空の神様は、よっぽど墨の色が好きらしい、と順は思った。
梅雨入りしてからというものさっぱり雨は降り止まず、朝も昼も夕暮れまでも、ひたすらに水の塊を抱え込んだスポンジのような雲が宇宙と地球の間に溜まり込んでいる。
学校の喧騒が遠ざかり、代わりにざわざわと電車やバスや雑踏に家に帰る人々が溢れ出す夕暮れ時。順は、涼の先導で、異界の入り口に立っていた。
「ここだぜ。どうよ?」
「どうよって……」
涼が立ち止まったのは、駅裏のさらに路地を抜けた、街灯もまばらな一角だった。そこには、およそ日本の地方都市には似つかわしくない、極彩色のアラベスク模様が彫り込まれた木製の重い扉があった。看板には文字がない。そちらにはただ、三日月と星を象った古びたランプ模様が、雨に濡れてぬらぬらと怪しく光っている。
「……本当に飲み屋なのか? どっかの怪しい宗教の祭壇が祀ってある建物とかじゃなくて?」
「バカだな相棒。見た目で判断すんなよ。ここのパンケーキは絶品なんだからな」
「パンケーキ?」
「そ。馴染みの場所だから安心しなって」
「いや。ていうかお前未成年だろ、飲み屋に馴染みがあるってマズくないか」
「アルコールは頼んだことないから問題ないさ」
「そういうことじゃなくてだな」
「まーまー、とりあえず入ってみなよ。店長、いい人だし」
涼は躊躇いなく扉を押し開け、強引に順を中へ連れ込んだ。
扉の向こう側には、外界からすっぱり切り離されたような、乾燥したスパイスと甘いバターの香りに満ちている世界があった。外装からして怪しげだったが、内装はさらに混沌として奇妙だった。モロッコのタイル張りのような床に、中国の古い調度品が置かれ、天井からはどこの国のものでもない色とりどりの布が垂れ下がっている。ごちゃ混ぜに異国風情を煮詰めたような空間で、順は酔っ払ってもいないのに軽くくるくると眩暈がしてくるようだった。
「——いらっしゃい、涼ちゃん。あら、今日はお友達を連れてきたの?」
カウンターの奥からハスキーな声が響いて、順はハッとそちらを見た。
そこにいたのは、びっくりするほど痩身の女性だった。黒いエプロンを締め、長い髪を無造作に束ねた彼女は、どこか浮世離れした美しさを持っている。ここぞ我が城であるとでも言いたげな堂々とした雰囲気と佇まい。間違いない。彼女が店長である。
涼はそんな彼女に向かって手を振った。
「こんばんは、女将さん。兄貴、また女の子にちょっかい出して浮気三昧とかしてないですか?」
「相変わらず弟くんの信頼がないことで。でも私は誰の秘密も漏らしたりはしないのよ、ちょっぴり悪いことをするくらい、見逃してあげる誰かがいないと……あ、カズ、お客様にお冷や出して!」
彼女が呼ぶと、奥の厨房から一人の青年がひょいと顔を出した。
「はーい!」
そこに現れたのは、朝顔の蔓みたいな店長のシルエットとは対照的な、丸々と豚のように可愛く太った大学生だった。頬はつやつやと桃のように丸く、髪はふわふわの天然パーマ。童顔で、まるで大きなハムスターがエプロンをつけて歩いているような愛嬌がある。
「いらっしゃい!」
カズと呼ばれたバイトの青年は、ニコニコしながら、順と涼の前にキンキンに冷えた水をおいた。ごとん、と重そうな音が響き、グラスの外側からこぼれた水滴が黒い机に染みを作る。
椅子を引いて座りながら、順は涼のほうへ身を乗り出し、声を抑えて語りかけた。
「おい、涼。本当にミナはここがいいって言ってるのか?」
「いや別に、ここにしろって言ってるわけじゃないけど」
