六月のパンプキンドッグ


 近頃には珍しく、明るい日の光が街全体に差し込んでいた。アスファルトは白くキラキラと優しい埃の色を帯び、木立の合間を抜けていく風は爽やかだった。
 順は駅の改札を出て、くたびれたカバンを抱え直した。点字ブロックや、赤茶けた石畳みの一つ一つを靴で踏みながら歩くと、まるでジグソーパズルの上で自分が踊っているかのような浮世離れした心持ちに包まれる気がする。
 順は午前中の静かな空気を肺に吸い込みながら、約束の場所へと向かった。
 映画館のロビーは、思ったよりも閑散としていた。休日の映画館だというのだから、もっと情熱的で熱狂的で大混雑の様相を醸し出していると予想していたのに、それほどでもない。
 こんな場所に来ること自体が滅多にないことで、順は所在なさげに周囲を見回した。
 ポスターの貼られた柱の陰に、涼がいた。グリーンピースが描かれたパーカーを着て、スマートフォンの画面を眺めている。

「風町」

 近づいていって声をかけると、「お」と涼は顔を上げた。
 表示されたメッセージアプリの履歴にはたった今二人が送りあっていた『映画館ついた』『あ、俺も』『今どこ』『入り口近くの柱』のメッセージが表示されている。

「よし、とりあえずミッション成功」

 涼が黒縁メガネを持ち上げつつ言った。順は呆れたようにそれに答える。

「合流しただけだけどな」
「パンと卵が合流すると卵サンドになる。それだけでだいぶ達成されたものがあるだろ。誰かの胃袋に入って消化されるまでいかなくても、十分そいつらは偉い」
「何言ってんだお前」

 順が突っ込むと、涼が楽しそうに笑った。
 今日も今日とて、ミナの未練解消のための外出だった。涼が言うことには、今度は映画館に行こう、などと。チケット代は彼がもつというので仕方なく了承したが、本当は絶対に場違いだと思っている。映画館など、幼い頃に小さな子供用のアニメを見るときに足を踏み入れたきり。学生をやっている間、友人と訪れることなんて一度もないだろうと思っていたと言うのに。

「それで、映画。何を見るんだっけか」
「これだな」

 涼が指差したのは、ずらりと張られた紙のうち、どこか望郷の念を抱かせるようなセピア色のポスターだった。広大な農園に立つ若い男女が、夕日に照らされている画が写っている。
『大麦小麦よ、朝日のワルツ』
 最近出てきて、鰻登りに評価を上げている若い女性監督の新作だという。徹底したリアリズムの中に、時折残酷なまでに胸を突く秀麗な美しさを混ぜ込む手法で知られていた。内容は、十九世紀の西洋の農園を舞台にした、身分違いの純愛ラブストーリー。

「正直、ミナがこんなの見るとは思えないんだけどな」
「そりゃ俺のチョイスだし」
「またそれかよ」
「また?」
「飲み屋の店もそうだった」
「……。ま、映画を見たいってのがミナちゃんのオーダーだもんな。内容は二の次、映画館に入れればそれでよし」

 涼のセンスは一体どうなっているのだろうか。妖しげな雰囲気の漂う飲み屋(おまけに店長とかなり親しげな様子だった)へ飛び込んでいくかと思えば、いかにも正統派の美しく素朴なラブストーリーの映画を選んで観に行こうと言う。
 彼の考えることはよくわからん、と思いながら、事前にリンクで送られてきた電子チケットを表示させた。
 売店の前を通ったとき、涼が立ち止まった。順は彼に衝突しそうになって、危うく踏みとどまる。当然のように、涼が順のほうを振り返って尋ねてきた。

「ポップコーン、食べる?」
「いや、いい」
「俺奢るけど」
「食べながら観るとか、お行儀が悪いだろ」
「お行儀て」

 涼が「他人が食べてるのも気になるタイプ?」と聞いてくるので「いや。それは別にどっちでもいい」と順は答えた。

「じゃあ俺だけ買う」

 涼はあっさりと前に出て、キャラメルと塩のハーフ&ハーフのLサイズを注文した。店員が持ってきたのは、抱えるほど大きなバケツだった。
 絶対食べきれないだろ、と順は内心突っ込んだ。

「さてはお前の胃袋、鯨の胃袋と繋がってるんだろ」
「かもな」
「……」

 適当にあしらわれてしまった。
 あまりお茶らけたことを言って場を和ませるのが得意なタイプじゃないのだ。
 ツッコミを入れたことを少しばかり後悔しながら、順はシアターのほうへと歩いていった。

