六月のパンプキンドッグ


 白い光の妖精が空気の中に遊び始めて、ジリジリとアスファルトを焼き始めた。まだ目玉焼きが焼けるフライパンではない。けれどパンの発酵くらいには役立つかもしれない。そのくらいの熱気。
 公園の木立ちの影に、少しずつ人が集まり出す季節だった。

「……よ」
「あぁ」

 くぬぎの木の影に置かれたベンチに、涼はのんびり背を預けて座っていた。順が公園に入ってきたのに気がつくと、ちょっと目を細めてこちらを見る。
 涼の家のほうがこの駅に近い。ついでに順は途中で寄り道をしていた。できる限り走ったが、最後は歩いた。結局、涼の到着前には間に合わなかったらしい。

「待たせたか?」
「風の音聞いてたから大丈夫」
「そっか」

 順は左手にぶら下げたスーパーのレジ袋をシャカシャカ鳴らしながら、涼の隣へ回り込んだ。腰掛ける。レジ袋に涼の視線が向いた。

「コンビニ飯?」
「いや。スーパーのフルーツ」
「なんでフルーツ」

 順は答えずに、無言でレジ袋の中身を見せた。
 雨の中で葉っぱの上に乗せていたなら紅玉のような煌めきを発揮するだろう、と思うその果物は、明るい光の中でも不思議と優しく微笑んでいた。
 山形県産。
 パックに詰められたさくらんぼ。

 あれ、と戸惑ったように涼は言った。

「……またさくらんぼだ」

 順は当たり前の顔をして頷いた。

「あの日……かき氷食べたときは、結局これ落ち着いて食べられなかっただろ」
「確かに。俺凍ってたしな」
「そう。お前は凍ってたし、俺はドライヤー壊したし、とにかく作った分のかき氷は食べないとって大騒ぎだった。で、お前、果物好きだって言ってただろ。だからまあ……味の上書き、みたいな?」

 順がパックの蓋を開けると、宝石のように艶やかな赤色が陽光を反射して輝いた。涼は一瞬、戸惑ったように瞬きをしたが、やがて骨ばった指を伸ばして一粒、摘み上げた。ぱくり。口に含む。真顔で彼は言った。

「……ぬるい」
「家のそばで買って電車でしばらく揺られてきたからだな」
「電車の日当たりどうだった?」
「絶好調。理想的なひなたぼっこスポット」
「じゃあしょうがないな」

 涼は笑った。順も一緒に笑った。
 二人は並んで座った間にパックを置き、へたや種を都度手の中に出しながら、しばらく無言でさくらんぼを口に運んだ。

「……あのさ、風町」

 順はふいに切り出した。

「ミナの犬の首に、かぼちゃのキャラあっただろ」
「かぼちゃくん喫茶のやつな」
「そう。あれ、俺あの喫茶店のくじ引きで当てたんだけど。ミナもそうだったのかな」
「ああ」

 順は涼のほうを振り返った。

「知ってたのか?」
「そりゃあまあ。だってミナちゃん持ってたし。何それ可愛いねって聞いてみたら、どこでどうやって手に入れたのか説明もしてくれたさ。あの黒い犬……大好きな生き物だからって、首元にあのかぼちゃ飾ってあげたんじゃないかな。そういう愛のある子だったろ」
「……」

 なんでそれ教えてくれなかったんだよ、と言おうとして、ふと気づく。
 教える時間なんてなかったのだ。あの日は警察が来て、話して、話を聞いて、それで別れた。それから今日まで会うことはなかったわけで、今日知ることができたのだから、要するに可能な限りの最短だった。
 そもそも、あれはただのキャラクターものの商品だ。別に何より優先すべき大事な話でもなんでもない。ただ、順がわずかに持っていたミナとのつながりだったというだけのこと。
 深く息を吐いて、順はまたもう一つさくらんぼを摘み上げた。

