鈴生りの樹

 六人部(むとべ)二二(ふじ)には、幼い頃から特別な友人がいた。

 彼は真っ黒な服を着ている、ずいぶんと背の高い大人だった。
 彼はいつも物陰にその大きな体の半分以上を隠して、ジッと二二を見つめていた。
 二二が声をかけても返事をしなかったが、たまに思い出したように地鳴りのような声を発することがあった。
 唐突に「止まれ」と言うから、びっくりして足を止めたら、目の前をバイクが駆け抜けていったことがあった。変なおじさんがずっと付いてきているなと二二が不安に思っていたら、「首をへし折るぞ」と男を追っ払ってくれたこともあった。
 二二は黒い服の友人が大好きだった。
 幼い二二は、頼もしい友人を得意げに母に紹介した。母は最初こそ謎の友人に戸惑ってはいたが、すぐに微笑んで「友達ができて良かったね」と二二の頭を撫でた。
「名前はなんて言うの?」
 母の問いかけに、二二は困ってしまった。何度か名前を尋ねたことはあったが、友人が答えてくれたことはなかったからだった。
 悩んだ挙句、二二は直感的に思い浮かんだ名前で呼ぶことにした。
「クロイさん」
「黒井さんねぇ」
 母はおかしそうに笑った。母がなぜ笑ったのか、この時の二二には分からなかった。
 その意味を知ったのは、それから数年後のことだった。
 クロイの姿はどうやら他の人には見えないらしいと察したとき、母はクロイを二二の空想上の友人だと思ったらしいと理解した。いわゆるイマジナリーフレンドというやつだ。確かに子どもが生み出した存在にしては、随分と現実的で可愛げのない名前だったから、母が思わず笑ってしまったのも仕方がなかったかもしれない。
 空想上のお友達っていつになったらいなくなるのかしら――こっそりと父親に話す母の声を聞いてしまった二二は、大切な友人を否定されたことに、ひどく傷付いた。
 二二は人前でクロイと会話をすることをやめた。両親はあからさまにホッとしたような様子だった。
 その瞬間、幼い二二は秘密を一つ持った。
 秘密基地のような心ときめく秘密ではなかった。大人の世間体や常識を押し付けられ、一番大事な友人をないがしろにすることを強制された、不名誉な秘密だった。
 思い返せばこの頃から両親との間に見えない壁が出来たようにも思えた。

 ある程度大人の事情が理解できる年頃になっても、二二と両親の関係性は変わらなかった。
 両親と仲が悪いわけではない。むしろ両親は二二を溺愛していると言ってもいいだろう。
 しかし二二はいつも一人ぼっちのように感じていた。幼いころに負った深い傷が、両親への拭えない不信感を抱かせていたのは明らかだった。
 高校生にあがった二二が逃げるように一人暮らしを選択したのは、当然の流れだったのかもしれない。
 二二が選んだのは単位制の高校だった。
 実家から遠いことも選択した理由の一つだが、なによりも二二の興味をひいたのは自由な校風だった。
 校則は緩く、学校指定の制服もない。中学生みたいな幼い者もいれば、社会に出てもおかしくないような大人っぽい者もいる。生徒たちは周りのことを気にせず、好きなことを学んでいる学校。
 この他者多様の自由な感じが、二二がこの高校を選択した何よりの理由だった。

 三階の教室から見える窓ガラスの向こうは真っ赤な夕日が広がっている。
 二二は窓際の最後列に座っていた。
 まるで天使――彼の姿を見た者は、誰しもがそう思った。
 陶器のように透き通った白い肌。大きなヘーゼル色の瞳を縁取る長い睫毛に、紅を塗ったかのような桃色の唇。絹のような美しい光沢と柔らかな手触りを持つ亜麻色の髪。
 共に授業を受ける生徒たちは、誰しもが二二を盗み見する。教壇に立つ教師すら、何度も二二に視線を飛ばしていた。
 二二自身は視線の集中砲火を全く気にすることなく、窓の外を眺めている。明らかに授業に集中できていない様子だったが、教師が二二を注意することはなかった。
 実際のところ、二二は視線に慣れていた訳でもないし、関心を上手く受け流す器用さを持ち合わせているわけではなかった。
 非凡な容姿に恵まれ、好意を寄せられることが日常茶飯事と化している……普通こういうタイプは、全てが自分の思う通りになると考える傲慢な勘違い野郎になったり、自分が生まれつきのスターであるかのように思い込んだりするが、二二はそういったタイプとは程遠い性格をしていた。
 二二は自己肯定感の低さと他者への不信感から――恐らく幼い頃一番信頼していた友人の存在を否定されたことで根付いたものだ――他者からの好意は自意識過剰による勘違いだと切り捨て、他者が自分を否定するとは当然であるという諦めに近いものを抱いていた。
 結果、自身へ抱かれるあらゆる感情に対して無頓着になるという厄介な性格が出来上がっていた。
 二二はそんな性格だったから、自分が注目の的になっていることに気付かず、ぼんやりと景色を眺めていた。
 正確には窓の外に立つ友人のクロイと見つめあっていたのだが――その事実に気づく者は誰もいなかった。

