濁った星空の中に、滝のような雨が降り注いで灰色に溶けていく。
警察のパトカーが到着し、辺りが赤色灯の点滅に彩られて騒がしさの中に巻き込まれていくまで、順と涼はただその場にへたり込んでいた。
「……君たち、彼女を発見した経緯を教えてくれる?」
警察に保護されてから、当然の流れで事情聴取が行われた。
二人は事前に示し合わせた通りに応えた。
松風さんが行きそうな場所を二人で探していたのだ。
『昔住んでいたことがある』『好きだった場所がある』そんなことを言っていたような場所を求めて。
うろ覚えだったものの、何かがあったと感じた場所を、色々とダメ元で資料を当たりながら探して……それで、最終的にここに来て。
「見つけた、と」
「「はい」」
当然、これは真っ赤な嘘だった。ミナがこんな寂れたシャッター街に縁があったなんて話は一度も聞いたことがなかった。
二人は、幽霊になったミナ。そして彼女のそばで死んでいた犬によって導かれた。順が犬を追いかけて、涼がその順を追いかけて、それでここに辿り着いたのだったから。
けれど、正直にそのまま話せば事態は余計にややこしくなる。
もう二人は十分すぎるほど疲れていた。
これ以上の面倒ごとはごめんだった。
涼はミナの彼氏だったため、すでに別の警官に事情聴取を受けていたようで、警官は残念そうな表情で頭をかいてくしゃくしゃにしていた。
「涼くん。色々君が考えていたのはよくわかる。わかるんだけど……できればその心当たりっていうのを、すぐこっちと共有して欲しかったなあ。信頼しにくいかもしれないけど、一応こっちは捜査のプロだから。まあ、これからでいいんだけどね、これからで」
非常に人の良さそうな警官だった。日頃から鍛えているのか、筋骨隆々だった。
涼はただ「最近、ずっと頭がぐちゃぐちゃで……冷静な判断できてませんでした。すみません」と謝った。警察も、それ以上の追及はしなかった。
事情聴取に、それほどの時間はかからなかった。どうにも鑑定結果や現場の全体的な状況などから推定されるのが、どう考えても殺人事件ではないらしいとわかっているかららしかった。発見の経緯なんてものは、あくまで軽い確認作業。一応こなしておくべき軽い仕事。
「協力してくれてありがとう。今日はもう帰っていいよ。ゆっくり休んで」
警察から解放された時、小降りの雨が降っていた。
近頃は雨足が強くなったり、また弱くなったり、大波小波と寄せてきて船を揺らすような天候だった。一度もからりと晴れず、ただ揺蕩う蝋燭の灯りのように不確かな何かだった。
まるで終わりのない悪夢のようだなと順は思った。
けれど実のところ、悪夢はもう終わりなのだった。
ミナの死体を見た瞬間、涼も順も夢から覚めた。
そうして覚めてしまうということは、いつか覚める日を願うことができなくなるということ。笑っても泣いてもこれが現実で、現実を抱き抱えながら二人は生きていくしかないのだった。
*
翌日から、学校は異様な熱気に包まれた。
行方不明だった松風ミナが遺体で見つかったという噂は、瞬く間に校内を駆け巡った。朝のホームルームで沈痛な面持ちの担任が報告をする前から、多くの生徒たちの間で静かに情報が拡散されていく。それはどこか青い色がふわりと広がる硫酸銅水溶液にも似て、あっという間の出来事だった。
休み時間になるたび、あちらこちらで話す声が順の耳に飛び込んでくる。
風の速さで情報は飛び回っていた。
「ねえ、聞いた? びっくりだよね……」
「いなくなったのはわかってたけど、せいぜい家出だと思ってた」
「悲しい。あの子、すっごくいい人だったんだよ。私が水着忘れたときにさ……」
「人生いつ幕引き来るかわかんないってことかね。うち、もっと真面目に生きたほうがいいかも」
最初は、ただミナが死んでしまったという事実確認や、驚きの感情ばかりの言葉だった。そして噂の内容は、少しずつ道を逸れるように変化していく。
囁きに暗いものが混じり始める。
新しい情報。ミナの死に、理由をつけたい人々の好奇心。それらが混じり合って、噂の色合いが変化していく。
「あの子のうちってさ、結構ひどかったらしいよ」
「毒親だって」
「過保護と虐待と……ほったらかし。あ、それも虐待に入るんだっけ?」
「親としょっちゅう大喧嘩して家飛び出してたって。近所の子が言ってた」
「そう! だからただの家出だと思ってたんだけど……」
好き勝手に騒いでいる。けれど、的外れではない。悪意もない。
きっとただ、少しばかり個人的な感情に脚色されているだけの事実なのだった。
順は思い出した。
ミナは素朴で明るくて、いつも優しく笑っていた。だけど決して、それだけの女の子ではなかった。
