空はまるで、巨大な濡れた雑巾で拭ったみたいな色をしていた。雨ばかり続くと、体の中心からキノコでも生えてきそうな気分になる。
六月。カレンダーの数字が湿気でふやけて見えるような、そんな午後。
松風ミナが消えたという知らせは、放課後の湿った風と一緒に吹き込まれてきた。
「松風さん、三日前から家に帰ってないんだって」
部室で誰かが零したその言葉は、プールの塩素の匂いにかき消されて、水面の波紋のようにゆうらりと消えていく。順は反射的に顔を上げた。誰が喋っていたのか、会話は終わってしまってすでに掴み取ることができない。順はタオルで頭を拭きながら、途方に暮れたように目ばかりで部員たちの唇を追いかけていた。
松風ミナ。彼女は順のガールフレンドだった。
だった、と過去形にしているのは文字通り、とっくの昔にフラれてしまった彼女だから。
ミナはテニス部のコートを真っ黒に日焼けした足で駆け回っていた女の子だった。初心者から始めて一年弱、センスの悪い経験者をあっという間に抜き去り、団体戦のレギュラーの座を獲得した。子鹿のように跳ね回る彼女は、鋭い球を返して決めることより、むしろ全ての球を丁寧に掬い取ることのほうが得意だった。
付き合っていた頃、彼女はいつも楽しそうに笑っていた。
「順くんって、数独解いてる時、理科室の骸骨みたいな顔してる」
「えっ?」
「ふふっ。クソ真面目な顔してるねってこと。お化けみたいって意味じゃないよ?」
「じゃあ最初からそう言えばいいのに……」
「そっか、順くん怖いの苦手だっけ。でも、学校の七不思議くらい、他愛のないものだよ。このくらいの遊び心は、広い心で許してくれないと〜」
そう言って、彼女は順の鼻先を指でつん、と突いた。
彼女が笑うたび、順の中で何かがほどけるようだった。炭酸水に落とした角砂糖みたいに。花の蕾に落っこちた雪の結晶みたいに。優しく甘く溶けていくものがあったのだ。
幸せだった。順とミナは、一緒に同じ店でご飯を食べるだけで幸せになれる、特別な二人だったのだ。
しかし一方で、二人は永遠にわかりあうことができなかった。
ミナの心にはいつも、薄くて固い、拒絶の壁があった。彼女の心の奥深くに踏み込もうとするものは、何人たりとも許さないという、冷たい意志の曇りガラスがあった。
愚かなことに、順は一度もそれに気が付かなかった。いや、無意識に気付いていたのかもしれない。順が自分の無意識の声に耳を傾けられるほど、賢い、あるいは辛抱強い人間ではなかったというだけのことで。
ある日、順は失敗した。彼女の笑い声の向こう側を覗こうとした。ほんのわずかだけだと思ったのだ。それでも、順にとってのわずかが、彼女にとっての致命だった。
「順くん」
ミナは優しく微笑んでいた。目だけが笑っていなかった。
「さようなら」
その声音にただならぬものを感じ取って立ち上がった順が「ど、どうして!」とやっとのことで絞り出したとき、彼女はすでに建前だけの笑顔すらも浮かべていなかった。その辺の雑草にとまるとんぼでも見るような目で、彼女は順を見た。
「土足厳禁」
それきり、順たちの関係は終わった。
風の噂で、彼女が別の男と付き合い始めたらしいことを知った。皿を一枚割って土砂降りの晩に自転車で漕ぎ出して朝ごはんのパンを七日連続で焼いたことを除けば、至極平穏に月日は過ぎ去っていった。七日もパンを焼けば、大体のことはどうでも良くなってくる。そんな取るに足りない教訓を学び、自分の心の薄情さに少し悲しくなった。
でも、それだけだった。
自分の人生に松風ミナという人物はいらないのだと。
最初は冗談まじりに考えたそれが、だんだんと真実になっていった。
今、その真実がくるりと反転して、逆さまになったミナの笑顔が迫ってくる。押し込んでいた感情が呼び覚まされていく。
『松風さん、三日前から家に帰ってないんだって』
本当に?
