紫陽花の花の輪郭がぼやけるように、ゆうらりと雫が滴っている。土は黒く濁った色をしていた。そばの街路樹はどうやら桜で、今の季節は、葉っぱに包まれボリューミーなドレスを着た婦人のようだった。
バサバサ、と鳥の羽ばたく音がする。
どこかで鴉が飛んでいるんだろうなとぼんやり思う。
野良犬のように忌避されながらも、野良犬のように排除されることはない。
漆黒の濡羽。艶やかで小さな瞳。悠々と天空を滑空していく、神秘の生き物。ゴミを食べて、漁って、隙間を見つけて、生きる現代の鳥。
(何を……考えてるんだろう)
順は夕暮れの街で立ち尽くしていた。彼の手の中には、ついさっき会計時のくじ引きで手に入れたばかりのかぼちゃくんキーホルダーがある。プラスチックで作られた、工場の量産品。なんでもないようなキャラクターものの商品。けれど、その造形は順の視界の端をかすめては消えていった、あの野良犬の首輪についていたものと寸分違わぬものだった。
ただそれだけ。
それだけ……なのに、絶対にそれだけではなかった。何かがあると、それはとてつもなく大きなものであると、順はハッキリと感じていた。
(考えなきゃ……いけないはず。なのに……)
思考がまとまらない。
色褪せてぼやけた世界をただ観測している。まるで望遠鏡を覗いているだけで何を発見することもない天文学者のような。日々海辺で波の破片を蹴って遊んでいるのに、嵐の日も津波の日も、誰にも何も警告する材料を見つけることができなかった少女のような。
わからない。
順は見ている。色々なことを見ているはずで。
それでも……見ているものに付与される意味が、掴めない。
『——松風さん、三日前から家に帰ってないんだって』
まだ三日だった。あのときは。
もう二週間だった。いつの間にか。
どうしよう、と順は思った。何に対してのどうしようなのかもわからないまま。
空を見るのも、土を見るのも辛い。気分が悪い。迷い犬のように心細い。どうすればいいのかわからない。
「あれっ? えっと、あー、ケンくん。だっけ?」
振り返る。
ビニール傘を杖みたいについて、私服の上に缶バッジがカラフルにくっついたリュックを背負った男。
「あっ、いや、違ったかな……なんか違う気がする。もっと文字数多かったかも……ケビンくん?」
「……」
飲み屋の店員。アルバイトをしていた人。
カズ、と呼ばれていた童顔の男が、通りがかりに順に声をかけたのだった。
順が名乗り、ひどい間違いをしてしまったことを悟ると、カズは手を合わせて拝みのポーズで謝り倒してきた。
「いやあ〜、大変申し訳ない」
「いいですよ。むしろ覚えてないのが普通です。一度会ったきりですから」
「でもねえ。名前って本人にとってはだいぶ重要なアイテムだと思うんだなあ。覚えてもらってたらすっごく嬉しいけど、間違えられるとズーンッて残念な気持ちになるっていうか……」
順は目を瞬かせた。
「大丈夫。俺、本当に気にしません」
「うん、ありがとうね」
カズは、これからバイトなんだよねと順に言った。大学の講義が終わって、直行で帰ってきて、そうすると少し時間に余裕があるから途中でのんびり散歩をしていく。
そうすると見覚えのある人影が見えたから。だから、声をかけてみたのだと。
「順くん、誰か待ってるの?」
「いえ」
「確かに。待ち合わせスポットって感じじゃないかあ、ここ」
「桜はありますけどね」
「あ。これずらっと並んでるの、全部桜か」
「春はとっくに過ぎているので……葉桜ですけど」
「へえ。俺ここあんまし通らないんだ。今日はたまたまだから。結構植物とか植わってるし、もっと来てみようかなあ。カメラとか持って」
写真撮るんですか、と聞いてみる。
「芸術学部。写真学科」
「……ああ」
「そうそう。俺、将来写真館に就職したいんだ。まあ本当はアーティストとして名が売れたら最高だけど、まあ望み薄だからなあ。今大学生やってるけど、フィルム代とか色々と高過ぎて金欠で、結局バイト詰め込んでやる羽目になってね……トホホ」