テニスコートで駆け回っているために、日焼け止めをどんなに塗っても真っ黒に焼けてしまう。そんな彼女は、よくうっすらと化粧をして登校してきた。
教師が廊下でミナを呼び止め、呆れたように指導をする様子は順も目撃したことがある。
「おい松風、化粧禁止だっつったろ」
「いや、日焼けしてるから、ちょっと白くしたいんですよー」
「理屈はわかるが、他のテニス部員はどうしてる。お前だけ例外にすると、他の生徒に示しがつかないんだ」
「はーい、すみません。次は気をつけます」
「まったく。百回言っても効果ないな。俺のこと舐めてる?」
「舐めてませーん、ふふっ」
太陽のような。真珠のような。露の溢れて笑う花のような。
そんな女の子。
教師とあんな距離感で喋れる子がいるんだ、と驚かされる。友人は適当に作って、授業中は適度に埋もれて、課外活動の表彰で少しだけ輝く控えめなお星様。
けれど順は、見過ごせない、と思った。
何が?
ミナが内側に抱え込んだ闇を。銀の月光だけで丁寧に包み込んで隠している、嵌れば抜け出せないような真夜中の泥沼を。
何せ、ミナの家庭環境が良くないことは、勘のいい人にとって自然に察せられてしまうものだったのだ。
当然、なんとなく感じただけだった。はっきりとミナの口から事情を聞いたことは一度もなかった。
ミナは携帯に個人情報が残る使い方をしなかった。監視されている子供の行動だった。帰宅は数分でも遅れることを避けていた。門限を破るとどうなるかわからないと恐れている仕草だった。
母親は極端な過干渉だったらしい。
父親の話は一切聞かなかった。影も形もない。不自然なほどに、父の色も香りもミナから感じられなかった。
彼は家庭に関心がなく、妻も子供もほったらかしで外泊を繰り返す人だったようだった。
その全部が、なんとなく、順の知るミナの裏側へ、静かに見え隠れしていた。
「ミナ、その化粧」
放課後の緑道を歩きながら、順はある日切り出した。
「殴られてあざになってるの、隠してる?」
ミナはそのとき、奇跡のように美しいとんぼを一匹、右手の人差し指に乗せていた。風に合わせるように、透明な翅がゆっくりと上下していた。緩やかな曲線を描いた細長い身体が、夕暮れの中に黒々と浮かび上がる。
ミナが返事をしようとしないので、順は慎重に口を開いた。少しだけ、踏み込む覚悟を決めたのだ。気づかないふりをしているのは良くないと思った。彼女をガールフレンドと呼ぶ立場にある自分の、責任として。
「やったの、親か? お母さん?」
「……」
「それなら……虐待だろ。一度、誰か大人に相談したほうがいい。……あの、勘違いならそう言って。俺謝るから。でも、もしそうなら……そうだとしたら。だってこのままじゃミナにとっても、親にとっても……」
くるり。
ミナが円を描いて回った。ふわり、とスカートが舞った。目を閉じて空を見上げる彼女の片足を起点に、野生の樹木を包み込むような彼女の全てが風に伸びて広がった。
順の喉で息が詰まり、言葉が切れた。
一瞬のうちに、順は何もいえなくなっていた。
ミナは美しかった。いつの彼女よりも、ずっとずっと美しかった。気高い少女は今の時間を生きていた。秋の妖精のような彼女は、世界で一番高いところで笑っている。
高々と差し上げた指先から、とんぼが優しく飛び立っていく。
気付けばミナがこちらを見ていた。
夢のように綺麗な順のガールフレンドは、囁くように言った。
「順くん」
ミナは優しく微笑んでいた。目だけが笑っていなかった。
「さようなら」
わけがわからなかった。なんで、とか。どうして、とか。そういうことを言って順は彼女を追いかけようとした。
そして彼女が振り返る。
そして知った。順ははっきりと理解してしまった。
すでに全てが手遅れだった。ミナは順を捨てていった。足で踏み潰したり、ナイフで切りつけたり、そんなことをする価値もないから、順はただその場に置いていかれただけだった。
さっきミナが飛ばしたとんぼと同じだった。順は、ただの虫だった。気まぐれに彼女の手にとめてもらっただけの、運の良い昆虫だった。
「土足厳禁」
何度も彼女と歩いた緑道で、呆然と順は立ち尽くしていた。
おばかさん、という移り気な声が。
秋の乾いた風に乗って聞こえたような気がした。
噂が巡る。巡り巡って、また新しいものを途中で取り入れながら、くるくると周回していく。
「松風さん、犬と心中したって知ってる?」
順が購買部でパンを買っている時、隣にいた女子生徒たちがヒソヒソと話しているのが聞こえてきた。
「捨て犬だったんだって。親が飼うの許してくれなくて、そのまま家出して……」
「犬と一緒に?」
「そう。それで……」
それで、餓死。いや、渇死?