それとなく誰かに聞いてみよう、と思った。明日にでも。明後日にでも。
結局、その必要はなかった。
翌日になると、教室中が松風ミナの噂で持ちきりになっていた。あちらからヒソヒソ、こちらからヒソヒソ、声を抑えて、あるいは全くなにも気にせずに堂々と、三組の女子生徒の失踪の話をしているのだ。
『警察がウロウロしてたって』
『松風さんのお母さんが半狂乱になって泣いてた』
『あそこのうち、あんまり家庭環境が良くなかったとか……いや、あくまで噂なんだけど』
順は表面上、きちんと平静を保っていた。元彼氏という微妙な立ち位置にいる順は、噂に対して積極的にも消極的にも関わることなく、心配はしているけれど逆に言えばそれだけである、という態度を意識して作っていた。
それでも、少しずつボロが出始めた。
最初は、他人がいない場所で。誰かの好奇心や監視の目が一つもないときに。
通学路。いつもの交差点。目の前の歩行者用信号が、青から点滅に変わる。順は立ち止まった。それからずっとぼんやりと、アスファルトを叩く雨粒の数でも数えるみたいに、その青い光を見つめていた。
「……」
気づいた時には、車道を自家用車たちがビュンビュンと交錯していた。左から、右から、閃光のように行き交っている。
大型のトラックが、水飛沫を僕の制服に浴びせて通り過ぎていく。
ずぶ濡れになった。冷たいはずなのに、どこか他人事のように自分の手足が遠く感じられた。
車道に近付きすぎていた。無意識のうちに、一歩、一歩と踏み出していたらしい。
危なかった。
自分自身の安全のことだというのに、どうしたのだろう。踏み出した分、一歩、一歩と下がることすら面倒で、やっと青信号になってからはまた歩き出すことに疲労感を感じていた。
注意散漫。その四字熟語が脳裏に浮かんで、泡のようにすぐ消える。
順は空を見上げて息を吸い込み、再び歩き出した。
数学の小テストの時間にも、妙なことがあった。
見たことがある問題だ、と思った。これなら解ける、と思った。それでも順のペンは動かなかった。
x軸とy軸を背景にぐるっと描かれた関数のグラフが、ミナの横顔に見えた。御伽話の王女様のようにすっと通った鼻筋。日焼けして真っ黒になって、帽子で影になっている部分だけが白かった顔。
「……」
この辺に目があって、口があって、鼻があって。
気付けばゆっくりと記憶の中の彼女の顔をなぞるようにして、順はお絵描きに没頭していた。
ハッと我に帰って消しゴムで全てを消した。あと五秒、と右手を急かして解答欄に数字を書き込んだものの、当然間に合うはずもない。計算結果は素数をデタラメに並べたものになっていた。
返却されたときの数学教師の「珍しいね。体調でも悪かった?」という問いかけに、順はぼんやりと返事をした。
水泳部の朝練で溺れかけたのも、到底普段では考えられない失敗だったと思う。そのとき順はコースロープに沿って、ひたすらクロールを繰り返していた。水の中は不思議な静けさに満ちている。外の雨音も、誰かの話し声も聞こえない。ただ、時折響く笛や誰かの指示の声があって、あとは自分の吐き出す泡の音だけが、ポコポコと小人の太鼓みたいに鼓膜を叩くだけ。
ターンの瞬間にプールの底を蹴った瞬間、順の耳の奥に大きく響く声があった。
『知ってる? 私見たんだよ。松風さんのお母さんが半狂乱になって泣いてた……』
教室で聞こえてきた、誰かと誰かの噂話。
「ぶはっ……!」
コースの途中で顔を出してしまった。肺に水が入り、激しく咳き込む。必死になってコースロープを掴む。が、濡れている手とプラスチック同士、つるりと滑って体が回転する。バシャン! 派手に水飛沫を撒き散らし、視界が真っ白な泡と水色の色彩に混ぜ合わされる。
魚の世界。
テレビでよく見る、水面下の映像。
思わず力を抜いた瞬間、隣に見慣れた水泳部の水着が現れた。
「おい、順! どうした、副部長が溺れてどうすんだよ」
部長の声が飛んでくる。部長に手伝ってもらって、ようやくロープを掴むことができた。ぜいぜいと息継ぎをする順の背をさすりながら、部長が「足攣った?」と聞いてくる。首を横に振って「……いや、ちょっと、わけわかんなくなっちゃって」と言うと、彼は心配そうに順を見やった。
「ちょっと休んどけよ」
「うん」
「先生には俺が言っとくから」
「サンキュ」
タオルで顔を拭きながら、順はベンチにへたり込んだ。