「あの夜さ、お前泣いてたじゃん」
「……」
「死ぬほど泣いてたな。いや、吐くほど?」
「吐いてないけど」
「お前があんなに泣くとは思わなかった」

 一瞬、涼の動きが止まる。口の中で噛み始めたさくらんぼの果肉を、彼は持て余し気味にした。スローモーションで果物を味わうように、再びゆっくりと彼は咀嚼し始める。
 涼の目は、遠くを見ていた。
 あの夜のことを、彼はきっと思い出していた。
 凄まじい泣き方をした涼。その隣で、ぼんやりしていた順。
 死体のミナ。黒い犬。
 散乱したゴミと段ボール。骸骨みたいに痩せて眠るように目を瞑っていた、幽霊そっくりな女の子。二人のガールフレンド。発見したかった人間。こんな姿では発見したくなかった人間。

「ミナが死んでるって最初に平然と言ったのはお前だろ。まだ死体も見つかってないってときに」
「だね」
「そこらの大人より全然取り乱さないで平気な顔して『ミナちゃんはとっくに幽霊だったんですから死んでるのも当たり前ですよ』みたいに言いそうな奴だなって思ってた」
「さすがに変な奴だろそれ。ちょっと狂気的だぞ」
「自覚してんのかよ」
「——あ、さくらんぼ最後の一個」

 ちょうどいいところで話を逸らされたな、と思いつつも、順は即座に『差し上げますよ』のジェスチャーをした。
 ついでに言葉でも言っておく。

「どうぞ」
「うわ紳士だ」

 これは普通の対応だろ、と順は言った。涼は真顔で反対意見を述べる。いやいや普通の男子高校生は奪い合いだろ? なんだその常識。野蛮人かよ。ハハハ言えてる人類みんな野蛮人。
 何言ってんだお前、と涼の肩をはたきながら、順はカバンから筆箱と一冊の小さな冊子を取り出した。
 最後の一粒をもぐもぐしながら、涼がひょいと顔をのぞかせる。

「何それ」
「数独」
「あーなるほど」
「やるか? 暇つぶしと脳トレ兼ねて」
「ん、やる」

 面白そう、と涼は頷いた。面白いぞ、と順は保証した。幼い頃から祖母が新聞に載っている数独パズルの欄を埋める手伝いをしていた順は、この手のパズルが大得意なのだった。

「数独やったことあるか?」
「ある。でもルール忘れた。なんだっけ、足し算してくやつ?」
「するなよ足し算」

 全然違う、と順は言って、涼に数独のルールを教え始めた。縦と横、それから九つで一セットの大枠の中に、それぞれ一から九までの数字が満遍なく入るように工夫するのだ。一桁の数字を数えることができてきちんと区別がつくのなら、足し算すらわからない幼稚園児でも遊ぶことができる。

「えー難しそう。空欄だらけだし」
「どこに入れるかじゃなくて、どこに入れちゃいけないかを考えながらやればいいんだ。ほら、こことここに三が入ってるだろ。だから……」

 順が教えていくうちに、涼はだんだん自力で数字を書き込めるようになってきた。
 シャーペンが動く。白と黒の格子模様。しんしんと数字の雪が降り積もってゆく。冬の日の雪の丘のような静けさ。
 無言の時間が続いていく。

「できた」

 しばらく時間が経過した頃、涼が完成した数独の表を順に見せた。

「おめでとう」

 順はそう言ってから、少しばかり意地悪な気持ちになって「それ、星一つだけどな」と付け加える。
 涼が首を傾げた。

「星一つ?」
「数独の難易度レベルが」
「んー、あー。つまりこれ最低レベルなのか」
「ちなみに俺にとってはそれ簡単すぎるから解いてなかった。もっと先めくっていったら、俺が書き込んでるページに辿り着くぞ」
「え……あ、本当だ。星五個とかあるな。どうやってんだこれ?」
「頑張る。そして解く」
「脳味噌がジャムサンドイッチで出来てるみたいな発言だな」
「なんだそれ」

 順は笑って言った。
 脳味噌がジャムサンドイッチ。今思いついたばかりの、脳筋という意味らしい。
 一つページが埋まった。そうすると、心の隙間も一ページ分埋まったような気がした。一区切りついたことを理由に、数独の本をカバンにしまう。筆箱も同じ場所にしまった。
 ふう、と息を吐いた。

「聞いても仕方がないかもしれないこと、一つ聞いていいか」
「うん」
「……結局。ミナの未練って、なんだったんだ?」

 ミナの幽霊は涼のそばにまとわりついていた。そして順も巻き込もうとした。涼の発言を信じるならば、大体そういうことだったのだ。
 けれど今から考えてみれば、順を巻き込んだ意味がさっぱりわからないのだ。
 犬につながる手がかりを与えたいだけなら、単純にパフェ無料券を順に渡すだけでよかったのだ。あるいは初めから、あの犬が姿を消さずに素直に順を案内していれば……。

