六月のパンプキンドッグ


 すりおろし林檎が水のようになって宇宙からしとしとと垂れてくるような、しみったれた天気だった。少し晴れの日があったと思えば、また雨が降る。草木にとっても、こんなに雨続きでは根っこが腐ってしまって迷惑なのではないだろうか。
 順は、涼から指定された住所をスマホの地図で確認しながら、住宅街の細い路地を歩いていた。手には、スーパーで買ったばかりのさくらんぼのパックが入ったビニール袋が揺れている。

(……よそ様のうちに上がるときは、お土産を持参)

 順は心の中で、自分に言い聞かせるように呟いた。
 ちょっと他人行儀すぎるかもしれない。しかし失礼があるよりは、このほうがいい。何より食べ物はみんなで食べられるし、たいてい喜ばれるものだから便利なのだ。
 たどり着いた涼の家は、飾り気のない生活感を感じさせるものだった。築年数の重みを感じさせる木造の家。玄関先には手入れされているのかいないのかよくわからない鉢植えが並んでいて、網戸に至ってはあれじゃあ蚊が入っちゃうのではないかと微妙に心配になる形に一箇所くにゃりと歪んでいる。
 インターフォンを押すと、電話機を鳴らしたときのような音が鳴った。
 少し待つと、鍵のロックが外れて、ドアが開く。

「おっ、相棒。待ってたぜ」
「お邪魔します」

 出てきた涼は、黒縁メガネの奥で、相変わらず掴みどころのない笑顔を見せた。
 順は適当に返事をして、ビニール袋を差し出した。

「はい、お土産。……そっちの家で食べてもいいし、今俺たちで食べるんならそれはそれでいいし」
「えーすげ。ってかこれ、さくらんぼじゃん。ちょうどいいな、俺んちじゃみんな果物大好きなんだよ。あー、入って入って」

 招き入れられた家の中は、まるでごた混ぜになった玩具箱みたいな場所だった。積まれて雪崩を起こしかけている新聞紙、その辺に適当に脱ぎ捨てられた上着や帽子、布が被せられたお菓子の箱、よくわからない楽器、石鹸のストック、漢方薬や絆創膏、くにゃくにゃのヨガマット。
 涼がちょっと気まずげに言った。

「あー。うん、散らかっててごめん」
「足の踏み場があるなら気にしない」
「ない部屋もあるんだなこれが」
「……足を置いた場所が踏み場だと思えば、どんな部屋でも大丈夫だと……思う」
「え。やさしい」

 言葉選びが気遣いの鬼じゃん、と涼が笑いながら言う。
 順はため息を吐いた。

「別にそんなんじゃない。人間がちゃんと暮らしてる感じがするし、こういう家があんまり嫌いじゃないってだけで……。なんか、急に川から魚がやってきて海藻と一緒に住みにきましたって言っても受け入れられそうな独特の雰囲気があるっていうか」
「散らかってるほうがいいって?」
「いや綺麗なほうがいいとは思う」
「綺麗なほうがいいのかよ」

 それはそれとして川の魚ってなに? と涼が聞く。その場のノリで適当に思いついたものだから気にしないでほしい、と順は答える。涼は頷いた。

「そっか。じゃあさ」
「あらあら、涼のお友達? いらっしゃい」

 ちょうどそのとき、ガラッとドアが開いて誰かが奥から出てきた。
 涼の母親だった。彼女は全身真っ黒な鴉みたいな格好をしていた。
 涼と同じどこか気が抜けて爽やかな風を感じさせる雰囲気をまとっている。しかし彼女のほうが、よりエネルギッシュな印象を受けた。

「お邪魔してます」
「ゆっくりしてちょうだいね。この子、友達連れてくるなんて珍しいの。……あら、さくらんぼ! 素敵だわ、どうぞおやつに召しあがっちゃって。実はちょうどうちの冷蔵庫の果物切れちゃってるのよね。何も出せない状態だどうしようーって慌てるところだった、危ない危ない」