窓ガラスはずっと雨音のリズムを奏でている。規則正しい音のように聞こえる。日常が柔らかに続いていくことを、丁寧に教えてくれるかのような、土の木の葉の不思議な香り。
ミナは今、どこで雨を凌いでいるんだろう、とふいに思った。
英語のワーク教材に回答を書き込もうとして、シャーペンの芯が、ぷつんと折れた。どこかへ飛んでいってしまって、もう居場所もわからない。一瞬は探そうとして床の上を目が泳ぐ、けれどすぐに、諦めてまた芯を出したら良いのだと理解する。
だって、探してどうするのだ。どうせ、拾ったあとはゴミ箱に捨てるだけ。
シャーペンの芯が折れるなんてよくあることで、たまたま今の順は疲れて正常に思考できなくなっているのだ。
そして。
ぼんやりしていた順の視界の中に、その男はぽんと土の上に顔を出すキノコのように現れた。
「あのさ、君が順くん?」
その声は、気まぐれに降りそそぐ星のように軽薄で、けれどどこか、ミナが一番真剣なときの声に似た響きを持っていた。
「俺、涼っていうんだけど。三組の、風町涼。ちょっと話してもいい?」
「風町……」
彼は、順と同じ高校の制服を着た高校生だった。特別目立つことも埋もれることもなく、ごく普通に見かけるだけの同学年の男。
それでも、因縁があった。直接話したことは一度もないのにも関わらず、きっとお互いがお互いのことをよく知っていた。
「あー、あのさ。知ってるかどうかわからないけど俺、」
「知ってる」
「お、そっか」
順は、自分でも驚くほどあっさりとして落ち着いた声がするりと口から出るのを感じていた。
「お前、今ミナと付き合ってるやつだろ」
「ん、そう。てか、こういうのやっぱバレてるものなんだな」
「高校生の観察力と拡散性は舐めないほうがいいと思う」
「だな……」
風町涼は、意外に素直な表情で頷いた。
ミナが選んだ人間だ。曲がりなりにも、とんでもなくおかしな奴は選ばないだろうと思っていたが、予想通り毒にも薬にもならなそうな男だった。
ただ、少しばかり……いや、かなり気まずいものがある。
何せ、元彼と今彼の関係である。
それに加え、何が悲しくて、どうも自分よりミナと相性の良さそうな雰囲気を纏っている男と喋らなくてはならないのか。
向こうだって、同じだろう。下手をすれば順に殴られるとか、そこまで極端なことにならずとも険悪な態度を取られて追い出されるとか、そういう展開があっても全くおかしくない状況である。
よく自分の彼女の元彼に声をかけにきたな、と感心する。それと同時に、何か事情があるに違いない、という点も察することができる。
「それでさ、実は、俺がわざわざ声かけにきたのは理由があって」
「理由なかったら怖いだろ」
「うん。お察しの通り」
「で、理由って?」
「ミナちゃんのことで」
「……」
ちょっと場所を移すか、という話になった。
順が荷物を片付け、椅子を引いて立ち上がる。
しとしとと気の滅入るような雨の音が響いている。それでも雲模様は緩やかに変化を続けている。びしょ濡れになりながら餌を探す小鳥が風に煽られ羽ばたきながら、枝と枝の間を飛んでいく。
マスカット色に透き通る木の葉を窓越しに見つめたとき、順はふと、自分は一度も泣いていないなと気がついた。
ミナと別れてから。ミナがいるテニスコートをぼんやりと眺めながら。一人で帰る日の空へ手を伸ばしてみて。ミナが学校へ来なくなったと聞いたとき。意味もなく、ミナの面影を探してあちらこちらへ視線を彷徨わせながら。
自分は、一度も泣いていない。
一回くらいは、泣いたってよかったんじゃないかと思いながら、順はなぜ今更こんなことを考えているのかと戸惑って、何の気なしに隣を向いた。
風町涼。松風ミナと、同じ「風」の字を共有する男。
彼はミナがいなくなって、どんな気持ちになったのだろう。今、どんな気持ちなのだろう。彼女が自分を置いてどこかへ行ってしまったと知ったとき、彼ならば心にどのような感情を浮かべるのだろう。
……あるいは、何か秘密を知っているのだろうか。
ミナがいなくなったというこの状況に対して、一石を投じるような、何か。
昼休みが終わるまであと二十分。順は涼に連れられて、雨の中の校舎の外へと歩いていった。
校舎の裏手、雨を凌げる大きな藤棚の下で涼は足を止めた。傘を閉じて、立て掛ける。順もそれに倣う。見れば萎れて枯れて、茶色に沈んだ色合いの花を、さらりと涼が撫でていた。透き通ったような雨粒が彼の白い指をつたい、つうっと流れ落ちる。