 シアター内に入ると、客数はまずまずといったところだった。中年の夫婦や、一人で来ている年配の女性、大学生らしいオシャレな若い女の子たちがぎゅっと固まったグループ。その他たくさん。
 やはり女性比率が高めだな、とは思う。
 少なくとも、高校生男子で群れてここに来た奇特な人間は順と涼だけである。
 二人は中央より少し後ろの席に予約の番号を見つけ、隣同士に並んで座った。

「コマーシャル長い……」
「映画館だしな」
「映画始まってもいないのに、延々広告だぞ。いや嘘だろ、まだ終わらん」
「あー、ポップコーン食べて暇つぶす?」
「……」

 結局、順はポップコーンを利用した暇つぶし作戦を拒否した。なんとなく手持ち無沙汰にカバンの底をゴソゴソと探る。入れっぱなしののど飴が手に触れた。しばらくそれをじっと見て、そしてまた元の場所にしまった。
 続いて手に触れたのは数独パズルの冊子だった。
 しかし困ったことに、映画館の内部は照明が暗く、あまり活字や印刷物を眺めるのに向いていない環境である。
 大人しく上映を待とう、と思った。

 そうこうしている間に、とうとう上映が始まった。
 スクリーンに映し出される農園の景色は、確かに美しかった。風にそよぐ青い宝石のような麦、古い石造りの屋根。あらゆる場面の風景がまるで絵葉書の絵のように丁寧だった。草の一つ一つ、洋服の糸の一本一本、台所の人参の輪切り一枚一枚、全てに心を込めた監督の愛情が伝わってくるようだった。

 あまりのめり込む気ではなかったはずだった。
 それでも、順は意外にも感動している自分に気がついた。

 物語の内容そのものというよりも、この創作物を作った作者たちに対して。

(これを、作った人。この世界にいるんだよな。今)

 こちらが恥ずかしくなるほどに純粋な心で紡がれた物語。
 気付けば順は、名前も知らない創作者たちに対して、不思議なほど強く心惹かれるような感情を抱いていた。

(この世界のどこかで、生きて、動いて、考えて……今はまた、新しい作品の構想でも練ってるのかな)

 映画館に行くことに気後れしていたことなど、すっかり忘れていた。
 嗅ぎ慣れないシートの匂い。耳に直接覆い被さってくるような音響。重くて強烈。深くて鮮明。独特の世界観に支配された映画館という場は、順の意識を巻き込み、からめとり、静かに包み込んでゆく。
 次第に順は映画に没頭していく。


 雨のシーンで映し出された紫陽花が、鮮烈な青を放っていた。その葉の上を、一匹のカタツムリがゆっくりと這っていく。
 そうして。その紫陽花のそばに佇むのは待ち人だった。季節の植物の影に隠れるようにして、傘をさして恋人を待つ物静かな女性がいる。
 彼女はただ、待っていた。
 紫陽花の花は美しく。葉っぱの上に、カタツムリ。
 夜が来て、月が昇っても、その人は待っていた。
 報われない恋なのだと知りながら、雨の日に。闇に包まれた静かな夜に、女性はカタツムリに手を伸ばす。
 ……虫よ。小さな虫よ。
 葉っぱの上の、愛しい命。

 静かだった。
 とても。
 映画館という場所は、誰かの咳払いすらも覆い隠してしまうような、不思議で深い魔力があるようだった。


 物語の終盤の頃のこと。
 農園の青年が、ヒロインに永遠の愛を誓う。
 しかし避けられない別れが訪れる……そう思った矢先に、青年は自らの強い意志で、ヒロインの元へ戻ってくる。感動。歓喜の涙。ロマンチックで濃厚なキス。
 ある意味で古典的で典型的。愛の勝利と喜びのシーンだった。

 すすり泣きが始まった。
 最初が誰だったかはわからない。けれどもその最初を皮切りに、劇場内のあちこちから、すすり泣きが聞こえ始めた。
 スクリーンの中では、登場人物が甘ったるい愛を語り合っていた。
 そして客席は、その感動に応えるように静かな涙を流している。

 スクリーンに集中していた順は、何かがおかしい、と気づくまで、だいぶ長い時間を要した。

(……あ)

 さすがに異変に気づいた順は、その瞬間に背筋に冷たい氷水でも流し込まれたように、さっと現実に引き戻された。

(泣く声が……)