 涼の母親が「そういえば涼、青紫蘇取ってきた?」と声をかける。涼が「ウゲ」と小さく言う。

「早くしてちょうだい! パート行く前に夕飯仕上げちゃうからって言ったでしょ!」

 涼の母親は時計を見て、「ああ、もうこんな時間!」と声を上げながら走り去る。部屋から出ていく前に彼女は振り返って、順と目を合わせた。

「あのね、もしよろしかったら、涼と一緒に庭から青紫蘇取ってきてくれるかしら。悪いけどこの子、こういう仕事後回しにする癖あるのよね。あっ、でも無理強いとかじゃあないのよ。うちの庭、今ジャングルみたいだから、虫嫌いだったら特にやめておいたほうがいいかも……」
「いえ、大丈夫。俺も行きますよ」
「いいのかしら! ありがとうね!」
「いえいえ」

 涼が「相棒、俺の母さんたらすなよ」と囁くのを、「たらしてない。普通のこと言ってるだけだろ」と囁き返す。

「いや、そういうところなんだけど……」

 言い合いながら、二人は連れ立って傘をさしながら裏庭へ出た。
 そこは確かにジャングルだった。梅雨の長雨を吸い込んで、植物たちが狂ったように繁殖している。順は圧倒された。世の中には、こんな暴力的な庭があるのか。そしてその中で、きちんと名前の付いた植物が成長しているという事実に敬服する。生命力の強い雑草たちに負けずに、よくぞ人間の選んだ都合のいい種子が育っていけるものである。

「あ、あった。これ、紫蘇」

 涼がしゃがみ込み、青々とした葉を摘んでいく。順はその横で、湿った土の匂いを嗅いでいた。
 家の中に戻ると、涼の母親は忙しそうにキッチンで立ち働いていた。紫蘇を渡すと、にっこり笑顔でお礼を言って、その場で刻み料理に加え始めた。
 しばらくすると彼女は火を止め、蓋をして、換気扇も止める。バタバタと出ていくと、すぐにレインコートとカバンを手に持って戻ってきた。

「ちょっと私、出かけなくちゃいけなくて。何もできないのがすっごく申し訳ないんだけど、高校生にもなったら親がいないほうが自由にできると思うから。うん、冷蔵庫の中身はとりあえず自由にしていいわ。その他いるものは常識的な範囲で全部使うの許可するから」

 彼女が「それじゃあ行ってくるわね!」と騒がしく自転車で出かけていくと、家の中は急に静まり返った。

「……よし。じゃあさっそく食うか」
「ああ。かき氷な」
「そうそう」

 涼が台所から持ってきたのは、かなり古そうな手動式のかき氷マシーンだった。レトロな色合いのプラスチックが日焼けして黄ばんでいて、塗料もところどころ剥げている。
 そしてすぐにUターンして、今度は食料を取ってくる。

「ジャーン。冷凍庫にデカい氷準備しといたぜ」
「用意周到だ」
「逆にかき氷食べようって誘っといて氷ないのはアホすぎるだろ」
「……それはそれでけっこう面白そう」

 順が呟くと、涼がよくわからないものを見る目で順を見た。
 涼はガタガタと音を立てるマシンをテーブルに置き、冷蔵庫の奥から、ラベルの端が剥げかけたイチゴシロップを取り出した。

「これ、賞味期限……五ヶ月前に切れてるな。まあ、砂糖の塊だし平気だろ」
「適当すぎないか」
「大丈夫さー」
「……」

 まあいっか、と思う。
 実際、砂糖の塊と人工香料のエッセンスでできているものなのだろうし。お腹を壊したら、まあそのときはそのときだった。

 涼が氷の準備をしている間、順はさくらんぼを洗うために台所へ向かう。蛇口をひねり、冷たい水でさくらんぼを洗い始めた。ツヤツヤの赤い実が、順の手の中で水に濡れて宝石のように光る。美しいものは好きだ。みずみずしくて甘くて、丁寧な愛を捧げられた食べ物は、ランウェイを煌めきながら闊歩するモデルのように燦然として見える。