 考えれば考えるほどわからない。
 ミナが、わざわざ二人で一緒に行動させた理由が。

 二人はいくつかの場所を訪れた。飲み屋で枝豆を食べて、映画館でポップコーンを食べて、涼の家でかき氷を食べた。思えば食べてばっかりだったなと、今更至極どうでもいいことを考えながら、順は指折って数えた。

「成仏を手伝えとかなんとか言ってたけど……まあ、結果的には役立ったのか? いや、やっぱよくわからん。ていうか全部わからん。ただ俺たち二人で外出して、ミナが散々それを揶揄ったり怖がらせたりしてただけみたいなんだけど」

 涼はしばらく無言になった。彼の視線が静かに外れる。ざわめく木の葉へ、木漏れ日の淡い薄緑色へ。枝の合間に作られた小鳥の巣のまろやかな楕円をなぞって、そして再び戻ってくる。

 ゆっくりと、彼は口を開いた。

「たぶんさ。ミナちゃん、好きな人と一緒にいたかったんだと思うよ」

 今度は順が無言になった。
 そうして、現実の音が静かに遠のいた。
 浜辺で聞こえる波のさざめきのように、涼の声が遠くから響いて聞こえてくる。

——順くんの話だよ。ミナちゃんが好きな人。勝手にその枠から自分を除外してたろ? でもそうじゃない。あの子はずっと君が好きだった。
——いやまあ、勘違いしないで欲しいんだけどさ。もちろん俺のことも好きだったと思うぜ? ……うん、自惚れじゃないが、俺のほうが勝ってたな。そりゃ当然な。
——でも、君のことも好きだった。全く俺と付き合ってるってのに、未練たっぷりのタラタラガールだった。順くんが、順くんがって、何度も何度も。君は……うん、なんだろうね、プリンの黒いカラメルみたいにミナの魂に派手に染み付いた色素って感じかな。俺の砂糖で上書きしようとしてんのに、全然上手くいかねえの。完全勝利できないことが最初から決まってるレース走ってるみたいで、俺、あの半端な感じが結構辛かったんだからな。

 ハア、とため息を吐く涼。
 順は彼になんと言っていいかよくわからなかった。
 だからずっと黙っていた。
 ぼんやりと耳の奥に響く涼の声を聞きながら、ずっと。

「ミナちゃんがよく言ってたよ。悪いことしちゃったー、って。後悔はしてないけど、それでも。最初で最後のチャンスふいにしちゃった気がするって繰り返してた。善意で手を差し伸べてくれた人の心臓を刺しちゃったって、いくら鬱陶しくてもそんなことするべきじゃなかったのかもって」
「……」
「いやいや、後悔してないなんて、絶対嘘だよなって思ったてたさ俺は。やり直したくて仕方がなかったに決まってる。もう一度チャンスがあれば、少しは違うことできたはずだって、ミナちゃんはずっと悶々と布団虫になって泣いてる子供みたいだった」

 そう。どんなに後悔しても、時は巻いて戻せない。
 だからミナに心臓を刺された男は深く傷ついて、もう彼女と関わろうとはしなかった。自分がいないほうが彼女が幸せだと、ダンゴムシみたいに体を丸めて閉じこもった。
 ミナはそれを、自分のせいだと思った。事実、きっとそうだった。

 彼女は男に、人間と人間として喧嘩するチャンスくらいはあげるべきだったのだ。けれどそうしなかった。代わりに、いらない虫を見る目で男を拒絶しその場に捨てていった。だから男は捨てられた虫の殻をかぶって透明になるしかなくなってしまった。

 そんな風に、ミナは繰り返し順の話をしたのだった。順くんが、順くんは、順くんの。
 それを涼という今の恋人を前にしてすることが、どれほど不誠実で罪深いことか理解していながら、それをやめることは彼女にはできなかったのだ。
 何度も、何度も。
 涼の前で、そんな話をしていた。