 やまない。
 順は思わず画面から目を離し、周囲へさりげなく視線を走らせた。右の人が泣いている。左の人が泣いている。前の人も、後ろの人も泣いている。
 泣いている。泣いている。泣いている。
 ついでに言えば、泣きやまない。
 いよいよ順がギョッとした、その時だった。
 シアターのどこからか、火のついたように赤ちゃんが泣き出した。「わーん!」ものすごく大きく響き渡る赤ん坊の大声。あーんあーんと全力で泣き叫ぶその響きが、映画のサウンドと他の客のすすり鳴く声と合わさって、まるで調和した音楽を奏でているかのようだった。
 暗闇に沈んだ部屋の中で、誰もが泣いている。
 それは感動を伝播させる穏やかな環境音ではなく、呪われた儀式にも似た得体の知れない不気味さを孕んでいた。

「おい、風町……」
「ん」
「これ、ちょっと、おかしくないか」

 順が小声で隣に話しかけると、涼がこちらを振り向いた。彼が泣いていないのはすでに確認済み。順と同じように、まっすぐに映画を鑑賞し、その上で一滴も涙を流していない。この映画館で、すすり泣いていないのはたったの二人だけだった。
 しかし、涼は涼で少し図太すぎた。
 涼は呑気に背もたれに寄りかかったまま、のんびりとポップコーンを口に運んでいた。
 ムシャムシャ、サクサク。
 嗚咽と涙、赤ちゃんの泣き声が潮騒のように奏で続けられる不気味な音響の中で、涼は平然とした顔で咀嚼している。それはそれで怖い。どういうことなんだ。
 順は涼に、抑えた声で囁きかけた。

「なあ。これ、何が起こってる? ミナは今……」

 涼はちらりとこちらを見ただけで質問に答えず、ただポップコーンのバケツを順の方へと差し出した。
 そしてクールにメガネをくいっと持ち上げてみせる。続いて人差し指を唇に当て、しーっと静かにするようジェスチャーをしてみせた。とどめに、ポップコーンを口の中へ放り込んでもぐもぐする仕草をしてみせる。
 わかりやすいメッセージだった。
 ここは映画館、しかも上映中、不安なのはわかるがお喋りは厳禁、どうだい相棒ポップコーンでも食べるかい? ヘイ!

「……」

 順はしばらく涼と、いや涼の差し出すポップコーンの容器と睨み合った。根比べ、とも言えない程度の時間が流れる。
 そして順は吹っ切れた。
 なんというか、何もかもがどうでもよくなった。むしろ気分が爽やかになったと言ってもいい。誰が泣いていても、泣いていなくても、順には何も関係がないことだった。
 やけになった、と言ってもいい。
 あっけなくも現状を受け入れたような気になって、順は涼のバケツからポップコーンを掴み取り、ぽいっと口に放り込んだ。

 甘ったるいキャラメルの味。あんまり美味しくないなと思った。自動販売機で季節限定のジュースを買ってみたものの、独特の風味がだんだんもたれてきて、飲んでいる途中で買ったことを後悔し始めたときの記憶を思い出す。
 ポップコーンを砕く音が、順の頭蓋骨の中に穏やかに響いて、そして喉の奥へと消えていく。
 そこまで美味しくない、と思いつつも、食事の手は止めなかった。胃袋に何かを入れたかった。食事が、栄養が欲しかった。何かをしていたかった。

 スクリーンは美しい純愛を上映し続けていた。みんなは泣いていた。
 涼と順は食べていた。
 そして。きっとミナも、ここにいるのだった。
 幽霊だから、大抵の人の目には見えないけれど。ミナからはこの世界が、よく見えているのかもしれないと思えば、それは幸福なことであれども決して怯えるべき出来事ではないのではないかと思った。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 映画のエンドロールが流れ始める。黒いバックグラウンドに、白い文字でたくさんの人の名前が浮き上がり、ゆっくりと流れていく。最後に照明がゆっくりと明るくなった。
 そうして客席の人々は何事もなかったかのように席を立ち始めた。

「いい映画だった〜」
「俺久々に感動しちゃったかも」

 口々にそんな感想を言い合いながら、彼らは去っていった。
 もう誰も泣いていなかった。吸い込まれるように彼らの涙は消えてしまった。濡れた頰も目も、草原で風に吹かれたようにすっかり乾いてしまって、まるでさっきの集団感涙は白昼夢だったかのようだった。

 劇場の外に出ると、外は白く霞んだ雲に包まれていた。
 夢か幻か、それともちょっと変わっているだけのありふれた体験だったのか。少しだけ涼しくなった空気の中で、ようやく順は涼に声をかけることができた。