 ちょうどかき氷にも合うだろう、と順は思った。一番上にちょいと乗っければ見栄えがいいことだ。
 背後では、ガリガリ、ガリガリと、氷を削る規則正しい音が響いていた。

「……なあ、涼。さくらんぼの種取っとくか? それとも丸いままでいい?」
「そのままでいいだろ。とりあえず口に放り込んで、適当に種だけ吐き出せばいいじゃん」
「それもそうか」

 順は、水に濡れたさくらんぼを皿に移しながら、ふと思った。
 ミナは今、どこにいるのだろう。二人がおやつを準備する様子を眺めて、何事かを考えているのだろうか。

 事前に涼が送ってきたメッセージが正しければ、おやつのかき氷をリクエストしたのはミナだったらしいのだ。
 唐突に、かき氷マシンで作った氷を食べたいと言い出して、なんだか夏めいた水着とサングラスの格好でダンスをし始めたのだとか。

 またもやよくわからないことである。
 それにしても、と順は思う。
 飲み屋の枝豆に、映画館の観客の涙。
 今度も何かちょっとした怪奇現象が起こることを覚悟すべきなのかもしれない。

 それに加えて頭を悩ませるのは、失踪したミナが発見されたという報告はまだないという事実だった。
 このままずっとわけのわからない幽霊騒ぎが続いていくと思うと、ゾッとしない。
 まったく勘弁してほしいなと思いながらも、順は黙々とさくらんぼを洗い続けた。

 ガリガリ、ガリガリ。
 氷を砕く音が、止まった。

「終わったか?」

 順は背後に向かって問いかけた。
 返事はない。

「風町?」

 妙な静寂に胸がざわついた。順が振り返ると、そこには異様な光景が広がっていた。
 少し前屈みになってテーブルのそばに立っている格好の涼が、そのまま動かなくなっていた。……いや、ただ動かないだけならまだよかったのだ。
 涼の指先から、腕へ、そして肩へと、ゆっくりと透き通るような白い霜が這い上がっていく。冬の日の銀世界に佇む妖精のように。冷凍庫の息吹を吹きかけられて眠りにつく人形のように。彼が静かに凍りついていく。

「は? え、……お、おい……!」

 順は慌てて駆け寄った。
 涼の目の焦点が合っていない。いや違う。すでに意識がない。目を開けたまま幻でも見ているかのように温度のない無表情で、彼はかき氷マシーンに触れた部分からだんだんと氷になっていく。

「……っ」

 こんなこと、今まで一度もなかったというのに。順はほとんどパニックだった。
 枝豆が動いた? 空中で消えた? 映画館で一斉に全員がすすり泣き出して止まらない? 赤ん坊の大声がうるさかった? それがどうしたというのだろう。実害はないではないか。気のせいだとか、ちょっとした見間違いか、運の問題で片付けられる程度の笑い話だった。
 それが……それが、今はどうだ。
 何が起こっている。常識では全く考えられない。
 なんとかしなければならない。そうでなければ取り返しがつかない。
 体温の低下。低体温症。
 最悪の場合に、涼が——涼は死ぬ。彼のそばにいる順が適切に動かない限り、実際にそれが起こる。

「ッ、熱いもの、温度がッ、熱いもの……!」

 順は慌てて部屋を見回し、洗面所へ走った。手当たり次第にドアを開けていき、見つかった瞬間に飛び込んだ。
 棚をひっくり返し、引き出しを開けまくり、コードに手に触れた瞬間そこにあったドライヤーを掴んだ。走って戻る。震える手でコンセントを差し込む。自分の家にあるものと使い方が異なるためにすぐにスイッチが入らない。
 落ち着け、落ち着け……深呼吸を試みながら、ようやく熱風が吹き出した。
 すぐに最大出力に設定し直し、直接肌に当てるほど近づけて熱風を涼に浴びせた。

「溶けろ、溶けろ、溶けろ……!」

 風を当てた部分の氷が少しずつ溶解していく。その事実に、ほんの少しホッとする。片手でドライヤーを支えながら、空いているほうの手で順は涼の体をさすった。

 戻ってこい。涼。
 まだ向こう側に行くときじゃない。
 さっき見たお前のお母さん、いい人そうだった。夕ご飯を作っていた。二人で取ってきたばかりの青紫蘇を入れたのに、こんなところで死んだらあの人が悲しむだろ!