 ミナは完璧な人間でも、隙のない人格者でもなかった。
 苦しくて悲しくて、辛くて悔しくて、欠点だらけで、そういう意味でどこにでもいる一人の女の子だった。

 話し終わった涼は、順の顔をじっと見つめた。
 どこかで虫の鳴き声が聞こえる。公園の音が聞こえる。そして二人の周辺はとても静かだった。
 しばらくして、涼は言った。

「ミナちゃんは、俺を『死なない理由』にしてくれなかった」

 淡々とした声だった。落ち着いた声のように聞こえた。
 けれど、それはきっと勘違いだった。彼の声には、まるで車輪が坂を転げ落ちるような加速度で情念が加えられ、それが強く強く増していった。

「幽霊になって俺のとこにまで来たのに。助けてって言葉一つくれなかった。まだ生きてるってヒントすらくれなかった。まだ間に合ったのに。絶対なんとかしてやったのに。気づかなかった俺が悪かったのか? あの子の魂に踏み込めない臆病な俺だったからダメだったのか? 犬抱えてどっか行く前に、俺が無理やりあの子の首に紐つけて引っ張ってやるべきだったのか? いいや違うね。ミナちゃんはそんな甘い生き物じゃなかったさ。全力でぶつかっても跳ね返される、優しくお辞儀して手を差し伸べても跳ね除けられる。そういう子だった。めんどくさかったよものすごく。俺はあの子のそんなところを愛してたんだ」

 言葉が溢れ出す。
 湯水のように、後から後から湧いてくる。
 涼が両手で手を覆った。

「犬に、負けたんだよ。俺は」
「犬に」
「そう。俺が人間だったから。だから負けた」

 順は涼が吐き出す言葉を、全部聞いていた。
 人間だったから、犬に負けた。そんな理屈は聞いたことがなかった。その理由づけはどこかおかしい。そう言うのは簡単だった。けれどなぜか言えなかった。

「……ちくしょう……」

 絞り出すような涼の声が、喉の奥で不自然に詰まったようになる。
 涼の目に、じわりと滲んだ涙が浮かぶのが見えた。水晶の粒。塩化ナトリウムの溶けた雫。人間ってどうしてこうも脆いんだろうかと、順はぼんやり考える。

「また泣くのかよ」

 自分が何を喋っているのか。
 よくわからないままに順は言った。

「……逆に、なんで君は泣いてないんだよ」

 返ってきたのは涙声だった。
 その問いに答える前に、順はふっと空を見上げた。
 公園を覆い尽くす空はそろそろ陽が傾き始めた頃で、うっすらと赤く染まり始めていた。静かな夕日。太陽がよく見える、丁寧な空模様。
 雷神様も、風神様も、今日はお休み。雨の小僧も同じく暇を出されているようで。洗濯する人々にとって祝福の天気。
 順はゆっくりと口を開いて、一番最初に思いついた答えを言った。

「雨が降ってないから」

 なんじゃそりゃ、と呆れたような声が聞こえた。意味わからん。と。
 安心して欲しい、と順は思った。
 何せ、自分でも自分の言ったことの意味がよく分からなかったのだから。


 二人はゴミをまとめて立ち上がり、静かに公園をあとにした。
 影が長く伸びていた。二人が歩くと、影はゆらめきながら伸び縮みした。
 人間が一人死んだくらいで、自然の営みは変わらない。樹木が伸びる。草が伸びる。花が咲いては枯れてゆく。明日になればまた黄金の太陽が昇って沈み、白銀の月もうさぎの模様やらカニの模様やら勝手に囃し立てられ指さされながら宇宙を船のように滑ってゆく。
 ミナは塵になった。
 土になる。
 自然に還る。
 そして地球はまわってゆく。

「なあ、相棒」

 涼に呼びかけられて、順は瞬きした。

「その呼び方ちょっと久しぶりか?」
「そうかも」
「久しぶり記念になんかするか」
「えー、鬼ごっことか」
「小学生の発想かよ。てか二人だけで鬼ごっこして何が面白いんだ」
「じゃあミナちゃんを何かにたとえてみようゲームしようぜ」
「却下」

 自分だけでなく、涼のテンションもまだおかしいのかもしれない。いや、涼のほうが順に比べておかしい度合いが高そうだった。
 何が『じゃあ』だと、呆れ果てながら順は言った。