「は?」
「飲み屋なんだからいいじゃんか。俺、女将さんと顔見知りだし」
「いや、でも……」
順が囁く言葉に、涼は「落ち着けって」と言いながら椅子の背にもたれかかった。
「もう入店したんだから、ごちゃごちゃ言っても始まらない。どうしたんだよ、気分でも悪くなったのか?」
「違う」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「……なんかその、異様な雰囲気があるというか……幽霊が好みそうな感じがするのは認めるけど、それが逆に問題というか……」
「女将さんは、酒の肴も作るけど、バターをこれでもかってくらい贅沢に使った、黄金色のパンケーキを焼くのが一番得意なんだ。俺の兄貴がここの常連でさ」
「おい、話を遮るなよ!?」
「でも今日は頼まない。ミナちゃんはバターの気分じゃないらしいから」
「あ、そうなんだ……って、そっちはどうでもいいったら」
ニヤニヤしている涼の前で、順は誤魔化すように咳払いをした。
「そもそも俺、部活帰りなんだぞ。外食するなら普通にラーメンとか食いたかったんだけど」
「まあまあ。今日はミナちゃんの希望だから」
「それはわかってる」
当たり前のように頷いてから、順は事も無げに……まるでそれが真実であるかのように感じながらミナの存在を肯定する返事をした自分に気がついて、すうっと背筋が寒くなった。
やっぱりおかしい。何かがおかしい。ここは変だ。何が変なのかといってもよくわからないが、とにかく不気味だ。
ホラー映画も小説も苦手。順は自分の臆病さを呪いたくなった。
急に黙り込んだ順の顔を、涼が覗き込む。
「どうした相棒、大丈夫?」
相棒。
もう突っ込まないぞ。
はあ、と深々と息を吐いて「大丈夫」と返事をした。
大丈夫。そう、大丈夫だ。
こういうのは心の持ちようだ。
順はグラスを手に取る。舐めるようにキンキンに冷たくなっているその水をすすり、それにレモンの香りがついていることに気がついて瞬きをした。
「あ……レモン」
「そ。そうやって細かいところにこだわってる、いい店でしょ」
「まあ。それは、確かに」
順が呟くと、涼はニコッと笑う。そしてメニューも見ずに、カウンターの奥の女将に声をかけた。
「女将さん。とりあえず、枝豆くださーい。それだけ!」
「って、おい!?」
順は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「待て待て、風町。飲み屋に入って、高校生二人が枝豆だけ注文するなんて失礼すぎるだろ。せめてウーロン茶と、パンケーキ……はダメなんだったか、とにかく何か、ほら、おでんとか何か頼まないと」
「枝豆じゃないとダメなんだよな〜。子供なんだからちょっとしたわがままは許される。ね、女将さん?」
女将は細い指を伸ばしカゴに盛られた丸のままのレモンを弄んでいたが、涼の問いかけを受け、こちらを向いてふっと口角を上げた。
「いいわよ。涼ちゃんの連れだもん、無粋なことは言わないわ? ……カズ、枝豆一皿。塩は強めでお願い」
「了解でーす!」
カズが楽しそうに奥へ引っ込む。
順はしばらく唇を噛んで黙っていた。店内に飾られたカッコウ時計の針がチクタクと進んでいく。秒針がくるくると三周したとき、ついに順は我慢できなくなった。
「やっぱり俺、他にも何か頼んでくる。申し訳なさすぎる」
順が腰を浮かせ、カウンターのカズを呼び止めようとした、その時だった。
(……!)