 ぼんやりとした教師の締まりのない授業が終わった。
 二二はようやく窓から視線を逸らした。時刻はもう十八時だ。ここからあっという間に暗くなっていくだろう。
 二二は寄り道をしないでさっさと自宅に帰るタイプだ。帰り支度をしていると、ひょいっと言う効果音がしそうな気軽さで、二二にとって見慣れた顔が教室を覗いた。
「良かった、まだ帰ってなかったか」
 彼の名は(あきら)だ。
 章は常に寝癖が酷いという印象以外は特記すべき個性もなかったが、気さくで話しやすい性格のおかげで、二二にとって気軽に話せる数少ない友人の一人だった。
 章は親しげな様子で二二の横の空席に腰掛けた。
「今日ヒマ?」
 積極的に用事をいれない二二はもちろん暇だったが、簡単に頷いたりはしなかった。章が企むような微笑みを浮かべていたからということもあったが、暇を楽しむタイプだからということも大きかった。
「なにかあるのか?」
「これから肝試し行くんだけど、二二も来いよ」
「肝試しか……」
 不意に圧力を感じて二二は窓を見る。夕日を背負うクロイが何か言いたげに身動ぎしていた。
 二二は「わかってる」というように瞬きを返した。クロイの存在が見えない章には、さぞかし妙な沈黙に見えただろう。
「行かない」
 素っ気ない返事をしてから、二二は内緒話をするように声を潜めて付け加えた。
「オレ、幽霊苦手なんだ」
「二二にも苦手なもんがあるのかよ」
 章は弱みを握ったと言わんばかりの悪い笑みを浮かべてみせた。
「まぁ、そこをなんとか頼むよ。お前が来るからって女子誘っちゃったんだよ。自分がモテてんの流石に自覚あんだろ?」
「……それは、まあ、どうだか……」
 二二は歯切れの悪い返事をした。ちょうど昨日名前も知らない先輩に告白されたばかりだったから、図星をつかれたような気まずさがあったらしかった。
「普通がどれくらいか知らないし」
「普通は週一ペースで告白されねぇからな。ったく、お洒落とか全く興味なさそうなのに、なんでモテるかなぁ。絶対俺の方が服とか美容院とか金かけてるぜ?」
「それは寝癖じゃないのか?」
「これはこういうセットなの!」
 章の髪型はどう頑張っても寝癖にしか見えなかったが、彼の主張も一理あった。
 二二は身なりに関しては無頓着だった。前髪を切ることすら億劫だったから片目はほとんど隠れていたし、いつも気楽なパーカーを羽織っていた。
「で、どうよ? 良いだろ?」
 章が再度、強い調子で頼み込んでくる。二二は気が進まない様子で目を逸らした。
「直前でオレがドタキャンしたことにすれば?」
「お前が居ないって分かったら、向こうも帰っちまうだろ」
「まぁ……そうか、なるほど」
 二二には自分勝手な友人を手助けしてやる義務はない。しかし数少ない友人を大事にしたい二二としては、冷たく突き放すこともしたくなかった。
「じゃあ、現地まで一緒に行くけど、そこで適当な理由つけて抜ける。女子に気づかれないように帰るから、あとはお前に任せる。それなら良いだろ?」
 章は満足そうに頷いた。クロイも不満はないようだった。

 車で現地へ向かう時には、外はすっかり夜の帳が下りていた。
 コンパクトカーを運転しているのは、伊邪和(いざなぎ)と名乗った青年だ。二二とは初対面で、章の部活の先輩なのだという。
 章が連れてきた女子二人は明らかに二二の横に座りたそうにしていたが、二二は見知らぬ女子と話す勇気もなかったので「酔いやすいから」と適当な理由をつけて助手席を選んだ。章と、章が連れてきた鉄男(てつお)は、二二の行動に陰ながらグッドポーズを送っていた。
 二二と鉄男は面識があった。鉄男は髪を短く切って黒縁のメガネをかけている少年だ。ひょろりとした体型をいつも窮屈そうに猫背にしており、おまけに頰がこけている為、ほとんどの人に陰湿な印象を与える。しかし二二の印象は違っていて「話してみると陽気で面白い」というのが二二の評価だ。
 陽気かどうかはさておき、鉄男は積極性の欠けるタイプであることは確かだ。今も女子に視線を送ってはいるものの、自分から声をかける気はないようだった。
 女子二人は、黒髪の背の高い方が(あかね)、茶髪を内巻きにさせた小柄の方が杏子(きょうこ)と名乗った。茜は面長の大人っぽい顔つきで、杏子が大きな目をくりっとさせた童顔という、真逆の印象を与える二人だった。
 二二と女子二人は初対面だったが、女子達は二二のことをよく知っているような口ぶりで話した。よくあることだったので二二は深く考えなかった。
 車が夜の道路を滑るように走る。
 二二はヘッドライトの頼りない灯りを眺めている。夜間の下道は車も少なく、街灯もあまりないから、まるで二二たちが乗る車だけが暗闇の中に取り残されたようだった。
 後部座席に座った章が前に身を乗り出してきた。
「伊邪和先輩、車どうもっす」
「良いよ良いよ。これから行くところに僕も興味あったしね」
 伊邪和は歌うように軽やかな声で笑った。
 伊邪和は明るい茶髪を軽くパーマした、垂れ目の男だった。にこにこと笑顔を浮かべて馴れ馴れしく語るその様子は、良く言えば親しみやすい、悪くいえば軽薄そうな男である。首には洒落たストールを巻いていて、それに合うような落ち着いた色合いの私服を着ていた。高校生にしては随分と大人びた服装だ。物腰も落ち着いているし大学生でも通りそうだ。
「これから行くところって、どんなところなの?」
 章の隣に座った杏子が会話に参加する。彼女のキラキラとした視線は二二に向いていたので、二二は答えるように軽く首を横に振った。
「さあ。オレも聞いてない。章、どんなところなんだ?」
 章に説明を譲れば、杏子の視線は自然とそちらに向く。章は目に見えて張り切って、
「住宅地にある民家の廃墟だよ」
「その家で何かあったってこと?」
「そう、住人が次々と変死したらしいぜ。その死に方がめちゃくちゃ異様で――」
 杏子と茜が悲鳴を上げて車内は盛り上がった。鉄男は話に混じろうとして哀れなほど噛みまくっていた。それを流し聞きしながら二二は欠伸を咬み殺した。クロイは助手席の暗い隙間に挟まって、じっと二二を見つめていた。
「怖がらないんだね?」
 問いかけのような声に二二は顔をあげる。
 伊邪和が前方から視線を外さず、二二の返事を待つように微笑んでいた。まさか話しかけられるとは思ってもいなかった二二は、まじまじと伊邪和の楽しそうな横顔を眺める。
「はあ……先輩も怖がっているようには見えませんね」
「僕は女の子がいるし、強がっているだけだよ」
「オレも同じです」
「ああ、そうなの」
 伊邪和はそれっきり二二に話しかけることはしなかった。ただ鼻歌混じりに運転するその姿は、とても虚勢を張っているようには見えなかった。