「不謹慎すぎるだろうが。恋人死んだばかりで、仮にも正式な彼氏がそんなこと言うなよ」
「寂しすぎて死にそう。ひたすらミナちゃんの話してないと息苦しくなって溺れそうになる」
「泳ぐの止めたら呼吸できないマグロ状態じゃんか」

 仕方ないな、と順は言った。
 棄却された提案は再度交渉のテーブルに乗せられ、そして相手の譲歩を勝ち取った。
 しばらくして、順が口を開いた。

「ミナをたとえるなら……お正月の黒豆」
「へえ」

 お正月の黒豆。小さくて黒くて甘い、重箱の中を彩る宝石。
 順が子供の頃、一番好きなお節料理だった。数の子もたづくりも口に合わない中、祖母と母が手ずから煮た豆はほっとする味で安心した。
 好きなものは、好きなものでたとえたい。
 そんな心境だった。
 考えを巡らせながら、口を開く。

「これ選んだ理由は、」と順は言う。
「真っ黒になるまで、まめに働く勤勉さを願って……ほら、テニス部のミナの応援ソングみたいな料理だから」
「ああ、なるほど」

 涼がぽんと手を叩く。
 なるほどなあ。よく考えるなあ。
 感心したように、涼はうんうんと頷いた。結局涼は聞くだけ聞いておきながら、自分では何も語らなかった。ミナの話するんじゃなかったのか、と尋ねてみると、「それはそうだけどさ……」と少し歯切れ悪い返事が返ってくる。

「でも……いざ喋ろうとすると、あんまり言葉が出なくて」

 順は足元で靴に当たった小石が転がっていく音を聞きながら、その行き先をぼんやりと目で追った。

「そういうこともあるさ」
「うん」

 鐘が鳴る。暗い街中へ金属の深みが響いていく。
 ……鴉と一緒に帰りましょ。
 昔歌っていた童謡の歌詞を思い出して、順はそっと上を向いた。

「夕焼け小焼けで、日が暮れて」

 そっと唇にメロディを乗せると、隣で涼がその歌を引き継いだ。

「山のお寺の鐘が鳴る」

 ゆっくりと。二人の声が重なってゆく。

「おてて繋いで皆帰ろ」
「鴉と一緒に」
「帰りましょう」

 桃色と紫色が混じり合った雲が西の地平線のほうへ浮かんでいる。東の空はすでに暗い。
 灰色の建物が濃い紺色の暗幕の中へと沈んでいく。鮮やかな赤色をしたポストは墨を混ぜたような暗がりへ、パン屋のオレンジ色の屋根も枯れかけの樹のような侘しい影へ。
 けれどもまだ、お互いの顔が見える時間。
 手を繋がなくとも、人間と人間の繋がりがしっかりとわかる時間。


「そういえば」と涼が言った。
「かぼちゃくんキーホルダー、俺も取ってこようかな」
「え?」

 順が振り向くと、涼は思案するような表情をしていた。

「取ってくるって、どこから」
「いや。かぼちゃくん喫茶から。普通に飲み食いして、最後のカウンターでくじ引きしようかなと」
「でも当たるかどうかは運だろ?」
「いや百パーセント当たるらしい」
「は?」

 涼は説明した。
 今現在、六月いっぱいの期間限定でそのくじ引きは実施されている。三等であるかぼちゃくんキーホルダーは最も当たる確率が高い。二等以上を当てる人はほとんどいないが、キーホルダーが欲しい人はただ引けば大体当たってしまう。

「……そうだったのか?」
「店員がさぞ特別感あふれる笑顔で『おめでとう!』って言うもんだがら、みんなコロッと騙されるらしいな。ミナが言ってたけど、二回目以降は『もういらないです』って客側から断るのが普通なんだってさ」
「なんだよ」

 順は気が抜けたような気分で言った。

「犬の首にあれぶら下がってるの見たとき、心臓止まるかってくらい驚いたのに。落ち着いて後から考えてみても、ミナも俺も同じ商品当てるとか、あまりにも巡り合わせが奇跡的すぎるし……」
「そこまで奇跡的な話じゃなかったかもな」
「緊張して損した」
「ハハッ」