突然に、首筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
金縛りだ。指先一つ動かせない。声も出ない。まるで全身を透明な樹脂で固められたかのように、順の体は中途半端な姿勢で硬直してしまった。
「……え、あ……」
喉の奥でかすかな音が漏れる。視界がぐにゃりと歪み、周囲を色彩豊かに彩っている、幾千幾万もの海の荒波を越えて旅をしてきたような異国風の装飾が、生き物のようにうごめいて笑っている。
「あー、無理しなくていいよ、順」
涼の穏やかな声が、まるで遠い霧の向こうから聞こえてくるようだった。店長たちに気づかれないように、涼は声を低めて喋りかけているようだった。
「ミナちゃんが君の首絞めてる。ミナちゃん、自分のワガママを邪魔されるのは嫌いなんだ。忘れた?」
(……っ、忘れるわけないだろ……)
順は硬直した思考の中で毒づいた。
ミナはそういう女の子だった。テニス部で真っ黒に日焼けして、誰にでも明るく振る舞いながら、彼女自身が引いた線を踏み越えたものには容赦がなかった。面倒臭い野良猫のように自由で奔放で、彼女のそばに寄るものは爪と牙の攻撃を常に警戒していなければならない、そんな子だったのだ。
涼が順の背をさすっている。世界が回っている。ぐるぐると。
ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるりぐるり。ぐるり。
吐きそうだった。
ミナの幽霊? 金縛り? わがままな女の子が怒って、首を絞めているから立てなくなったなど。
あまりにも出来過ぎだった。
現実の状況が笑えなさすぎて、逆に喉の奥でくつくつと笑いが込み上げてくる。
あーあ、なんだこれ。
幽霊なんて信じていない。だから答えは一つだけ。幽霊が怖くて、自分で自分の体を縛ってしまうなんて、順の脳味噌は一体どんな仕事をしてるんだ?
数分後、カズが「お待たせしましたー!」と、湯気の立つ枝豆の皿を持ってきた。その瞬間、嘘のように体の自由が戻った。
「あれっ、お客さん、大丈夫ですか」
「……だ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみがあっただけで」
順は額を抑えながら、説明した。深く吸って吐いて呼吸を整え、椅子に座り直す。カズはニコッと気の抜けたように笑って、「何かあったら言ってくださいねー」と言って去っていった。
残されたのは、順と涼の二人と、枝豆の盛られたお皿が一枚。
「おー。青い」
「まあ。枝豆だしな」
「ついでに君の顔色も」
「もう治った」
「ならいいけどさ、ハハ」
目の前に置かれた枝豆は、至って普通のものに見えた。けれど、どこか色が艶やかであるような気もするのだ。鮮やかな真夏の森のような緑色。雪の日の庭の霜のように煌めく粗塩。
順は気持ちを切り替えようとして、ふっと息を吐いた。
割り箸を取る。紙の袋から抜いて、パキンと割る。
「……いただきます」
順がそう言ったとき、目の前で涼が「ん。美味しい」ともぐもぐしていた。
あれっと思った間には、すでに涼は次の枝豆を口にしていた。そりゃそうか、と順はゲンナリとした気持ちで思った。枝豆は手掴みで食べるものだ。なぜわざわざ自分は割り箸を探し、手に取って、割ることに時間を使ってしまったのか。
そうこうしているうちに涼は当たり前のように一粒の豆をつまむと、それを何もないはずの空中へ差し出した。
「はい、ミナちゃんの分」
順の目の前で、その豆がふっと消えた。
「え……」
どこに行った? いや、どこにも行っていない。霞のように消え去った。
順が呆然とそれを凝視したとき、さらなる異変が起こった。
皿の上に残された枝豆のさやの一つが、ピクリと動いたのだ。
さやの両端が風に揺られるようになめらかに交互に持ち上がる。みる間にそれはまるで尺取虫のような動きで、皿の縁を越えた。
「お、おい……ちょっと、これ」
「何?」
「動いてる、てか……枝豆が歩いてる……?」
「ああ、うん」
枝豆はテーブルの上を器用に這い回り、涼の指先にすり寄った。涼はそれを、まるでお気に入りの鉛筆か何かをくすぐるように、指で優しくくるくるっと撫でた。
しばらくそうすると、その枝豆はやがて満足したように涼の指を離れ、ゆっくりとテーブルの端まで這っていって、そのまま静かに姿を消した。
その先にどこへ行ってしまったのか。落っこちたのか。今は床の上にいる?