「でも接客業も向いてると思います」
「そう言ってくれるの、嬉しいなあ」
穏やかな風船みたいな顔をピカピカさせて、カズは笑った。その笑顔を見ていると、順はなんとなく安心するような心地になった。
「……カズさん。これからバイトなんですよね。もしお邪魔でなければ……ついていってもいいですか」
気付けば順はそう言っていた。
カズは丸い目をさらに丸くして、パチパチと瞬きをした。
「え、お店に? 全然いいけど……あ、もしかして、今度こそ女将さんのパンケーキ食べてくれる気になった? 順くんたち、この前は枝豆しか食べてなかったもんね」
「あ……いえ」
順はさっき食べた大きなパフェが胃腸の中で甘いものの容量を体積いっぱい占めているのを感じていた。口の中にも、砂糖の感触が残っている。非常に残念なことではあるが、デザートをこれ以上食べる気にはなれない。
「すみません。実はさっき、別の店で甘いものを食べてしまって。できればパンケーキは遠慮したいんですが……」
「あはは、全然気にしないでいいよ。女将さん、順のこと気に入ってたっぽいから、喜ぶと思うなあ。じゃあ、行こうか」
一度目は涼に導かれてあの店を訪れた。
二度目に順を導くものは、カズだった。
順は再びあの極彩色のアラベスク模様の扉へと向かうことになった。
入店すると、乾燥したスパイスの香りと、重厚なバターの匂いがふわりと順を包み込んだ。そして複雑な色彩と形容の暴力、圧倒的にたくさん並べ立てられた土産物たちの奇妙な調和。
ああ、ここだ、と思った。戻ってきたのだ。順は。
異常に郷愁を感じさせる世界観。懐かしい。異国の布が天井から垂れ下がるその空間は、雨に濡れた外の街に比べて、どこか乾燥した気配をまとっている。砂漠や森の民族が、ただいまと言って帰ってくるような、そんな場所だと順は思った。
「おはようございます! 女将さん、順くんを連れてきちゃいました〜」
カズが声を上げると、カウンターの奥から見覚えのある痩身の女性が顔を出した。「おはよう。着替えてらっしゃい」と彼に微笑みながら返事をする。どうやら調理の途中だったようで、彼女は火を弱火にするような動作をしてから、改めて順と目を合わせた。
「あら。順ちゃん。涼ちゃんは一緒じゃないのね?」
「はい」
順は頷いて、思いついたように「もう、そろそろ夜ですし」と言った。それが説明になっていないことは順にもわかっていた。何せ前回は、もっと遅い時間になってからここへ来たのだから。
「なんだ。面白いこと言えるじゃないの。もっと杓子定規なことしか言わない子かと思ってたわ」
「……」
「でも、今日のあなたの顔、酷いわね。迷子の子犬ちゃんみたい」
店長は、古く昔から熟し続けた果実酒のように深みを帯びた瞳で、ちょっとばかりいたずらっぽく微笑んだ。彼女は着替えてスタッフルームから出てきたカズに「いつもの支度からお願いするわね」と指示を出すと、順にカウンターの端の席を指差した。
「座りなさい。何か飲む? お代は払えるかしら。レモン水はいつでも無料よ」
「財布はあります」
順はメニュー表を見た。おつまみの項目に枝豆を見つけて、順は複雑な気持ちになった。
腰を下ろし、ウーロン茶とおでんの小皿を頼んだ。
目の前の棚には、ラベルの剥がれた古い酒瓶や、中身のわからない香辛料の瓶が並んでいる。しばらくして、水とお茶、小さなおでんが運ばれてくる。
「いただきます」
手を合わせて言うと、店長は微笑ましいものでも見るように目を細めた。順が箸を動かしておでんを食べていると、ふいに店長が、低くハスキーな声で言った。
「何か、悩みがあるんじゃない?」
順は顔を上げた。
月並みな言葉だった。でも、店長が言うと響く言葉だった。
ごくん、と大根のかけらを飲み込んだ。箸を置く。おでんの出汁の薄茶色。