 脱力した順を見て、楽しげに涼が笑う。
 ひとしきり笑った後で、涼は顎に手を当てて首を傾げた。

「よく考えると俺たちのここ一ヶ月、結構怖い話まみれだったりする?」
「逆に怖くない要素があるのか?」
「うーん」

 ミナの幽霊。犬の幽霊。かぼちゃのキーホルダー。
 雨降る寂れた街で、死体で見つかった恋人。彼女の元へ先導したのは、すでに息絶えているはずの黒犬だった。
 これを目の前にして怖くない、と豪語するやつがいるのなら、順はそいつの神経を疑うだろう。

 そんなことを考えていると、涼がとんでもないことを言った。

「幽霊犬の都市伝説。ちょっと学校で流行らしてみるか?」
「はあ?」
「怖い話ってみんな好きだろ」
「そうじゃなくて。なんで流行らせるかどうかの話になってるんだ」
「八つ当たり」
「何の」
「この宇宙全部に」
「……壮大だな?」

 涼は真顔で「足りないぐらいさ」と言った。
 宇宙じゃ足りない。宇宙を風船みたいに無限に膨らませて膨張の果てに辿りいてもまだ足りない。膨らみすぎて星と星の材料が薄まりすぎて透明になってついに弾けて爆発して消えてもう一回最初から宇宙が作り直されて、それを全部ひっくるめても全然足りない。
 そのぐらい大きな八つ当たりがしたい。
 けれどできない。
 できないのだから、もっともっとちっぽけで、しょうもない八つ当たりをするのだ。

「パンプキンドッグとか良さそう」
「いきなりどうした」
「幽霊犬の名前さ。かぼちゃのチャームを首につけてる犬だから、パンプキンドッグ。……パンプキンドッグは愛する人の死を教えてくれる。いなくなってしまった大好きな人の元に連れていく。けれどもうその人は死んでいる」

 歌うように、涼は口ずさむ。

 パンプキンドッグ、パンプキンドッグ。
 どうして君は私をあの子のところへ案内したの?
 どうして死んでいる人の元へ連れて行ったの?

 パンプキンドッグ、パンプキンドッグ。
 責めてるわけじゃないんだ。
 お前が悪いわけじゃないって本当はみんなわかってる。
 ただ、悲しくて、悲しくて……。

 パンプキンドッグ。可哀想なパンプキン。
 君はもう死んでいる。あの子と一緒に、死んでいたんだ。
 お墓のない人のための番犬、六月のパンプキンドッグ。


「……歌が上手いんだな」
「そうかい」
「作詞作曲と歌う才能、両方あるんじゃないか」
「じゃあシンガーソングライターだな。将来の夢」

 涼は遠くのどこかを見ているようにそう言った。順はそんな彼の横顔を、じっと眺めていた。

「カラオケでも行くか?」

 考えて考えて、その果てに発された順の言葉に、涼は瞬きした。
 そして順に問い返す。

「いつ?」
「明日とか」

 すかさず順は言った。

「んー」

 涼は斜めに首を傾げながら、悩むような声を出した。時間は静かにすぎてゆく。しばらくして、涼は軽く頷いた。

「……じゃ、行こうかな。どうせ予定ないし」

 彼は微笑んだ。
 奇しくもその微笑みは、初日に順が彼に声をかけられたときと同じ雰囲気をまとっていた。
 一見軽薄なのに、一番真剣なときのミナの顔によく似ている。
 ああ。この人は彼女の恋人だったのだと、順の感性が真っ先に納得してしまう、不思議に温かい表情。

 別れ際になって、順は涼に問いかけた。

「幽霊の気配を昔から感じてたって、本当だったのか?」
「さあ。今更どっちでもいいんじゃないか。そんなこと」
「でも聞きたい」

 順は、涼のほうを振り返る。
 ポケットに手を突っ込んで立ち止まった涼が、じっと順のほうを見返していた。

「どう答えてもらってもいい。相棒の言うことは……信じるから」

 その瞬間、涼は妙な感情を湛えた表情を浮かべた。
 彼は口を開く。静かに動く。
 それを順は見ている。
 これから長い付き合いになる友人のために、顔も心臓も脳みそもじっとそちらを見つめている。


「——————」


 六月三十日。
 二人が立つ道路の脇に、花びらの一部が薄茶色に枯れ始めた紫陽花が咲いていた。