 氷がある程度溶ける。順は涼をかき氷マシーンから引き離した。
 ドライヤーにうっすら霜が張り出していた。スイッチを入れたまま、順はドライヤーを床に叩きつけた。金属部品が派手に衝突する音が響いて、ドライヤーは転がったまま沈黙した。

 その辺に転がっている上着類やら布やらを涼に被せ、その上から自分の体温で温めるように涼を抱え込んで全身をこする。
 雪の中とか海の中から救助された人を助けるときの手順って、これでいいのか? わからない、自分は専門家でもなんでもない。でも、とにかくやるしかない……。

 どのくらい時間が経っただろうか。ふと気付くと、涼の目がうっすらと開いていた。同時に、霞のように部屋を包み込んでいたひんやりした冷気がゆっくり薄れて消えていく、ような気がした。
 なんにせよ、助かったのだ。おそらくは。

 涼の口が開く。
 開口一番に紡がれる音。

「……相棒?」
「……」

 順は信じられない目で涼を見た。嘘だろ? 冗談言ってる場合なのか? 俺の苦労は、努力は、さっきのメチャクチャな出来事は、それで片付けられてしまうようなものだったのか?
 順の口から、半ば放心したような声が出る。

「俺。マジで……お前が死ぬかと……」

 さすがに涼は茶化さなかった。その元気がなかったのかもしれない。
 よく見れば、涼の唇は青かった。何せ目覚めたばかりなのだ。仕方がないことだろう。

 しばらく休んでから、涼が動き出す。順も立ち上がった。
 二人で散らかったものをひとところに寄せて、布類は重ねておく。
 そして、かき氷マシンの置かれたテーブルまで戻ってくる。削りかけの氷。開けていないシロップ。これを用意する続きをしたいとは到底思えない。
 しかし涼は「……食べようか」と何事もなかったかのように言った。

「大丈夫か? 食事できるような顔色してないぞ」
「……大丈夫」
「絶対大丈夫じゃないだろそれ」

 いつも飄々として動じた顔を見せたことのない涼が、今は蝋の色に顔を青ざめさせている。表面上は平気なふりをしているが、誤魔化しきれていない。
 妙だった。絶対普通じゃない。状況もおかしい。涼の様子もおかしい。
 順は眉を顰めた。

「ミナのためか? もういいだろ。お前はよく頑張ったんだから、今は少し休んどけよ」
「食べる」
「はあ?」
「食べないと、ミナちゃんが怒る……今のミナちゃん、普通じゃないんだよ。鬼とか悪魔みたいな、とにかくおかしくて……笑いながら俺のこと本気で殺そうとしてきて……」
「わかった。食べればいいんだな? なら俺が食べる」
「違う! 俺じゃなきゃ、俺が食べないと許してくれない……!」
「風町」

 順は涼の手を掴んだ。死人のように冷たくなった涼の手は、細くて骨の感触がよくわかった。順は自分の心を沈めるように、深く息を吸った。

「こっちを見ろ、風町」

 浅い呼吸をする涼の目が、順の目を捉える。

「馬鹿野郎が。ミナはそんなつまんないことで怒る子じゃなかっただろ」
「だけど」
「しかしもカカシもあるか」

 順の目も声も穏やかなままだった。しかし随分とそれは芯の通った強いものとしてそこへ響いた。
 順の心は不思議と凪いでいた。まるで薄闇の空の下に水平線が見える夜のようで、澄んだ世界の遠く、果て先までを自然に眺めることができそうだった。
 順は静かに息を吐いた。

「ミナはどこにいる」
「冷蔵庫に腰掛けてる」

 涼がすぐに答えた。
 順は言われたほうを向いた。
 そして、何もないように見えるその場所に向かって呼びかけた。

「おい、ミナもミナだ。彼女って立場に甘えて、四六時中風町にくっついて頼み事したり脅かしたりして。そんなことばっかりやってるから、いつしか自分が一番やりたいことまで忘れていく。自分ってものが消えていく……そんで、そういう奴がだんだん怨霊とか悪魔とかになっていくんだろ。違うのか」