「単刀直入に言うけどさ」
涼はまるで気軽な調子で言った。コンビニでドーナツ買ってこようよ、とでも言うかのようだった。
「ミナちゃん、死んでると思うんだよな」
「え」
「そりゃ最初は単に失踪してたんだけど、死んじゃった。そう思うんだよ」
「おい」
冗談なら笑えない、と順は言った。そりゃそうだ、と涼はあっさり頷いた。
「だから、冗談じゃない。そもそも冗談でこんな場所まで呼び出さないって」
「根拠は」
「ちょ、待って」
「待たない」
「ちか、てか顔怖い……」
「そんなことどうでもいい。いいから根拠を話せ」
涼やかな黒いフレームのメガネ。その奥におさまる涼の澄ました瞳が神経を逆撫でる。急に詰め寄った順に怯えたのか、涼の口端が微妙に引き攣った。
いい気味だ、と思う。こっちの心をこうもかき乱しておいて、そっちが常に冷静でいるというのは釣り合いが取れない。
順のかなり本気の睨みに対して、涼はわずかに喉を鳴らしながらも、目を逸らそうとはしなかった。
「あー、えっと。説明が難しいんだけどさ」
「できるだけわかりやすくしてくれれば、それでいい」
「俺、昔から霊感があって」
「……」
「霊っていうか、変なものがその辺にいるなーっていう気配? みたいなのを、ずっと感じながら育ってきたんだけどさ? それが、つい今朝から……いやあの、これ俺の頭がおかしいみたいに感じるかもしれないけど、マジの話でさ」
「……いいから続けて」
「ん。まあその、ミナちゃんが幽霊になって、俺のそばにいるんだよ」
沈黙。
なんと返事をすればいいのかわからない。
ふざけている? いや、目の前の彼は、まったく遊びで話しているようには思えない。ただ素直に自分の感じることを正直に語っているだけなのだ。……本当に? 頭がおかしいと思われるかもしれないと、涼は自分でそう言った。自覚しているのだ。自身の感覚の特別性、これが客観的にどれほど馬鹿らしく空虚に響く言葉の連なりなのかを。
順は眉根を寄せた。
果たして、間違っているのは涼なのか?
あるいは、涼以外の全てが間違っているのか?
無言で涼が振り返って、藤棚と雨の世界の境界あたりを指さす。順には何も見えない。ただ、ざぶざぶと景色を水彩画のようにぼやかしていく水の舞いばかりがそこにある。
「やっぱ元彼でもダメか。ちょっとは見えるか期待したんだけど」
「幽霊なんていない」
「俺もそう思ってたってば」
「……それにそもそも、ミナが死んだなんて、警察だってまだ何も言ってない」
「そりゃ俺も、ミナちゃんの体がどこにあるかもわからない。でも、心の部分はここにあるっぽい。ぼんやりとだけどさ、透けて見えるんだよ。今朝はちょっと前に俺が褒めた可愛いカボチャキャラの服着てた。今は……テニスウェア着て、ラケット持って、さっきから君の顔を覗き込んで笑ってる」
順の背筋に冷たいものが走った。きっとこのとき、順は怖がっていた。
ミナが死んだ。死んで、そして、戻ってきた。順が好きだった彼女の格好をまとうという周到さで。
もし……もしも、涼の言葉が本当だとしたら?
彼女が本当に、そこにいるのだとすれば?
「笑ってるって……どうやって?」
「どうやってって、口があるし、目もある。普通に笑ってるだけだよ」
「いや、そうじゃなくて」
「あ、格好が変わった。今俺たちと同じ、制服着てる。そんで……」
涼がそう言いながら、首を傾げる。
「『理科室の骸骨みたいな顔〜』って言って爆笑してるけど。あ、本開いてるジェスチャー。これ意味わかる?」
「……」
「お。そっち行った」
「……」
「君の鼻の先っぽ突っついてる」
「マジ?」
「マジです。あでも、実体がなくて指が透き通ってるから上手く突けなくてイライラしてるな……」
「幽霊のミナが?」
「うん」
「……今現在?」
「今現在、進行形」
全身の先端が冷たくなる……ような、気がする。心臓が早鐘を打つ。脳髄に電撃が走っているかのような緊張感。世界が急速に遠ざかり、風邪を引いたときのように体の芯が重くなる。
あっという間に、雨なんてどうでも良くなる。
完全な密閉空間ではない藤棚の下にぽとぽとと垂れてくる雨漏りも、それで制服に染みがいくつかできていることも、微妙に気温が低くて寒いなと感じていることも、何もかもが些細なことのように思えてくる。