 問題の民家に辿り着いた頃には、二十時を回っていた。
 住宅街の中に民家はポツンと建っている。昔ながらの趣のある木造住宅だ。瓦を積んだブロック塀が民家をぐるりと囲んでいた。裏に庭が広がっているのか、住宅の背後に木々が生茂っているのが見える。
 左右の土地は空き地になっていた。偶然なのか、この民家が原因で空き地になったのか、事前にリサーチした章も知らなかった。伊邪和は悪びれる様子もなく空き地に停車した。
 少し離れたところに建つ他の民家は、しんと静まり返っていて明かりもついていない。寝静まるには早い時間だが、古い家が多いから、早寝の老人ばかり住んでいるのかもしれない。
「結構雰囲気あるなぁ……」
「ねえ、やっぱりやめようよ……」
 章たちは怯えながらもスマートフォンのライトを用意する手を止めない。あくまで肝試しは続行するつもりらしいのは確かだ。
 二二は欠伸混じりに民家を見上げた。
 二階建てだ。どこの窓もカーテンが締め切られているから室内は窺えない。廃墟となってまだ日が浅いのか、さほど荒れ果てた印象はない。庭の手入れをすれば十分に人が住むことが出来そうだった。
 ふと視界の隅で何かが動く。
 二二が反射的にそちらを見ると、民家の二階のカーテンがさらりと揺れていた。もちろん窓は閉まっているから、風がカーテンを撫でることはあり得ない。
「新しい入居者がいるってことはないよな?」
 章は二二の不安を見当違いとも言いたげに眉を寄せた。
「え? なんで?」
「……いや、なんでもない」
 もうカーテンは揺れていなかった。しかし先ほどまで確実に締め切られていたそれは、少しの隙間を開けて、真っ暗な室内が見えていた。
 二二以外は誰も気づいていない。章は雰囲気に呑まれながらもこれからの心霊体験――を口実に女子達と距離を縮めること――に期待て気が散っている。杏子と茜は怯えたように二二の背後に隠れている。最も、本当に怯えている杏子に対して、茜は怯えたふりをして二二に密着することに必死のようだった。鉄男はなんとか女子の気を惹こうと試行錯誤していて、民家など見ていない。伊邪和はデジタルカメラを弄るのに夢中のようだった。

 (――入るな)

 二二の脳内に地鳴りのような声が響く。
 改めて民家に視線を向けると、二二の進路を立ち塞がるようにクロイが立っていた。
 二二は小さく頷いて了承の意を示すと、スマートフォンを取り出した。
「ごめん、ちょっと電話。先に入っててくれ」
 片耳にスマートフォンを押し当てながら、二二は彼らの元を離れた。駆け出したい気持ちを抑えながら、不自然にならないように、ゆっくりとした足取りで。気をつけてね。という杏子だか茜だかわからない女の子の声に、二二は軽く頷いて返す。
「……はあ」
 十分に距離を取ってから、二二は緊張を吐き出すように震えるため息をつく。
 杏子や茜を騙すことになったこと、明らかに危険である場所に友人たちを置いてきてしまったことに、二二に後ろめたさを感じていた。
(章や鉄男だけなら少し不安だけど、伊邪和がいるから……何か起こっても、臨機応変に対応してくれるだろう。妙な気配がしたことだけが少し気にかかるけど、本人達に自覚はなさそうだったし、問題ないはずだ……)
 二二は自分に言い聞かせるようにそう考えた。

 クロイは真っ黒な存在だ。
 二二は子どもの頃は彼を黒い服を着た大人だと思っていたが、成長するにつれて、どうやらそれは違うらしいと気付いた。
 クロイは人間の形をした真っ黒の影のような「何か」である。本来顔のあるべき場所には黒の絵具を塗りたぐったような暗闇が広がっていて、眼球だけがくっきりと二つ浮かび上がっている。発声したことがあるから恐らく口もあって、いつもはあの黒色の中に隠れている。すらりと背が高いことは確かだ。声質からして男であることも確かである。
 二二が知っているのはそれだけだ。それでも二二はクロイのことを友人だと思っている。向こうも二二を守るような行動を取っているから、大事に思ってくれているはずだ。
 タクシーに乗っている今だって、狭い座席の下に入り込み、じっと二二を見守ってくれていた。クロイは結構体格がいいくせに、たまに信じられないくらい平べったくなって、二二をビックリさせていた。今も結構びっくりしていたが、二二は顔には出さなかった。
 ようやく我が家に帰宅する。
 二二が住むのは一LDKのマンションだ。玄関扉を開けてすぐの右側の扉がトイレ。左側の扉が洗面化粧室と浴室だ。玄関からまっすぐ歩くとキッチンがある。L字型の対面式のキッチンの向こうには、二人掛けのソファにテーブル、そしてテレビが置かれたリビングダイニング。テレビの横の扉はベッドが置かれただけの寝室だ。収納スペースはあまりないが、私物の少ない二二には十分だった。
 既に二十一時を回っていた。
 明日の授業は午後からで、多少寝過ごしてしまっても問題はないとはいえ、ゆっくりできる時間があるわけではない。最低限の家事――ゴミをまとめて玄関に置いておき、洗濯物を取り込むこと――だけを手早く行う。面倒くさがり屋だが几帳面という面倒な体質の二二は、やるならきちんとやりたい派だ。洗濯物を皺一つなく綺麗に畳んで収納する。黙々と家事をこなしながらも明日の洗濯はしなくてもいいだろうと頭の中で考えている。
 一息つく間も無くすぐさま浴室に向かった。
 湯を溜める時間が惜しいと考え、二二はシャワーだけで手早く済ませることを選択した。温かいシャワーを全身に浴びながら、浴室ドアに目を向ける。
 擦りガラスの向こうには、じっと仁王立ちするクロイの姿があった。いつもクロイは浴室ドアの向こうに立つ。これは子どもの頃から変わらない日課だ。唯一の出入り口を守ってくれているのだと二二は解釈している。
 風呂から出る頃にはクロイの姿はなくなっている。
 身体が温かいうちに寝室のベッドに入って、電気を消した。疲れ切った体はあっという間に夢の世界に落ちる。
 意識を手放す直前に見たのは、ベッド脇に立つ真っ黒な影と、じっとこちらを見つめる二つの眼球だった。