順はテーブルの下をのぞいて確かめる気には、到底なれなかった。
それからも涼はパクリパクリと、何事もなかったかのように枝豆を摘み続けていた。そして、首を傾げてこんなことを聞くのだ。
「ん。順くん、もうお腹いっぱい?」
「……」
答える代わり、順は無言で枝豆に手を伸ばした。
その手は震えていた。
それを涼に悟られたくなくて、順は素早く枝豆を皿から取ってさやを剥き始める。じっとりと嫌な汗が背中を伝っていた。
*
「じゃあね、涼ちゃん。それから、……お友達くんも。名前を聞いてもいいかしら?」
「……順です」
「ふふ、順ちゃんね? 海外でも自然に愛されそうな、いい名前」
優雅にカウンターへ寄りかかりながら、店長は妖艶に微笑んだ。硬貨と紙幣を数える細い指先に、古い骨董品にも似た不思議な魔力が宿っているように見える。
涼が呆れたように店長に呼びかけた。
「女将さん、高校生を誘惑するのやめたほうがいいと思う」
「誘惑? そんなものしてないわ。ね?」
「え……っと」
「わかってるわよ。あなたは一途な純情ボーイ。私みたいなおばさんにちょっと流し目使われたくらいで勘違いするような子じゃないでしょう?」
「……」
なんだこの店長。なんだこの店。やはりここは危険な場所なのかもしれない。
そんな一幕がありつつ会計が終わり、二人は店の外に出た。
「んー。やっぱ枝豆だけじゃ足りないな。コンビニでパンでも買ってくか?」
まったく普通の調子でそんなことを言う涼に、順は「風町」と呼びかけた。
涼は振り返った。
「何?」
「金縛り……だけだったら、まだ気のせいで済んだ」
「あー、枝豆のことか」
「……」
あっさりそう言われて、順は口を閉じた。
枝豆のこと。
そんな簡単な言葉で片付けられるようなものだっただろうか。あるいは、順が臆病なだけ?
「マジック……手品とか、使ったのか?」
「そう思うならそれでもいいさ」
「……」
そこは断言しろよ、と思わなくもない。違う、とか、そうだ、とか。キッパリと言われれば、安心する材料になる。まあ、材料になるだけで、本当に安心できるかどうかはわからないけれど。
そのとき、涼がふいに、「俺の父親、精神科医なんだよな」と言った。
「そうか」
唐突な告白。文脈が読めない。けれど、順は涼の話に耳を傾けた。
「で、あの人がよく言うんだけどさ。クライアントが快方に向かうとき、一時的に症状がひどくなったように見えることがあるらしいんだな。澱んで底に押し固められてた心の膿をバーッて出すっていうか……どうしても必要なプロセスなんだってさ。一見とんでもなく悪化しているように見えるんだけど、それは治るためにまず最初に現れる暴風雨なんだってさ」
涼はくるりと傘を回した。
「幽霊を成仏させるなんて、ただならぬことだろ。だから、ポルターガイスト現象とか、金縛りとか……あのくらいの妙なことが起こるのは、当たり前なんだと思うな。ミナちゃんは頑張ってる。だから、荒れる。それに俺たちは巻き込まれるけど、ある程度は覚悟を決めて付き合っていかなくちゃいけない。それだけさ」
「……それだけって」
「納得できないか?」
「でき……」
順は言葉に詰まった。
そのまま黙り込んだ順に、涼は言う。
「俺の頭がおかしいと思うなら、それでもいい。同じようにおかしくなるのは嫌だって考えるなら、全部信じないままでもいい。ただ、俺は君が付き合ってくれさえすればいいんだから」
なんだそれ、と思う。
どうしてそんなことを言うんだ。
衝動的に、順は口を開いた。
「もし……もしもの話、だけど。俺が、こんな茶番にはもう付き合わないって言ったら、どうする?」
涼は答えない。
その代わりに、くるりくるりと傘を回した。
「……おい、風町。さっきの、聞こえてたか」
「ん。聞いてたさ」
涼は風の中で歌を口ずさむように言った。
「茶番だから付き合わない。うん。そりゃいいけどさ、呪われるぞ。ミナちゃんの幽霊に」
「は?」
「今さら後悔してももう遅いってこと。今さら突っ込みかけた足を外そうとすれば……ま、中途半端が一番怖いってね?」
「えっ、お……おい、ちょっと待てよ」
順の指先が冷たくなる。雨の温度が急激に下がっていくような心地がする。
「呪われるってなんだ? 冗談だろ」
「いや、これは本気。ミナちゃんは怖いぞ。誰より怖い。その辺のクラスメイトなんかと比べれば、俺たちはそれをよくわかっているはずだと思うけどな。なんせ彼氏だろ。俺たちは」
言葉が出ない。
沼の泥に絡め取られたような粘ついた恐れ。ミナを恐れているのは自分だ。幽霊になって化けて出る……本当にミナが何かを求めているとき、枕元に立たれた人物がただで済むはずがないのだと、よく知っているのは自分だった。
「……」
「……」
お互いに黙りこくったまま二人が路地の角を曲がろうとした時、視界の端に何かが映った。
雨に濡れたアスファルトの上を、一匹の犬が横切ったのだった。
「あれ、野良犬?」
思わず順は二度見した。リードがない。飼い主もいない。大きさや姿形を見れば、どう考えても猫ではない。あるいはたぬきかハクビシン……?