そしてこの異常空間で、涼だけが、まるで普通に生きて暮らして、ついでに順へ喋りかけている。
その事実を、上手く信じることができない。
「あ! そんで、本題なんだけど」
順は唾を呑み込む。できるだけ平静なふりをしていた。
「……本題まだだったのかよ」
「ミナちゃん成仏させるの手伝ってくれないか?」
「……」
思わず天を仰いだ。
この場に壁でもあればもたれかかってずるずる滑りしゃがみ込んでいたかもしれない。
しかしここは外だった。校舎内で自然豊かで、静かで土と雨の匂いに包まれた穏やかな場所。たくさんの秘密を覆い隠してくれそうな代わりに、よりかかるにふさわしいものがない。ある意味冷徹で、容赦のない場所だった。
「……なんで俺に言うんだ。お前の彼女だろ。お前がなんとかしろよ」
「それが、ことはそう簡単じゃなくてだな」
「それでもなんとかしろったら」
「……」
返事がない。
顔を向ければ、目の前で涼は藤の枯れ枝を拾い上げ、片手でいじって弄び、それから飽きたのかまた元通りに地面に置き直していた。
暇なのだろうか? と順は思った。いや、単に手が空いていたのだろう。大事な話をしているときこそ、関係のないことをしたくなる気持ちはまあまあ理解できる……気がする。
結局、涼は枯れ枝のことに気を留めた様子は一切なかった。ただ、会話に切れ目なんてなかったかのような顔をして、何事もなく彼の話を続けた。
「俺だけじゃ足りないんだよな。ミナちゃん、君に未練があるっぽい」
「嘘だな」
「嘘じゃないさ。悪いことしちゃったなって言ってる。好きなのは俺だけど、君のことも別に嫌いじゃなかったんだってさ」
「……さすがにわかるぞ。そろそろお前、適当言ってるだろ」
「さあね」
涼は静かに肩をすくめた。
反応が大袈裟ではない。淡々としている。それが逆に真実味を帯びていて、薄ら寒いものを感じさせた。
藤の天井を見上げる。順は低く唸るように声を出した。
「……俺とミナは相性がよくなかった。最悪ではなくとも、だからこそ悪質な類いの恋だった。俺たち二人の関係性は、未練が生まれる類いのものじゃなかった。そのぐらいは俺でもわかってる」
「案外わからないものだと思うけどな」
「外野だからって適当を言うな」
「いや、そうじゃなくて。ミナちゃんって、んー、……ほら、中身を必死に守ってるスイカみたいな? そういうところあったじゃん。赤い部分は絶対見せない。鎧の緑と黒の仮面しか見せません、みたいなさ。このたとえ、わかる?」
「……なんとなく」
「良かった。でさ、俺はちょっと自分でも特殊だなって思ってる感覚があって。外側の皮しか見てないのに、ぼんやり赤い部分の存在も感じ取れる……みたいな感じのが、それこそずっとあってさ。あ、この感覚はミナちゃん限定じゃなくて、対人関係において全部そうなんだけど。つまり、」
「表面しか出していない人間の心の内側を勝手に盗み見る能力がある、と」
「ちょっと違う気がするけどまあいいや。そんで、そんな俺の勘が言ってる。君とミナちゃんは、意外に相性がいい」
「……」
今彼の余裕を見せつける、新手のマウント取りか何かなのか?
嫌なツッコミを内心でしてしまう。
順は唇を噛んで、暗く澱んだ感情を振り払おうとした。息を吸って、吐いて。目を閉じて、ここにある何もかもから一度距離を取ろうと試みた。
そして、うまくいかない。
ただ、沈めていた記憶ばかりこぽこぽと泡のように浮き上がってきて、余計にグチャ混ぜになっていくようだった。
ミナと順は初め、この上なく上手くやっていたのだ。表面上だけの甘く楽しい関係性。深入りしない、心地いい距離で。しかし、順は満足できなかった。欲望のその果てに、彼女の内側に触れようとした。そうしてあっさり、彼女は囲んだ手のひらの中から逃げる金魚のように、するりと抜けていなくなった。
諦めることは難しかった。それでも、諦めなければならなかった。そうでなければ他のことが何もできなくなりそうだったから。生きるために、順は彼女を過去の人だと信じることにした。
永遠の別れだ、と順は歌うように心の底で口ずさんだ。
もう自分と彼女は、二度と会うことがない。そういう星の元の二人だったのだ。これからの自分の人生に、ミナという少女の影が被さってくることは永遠にありえない。
けれど。
結局、向き合う羽目になる。そうなるのだ。
どうして?