食べながら話すのはあんまり良くない。特に、大事な話をしたいときは。
「……わけがわからなくなりました」
ちょうどそのとき、カズが客の注文を捌いている声が聞こえてくる。たったそれだけのことで集中力を乱されそうになった。それでも順は、なるべく自分の言葉を見失わないように喋ろうと、全力を尽くした。
「……太陽が昇ったら、朝。月が昇ったら、夜。そんな風に全部が簡単だったらいいのに、世界は全然そうじゃない。実際には太陽と月の位置関係は毎日微妙に変わるものだし、住んでいる場所によっては白夜なんてものもあるらしい。理科の授業で天体の運行を学び始めたときは、目が回りそうになったのを覚えています。……それでも、まだいい。天体の動きには、きちんと理論と規則があるから」
かぼちゃくんキーホルダーを、ポケットの中の感触として順は感じる。
かぼちゃの角が、ほんの少しの痛みを与えてくる。
……痛い。
生きているということは、きっと痛いことだ。
人間と人間が関わることには、痛みを伴う。
しんどいのだ。とても。
近いものほど辛くなる。しんどくてしんどくて、辛くて苦しくて、とうとうみんな投げ出したくなる。
順は黒くて艶やかな箸を見下ろした。今までおでんを食べていた道具。順はきっとこういう箸より、割り箸のほうに親近感を覚える。パキンと割れて、ささくれたり不格好な形になったりする柔らかい木材。箸が足りなくなったときのためにテーブルの上に用意されている、その割り箸のように、脆いもの。
「さっき、涼は一緒じゃないのかって聞かれましたけど……実は、今日はもう巻き込まないって決めていたんです。もう色々頼りすぎたから……だから、休ませてあげたいと思って」
抽象的な言葉ばかり使ってしまう。結果的に何もわからないような説明になってしまっているだろうに、店長はただ黙って順の言葉に耳を傾けてくれていた。
「でも……そう思った矢先に、変なことばっかり起こって。俺一人じゃ何もわからなくて、抱えきれないって思うけど、でもやっぱり今すぐ自分でなんとかしなきゃっていう……そういうものがどんどん増えていくのが、もうわけわからなくて……」
それからも店長は何も言わなかった。ただ、黙っていた。
黙って、順のことをじっと見ていた。
ふいに店長はカウンターに置かれた不思議な模様の入った電話機を取った。順が見ている間に番号をいくつか押して、どこかへ発信した。
後ろを向いて彼女が話す声が、順の耳に入ってくる。
「あ、涼ちゃん? ええ、そう、私よ。……うん、順ちゃんがね。今うち来てるのよ……やだね、うちってお店のことよ、自宅なんかに連れ込むわけないわ! そうなの、……ええ。あなたは大丈夫? あらまあ、思ったより随分元気そうじゃないの。それなら早く来てちょうだいなお馬鹿さん。迷子の迷子のダーリンが待ってるわ」
店長は一方的に電話を切ると、順に向かってウィンクをした。
「呼んでおいたわ」
「……あの。ダーリンってなんですか」
「あら。ハニーって言ったほうが良かったかしら?」
「そっちのほうが好きかもです。ダーリンって言うとダージリンティーみたいな……渋い紅茶って感じの雰囲気があって……ハニーならはちみつ。俺、甘いお菓子好きなので」
「おや。パンケーキは甘いわよ。いらない?」
「それとこれとは……今日はもうおやつを食べてしまったので」
「ふふ。いいのよ」
がちゃん、と扉が開いた。
涼が立っていた。肩が濡れている。メガネにも水滴が付いていた。彼は順の姿を確認すると、ホッとしたように息を吐いて、無言で順のほうに歩いてくると、隣の席に座った。
「……早いな?」
順が呟くと、涼は前髪をかき上げて袖口で水を拭っていた。
「女将さんが変なことしてるんじゃないかと心配になったのさ」
「それはわかるかも」
さっき店長が涼にかけた電話の内容はちょっと妖しかった。実際には何一つ妙なことは起こっていないのだけれども。あれじゃ俺でも心配になるかも、とは思ったのだ。