会話は続く。雨の中で渇死? そんなのあるの。あるんだね、すごい覚悟。復讐かな。そうだよね。怖いね、怨念だよ。恨みつらみの終着地。
順は何も聞かなかったふりをして、ただその場を立ち去った。
……覚えている。ずっとそう。今も順は鮮やかに思い出す。遺体のそばに残されていたメモのことを。
『犬殺し』『人殺し』『馬鹿野郎』
警察に提出したため、現物はもう手元になかった。けれど、雨に滲んだあの文字は、確かに順の目の裏側に焼き付いて離れない。
噂の立ち聞きによって、順はかなりの情報を得ていた。
本当に真実かどうかは曖昧で、けれどきっと真実に限りなく近いのではないかという情報を。
ミナは犬と一緒に生きたかった。だから拾ってきて、育てようとした。そして母親と衝突した。捨ててこい、と命じられた。大喧嘩の果てに、わかったと彼女は言った。そして家を飛び出した。
彼女は犬を捨てなかった。
あの寂れたシャッター街で、彼女は犬と二人ぼっちだった。
順はぼんやりと反芻する。
あのメモは、親に向けた呪詛だったのだろうか。それとも、犬一匹すら救えない自分や世界へ向けた哀しみの刃だったのだろうか。
『犬殺し』
犬を殺したかったんでしょ。そら、殺してやった。あんたたちがこの子を殺したんだよ。
『人殺し』
ほら、お望み通り。いつだって私を生かしたいだなんて思ってなかったあんたたちへ。私は死んだよ。そう、あなたたちが私を殺したんだよ!
彼女の叫びが、あの冷たい雨の中に響いていたような気がした。親を後悔させるため? 苦しませるため? いいや違う。その程度で済むような生やさしいものじゃなかった。悲しい、悔しい、やりきれない、太陽が死ぬ間際の真っ黒な炎熱の塊だった。
雨ばかりのあの街で、彼女は何を思っていたのだろう、と思う。
食べるのも飲むのも嫌になった瞬間が、きっと、彼女の生命の終わりだった。
本当はそんなことなかったのに。誰かに見つけてもらえれば、助けてもらえば、まだミナの人生はその先へ続いていたはずだったのに。それをミナは自分で拒絶してしまった。
幽霊になって抜け出して、涼のそばをうろうろと彷徨ったその瞬間。まだミナの心臓は動いていたはずだった。異国情緒の飲み屋や、映画館で順や涼が時間を少しずつ消費していたそのときにも、ミナの体からゆっくりと鼓動が消えていった。
春の季節がゆっくりと溶けて、境界線の雨の季節も同じようになって、いつか夏に覆い尽くされて全部がセミと緑と熱い風に染まってしまうのと同じように。ミナの命が世界に塗りつぶされていく。
巡る季節と違って、ミナの呼吸は、鼓動は、取り返しがつかないものなのだというのに。
取り返したいと願う人が山ほどいることも、それを全部裏切ることになることも、ミナは全部承知していたはずなのに。
彼女が死んでからたったの数時間後。
それが、順や涼がミナを発見した時間だった。
遺体の腐敗がほとんどなかったのは、当たり前のことだった。
「……」
順は無言で窓の外の校庭を見た。いくつかの植えられた樹木や花々に混じって、小さな藤棚が見える。黒い枝が巻き付いた四角い屋根の下には誰もいない。
しばらくそうしていた。
けれど時間は進む。鐘が鳴る。
順は廊下を歩き出した。
*
順は普段の暮らしに戻っていった。
授業を受け、部活に行き、時折周囲のクラスメイトとバカな話をして笑った。課題を提出し、小テストの勉強をして、得意科目では良い点数を、苦手科目では悪い点数を取った。
ミナの事件は、繰り返し語られ擦り切れて古びた布のようになってゆき、学校でも話題に上ることは少なくなった。
うっすらと漂う水の気配が、緑の色濃い芳醇さに食い尽くされ始めていた。太陽が黄色く光り始め、遮る雲がなくなったことを喜びに木の芽や草が伸びやかに成長し始める。