どうしても。
忘れようとした小魚は、いつの日か巨大な怪物となって海の底から咆哮を上げる。暴風雨の夜に航海する船を沈めようとして、金剛の硬さの鱗に覆われた尻尾を振りまわし叩きつける恐ろしい化け物に変貌する。
誰に対する罰なのか。
そもそも何が罪だったのか。
あるいはこのぐちゃぐちゃの気持ちこそ、この世界にあるがままの正しいありようだったのか。
順にはもう、何もかものわけがわからない。
「協力してくれるか?」
問われて、順は顔を上げた。
わからない。知らない。考えたくない。
順の拒絶の気配を敏感に感じ取ったのかもしれない。涼がすかさず放った言葉に、順は顔を歪ませた。
「ミナちゃんの話、聞きたいんじゃないか?」
「……」
ああ、そうだ。その通りだ。
順はミナのことが好きだった。別れてからも、ずっと。ずっと。
だから、これは極上の餌だった。ミナというあの明るくて甘くてほろ苦い、美しくも雄々しい少女の物語。
彼女がどんな言葉を口にしていたのか。何を食べて、何を着て、何を見て笑っていたのか。道端でものを拾い上げる癖があった彼女は、一体あれからというものどんな面白いものを拾っていたのだろう。
ミナの彼氏が目の前にいて、順が知らないミナの話をしてくれるのだという。
知りたい。知りたくてたまらない。
……それでも、と順は思う。もう知る必要のない物語。みんなみんな、過去の話。
「いや」
順が言うと、涼は残念そうな面持ちをした。意外そうではなかった。
順はため息を吐いて涼に言った。
「風町。お前、ラッキーだな」
「何が?」
「俺が気の短い奴だったら、お前は三回は殴られてるって意味」
「ああそういう話か。逆に三回で済むんだ?」
「はっ倒してぎたんぎたんにするのが三回かもしれないな」
「ハハッ、そりゃ怖い」
気軽な表情で笑う涼の気持ちがわからない。
そもそも、と順は思う。彼には部活もある。三年生が引退して、すでに二年の順たちが部を回していくのだから、きちんと責任を持たなければならない。勉強だっておろそかにするわけにはいかない。学生の本分は学ぶことだと、そこら中の大人が言っている。
そう、落ち着くことが大切だ。落ち着いて考えて、妙なものからは一度距離を置いて。それから先のことは、また後になってから考えればいい。
「ミナの成仏、成功するといいな。……応援してるよ」
順はそう言って、踵を返そうとした。しかし涼が「あ、待って!」と声を上げた。
何が待ってだ。立て掛けてあった傘を手に取る。涼に肩を掴まれた。
強引にそれを振り払う。
「もういいだろ」
「もう一つ交換条件があるんだ。タダでとは言わない」
「タダとかそういう問題じゃ……」
「金銭的なことだ。心理でダメなら物理で君を釣る」
なんなんだコイツ。
しつこいにも程があるだろう。呆れ果てながら順は振り向いた。涼が財布でも取り出すつもりなら、この場で叩き落としてやるつもりだった。
「だから、いらないと……」
そして。
差し出されたのは、一枚の紙切れ。
「はいこれ」
「へ」
「……君、ここ好きだったんだろ?」
涼の手の中には、色褪せたオレンジ色のショップカードがあった。かぼちゃのキャラクターがとぼけた顔で笑っている。ピースサインでイエイイエイ! とこちらにアピールまでしている陽気さが、この場の空気に対してまるで場違いなサービス精神だった。
「……『かぼちゃくん喫茶』の、パフェ無料券」
順は鬼のような無表情を浮かべたまま、そこに書いてあるタイトルを読み上げた。
「そう。店でお金出して買って、そんで友人とか知り合いにプレゼントする用のやつな。ほら、この喫茶店、そういうのあっただろ」
「なんでこれを」
「誕生日プレゼントなんかでミナちゃんにあげてたんだけどさ。予備で買っといたのが余ってた。そんで、えっと……ミナちゃんの幽霊が、これしまってた引き出しにまとわりついて『順くんにはこれあげたらなんでも言うこと聞いてくれるよ〜』みたいな? そういう感じのこと言ってたから。まあ、とりあえず彼女のアドバイスには従っとこうかなと」
順の指先が、少しだけ強張った。
『かぼちゃくん喫茶』
ミナと出会った場所。彼女が一番好きだった、路地裏の小さな喫茶店。
そこのパフェは、果物や白玉やその他のトッピングがこれでもかというほど詰め込まれていて、生クリームの甘さは絶妙だった。
「……」
記憶が蘇る。
そうだ。あのミナが自分を選んでくれたのは、順があの店に一人で通う勇気がある男だったからだった。