しかし、その首元にちらりと首輪が揺れたのが見えた。オレンジ色の飾りがくっついている。
「へ? 何、野良犬?」
「風町、あの犬……!」
「あの犬ってどこの犬」
「そっちじゃない! あーもう角曲がって消えた」
順が駆け出そうとするのを、涼が慌てたように袖を引いて止めた。
「いや今野良犬って言ったよな? やめとけよ、噛まれたら危ないどころじゃないったら!?」
「どこに行くか確認するだけ。それができたらすぐ保健所かどっかに連絡する。あと多分野良じゃなくて、飼い主がいる。リードが切れたとか外れたとか、それだけだと思う」
「ええ……」
「オバケは怖がらないくせに犬は怖いのかよ。なんなんだお前はもう……」
順がバシャバシャと水を跳ね散らかしながら角を曲がると、犬はもう一ブロックほど向こうに離れたところで、じっとこちらを見つめていた。モスグリーンの瞳が薄闇の中に光っている。
「ほら、あそこに……」
後ろから涼が追いついてきた音を察して順が言いかけたとき、犬がくるりと背を向けた。そのまま犬はふわりと霧に溶けるように、路地の闇に消えてしまった。
あっと思って再び追いかけたが、路地が入り組んでいてどちらに行ったかまったくわからない。待って、と涼が呼ぶ声がして、順は彼のほうを振り向いた。
「……遅い。もうどっか行った」
元の道に歩いて戻りながら、順はぶっきらぼうに言った。
涼は不思議なものでも見るような目で順を見た。
「君のことあんまり尊敬してなかったけど……」
「お互い様だな」
「でも、君のことは少し尊敬しようかな。うん」
「……犬を追いかけたことを理由に?」
「犬を見る目が優しかったことを理由に、だな。相棒」
「……」
変なやつだな、と思った。
会ったときから、ずっとそうだった。
不思議なことに、そんなことを考えたその瞬間に、順の中で涼に対する親近感が湧き上がった。
思い返せば、順自身がそうだった。ミナもそうだった。
自分も他人も、周囲の人間はみんな変なやつだった。
涼もそうだ。
変なやつ。
だからこそミナと付き合うし、ミナの幽霊なんか見てしまうのだし、この状況をなんとかしようとして元彼に声なんかかけてしまう。怪奇現象に怖がる順をからかうでも安心させようとするでもなく、自分勝手にペラペラと母親の職業の話などした挙句に、夜道に出た犬を怖がって及び腰になる。
そして最後。
犬を見る目が優しかったから、順を尊敬すると言う。
ため息を吐いて、順は涼の顔を見た。
「その『相棒』って呼び方、気に入ったのか? それ、どういうつもりで言ってるんだよ」
「んー。テンションが上がって楽しいなあっていう感じ」
なんて答えだ。
思わず順は笑ってしまった。
涼も笑っていた。
バラバラに、しかし離れることもなく、二人はなんとなく一緒にいる二匹の動物のようにしてただ静かに歩き続ける。
表面が剥げかけている赤い塗料の塗られたポストを通り過ぎる。誰かがとめた自転車の、鍵が刺さりっぱなしなのを見て不用心だなと思ってみる。街路樹が揺れる。マンホールのあたりに水が溜まっている。チカチカと街の明かりが煌めいている。パン屋は閉まっていて、銭湯はまだ開いている。
そういう時間に、涼はキョロキョロと何かを探している。
そういえば、枝豆だけじゃ足りないだのなんだのとさっき話していたなと、ようやく順は思い出した。
タイミングよく、涼が声を上げる。
「お、コンビニあった」
ピカピカの照明と駐車場が主張している。涼が「あそこでなんか食べ物買おう」と提案した。
「何買えばいいんだろ」