……いやまあ、これはちょっとした建前だろう。
本当に女将さんのイタズラを疑うような関係なら、そもそも涼が順を一度目にこの店に連れてくることもなかったはずだった。
「で?」
案の定、涼が改めて真面目な表情になって言った。
「どうしたのさ。俺……これでも、かなり心配してたんだぞ。冗談じゃなくて」
「心配」
「わかってんだろ」
だってほら、と涼は言った。
「相棒がミナちゃん連れて出てっちゃうからさ。でも、俺はちょっと距離取ったほうがミナちゃんにも良さそうだったし、相棒のほうも悪い憑かれ方した感じじゃなかったから放っといたんだけど。……ただ、昼間にすごいことになったわけだし。また暴走したらシャレになんないな、と」
「ミナは大人しかったよ」
順は内心でため息を吐いた。そういえば彼は幽霊が見える人間なのだった。幽霊を連れて出ていったら、それはすぐにバレてしまう。
ミナは大人しかったんだよ。ミナはな。と順は繰り返した。
でも、それだけでは終わらなかった。それが問題だった。
二人はどちらからともなく席を立った。店長に代金を払い、ご馳走様でしたとお礼を言って外に出た。
一度やんでいたはずの雨はまた降り出していて、夜の世界で霧のように細かくなっていた。
路地裏の湿った空気の中で、二人はしばらく無言で歩いた。街灯の下を通るたび、二人の影が長く伸びては縮む。
「……風町」
順は、黒く濡れたアスファルトを見つめたまま切り出した。
「ん」
「お前、覚えてるか? 俺が『犬が出た』って言って追いかけたことあったの」
「あー、うん。野良犬だから危ないって言うのに君が反論して、そのまま追っかけてったやつな」
「結局見失っただろ」
「そうだった、そうだった。え、あれ、また見つけたとか?」
順は頷いた。
ええー、と涼は驚いたような反応をする。
順は、ポケットからかぼちゃのキャラクターが描かれたキーホルダーをを取り出した。街灯にかざす。ゆらめく炎のようにぼんやりと、怪しげな笑顔のかぼちゃくんが夜の世界に浮き上がる。
涼が首を傾げた。
「どうしたこれ、……あれ、『かぼちゃくん喫茶』の? 無料券使ってくれたってことか?」
「そう」
それで、と順は言った。
「さっき店に行って、くじでこれ当てた。その直後に、またあの犬を見つけたんだよ。それで気づいた。あの犬、これと同じ『かぼちゃくん』がついた首輪をしてた。喫茶店のオリジナルグッズのはずなのに、なんでそんなもんつけてふらふらしてる犬がいるんだよ。ありえないだろ」
涼は歩みを止めなかった。けれどその細められた視線が、鋭く順の手元に向けられていた。
「犬……順の前に何度も現れて……消える……オリジナルグッズ……喫茶店……ミナちゃんと順くんの定番デートスポット……」
「おい」
「Sorry」
「英語で誤魔化そうとすんな」
ハハ、と涼が言う。彼の目は、あまり笑っていなかった。
涼はいつになく真剣だった。真剣に、さまざまなことを考えていた。
とても、つい数時間前にかき氷を削りながら死にかけて、荒ぶる彼女のゴーストに怯えていたのと同じ人間だとは思えない。
……いや、いつもと比べて、少しくたびれた雰囲気をまとっている。
やはり負担だったのだ。
あのときの涼は、心からミナを怖がっていた。躊躇わずに恋人の事情に足を踏み込んでいって、順を巻き込んで、ズカズカと遠慮も何もなしに進んでいく涼は、訓練を受けた軍人が藪払いをしながら先導していくような頼もしさがあった。それが見る影もないほど怯えていて、初めて順は涼を心配したのだ。
ただ、涼はやはり立ち直るのも早い。
彼は日付も変わらないうちに、また自分の足で立って歩き出した。
とても真似できない強さだと思った。
「順くんさ」
涼はふいに言った。
「霊感があるとかないとか。君はそういうの、言葉通りに捉えすぎてるんじゃないか」