それ以上でも、以下でもなかったのだと、順は思っている。
甘いものが好きなくせに、可愛いものも好きなくせに、外聞なんてつまらないものを気にしてわざと背を向けるような男は嫌い、相手になんてしてやらない、とミナが突き放したように言ったのを聞いたことがある。
その点順は、自らの外聞というものをあまり気にしないたちだった。同じ高校の制服を着た女子がそこにいようが、西風が吹こうが霧雨が降ろうが、外をシャボン玉が飛んでいようが、男子高校生一人で入るのはとても浮いているという自覚があろうが、関係なく入店して季節のパフェを注文していた姿が、どうやらミナのお眼鏡にかなったらしい。
ある日「雨ですね」「うん」「空いていますね」「うん。ていうか、お客さん私たちだけだけどね」「……同じテーブルに座っても、いいですか」「ああいいよ」「えっ、……いいんですか?」「ふふっ」いたずらっぽい魔女のようにクスクスと笑ったミナと順は、その日から恋人同士になった。
ミナと一緒に木のテーブルで一つのパフェを分け合って食べた日々の記憶が、このペラペラの一枚の紙の力で鮮やかに引きずり出されていく。
「……魚釣りかよ」
「パフェで釣る魚釣り。釣れるのは男子高校生。楽しそうだな」
涼がニヤッと笑う。
「海の環境に悪そうな釣り……」
「紙を使ってるんだから、そこまで環境に悪くもないだろ? いや、紙の種類によるのかな……」
涼は真面目な顔でそんなことを言ってから、「まあ、それにさ」と順の顔を見た。
「やっぱり君も気になってるんだろ? 彼女がなんで消えたのか。君はモヤモヤの霧をそのままにできなくて、ハッキリさせないと夜も安心して眠れないってタイプに見えるな。俺と一緒に動けばそれがわかるって保証はないけど、少なくともヒントくらいは見つかるかもしれない」
……まったく。どうしてこんなにも、過去は現在に絡みついてくるのか。
順は空を見上げた。
濡れた雑巾のようなのったりしたグレイの雲の隙間に、不意に一瞬の星の輝きが煌めいた気がした。今は昼間だ。星じゃない。太陽の光が、閃光のように差し込んだのだ。ほんの一瞬のことだけれども。すぐに黒雲に覆われてしまったけれども。
それでも。笑うように。
人間の女の子が、ぴかりと笑顔を見せたときの輝きのように。
ミナ。真っ黒に日焼けした、掴みどころのない美しさを持っていた女の子。
あの子のように、世界が輝いて、順の真上に、降ってくる。
「もらう」
順はパフェ無料券を涼の手から取った。
「お? やる気になった?」
「なった」
「本気で?」
「……たぶん」
そっか、と涼は嬉しそうに笑った。そしてたんと順の肩を叩いた。
「じゃあ、これからよろしく。相棒」
「は? 相棒?」
「ダメだったか?」
「一応恋敵のはずなんだが……」
「あー、君ってそういうの気にするタイプ?」
「逆に気にしない奴がいるのかよ」
「俺」
「思ったより最強の答えが出た」
黒縁メガネの奥で、涼の目に茶目っ気のある光が光る。彼はケラケラと、まるで雨の日に喜ぶカエルのように自由で、楽しそうな声で笑い出した。生きているだけで楽しそうだやつだった。
雨はまだ降り続いていた。
けれど近頃順の胸の奥深くにずっと沈み込んでいた、鉛のような重みが、砂糖菓子の溶けるように淡く薄れ始めている気がした。それが単なる気のせいなのか、そうでないのかは、よくわからなかった。
とりあえずメッセージアプリを交換した。いつでも連絡が取れるように。絶対に交わることはないと思っていた人間と、ネットの海の世界で繋がる細い線を共有したのだった。
順は言った。
「で、まずは何をするんだ」
「そうだな……まずは、飲み屋に行くかな」
「嘘だろ」
いきなり順はずっこけた。
残念ながら嘘ではなかったらしかった。ついでに冗談でもなかったらしい。
夜の街に繰り出して、会社帰りの青年やタバコの似合う美女、くたびれたスーツの中年やどこを見ているのかもわからない老人、暗い照明と一晩中かかっている音楽。そういうものに溢れた異世界に、二人だけで入っていってみようと、涼は懇切丁寧に説明した。
順は頭を抱えた。なんてことだ。
まず、と順は言った。
「未成年だから店に入れない」
「入れるさ」
「法律で禁止されている」
「アルコールの摂取が、だろ?」
「飲み屋に入ってウーロン茶を頼むだけの高校生男子二人? どういう絵面だよ!?」