まだ夏ではない。もうすぐ夏がやってくる季節だった。
暑くなり始めると、日本の夏はあっという間に最高潮に追い立てられていく。
涼は少し青い顔をしていたが、順と同じくあっさり翌日から学校へ登校してきた。
幸いなことに、二人がミナの遺体の第一発見者であるという情報は、警察関係者によって一般に情報が漏れないよう固く伏せられていた。そのおかげだろう。順と涼の生活は静かなものだった。
噂に上っていたのはただ、ミナとミナの家族。
それから一緒に死んでいた犬に関することだけだった。
土曜日の午後のこと。
順は自室のベッドに寝転び、網戸から吹き込む風を浴びながら天井を眺めていた。
飲み屋の枝豆のクリスタルみたいに煌めいた塩も、セピア色の農園で美しい男女がキスをした瞬間を見ていたのも、レトロなかき氷マシーンからゆっくりと霜が這い寄ってきたホラー現象も、みんな遠い夢の中の出来事のようだった。
順にはもう、あの犬の幽霊は見えない。
きっと涼も、ミナの幽霊を見ることはない。
涼が見ていた幽霊とはきっと、命あるのに生きることを諦めた少女の、最後の夢のかけらのようなものだったのだから。
順が見ていた幽霊犬は、そんな彼女のもう一つの夢だった。見つけて欲しいと、自分が死んだ後にここへ来て欲しいと、そう願った女の子の暗い祈りが込められていた。
ふいに順はスマートフォンを手に取った。
メッセージアプリを開く。トーク履歴の名前をスクロールして、割合上のほうに残っていた「Ryo」の名前をタップする。
少し迷う。
最後に交わした言葉は、なんだったか。きっとどうでもいいようなことだった。それじゃあ、とか、そんな感じの。
順は六分ほど迷ってから、短いメッセージを打ち込んだ。
『週末空いてる?』
送信ボタンを押す。二時間後になってから、もう一度スマホを拾い上げてみる。すでに既読がついていた。ついでに『空いてる』という返事もあった。
順はスマホに向き合った。マップアプリで検索して目的の場所にピンを刺し、そのリンクを添付する。
『【マップ】』
『↑ここで会いたい』
スマホの画面を暗くして伏せて置く。
返信を待つ間、窓の外では道端のひまわりが、強すぎる太陽に向かって背筋を伸ばしていた。まだ花は咲いていない。けれど去年も一昨年も、あそこにはひまわりが咲いていた。今年もきっと、燃え上がるイエローの箒のように宇宙を向いて咲き誇るのだろう。
ぼんやり待っていると、ブブッとスマホのバイブレーションが鳴った。
画面を明るくする。涼の返事が並んでいた。
『OK』
『週末って今日? 明日でもいいけど』
また少し考えながら、ゆっくりと指を動かしてメッセージを打ち込む。
『できれば今日で』
送信マークを押すと、その瞬間に既読が付いた。そしてぽんぽんとリズムよく文字が出現した。
『わかった』
『何時?』
順はスマホを持ち上げながら立ち上がった。
『今』
引き出しを開けて財布とICカードをポケットにねじ込む。ちょっと考えて、カバンを拾ってそこに筆箱と数独の本を放り込んだ。順はそのまま家から駆け出した。すっきりした午後の風が吹いている。
走っていると、その隣を自転車に乗った大学生が抜けてゆき、掃き溜めの木の葉を縦向きにまき上げた。その自転車のカゴにはお弁当が収まっていて、それは強烈な揚げ物とキンピラとご飯の混ざった匂いですぐにわかった。
どこかで鈴が鳴っている。小学生が鈴を鳴らしている。
手首に飾りをつけた女の子が、自動車が外出中の家の駐車場で、スマホを前に立てかけて動画を撮りながらダンスを踊っていた。
シャボン玉が飛んでくる。マンションの三階のベランダから、虹色の泡がビールのジョッキを乗り越えてくるように溢れ出していた。
初夏だった。
夏の始まりの午後に、順は街を走っていった。