 涼は黙って順を見ていた。
 ミナがどうしているかはわからない。聞いているのだろうか。どちらでもいい。
 聞いてくれているかもしれないと、自分がそう思える間は語りかけようと思った。
 順は削れた分の氷を皿によそって、賞味期限の切れたいちごシロップを上からかけた。

「文句はなしだ。俺が全部食べる」

 いただきます、と言って、順は手を合わせた。
 氷の塊は溶けかけていた。みぞれをかき混ぜて甘い味をつけたような淡い白色のデザートを、順は順番にスプーンで持ち上げて口に放り込んだ。
 一口、また一口。
 静かだった。とても。
 窓から吹き込む、優しい風の音がした。

「ごちそうさまでした」

 涼が削った分を、順は完食した。
 怒ったミナが順の身体を凍らせ始めるかも、などと思っていたが、実際はそんなことは起こらなかった。
 何も起こらなかった。文字通りに、何も。
 それは意外だったような気もしたし、無事に全てが終わってから改めて考えてみれば、当たり前のことのような気もした。

「……お茶飲むか?」
「あ、じゃあ」
「ちょっといれてくるわ」
「サンキュ」

 涼が席を立ち、コンロでお湯を沸かしてほうじ茶をいれてくれた。ほかほか熱々のくるみ色の液体をすすっていると、染み渡るお茶の味が全部を忘れさせてくれるような気がした。
 涼が、くるくると湯呑みを回して、底に溜まった茶葉の破片を見つめながら言った。

「俺、とんでもない目にあった」
「だな」
「でも、助かった」

 涼のさらりと静かな言葉に、順が顔を上げる。涼はさらに言った。

「ありがとう」

 また風が吹いた。網戸がガタピシャと鳴って、ごうごうと龍の唸るような音が響いて、それでも二人は目を逸らさない。

「どういたしまして」

 順は言った。

「……ミナ」

 涼の家を出る直前。順は玄関で靴紐を結ぶふりをしながら、低い声で囁いた。

「聞いてるか。今日これから、俺が『かぼちゃくん喫茶』に連れてってやるから。俺にはミナのこと見えないけど、とにかく……あの店の美味しいパフェ堪能させる。久しぶりに」

 だから、と順は祈るように思う。
 その祈りを、言葉に出す。

「一日くらい、風町を解放してほしい」

 さあ行くか、と立ち上がる。
 涼に協力を要請された日にもらった、かぼちゃくん喫茶の無料券。それは財布にしまって、ずっと持ち歩いていた。
 ミナの成仏を手伝う交換条件として差し出された贈り物だというのに、まだ使っていなかった。

 なぜかといえば、きっと怖かったからだ。
 幽霊騒動など、心臓が冷えるような恐ろしいものである。一人では不安だった。笑い飛ばせればまだよかった。非科学的なことを言うなと。ミナは絶対に帰ってくる、警察を信じようと、そう断固とした態度で突き放せればよかったのだ。
 しかし、順はそうではなかった。原因と結果がはっきり紐づいていないと不安になる性格をしているくせ、そうはっきり割り切れないものは世の中に存在しているのだとぼんやり感じている節がある。

 要するに、涼が一緒でないと嫌だったのだ。
 お化けと友達になって公園でダンスでもしていそうな、ごく自然に呪われた何かと隣り合ってお弁当でも食べていそうな、あの涼やかな余裕はなんだかんだで常に頼もしかった。

 けれど今、ようやく、順は自分だけでミナと向き合う覚悟を決めたのだ。
 幽霊でもいい。死んでいてもいい。
 いや、生きていたほうがいいに決まっているのだが、そうであるならきちんと受け入れようと順は思った。