 誰しも繰り返し見る夢に覚えがあるだろう。
 何度も同じ夢を見るのは深層心理から顕在意識に送られる警告、という話を聞いた事がある。要は蓋をしてしまった心の声を自覚させようと、無意識下に自らへ働きかけている現象ということだ。
 それではこの夢は一体何を訴えているのだろうか、と二二は考える。
 二二は自室にいる。
 室内は真っ暗だ。スマートフォンの充電ランプも、ノートパソコンの電源ランプも、締めたカーテンの向こうから漏れてくる街灯の眩しさも、全て消え失せている。二二はいつも飽きずに恐怖する。光が一つも届かない暗闇はこんなに暗いものなのかと。
 二二は真っ暗な室内でベッドの中で丸くなっている。
 なんの音もしない。誰もいない。自分の呼吸音だけが聞こえる。きっとここには自分しかいないのだと恐々とした気持ちで考える。
 夢の中の二二はいつも恐れている。
 呼吸音で奴らに気付かれてしまう。出来る限りすべての音を消さなくてはならない。何に怯えているのか自分でも分からない。でもこの世界ではこういうものなのだ、それが常識なのだ、と納得している。
 やがて暗闇に慣れた目が、真っ黒い影を捉える。
 クロイだ。
 ベッド脇に立ち、二つの目をギョロギョロとさせて、全ての暗闇から二二を守ってくれている。
 そこでようやく、二二は心から安堵して眠りにつく。目覚ましのアラームが鳴るまで、穏やかに。

 翌朝。
 二二は眠気と戦いながらもスマートフォンを確認して、落胆したように溜め息を吐いた。
 寝る前に章へメッセージを送っていたのだが、まだ返信がない。これはいつも即返信してくれる章にしては珍しいことだった。
 送った内容は昨日の肝試しのことだった。章以外の人を騙して一人で勝手に帰ってきてしまったわけだから、面倒なことが起きていないか確認の内容だった。返信しづらい内容でもないはずだった。返信前に寝落ちしたとしても、起きて最初にメッセージを確認する章なら、とっくに返信があっておかしくない。
(なにかあったのかもしれない……)
 二二の頭をよぎったのは民家を見上げたときの不吉な予感だ。
 不安にかられた二二は、いつもより早めに支度をしてすぐに学校に向かった。章はいつも食堂で昼飯を食べていたから、昼時に食堂に行けば会える可能性は高いはずだ。
「あっ、二二くん」
 食堂へ辿り着く前に声をかけられて、二二は振り返る。
 ミニスカワンピ姿の杏子と、白いブラウスとジーパン姿の茜が小走りに駆け寄ってきていた。二二は思わず身構えた。昨日無断で帰ってしまった二二を、二人が怒っているかもと考えたからだ。
「お、おはよう。二二くん」 
 しかし照れ臭そうに見上げてくる二人の様子は、むしろ機嫌が良いように見える。二二は安堵の微笑みを浮かべた。
「おはよう」
 たったそれだけのことでなぜか二人は悲鳴に近い歓声をあげた。廊下を行き交う人が何事かと視線を向けてくる。二二は気まずさのあまりさりげなく廊下の隅に移動した。
「昨日はごめん」
 二人の機嫌は良さそうだったが、やはり無断で帰った二二が悪いことに違いはない。もじもじしている杏子を押しのけて、素早く茜の方が首をふった。
「い、いいの。いいのよ。それより、大丈夫だった?」
「え?」
「急に調子悪くなっちゃったんでしょ? ちゃんと家に帰れたのかなって、私も杏子もすごく心配したのよ」
 どうやら章がフォローを入れておいてくれたらしい。章はこういうところで気が利くから性別関係なく友人が多い。二二の存在があったとはいえ、杏子たちを肝試しに誘えたのも章のコミュ力があってこその結果だろう。最も気さくすぎる性格と個性のない外見のせいで、誰もかれもが友人止まりという本人にとって悲しい結果になっていたが。
 二二は話を合わせるように頷いた。
「タイミングよくタクシーが通ったから、すぐに帰れたよ」
「そうなのね、よかった」
「昨日は……その、どうだった?」
「えっと……」
 途端に茜が気まずそうに言葉を詰まらせたので、二二は察する。
(やっぱり何かあったらしい……)
 二二は教室脇の休憩スペースに二人を誘った。
 近くの自販機で水を三本買って――本当はジュースを買おうとしたが、女子の好みがわからないので、普段絶対に買わない水を選択した――二二も杏子たちの側に腰掛けた。
「何かあったのか?」
 買った水を差し出しつつ、じっと二人を見つめて問いかける。杏子は目をパチパチとさせて恥ずかしそうに俯き、茜は大好物を前にした肉食動物のような顔をした。鈍感な二二でも、茜の大好物が水ではないことだけは分かった。
「そ、それがね」
 鼻息荒く話し出したのは茜だ。茶髪の杏子の方が外見上では自己主張が激しいように見えたが、どうやら性格はそうでもないらしい。
「あの廃墟で変な事があったのよ」
「変なこと?」
「中に入って……畳の部屋に入ったところだったかしら。章くんが部屋の中に誰か居るって言うのよ。絶対に誰もいなかったのに」
「章が誰かの姿を見たって言ったのか?」
「ううん。声が聞こえたって言ってたわ。お婆さんみたいな声だって。私も杏子も、伊邪和先輩も……もう一人の男子も、何も聞こえなかったんだけどね」
(なるほど。あの廃墟ならば、いわゆる「霊感」のない人でも、声くらい聞こえてもおかしくはないかもしれない……)
 それにしても、鉄男が名前すら覚えられていない事が、妙に二二を悲しい気持ちにさせた。
 杏子は当時の雰囲気を思い出しているのか、怯えたように二二を見上げている。反して茜はどちらかというと二二と会話できることに嬉しそうな様子だ。二二は茜に先を促す。
「それで?」
「なんだか怖くなっちゃって、その部屋は直ぐに出たわ。そのあと二階に行ったの」
「帰らなかったのか?」
「章くんは帰りたがってたけど、伊邪和先輩が二階の部屋も見たいって言ったのよ。私も杏子も帰りたかったんだけどね。ほら、相手が先輩だし……車も出してくれたし。断りにくかったのよね」
 自己主張の少ない杏子はともかく、茜は先輩相手にも堂々と断れるだろう。おそらくあまり恐怖を感じていなかった茜は、楽しんで伊邪和の意見に同意したんじゃないかと二二は予想した。
「二階に行ってから、ちょっと嫌な雰囲気になっちゃったんだよね……」
 杏子が控えめに会話に加わる。茜が同意するように何度も頷いた。
「そうそう、章くんも黙りこんじゃったし」
「伊邪和先輩だけはすっごい楽しそうだったね」
「杏子は怖がって泣き出しちゃって」
「怖かったんじゃなくて、雰囲気が嫌だったの! 章もなんだか怒ってるみたいで、話しかけづらかったし」
「昨日はその最悪な雰囲気のまま、廃墟を出たのよ」
 怒ったように黙り込む章。場を和ませようとしてくれている(が、から回っている)鉄男。怖がって泣き出す杏子と、彼女を宥める茜。運転手の伊邪和だけが、空気を読まずに鼻歌を歌っている。そんな様子を想像するだけで二二は気分が滅入りそうだった。
 茜は水を一口飲むと、今度は少し遠慮がちの様子になって言葉を続ける。
「それでね、二二くんにお願いがあって……」
「何?」
「章くんと連絡が取れないのよ。昨日のことを怒ってて、私たちは無視されてるんだと思うんだけど……」
「なるほど」
 茜と杏子は怒ったまま帰ってしまった章を心配して連絡を取ろうとしていた。そこで偶然にも二二に出会ったので、思わず縋ってしまったのだろう。
「わかった。オレから話を聞いてみる」
 二二も章から返信がなくて心配していたのだが、そんなことを打ち明けても不安を煽るだけだろうから、内緒にしておく。
「二人にも連絡するように言っておくから」
「あ、ありがとう、二二くん」
「じゃあ、これ。オレの連絡先……」
 二二が電話番号を走り書きしたメモ帳を渡すと、女子二人はハッと息を飲んで、それから周囲を素早く見渡し、誰も見ていないことを確認してからメモ帳を受け取った。秘密の取引をしている気分にさせられた二二だったが、二人の奇妙な行動を見なかったことにするように無表情を保っていた。
「何かあったらそこに連絡してくれ。もちろん非通知でいいから。二人の連絡先は、気が向いたら教えてくれれば――」
「えっ、じゃあ、今教えるわ!」
「あ、あっ、あたしも!」
 茜が目にも留まらぬ速さで、二二の連絡先をコミュニケーションアプリに友達登録する。杏子も一呼吸遅れながらも同様に登録したようだ。さっそく二二のスマートフォンに新規の友達が登録された旨の通知が二件届く。
(女子なのに気軽に連絡先を教えるのは危ないんじゃないだろうか……)
 二二は心配になったが、余計なお世話かと思い口には出さない。
「じゃあ、また」
 二二が席を立つと二人はちょっと残念そうな顔をした。
 ランチが終わる前に章を探さなければ。食堂へ向かうことばかり考えていた二二は、女子二人の熱い視線には気づくことはなかった。