「どうしよっかね。あれ、一応確認しとくけど、親に夕飯スキップするって伝えてあるんだよな?」
「うん。でも、普段そんなことしないから、まだ結構戸惑ってる」
「戸惑うって、君が?」
「そうだけど」
「うわ優等生」
「それより何買えばいいのか教えて欲しいんだけど」
「なんでもいいって。俺はツナマヨおにぎりが好き」
「マヨネーズ嫌い」
「じゃあ違うの買えばいいだろ」
「……うん」
あまりにも中身のない会話をしてしまった気がする。順は至極どうでもいいことを考えた。
今日の順はどっと疲れていた。プールで何時間泳いでも疲れないような場所、なんだかわからない心の部分が疲労を訴えている。
ゆっくりと夜は更けていく。
結局順は、シャケと昆布のおにぎりとお茶、そして大福を買って食べた。ツナマヨおにぎりが好きだと言ったはずの涼は、ビビンバとマスカットのグミを購入していた。イートインに座り込んで、黙々と食べた。
食べ終わって、コンビニを出る。真っ白に眩しい照明の下から出ると、外の夜はものすごく暗いものに見える。
順は満腹を訴える自分の胃袋を見つめながら、呟いた。
「意外と美味かったな」
「じゃ、またコンビニ飯するか」
「……まだ親のご飯が勝ってる」
「幸せ者だな」
「わかってるよ」
「いやいや、親の話。息子に手料理をそんな風に言ってもらえるなんて、なかなかないんじゃないか?」
「いや。意外とそうでもないだろ」
「うーん」
外に出ると、雨は小降りになっていた。
駅へ向かう。電車に乗る。過ぎ去っていく夜の景色をぼんやりと眺めながら、順は一番星を探していた。
「じゃ。俺この駅で降りるから」
「またな」
「うん。また」
霞のようにぼやける雨模様の中に、銀色に輝く星々の姿は見つけることができない。
それでも、背を向けて去っていく涼を見たそのとき。
リュックの銀の金具が、電車の照明に反射してきらりと光ったのを、順はなぜだかそれを宇宙の中心のようだと思った。
妙に目を離すことができなくて、それを深く記憶に焼き付けたいと願うように目で追いかけた。
いつの日か、と順は思った。
今日この日も、過去になる。かつてあったことになる。思い出として思い起こされる何かになる。
過ぎ去りゆく毎日の積み重ねの重みの中にすりつぶされて消えてしまう、そんな瞬間はたくさんある。それでも、今日のことは覚えておきたい。忘れたくない。それくらいには重みのある、大変な一日だったと。そう思った。
ドアが閉まる。電車が発進する。
順は目を閉じた。
ミナ。
今、あなたはどこにいる?
幽霊になんてなっていないと信じたい。
枝豆でポルターガイスト現象なんて起こさなくていい。金縛りになんてする必要はない。
ただ、ただ……生身の姿で戻ってきてくれれば、それでいいというのに。学校でも家でも、その他でもどこでもいい。順のそばに戻ってくる必要さえないのだ。今の彼女が好きな人の元へ、安心できる場所へ戻ってくれればよかった。
涼はきっとミナの良い彼氏だったはずなのだ。彼はきっと、そのままのミナを大事にしてくれた。そういう人間だというのは、ちょっと一緒にいるだけですぐにわかった。
彼の元でいい。いるだけでいい。他には何も望まない。
それなのに。
「……どうして」
ミナは今日も戻ってこない。失踪の届け出が出て騒ぎになってから、ミナの痕跡は一度たりとも見つからない。
窓ガラスの向こう側には夜の闇がある。太陽の神様が西の地平の果てに落っこちて、夜の神の息吹が世界を覆う。
六月は梅雨の季節。
まだ、一番星は見つからない。