 傘をさす。
 雨粒が世界に溢れていく。水に包まれた世界に浸り込むのは、案外心地がいいものなのかもしれなかった。



「こんにちは」
「いらっしゃいませ〜」

 喫茶店に入ると、懐かしいお菓子の香りが花畑のようにふわりと香ってきた。オレンジ色の照明。可愛らしい装飾。愛と優しさで溢れている聖域のような場所。

「無料券、一枚使います」

 順が店員に告げると、やがて運ばれてきたのは、これでもかというほどフルーツと生クリームが盛られた、巨大なパフェだった。小さな長方形型のチョコプレートには『Special』と刻まれている。
 Special……特別。
 確かに、今日は特別な日なのかもしれない。
 順はふっと柔らかに微笑んで、自分の目の前にあるパフェにスプーンを突き刺した。誰もいないスペースに向かって、掬い取ったクリームを出してみた。
 一瞬の静寂。
 そして……クリームは、空中でかき消えた。

「俺も食べる。いい?」

 返事があったかどうかはわからない。けれど、きっと「いいよ」と返事をしてくれただろうと信じて、順はパクパクとパフェを自分の口へ運び始めた。
 途中で、思い出したようにスプーンを差し出す。周囲の客に不審に思われない程度に。けれど半分くらいはミナのお腹に収まるバランスを考えながら。
 ミナと付き合っていた頃、何度も二人でここに来た。あの頃、彼女はどんな顔をしていただろうか。きっと、真っ黒に日焼けした顔で笑っていた。太陽のように。太陽の命を浴びて生きる草木のように。
 でも……いざその顔を脳裏に描き出そうとすると、霧がかかったようにぼやけてしまう。
 思い出すのは印象ばかりで、けれどその印象自体が正しいのかどうかも今となっては曖昧だった。

「ごちそうさま」

 パフェは綺麗になくなっていた。
 順が食べていないはずの分もきちんとそこからなくなっていた。

「お会計お願いします」

 無料券を使ったので、今日支払うお金はゼロ円。そのままお礼を言って立ち去ろうとしたとき、店員に呼び止められた。

「あの、お客様。今キャンペーン中なんです。一回引けますよ」

 見れば、レジの横には抽選箱が置いてある。
 順は箱の中へ手を突っ込み、少し探って一枚の紙を捕まえ、それを引き出した。

「……お。当たりですね。おめでとうございます!」
「え……」
「はいどうぞ。『かぼちゃくんキーホルダー』です!」

 渡されたのは、オレンジ色のカボチャが不敵に笑っている、プラスチック製の小さなキーホルダーだった。
 順はそれをじっと見つめた。
 どこかで見たことがあるもののような気がした。
 まあ、『かぼちゃくん』のグッズは散々この店に飾られているわけで、ミナも自分もこれが好きだった。懐かしい気配がするのは当たり前かもしれない。

「……」

 あっさりと景品が当たってしまったことに対して、順はまだ少し信じられないような気持ちだった。
 プラスチックの透明な袋を破って、端のリングを指に絡めてみる。そのままキーホルダーをくるくると弄びながら、順は帰路につくことにした。



 店を出ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。
 湿った風が吹く。雨はほとんどやんでいた。道ゆく人々が傘を閉じていく。順も傘を閉じたままで歩き始めた。
 ……そして。

「あ」

 尻尾を丸めて座り込んだ黒犬が、道の真ん中であくびをしていた。
 犬は順がそっちを見ていることに気がつくと、眠たげにしていたのが嘘のようにすっくと立ち上がった。

「おい、またお前……」

 言いかけて、順はハッとした。
 犬の首元へ目が吸い寄せられる。オレンジ色の飾りがぶら下がって揺れている。オレンジ色の——かぼちゃくんキーホルダー。
 犬はニヤッと笑いかけた。
 誰に? 順に。
 犬はするりと街路樹の影に入っていった。
 順は慌ててそちらへ回り込む。けれどそこに犬はいない。代わりに見つけたのは、たくさんの植物たちだった。足元に芽を出した雑草。緑化のために植えられたらしい樹木。そして花壇に咲いている紫陽花の葉っぱの上には、のんびりとカタツムリが這っている。
 顔を上げる。
 周囲を見回す。

「どこ行った」

 どこにもいない。犬はまたしても順を置いて消えてしまった。
 畳まれた傘をぶら下げながら、順は呆然と路上に佇んでいた。
 世界が暗転する。
 恐ろしいものに向き合う覚悟を決めた人間に、最後の試練が襲いかかる。