 食堂に章の姿はなかった。章と仲の良い男子生徒にも確認したが、彼も章を見ていないらしい。「章は遅刻も無断欠勤もスマホの充電切れも日常茶飯事だし、特に気にすることないんじゃね?」という彼の楽観的意見は、二二を少しだけ安心させた。
 そのあとはいつも通りに授業が進み、夕休みの時刻になった。
 この時間、大抵の生徒は部活動に励む。二二は部活動をしていないし、この後に夜の授業を控えているから、普段は夕食をとる時間としている。しかしいまだに章から返信のない状況だったので、二二は夕食を後回しにして部室へと向かっていた。
 章は写真部だ。「写真にはちっとも興味ないけど、可愛い女子がたくさんいるから入った」と真顔で面白いことを言っていたから、二二はよく覚えていた。
(もしかして部活動には顔を出しているかも……)
 二二は淡い希望を抱いて写真部の部室を覗く。
 部屋の中央に横広タイプの会議テーブルが横並びで二つ置かれている。上にはお菓子が散らばっていた。それを囲むように幾つかのパイプ椅子。壁に沿うようにして置かれる安物の本棚には、写真部と全く関係なさそうな漫画本が並んでいる。棚の上のコルクボードにはかろうじて写真が飾られているが、ほとんどが人物中心のものだ。それも加工が相当されているようなやつだ。写真部とは名ばかりらしいと察することが安易にできる部室模様だった。
 部室は楽しそうに賑わっていた。パイプ椅子は満席だ。床に座り込んでいる生徒もいて、テーブルの影に隠れて姿がよく見えない生徒もいる。
 二二は章を探すために背伸びして室内を見渡した。
「えっ、嘘。二二くんじゃん」
 部室にいた女子が二二に気付いて歓声をあげた。
 二二には見覚えのない女子生徒。パステルカラーの髪色は綿菓子のようだ。この部室、いやこの学校内でも上位を競えるほどの派手な外見だった。大人びているから年上だろうと判断し、二二は礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
「こんにちは……あの、章はいますか?」
「章ぁ? 来てないけど。うっそ、章って二二くんと友達なの? うわぁ、近くでみると、ますますイケメンだわ」
 ズイズイと迫ってくる女子生徒。甘ったるい化粧の匂いがぷんと鼻につく。今にも鼻先がぶつかりそうな距離感に二二は思わず息を飲んだ。
 二二が反射的に後退りすると、どすんと背中に何かがぶつかった。振り返ると、にこにこと微笑む伊邪和が二二を見下ろしている。
「こらこら。裕子、後輩を怖がらせてどうするの」
「怖がらせてないし。人聞きの悪いこと言わないでよぉ」
 裕子と呼ばれた女子生徒は怒ったように頬を膨らませてながらも、甘えるような猫撫で声で言った。女子生徒が伊邪和に好意があるのは明らかだったが、伊邪和は目も向けなかった。
「ちょっと向こうで話そうか」
 伊邪和はそう言って、さっさと部室を出て行った。二二の返事を待たないあっという間の出来事だったので、二二も慌てて部室を飛び出す羽目になった。
 伊邪和は空き教室に入ると、椅子を二つ引いて、向き合うように並べた。二二がおとなしく椅子に座ると、伊邪和もにこにこしながら正面に腰を下ろした。伊邪和は相変わらずおしゃれで、首には昨晩と違った柄のストールが巻かれていた。
「章だよね? 学校に来ていないみたいだよ。来ていれば必ず部室に顔を出すから」
 話の早い伊邪和に、二二は話しやすさを感じて少し安堵した。
「そうなんですか。実は連絡がつかなくて。昨日のこともあったから、ちょっと心配になって……」
「敬語はいいよ。普通通りに話してくれれば」
「……はあ」
 意表をつかれた二二は、思わず相槌なんだか溜め息なんだかよく分からない声を出してしまう。伊邪和は反応を楽しむように二二の様子を眺めていた。
「……昨日起こったことは、ある程度聞いてる」
 気を取り直して、いつも通りの口調で話しを続ける二二。
「女子二人は章とまともに話さないまま別れたって言っていたけど、伊邪和先輩は何か聞いていないかと思って……」
姫守(ひもり)でいいよ」
「はっ?」
 今度こそ二二は素っ頓狂な声を出した。伊邪和は微笑みを崩さないまま、じっと二二を見据えていた。
「僕の名前、姫守っていうんだ。お姫様の姫に守護の守で姫守。伊邪和の苗字は、なんだか堅苦しくて好きじゃない。だから姫守って呼んでほしいな」
「個性的な名前だな」
「姫を守れるような男になれって意味で付けたらしいよ」
「それで、章の様子は――」
「ねえ、君は二が二つで「ふじ」なんでしょ。ににちゃんって呼んでいい?」
「…………」
 二二は黙って姫守を睨んだ。姫守は悪気なくにこにこと笑っている。
 二二は馴れ馴れしい呼び方に怒っているわけではなかった。話が通じないことに静かに怒りを膨らませていた。二二の無言の圧力に気づいたのだろう、姫守は仕方ないという様子で肩を竦めた。表情は相変わらず楽しそうに笑ったままだったが。
「章の様子だっけ。確かに、章と最後まで一緒に居たのは僕だったからね」
 それは二二にとって初耳だった。確かに運転手の姫守が章と二人きりになる時間があってもおかしくはない。二二は視線だけで話を促す。
「そうだなぁ。彼はずっと黙っていて、なんだか様子がおかしかったね」
「怒っていたんじゃないのか。つまり、章の不安に気づけない無神経な先輩に」
「あはは、手厳しいこと言うねぇ」