順は足を止めた。
そのときが、運命の境目だった。
いや。運命に追いつくための、最後のピースが今このときだった。
涼が振り返る。その瞳には、暗く深い海の色が宿っていた。
引き込まれる。夜の暗闇の果てには幾千億の星が埋まっている。海の底には死んで沈澱した海藻の墓場。ジャングルには光る虫のつがいが藪の中で飛び交っている。
表面上で見える世界はほんの一部だ。
世界は本当は、信じ難いほど複雑だ。
信じがたいほど冴え渡った涼が語り始める。
「ミナが見えるのは俺だけ。ミナの声が聞こえるのは俺だけ。ミナがくっついていたいと思ったのも俺で、小さい頃から、死んだ人間の霊や名前もわからない幻想のモノが周囲にいることをなんとなく感じ取ってきたのも俺。……でもさ」
涼の声は、恐ろしいほど静かだった。
「きみにしか見えない幽霊もいる。……だろ?」
その言葉が、順の心臓の中心に爆ぜた。
幽霊。
犬。
キーホルダー。
ミナ。
甘い味の宝石箱みたいだったパフェ。
涼。涼の言葉。
“あの犬ってどこの犬”
“そっちじゃない! あーもう角曲がって消えた”
“ほら、あそこに……遅い。もうどっか行った”
結局、涼はあの犬の姿を見なかった。
たまたま視線が逸れていたから? 追いついたときには犬が消えていたから?
……まさか、と思う。
前提がひっくり返る。違ったのか。逆だったのか。
涼の注意力に問題があったのではなく、順があれを見てしまったことこそが異常だったのか。
……あれは幽霊犬。この世のものではなかった。
動揺で視界がゆらぐ。順は否定の言葉を出そうと口を開きかけるが、言葉にならない。
その時だった。
涼の背後、暗い木立の隙間に、何かが薄ぼんやりと浮かび上がった。
「あ……」
順は見た。
雨に濡れる葉の影から、ひょっこりと顔を出したのは、一匹の犬だった。どこにでもいる雑種のような黒犬。けれど、その首元には、確かにオレンジ色のかぼちゃのチャームが揺れている。
犬は、もう馬鹿にするようにこちらへ笑みを浮かべたりしなかった。
「風町……出た。あそこに……」
「どこだ」
「あそこの、木の……そうだ、見えないんだったな」
濡れた毛並みの質感まで伝わってくるような実在感。街灯に照らされて耳の辺りが白く光り、逆に犬の足元に黒々と影が浮かび上がっている。風が吹くと尻尾が揺れる。影の尻尾も一緒に揺れる。
見えないのだ。
あれが、涼には見えていないのだ。
信じられない、と順は思う。それほどに確固とした生き物の、獣の気配がそこにはあった。
犬は、順と目を合わせると、静かにくるりと身を翻した。
「行く……犬が向こうに、行く……」
順は、隣の涼を振り返った。
「あれを追いかけたい。異界のものを追っても、俺たちは無事に済むと思うか?」
「カレーの味は食べてみないとわからないさ」
涼は即座に返事をした。
「でも、真っ赤な見た目のカレーで、いかにもショッキングな感じだったとしても……味が辛すぎて死ぬってことは、あんまりない。死にそうな思いをすることは、結構あるだろうけどな」
昼間に死にかけたばかりの涼の言葉は、ブラックジョークとしてとても秀逸だった。
順はわずかに笑って、ゆっくりと歩き出した。
その隣を、涼は当たり前の顔をして付いて歩いた。
導かれるままに、二人は夜の街を、そして雨の結界を越えていく。あのかぼちゃのキャラクターが、闇の中でぼんやりと光る道標のように見えた。
ひたすら二人は歩いた。どこをどう歩いているのか、とっくにわからなくなっていた。知らない街で知らない道路を歩き、緑道を通り抜け、パン屋と駄菓子屋が並んでいる間の細い道を潜った。
バスを二度乗り継ぎ、街の明かりがまばらになった頃、二人は見知らぬ土地に降り立った。
そこは、かつては栄えていたのだろう、今は見る影もないシャッター街だった。割れた街灯のほとんどは沈黙し、一箇所だけチカチカと不規則に点滅している。錆びついた看板が風に揺れて軋んだ音を立てていた。