「さっきの映画」
「ああ」
「途中、客席が変だったよな? 俺たち以外全員泣いて……」
「んー。よっぽど感動させるストーリーだったのかも。で、俺たちの感性は死んでたとか」
「馬鹿な」

 二人はしばらく歩いていった。そして噴水のある広場の端で立ち止まった。そこにはベンチがあった。座る? と問われて順は頷き、二人で並んで腰を下ろした。

「……今も、ここにミナはいるのか」

 順の問いかけに、涼は穏やかに頷いた。

「いるな」
「何してる」
「眠そうにトロトロしてる」
「それは……」
「原因は泣き疲れ。たぶんな」
「やっぱり」

 順は呆れたように言った。
 なんとなく予想はついていた。予想は当たってしまった。そこまで嬉しくないことに。

 涼が改めて説明した。
 映画のクライマックスシーン。
 ミナは客席の真ん中あたりでドーンと床に座り込んで、それはもう生まれたての赤ちゃんみたいにわあわあ泣いていたこと。それにつられて、周りの人も……とにかく全員が塩辛い水分をどんどん生産し始めた。
 ミナの目から溢れ出る涙はまるで海の水を排出しているかのような怒涛の勢いで、映画館内は幽霊の涙で全員の頭上まですっぽり包むほどの洪水に見舞われていた。
 それに当てられて、客はもっともっとと泣き続ける。

「なんだそれ」
「俺もびっくりしたさ。ミナちゃんの涙で波がたってた」
「嘘だろ」
「でも、現実を揺らさない波でよかった」
「代わりに客の心を凄まじく揺さぶってたっぽいけどな」
「ハハッ、うまいな、相棒」

 俺にミナの涙が見えなくてよかった、と順は思った。
 しかし、涼が実際にそんな光景を見ていたのだとすれば……それはもう、よくぞあんなにも落ち着いて周囲を見ることができたなとも思う。順にジェスチャーをする余裕すらあったのだ。
 水族館の巨大水槽の底に椅子を備え付けて、揺らめく透明な水越しに映画を見ていたのと同じ。そんな状況でよくも、いや、だからこそなのだろうか? ポップコーンを食べ続ける涼は、順を揶揄うような仕草をしてみせた彼は、そうやっていつも通りの振る舞いをしようと頑張っていただけなのだろうか。

 あるいは、もう。
 涼はこんな経験には慣れっこで、すでにこれが彼の日常なのだろうか。
 ここ最近……というより涼のそばにいるときに心霊現象が発生しすぎて、もはや順の感覚までが麻痺してきそうだった。

 しばらくして、順は話題を変えようと思った。
 順は涼のほうを向いて言った。

「そういえば。ミナは、映画が好きだったのか?」

 ……俺は一度もミナを映画館に連れていったことがない。それがいいと思っていたけれど、間違っていたのだろうか?
 その言葉を、少しだけ隠すようにして発せられたセリフだった。
 涼は、まず順のほうを見た。そしてすぐ、その視線は少しだけずれた。順の頭の、少し右に逸れた隣へ。視線がずれたままで、涼は真面目腐った調子で言った。

「本人は、別に好きじゃないって主張してるっぽい」
「本人が」
「幽霊のミナちゃん」
「わかるから説明しなくていい」
「そっか」

 涼は頷いた。それきり沈黙。それからしばらく待っていたが、結局順は我慢できなくなって口を開いた。

「じゃあなんで俺たちは今日映画を観に来たんだ? ミナは好きだった映画を我慢していたから、その未練を解消して成仏させるために来たんじゃないのか? ミナがここに来たかった理由は?」

 その問いに対して、涼は面倒くさそうに問いで返した。

「理由なんているか?」

 一瞬順は黙った。そしてその言葉の意味を理解して、大声を上げた。

「理由ないのかよ!?」
「理由はないけどあれがしたい、これがしたい。役に立つかわからないけどこれをしたほうがいい気がする、いややっぱりやらなくてもよかったかも。あのときは何気ない日常の一場面だと思ってたのに、後から考えてみれば重要な人生の局面だった。そんなことはよくあるだろ。結局、理屈なんてつけられないことばかりの塊が人生になる。何せ人の心や魂の問題なんだ。みんなそんなもんだろ」
「そりゃ、精神科医の息子ならそれでも納得できるのかもしれないけどな」
「もう一度同じこと言うぜ。『これは人の心の問題だ。順くんお得意の数独みたいに、整列した答えがある問題ばかりじゃない』」
「……」