「気付いたことはそれだけか?」
「いや、章は確かに黙っていたけど、怒っていたようには見えなかったな。あれはどちらかというと――」
 姫守は真正面から二二を見つめたまま、囁くように続けた。
「怯えていた……僕にはそう見えたね」
 しかし二二は無表情を崩さない。楽しむような姫守の様子を突き放すように、あくまで冷静に先を続ける。
「なんでそう思う?」
「彼を最寄り駅まで送り届けたとき、車内は二人きりだった。章は何も話さなかったから、それはもう静かな空間だったよ。その時、章がポツリと言ったんだ――ずっと声がついて来る、ってね」
「お前には声が聞こえなかったのか」
「僕には何も?」
「章だけか。それは怖かっただろうな」
「彼の言うことを信じるんだね」
「ああいう場所を訪れたんだ。実際に聞こえていたのかはともかくとして……章がなんらかの影響を受けてもおかしくないだろ」
 それに、と二二は心の中で付け加えた。
(あの廃墟は嫌な感じがした……霊的なものがいてもおかしくない。章に霊が憑いてしまったことも有り得る話だ)
「君がそういうことを信じる人なら、話は早いね」
 姫守はふざけた調子を抑えた声色で言うと、デジタルカメラを取り出した。液晶モニターを二二に見せるように差し出して来る。二二は思わず息を飲んだ。
「うわ、何だこれ。いつ撮ったんだ?」
 明らかに被写体は二二だった。背景からして問題の民家に辿り着いた直後だろう。ぼんやりとした顔で民家を見上げる二二の横顔が写っている。
 二二が嫌悪感を露わにして姫守を見上げると、彼は悪気ない笑顔で受け流した。
「写真部の子に君の写真が欲しいって頼まれててさ。記念にもなるし。後できちんと君にも確認をとろうと思ってたんだよ? でも君はさっさと先に帰っちゃうから」
「撮る前に許可を取るくらい出来るだろ」
「民家を見上げる君の横顔がいい絵になってたから、ついね。後で送ってあげる」
「いらない」
 二二は当て付けのように大きな溜め息を吐いた。
「で、これが何」
「見てほしいのは、この後ろだよ。塀の影」
 姫守はデジタルカメラを操作して、塀のあたりをズームアップする。暗くて判別しづらいが、塀の影に隠れるようにして何かあるのが分かった。
(木……?)
 二二は木だと思った。真ん中でぐにゃりと曲がった、やけに背の低い木。
 いや、木じゃない。
 背の低い人間だ。酷く背の曲がった、華奢な人影。塀の後ろに立って、じっとこちらの様子を伺うように佇んでいる。
 暗くて顔はよく見えないが、恐らく年配の女性。花柄のカットソーと、灰色のゆったりとしたスラックスを履いている。どこにでも居そうな格好をしている老婆だ。だからこそ夜中の廃墟に似つかわしくなく、強い違和感を覚える。
「撮った時は気付かなかったけど、後で見返してびっくりしたよ。こんな近くにお婆さんが居たのなら、敷地に入った時に気付いた筈だけど」
「念のために聞くけど、誰も居なかったんだよな」
「居なかったよ。ねえ、これって心霊写真ってやつだよね。章に聞こえていたのは、このお婆さんの声かな」
「さあ、どうだかな」
 茜が言うには、章は「おばあさんのような声がしていた」と言っていたらしい。つまり声の主がこの写真の老婆である可能性は高い。
 民家に住み着く老婆の霊。不躾に足を踏み入れてしまった章は老婆の怒りを買い、取り憑かれてしまった。おそらくこれが今回の顛末だ。
 章になにかしてやれるだろうか――考えたが、二二にはできることは何もなかった。
 二二は普通の人より霊感が強い。だが、それだけだ。怪異に対して何か出来るわけではない。詳しい知識を持つわけでもない。もしかしたら同様の現象を体験出来るかもしれないが、それは何の解決にもならない。
 返信がないから連絡の術もなく、章の住む場所も知らないから、直接話して励ますことすらもできない。
 二二は諦めたように溜め息をつくと、立ち上がる。姫守は観察するように二二の動きを視線で追った。
「どこへ行くの?」
「授業。そろそろ時間だし」
「ねえ、君はとても変わっているよね」
 突然、姫守の声の調子が神妙なものに変わったので、二二は不審げに座ったままの姫守を見下ろした。
 姫守はゆったりとした動作で二二を見上げた。まるでそれは姫に忠誠を誓う騎士のように優雅な様子で、言い方を変えれば芝居がかっていて酷く胡散臭い仕草だった。
「不自然なほど落ち着いてる。章の話を信じていないのかと思いきや、彼の話を信じて、霊的な存在を否定もしないのに、一切怯えた様子もない。それは何故かな?」
(そんなもの、クロイの存在で慣れっこだからだ)
 二二は言い返してやりたかったが、自分だけの秘密を打ち明けるつもりもない。素っ気なく感情の映さない声を返した。
「顔に出にくいだけだ」
「そうかな? 自分は大丈夫だって無条件に信じ込んでない? 気付いてた? あの写真のお婆さん、君のことをじっと見つめているよね」
(だからなんだっていうんだ……)
 二二は心の中で言い返したが、決してその不快感を顔に出したりはしない。
「オレには声は聞こえない。聞こえないなら、怯えようがない。ただそれだけだ。じゃあな」
 姫守の返事を待たずに二二は空き教室を出た。「また明日ね」と姫守の陽気な声が聞こえた気がして、逃げるように足を早めた。
(明日は会いたくないな)
 姫守の覗き込むような眼差しを思い出しながら、心底そう思った。