「……ここ、どこだ?」
涼が周囲を見渡して言った。
「さあ」
順は言った。
本当にわからなかった。
犬は、数メートル先で止まり、振り返って二人を待っていた。そして、一軒の閉めきられた金物屋の軒先へと入り込んでいった。
「あそこだ」
順は涼を伴って、その場所へ向かった。
雨を避けるように突き出した軒下。そこには、うずたかく積まれた段ボールの山があった。
その影に、彼女はいた。
「……ミナ」
順の声は、風に吹かれた蝋燭の灯火のように霞んで消えた。
松風ミナは、そこに座り込んでいた。
壁にもたれかかり、斜めに傾いで俯いていた。まるで、激しい運動のあとに少しだけ眠りについてしまったかのような、穏やかな顔をしていた。
けれど、その肌は土色に沈み、唇は青白い。降る雨の冷たさを、もう彼女が感じることはないのだと一目でわかった。
彼女の腕の中には、あのかぼちゃのキーホルダーが結びつけられた首輪をつけた犬が、静かに丸まっていた。
犬も。ミナも。
死んでいた。
「うっ……げ、ぐ……」
涼が、膝から崩れ落ちた。
彼は口元を押さえていた。顔色は真っ青で、過呼吸を起こしかねない様子だった。
彼の目に映っていたはずのミナの幽霊は、どうなったのだろうか。順にはそれがわからない。ただ、痩せて死んだ少女の死体が目の前にあるだけだった。
涼はぐしゃぐしゃになって泣いていた。雨が降っているのに。地面はぬかるんで汚れているのに。そんなものは何もわからない様子で崩れ落ちて、身体を支えるためについた手にも力が入らないのかそのまま潰れそうになって。その寸前で、順が彼を支えた。
順は涼の背中をさすった。
それ以上に、何をすればいいのかわからなかった。
『お前の言っていることは嘘じゃなかったな』『ミナは死んでいたよ』『失踪してから彼女は何をしていたのかわからないけれど』『幽霊になって俺たちに会いにきてたってのは本当だったんだな』
そんな言葉たちが泡のように順の喉まで浮き上がって、跳ねゆくポップコーンのように弾けて消えていった。
言葉は無力だ。
順の紡ぐ言葉は、誰かを助けることができたためしがないようだった。
「……ァ、あぐ……ゲホ……うッ」
涼は嘔吐するように泣いていた。
雨の塊を腹の底から全部吐いてしまうような、凄まじい泣き方だった。
順はふと思う。ミナの死体は随分と綺麗だった。死んでから、せいぜい数日ほどしか経っていないもののように思えた。この長い雨の季節の中で、これほどしか腐敗せずに済んでいるというのは奇跡だった。
順は、ミナの傍らに落ちていたプラスチックの袋やゴミ類を拾い上げた。お小遣いで食料を買い込んで、ここで食べていたのかもしれなかった。しかし失踪していた期間を考えると、その量はとても釣り合いがとれないように思えた。
コンビニのレシートが落ちていた。その裏側に、走り書きがあった。雨に濡れて文字が滲んでいるが、それは彼女の筆跡だった。
『犬殺し』『人殺し』『馬鹿野郎』
なんだこれ、と思った。
ミナはこんなこと書くような子だったのか。
知っていたような気がする。けれど違う。それはきっと順が知りたくて、けれど一度も知ることができなかったミナの姿だった。
「順くん」
どのくらい時間が経っただろうか。
涼が順の目を見ていた。
「君、泣いてる」
言われて初めて、順は気づいた。魚は水の中で泣いていても、自分でそれに気づくことはないだろう。順は雨の中で泣いていた。だからわからなかった。
ずっと泣いていた。
それに気づかなかっただけだった。
順は灰色の雲が渦巻く空を見上げた。
「警察に通報しないと」
呟くように言って、それで初めて順は携帯を取り出した。警察に連絡してから、マップアプリを開いた。ここはどこだろうと、調べてみる。あっさりと現在地の調べがついた。
現実だった。
ここはどこまでも現実だった。