 順は涼を見た。今日の彼の服。グリーンピースの描かれたパーカー。緑色。命の色。樹木と草と豆の色。
 なんで彼はこれを着てきたのか。
 ああ。それもきっと、大した理由なんてないのだろう。

 順は自分の手を見た。涼が今言ったように、数独という数字パズルがが好きな順は、何度も鉛筆やシャーペンをこの手で握ってそれを解いてきた。
 なぜ? なぜ、順は数独が好きなのか?
 ああ。その通り。やっぱり大した理由なんて思いつかない。

 屁理屈だ。でも、自分を納得させるのには役立つ理屈だった。

 結局、そのまま二人はベンチから立ち上がって、家に帰ることにした。

「なあ風町、一個助言するけど」
「ん?」
「ポップコーンの量多すぎ。いくら同伴者がいるからって、あんなに買うのはやめたほうがいい」
「それは確かに。ちょっと買いすぎた」
「最後まで食べ切ったのは偉いけど」
「お母さんみたいなこと言うんだな」
「次回は半分のサイズにしよう」
「そりゃさすがに男子高校生の胃のサイズ舐めすぎ」
「……そうか?」

 ふいに涼は順の前に駆け出ていった。
 そして、爽やかに微笑みながらこちらを振り向き舌を出した。

「ベー」
「え」

 あっかんべえ。古典的で、故にこそ侮辱の意図が最も伝わりやすい形の表現だった。
 なぜ? 理由は? 今このタイミングなのはどうして?
 一瞬の思考停止。
 そして、再び高速回転し始める順の脳みそ。
 結論——理由なんて知るか。侮辱されたからには相応に応える!

 そのまま駅まで追いかけっこが始まった。
 意外に涼は速かった。おいお前散歩部だろ、というツッコミを心の中でしてしまう。体力で水泳部員が負けるわけにはいかないというのに、なかなか追いつけなかった。
 散歩部なんて、ほとんど帰宅部と同等であるという噂の部活である。幽霊部員だらけでまともな活動ができていない、すずめの涙程度の部費は散歩しながらつまむお菓子代に消えていくだけの、部とも言えない部活動集団。
 そこに所属している人間の足が、機械仕掛けのバネ人形みたいに高速で動いていく。

「ちょ、待……」
「ハハッ、やべ、速いな相棒!」
「あーもう、もう許すから止まれって! ハア、追いつけないったら、ハア、ハア……ッ!」

 ネズミとネズミの追いかけっこ。そんな様相を呈した茶番は、かなり長めに続いた。
 結局、二人が合流したのは駅の入り口の直前だった。
 互いに汗みずくになってぜいぜいと息を切らしながら、「なぜこんな馬鹿げたタイミングで鬼ごっこをしてしまったのか」「同意する。さっぱりわからない」と述べ合った。こんなところで意見が完全一致しなくても……。

 息を整えてから、二人は少しだけ会話の続きをした。

「で、結局。ミナは今日の映画館満足してそうなのか」
「ん。たくさん泣いてすっきりしたってさ。映画館デートも意外と楽しかったって……喜んでる」

 映画館デート。
 その単語を聞いた途端に、順は妙な気分になった。
 やっぱりミナは、映画館に憧れていたのではないか、などと思う。
 順とミナはカフェで三時の食事をした。外で適当に喋りながら一緒に歩いた。それだけだった。ミナはそれで満足な女の子で、逆に遊園地や映画館などといった場所を連れ回すのはまるきり的外れなことだと思っていた。
 本当に?
 ミナは恨んでいなかっただろうか。心の奥底で、実のところは一般的に甘酸っぱいデートスポットとされる場所を巡ってくれるような男子を望んでいたのではないのだろうか。

 ……いや。何を考えているのだ。

 涼は確かに言った。実は隠していただけで、ミナは映画が大好きだった、などという事実はないのだと。だから気に病むことはない。行きたい場所があるなら行きたいと、ミナは自分の口で言える子だった。そのはずだ。

(……それでも)

 順はぐるぐると暗い想いが胸中を巡るのを無視できなかった。
 本当は知っている。ミナが欲しかったのは、こんなに簡単に手に入るような即物的なものじゃなかった。映画館に連れて行った程度で全部救われくれるような、そんな簡単な子ではなかったのだ。