 授業が終わって自宅に帰宅する。
 章からの連絡はなかった。代わりに茜から電話が来て、また明日会う約束をした。彼女の楽しげな声で、柄にもなく二二はちょっと救われた気がした。
 章はどうしているだろう、と二二は考えた。
 家に籠って怯えているのだろうか。自分にしか聞こえない声につきまとわれているとしたら、とても怖いはずだ。二二だってそんな状況に立たされたら怖くて家に籠ってしまうだろう――いや、二二だったら逆に人が多い場所に逃げるかもしれない。
 二二はふと姫守の言葉を思い出して、自己嫌悪に近い感情を覚えた。
 確かに二二の思考はどこか他人事だ。完全に安全圏に立った人間の余裕、弱者を哀れむような態度に近いかもしれない。
 それも仕方がないことだった。
 二二にはクロイがいる。クロイが側で守ってくれている限り、怪異が二二を襲うことはできない。これは子どもの頃からの常識だ。だから二二は、どんな時でも落ち着いていられる。恐怖に怯えることはない。
 二二にはクロイが居るのだから――

「――いないよぉ」

 耳元で声がした。
 二二は飛び退いて周囲を見渡した。誰もいない。でも確実に聞こえた。耳元で、老婆が子どものように無邪気に笑うような声が。クロイの地鳴りのような声じゃない。
「クロイ?」
 クロイは呼べば姿は見せてくれる。でも今日は姿を見せない。今日クロイの姿を一度も見ていないことに二二は気づく。
 ガタン、と物音がした。
 弾かれるようにして振り返る。誰もいない。ゴミ箱が不自然に倒れていた。まるでたった今、誰かが通ってゴミ箱を倒して行ったように。そんなこと有り得ない。きっと先程自分が通った時に、気付かないうちにゴミ箱に当たって、バランスが崩れていたのだろう。それが今になって倒れただけだ。二二は何度も自分を言い聞かせた。
「……今日はもう寝よう」
 二二は逃げるようにベッドの中に潜り込んで、眠るために電気を消した。
 いない。クロイがいつものところにいない。脳内で老婆の声が何度も再生されていた。たまらず電気をつける。
 結局その日は明るい室内で、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

