケ・ツッコミなんて局地的も局地的だよ」
「郵便局地的」
「それはもう純粋に郵便局だよ、郵便の局地はただの郵便局だよ」
大和は満足そうに鼻息をフンスーと飛ばすと、
「まあまあ、そう慌てず食べなさい」
「大和がいっぱいボケていたんだよ!」
とデカめにツッコんだところで笑い合った。
ずっとこんな生活が続けばいいのに、朝になると今日はナツキが待ち伏せしている日だった。
大和はカーテンを一回閉めてから、
「まあいつも通り一緒に大学行こうぜ。ワーキングスペースで授業の動画見れるでしょ」
「そうだけども」
そうだけども。
そうだけども、いつまでこんな生活が続くのだろうか。
大学に居れば人もいっぱいで、安心だけども、本当にいつまで、どこまで僕の人生にナツキは出現するのだろうか。
諦めるとかないのかな、根負けしてくれないのかな、それともこっちが根負けしないといけないのか、そんなことは嫌過ぎる。
あんな薄氷の人間となんて人付き合いしたくない。
僕と大和は出掛ける準備をして、二人一緒にエレベーターを降りて、出入り口から出ると、ナツキが遠巻きにじっと見てきていた。
僕がナツキのほうを向いていてしまっていると、大和が、
「行くぞ」
と声を掛けてくれて、僕は自然に大和のほうを向くことが出来た。
そこから電車に乗って、大和の大学に着き、大和はまず研究室に、僕はワーキングスペースへ行き、そこで授業の動画を見始めた。
ワーキングスペースは鍵を掛けられるところもあるので、安心だ。
鍵はあれど、四面のうちの一面はガラスなので、周りの様子も確認出来るし。逆に確認されるということでもあるけども、ここにナツキが出現したことはない。
三時間、授業の動画を見たところで、大学の図書館に行き、本を読む。
昼の時間になったところで、その図書館で大和と落ち合って、最近は護身術を二人で習いに行く。それも大学構内にある。
本来は女性向けらしいけども、僕や大和以外の男性や、高校生くらいの男子もいて、肩身狭い思いはしない。
そこでみっちり、男性の生徒は足を掛けて転ばせる、投げのような練習をしてから、軽く食事をして、また大和とは別れる。
授業の動画を一時間見たら、また図書館で本を読む。本は読み飽きない。今まで読めなかった分を取り返すように読んでいく。
大和は授業は勿論、研究室での研究もあるので、夜までやるべきことがある。
まあ僕と一緒に住むようになり、徹夜などは入れないように配慮してくれているらしいけども、そうやって大和の活動を制限していることがやっぱり申し訳無く思う。
大学の図書館は夕方六時で戸締りとなるので、僕は図書館を離れて、大学の構内を散歩することにしている。
まだまだ構内には人がたくさんで、安心感を抱きながら歩くことが出来る。
大和から連絡があり、西校門の前で待ち合わせして、一緒に家路につく。
電車に乗って、残りは徒歩といったところで、大和が、
「ちょっと靴紐」
と言ってしゃがんだので、僕は立ち止まって待っていると、思ったよりも近くで声がした。
「泰我くん! やっぱりアタシ! 泰我くんじゃないとダメなんだ!」
ナツキが僕に向かって、まるで映画のように、僕の身体に飛び込む感じで抱き締められようとしてきたのだ!
どうやらナツキからは大和が見えていないらしい。大和が慌てて立ち上がろうとして、よろけているところが間接視野で見えた。
僕は咄嗟にその飛び込みを利用して、足を引っ掛けて、その場に転ばせた。護身術の練習の成果だろうか。
ナツキは明らかに顔を×といった表情にしながら、中腰で立ち上がった大和の足元にダイブするように顔からアスファルトに突っ込んで倒れた、まま、動かない。
大和はナツキの表情を街灯の光で確認し、どうやら気絶しているようだった。
その時、僕は一つ案が浮かんだ。
「気絶しているナツキに、赤黒い培養菌で再教育出来ないかな?」
大和はう~んと唸り声を上げてから、
「あの時みたいに適量かどうかの検査をしないと出来ない」
と言ったんだけども、これがラストチャンスかもしれなくて、
「ゴメン! 大和! 僕! 本当にナツキの付きまといが嫌なんだ! 培養菌って確かシャーレに入れずに空気中に置いておくと十数分で死滅するんだよねっ? じゃあシャーレから出した状態なら、どんなに濃い赤黒い培養菌でも大丈夫なんじゃないかな! 本当にここが最後のチャンスかもしれないんだって!」
記憶にある言葉がこのくらいで、実際はもっと何倍も何倍も大和に懇願したと思う。
すると大和は根負けしてくれて、ナツキを近くの、草がぼうぼうと生い茂っている空き地に移動させてから、僕と大和で家に戻って、赤黒い培養菌が入ったシャーレを持って、ナツキが倒れている空き地に戻った。
ナツキはまだちゃんと気絶していて、そんなナツキの顔の横にシャーレの状態じゃなくて赤黒い培養菌を直に置くことにした。
空気に触れると赤黒い培養菌はすぐに死ぬから時間的にもちょうどいいかもだし、何よりもシャーレの状態で置いていたら、大和が置いたということがバレるし、回収するにはリスクがあるだろうし、そもそも起きたナツキが持ち帰るだろうし。
大和が赤黒い培養菌を綿棒でちょんちょんとナツキの耳元に置いたんだけども、何だかそれでは量が少ないと思って、僕は、
「そのシャーレの中の培養菌全て置いてほしい!」
とお願いすると、大和も悩みに悩んだ末、濃い赤黒い培養菌を全て置いてくれた。
僕と大和は素知らぬ顔で家へ戻って来て、昨日の残りのシチューだけで食事を済ませた。