 だからきっと、これは順の願望だった。
 映画にさえ連れていってやれば。そう自分に後悔の種を抱え込ませることで、もっと重たいものから目を逸らしたいという夢のようなもの。
 つまり、これ以上考えるべきではない。
 あまり深く思い悩んでも、きっと問題は何も解決しないのだから。

「それじゃ」
「うん」
「またメッセージ送るから」
「ん。気にしとく」

 涼と順は途中で別れて違う道を行く。
 順は空を見上げた。白い雲に、少しずつグレイの筋が混じり始めている。また雨が降るかもしれない、と順は思った。
 本当に近頃は雨ばかりだ。
 きっと六月の宿命だった。



 歩道の脇、あまり手入れのされていなそうな植え込みに、その紫陽花は咲いていた。足元では雑草や苔がふわりと土を覆っている。大輪の花は重そうに頭を垂れている。
 ふと目を惹かれて、順はその場に足を止めた。

 その青い花びらを見て、順は映画のワンシーンを思い出した。
 西洋の農場のそば。庭園に咲いていた花。カタツムリが這っていた、あの湿った葉の質感。

(ずっと、恋人を待っていた人の……)

 順は無意識に、その花へと手を伸ばした。

(そばにあった花だ)

 指先が冷たい花びらに触れる。
 羽のように軽い感触だった。
 ふわりと、順の指は幻のカタツムリを追いかける。ここにはいない虫を……スクリーンの中にだけ生きていた、あの小さな虫を。追いかけて、なぞる。

 ……ミナ。

 ミナも、映画館で、カタツムリを見ていたかもしれない。紫陽花を見ていたかもしれない。雨粒が真珠のように並び、重みに耐えかねて地面へと滑り落ちていく。幻想的で古びた恋模様を見ていた。何もかもを見ていたのかもしれない。
 涼を、順を、かつて自分と付き合った男たちが同じ画面を眺めているのを、彼女はどんな気持ちで見守ってたのだろうかと、そんなふうに思う。

 そのときだった。
 どこからともなく、ひゅうっと冷たい風が吹き抜けた。六月の生暖かい湿気を凍りつかせるような、鋭く刺すような冷気だった。風は順の首筋を撫で、シャツの隙間から入り込み、ぎゅっと全身を縮めさせた。

「っつ……」

 ピリリと指先にわずかな痛みが走った。順は思わず右手を左手で掴んで握り込んだ。
 指よりも、心が痛かった。
 順は、手をゆっくりと下ろした。

 そして。

「ミナ」

 口に出してその名前を呼んだ。
 ハァイ、と明るく澄んだ返事があるのではないかと期待して。
 けれど、何も起こることはなかった。

「……何言ってんだろ」

 ぼやくように言って、順は柔らかな水彩絵の具の海のように雲の流れゆく空を見上げた。そうしてゆっくりと歩き出す。歩きながら、ポケットに手を突っ込んだ。寒くもないのに、温かい服に埋もれてどこまでもコタツの中の猫のように丸まっていきたいような、そんな気持ちになった。
 ワン、と何かが鳴いた声が聞こえた気がして、順は目線を戻した。

「ワン」

 目を見開いた。

「……おい、……おいおい」

 お前、どうして。
 順は自分の目が信じられない。

 いた。
 まただ。
 例の——リードのない犬。
 順の意識が一気に現実に引き戻された。

「待て」
「バフッ」

 首輪が嵌められている。それは明確だった。しかし、飼い主がいない。
 そして二度目だ。順がこの犬を見たのは二度目。黒犬の首に嵌められた輪っかには、見覚えのあるオレンジ色の飾りがある。間違いなく同じ犬。
 くるっと背を向けて走り出す犬。順はただ弾かれたようにそれを追いかけ始めた。

「待て、……っ! 待てったら!」

 嘲笑うように犬は駆けていく。疾風のように自由に、舞台で演舞をするダンサーのように鮮やかに。
 待ってくれ。俺を置いていかないでくれ。
 どうして、みんな待ってくれない。俺が理解する時間の猶予をくれようとしない。見限って置いていく。

「待てよ!」

 街中を走っていく。
 誰もいない道を駆けて、駆けて、駆けて。

 十字路で左右を見渡して、また霞のように犬が消えてしまったことを順は知る。
 荒く呼吸をしながら、順は膝に手をついて目を閉じていた。
 やがてゆるゆると座り込む。

「待てって、言っただろうが……」

 手のひらの裏に、湿った砂利の感触がある。
 黒く粒々に固められたアスファルトの上で、順はぼんやりと薄れた太陽に照らされていた。