「お茶もいいけど、目当てはおつまみな。枝豆いっぱい注文しようぜ」
「もっと意味わからなくなった!」
ざぶざぶと振りゆく雨の中、休み時間の終了を告げる鐘が鳴った。キーンコーンカーンコーン。異界に片足を突っ込んだ人間たちを、現実に引き戻す澄んだ音。
二人は顔を見合わせた。
「教室に戻ろうか」
「うん」
一瞬でも盛り上がっていたのが嘘のように、トーンの低い声が出た。
パシャパシャと足元の水たまりを蹴る。波紋が生まれては散っていく。順は思い出したように、「あのさ、英語のワークがあったんだけど」と呟いた。
「あれ、次の時間までに終わらせとくつもりだった。休み時間が全部潰れたから、もう無理だけど」
「はは、そりゃごめん」
妙な気分で、順は涼のほうを振り向いた。
「……お前も、あんまり怒らない人間なんだな」
「何? 君もそうだからって?」
「いや。ミナに似てるな、と」
「えっ、そうかな」
「あの子は怒るふりばっかりで、本気で怒ることはなかったから」
「表面上は、だろ」
「……まあ、うん」
さすがはミナの現彼氏。彼女の性質をよく知ってらっしゃることで。
二人で玄関にたどり着く。傘を畳んで傘立てに突っ込み、美化委員が敷いた雑巾で靴の裏の泥や水滴を落としてから校内へと早足で進んだ。
そろそろ急がなければ、次の授業に遅れてしまう。
クラスが違うので、途中で別れることになる。順は最後に、ふと振り向き、もう一度涼の顔をじっと見た。
「ん?」
校舎内に入って一息ついて、それでもさっきまで二人が雨の中で話していた事実がなくなることはない。涼は雨に濡れて少し湿った黒髪を、頰に張り付かせていた。彼の顔色は全く普通だった。ありありとその痕跡が残っているのにも関わらず、さっきまで順が彼と恋人の幽霊の話をしていたことなどまるで非現実的なことのように思えた。
「あの……ミナは、今もいる?」
躊躇いながら口にしたその言葉に、涼はあっさり頷いた。
「そこにいる」
当たり前のように涼が指し示す何もない空間を、順は見つめた。
何かがあるのかもしれない、と思った。順にはわからないけれど。
科学では説明できない。論理でもダメ。雨の香りに包まれた初夏の魔法。魔法、という美しい言葉にくるみ込むことが順の最大限の抵抗になるような、巨大な何か。
順はスラックスのポケットに押し込んだ無料券の感触を感じながら、涼の目を見つめた。
澄んだ目だった。
それが少しだけ怖かった。
校舎内には子供の声が溢れている。いつもとまったく変わらない日常の音が、懐かしいオルゴールの音のように優しく響き続けている。
涼と順のいるこの場だけが、冷たく冷えているようだった。
「……それじゃあ」
「うん」
順は涼に背を向けた。
ふと順の脳裏に、さっき交換したメッセージアプリの繋がりが蘇った。
涼のアイコンは、道端で撮ったらしい一輪の花を咲かせた雑草の写真だった。どうせあいつはミナと二人で後ろ姿を写した写真でも使っているんだろう、などと自嘲気味に考えていた順にとって、それは少し意外なほどに誠実で素朴な写真に見えた。
そんな順は幼少期に自分の手で作った影絵の狐の写真を使っていた。
QRコードで互いのアプリを繋げたとき、順のアイコンを見た涼は一言「狐だ」と言った。そして「懐かしい」とも。俺もそうやって遊んだことがあると、彼は言った。
きっと人間同士の別れというものは、本当の意味で訪れることはないのだろう、と順は思った。かつて出会ったという事実そのものが、絡みついて離れない。いつまでも解放されることはない。縁というものは、そういうものだ。
順の空想の世界の中で、二人の少年の影が、水溜りに映って揺れていた。
呪いのように。
お化けとお化けの約束のように。
梅雨の終わらない街へ、彼らは並んで踏み出していくようだった。ステップ、ステップ、ホップステップ、ジャンプ……。
そうしてその後ろには、匂いもなく、形もなく、ひらりひらりと舞っているものがいる。
ミナ。
ミナ。
松風ミナ。
ポーン、と黄緑色の球が空へ放り出されて弧を描く。ニヤッと白い歯を出して笑う。パフェもハンバーガーもビーフジャーキーもカレーライスも同じ顔でかぶりついたあの子の笑顔が、記憶から不意に蘇ってまぶたの裏側にちらつく。
ミナ。
口に出せば負けのような気がして、順はその名前の響きを奥歯の間で擦り潰した。
学校生活の午後が始まる。
なんてことない、いつも通りの、金曜日の昼下がり。