 翌朝の金曜日。二二は午前中のうちに家を出た。通り道のコンビニで菓子パン一つを買って、駅へ向かう。
 学校は電車で二駅の距離だ。平日の中途半端な時間のせいか、ちらほらと空いた座席もあった。どうせ二駅だからと、二二は立ったままスマートフォンを確認していた。章からの返信は相変わらずない。
「ねえ、お母さん」
 すぐそこの座席に座る、子どもの声が聞こえてくる。二二が何気なく視線を飛ばすと、若い母親と五歳くらいの女の子が、寄り添うようにして優先席に座っていた。女の子が二二の方を指差して、
「あそこのお婆ちゃんに、席譲らないでいいの?」
 二二は思わず背後を確認した。誰もいない。女の子は明らかに二二の方を指差していた。そもそもこの車両で立っているのは二二しかいないのに。同様に周辺を見渡した若い母親が、不思議そうに首を傾げる。
「お婆ちゃん、そこにいるの?」
「……もういなくなっちゃった」
 女の子は怯えたような無表情を母親の服に沈めた。母親は戸惑うように、娘と、娘が指差した空間を交互に見つめ、そこで二二と目が合う。母親は照れたような微笑みを浮かべたが、二二には微笑む返す余裕がなくて、ぎこちなく会釈だけ返した。
 降車駅に到着する。扉が空いた途端、二二は逃げるように電車を降りていた。
 学校に到着して、まず茜たちと待ち合わせ場所――昨日と同じ休憩スペースだ――に向かう。既に彼女たちは二二を待っていた。二人とも笑顔がなく、何だか元気がないように見える。
「二二くん、だ、大丈夫?」
 二二が声をかけるよりも、二二を心配する杏子のほうが早かった。二二はぽかんとして首を傾げた。
「何が?」
「顔色、凄く悪いよ。調子悪いんじゃ……」
「……ああ、昨晩あんまり眠れなくて」
 二二は軽く首を振って意識を切り替え、杏子と茜の前に座った。途端に視界に入ったものに、二二は思わずギョッとする。
 二人の首元に、ポツンポツンと、痣のようなものが浮かんでいた。まるで血液を点々と垂らしたようなグロテスクな赤色だ。それが首を横一文字するように伸びていた。
 昨日話した時はこんな痣はなかった。元気がないように見えたのはこの痣のせいだろうか?
 それにしても二人とも隠す様子もなく首を晒しているのは、外見を気にする年頃の女子にしては妙だ。
「……二人とも、今日は鏡見た?」
 二二が遠回しに確認すると、二人は重大事実を告げられたかのようにハッと息を飲んだ。茜はすぐに慌てたように手櫛で前髪を整え、杏子は赤面して鞄から手鏡を取り出した。遠回しすぎて妙な誤解を生んだらしいと気づいた二二が、慌ててフォローする前に、杏子が小さく悲鳴をあげた。
「な、何これ!」
 どうやらたった今首の痣に気付いたようだ。茜はまだ痣に気付いていない様子だ。
「どうしたのよ」
「く、首に、切り取り線みたいな、変な痣が……」
「痣? そんなものないわよ?」
「え?」
 二二は茜の反応に眉を寄せる。そもそも妙な話だ。他人に無関心な二二でさえ二人の痣に直ぐに気付いたのに、友人二人が互いの痣に気付かないわけがない。自分でも鏡を取り出した茜が、ようやく痣に気づき言葉をなくす。
(……嫌な予感がするな)
 二二は茜の鏡を借りて、自分の首元を見た。二二の予想通り、横一文字に伸びる赤い痣がそこにあった。
 いつから痣が出ていたのだろう、と二二は思考をめぐらせた。昨日からロクに鏡を見ていなかったから気付かなかったのか、それともつい先程浮かび上がったのか。
「全員、首に妙な痣が出てるみたいだな」
 二二が諦めて現実を認めると、二人は顔を真っ青にさせた。
「でも、私には二人の痣は見えないけど……?」
 例の如く茜の方が立ち直りが早い。あまり深く考えないタイプなだけかもしれない、と二二は密かに思った。
「何故かは分からないけど、二人には自分の痣しか見えないようだな」
「私たちにはなにか足りないのかしら? その……超能力とか、霊感とか?」
「そうかもしれない。いつから出ていたか分かるか?」
「今朝は出てなかったわ。鏡を見たから絶対よ」
 茜の言葉に杏子も同意するように頷く。つまり二人の痣は午前中のうちに浮かび上がってきたことになる。もちろん二人は首に痣が出来るような真似はしていないだろう。
 ふと杏子が何か気づいたように顔を上げて、茜に「ねえ、さっきの」と耳打ちする。茜は言われて初めて気づいたように、ハッと顔を硬らせた。何か心当たりがあるようだ。茜が意を決したように二二に視線を戻す。
「二二くん、あの」
「何?」
「もしかしてこの痣、あの写真のお婆さんが関係してるんじゃないかしら」
 二人が元気がなかった理由に、今更ながら二二は勘付いた。二二は苛立ちを抑えるため深い溜め息を吐く。
「あいつ……姫守に、写真を見せられたんだな?」
「うん……今朝たまたま会ったから、章くんのこと聞いてみたの。最後まで一緒だったの、伊邪和先輩だったし、章くんの先輩だから」
 茜達は姫守に心当たりがないか聞いたのだろう。それこそ二二と同じように。姫守は当然のように写真を見せた。怒ってるんじゃなくてコレに怯えてるんだよ、だから君たちが気にする必要はないよ、と。姫守の得意げに微笑む顔が目に浮かぶようだった。姫守は良かれと思ってしたのかもしれないが、これは完全に逆効果である。
 二人は可哀想な程に怯えている。無理もない。写真だけだったら。痣だけだったら。或いは章が一人怯えているだけだったら。幽霊なんて実感が湧かなかっただろう。すべてが揃ったからこそ、恐怖が現実味をおびて二人を襲っていた。
「べ、別に幽霊とか信じてるわけじゃないのよ。馬鹿みたい。章くんの小説じゃあるまいし」
 茜が突拍子もなく忌々しげに小説と言い出したので、二二は眉を寄せた。
「小説?」
「章くんが肝試しに小説を持ってきてたの。見た目からしてホラーっぽい小説だったから、みんなに読んで聞かせて、脅かすつもりで持ってきたんじゃないかしら。私、下らなくてロクに聞かなかったけど」
 茜は強気な口調だった。恐怖心を感じている上での強がりであることは明らかだったが、少なくとも恐怖に打ち負けているような様子ではない。
「ただ、痣とか写真とか、ここまで揃うと気味が悪いなぁって、流石に思っちゃうわね」
「二人とも、痣が出てから他に気になることはなかったか? 例えば……声が聞こえたり、何か見たりとか」
「ううん、そういうのは何もなかったわね」
 同じ痣が出ているからといって同じ体験をするわけではないらしい。二二は昨晩、老婆の声のようなものを聞いている。電車内での奇妙な出来事もあった。しかしそれを伝えて二人を怯えさせる必要はないと判断して、二二は何も言わなかった。
 痣のことでだいぶ時間が取られてしまった。授業の時間が迫っていたし、章のことで進展もなかったから、また連絡し合う事を約束して、二二と二人は別れた。
 それから二二はコンビニで買った菓子パンを急いで食べて、午後の授業を受ける。
 夕休みになってまた写真部の部室へ向かった。もちろん章がいる可能性はほとんど考えていなかったが。
 部室を覗く。今日は随分と人が少ないようだった。章の姿はもちろん姫守の姿も見えない。昨日聞こえていた楽しげな話し声はなく、ボソボソと人目を憚るような低い話し声があちこちから聞こえる。二二が誰かに声をかける前に、ちょうど近くにいた男子生徒が二二の気配に気付いて顔を向けた。
「ああ、昨日の……」
 どうやら昨日二二が部室を訪れた際に居合わせた人物らしい。背が高いから多分先輩だ。二二はペコリと頭を下げる。
「今日も章?」
「はあ。来てますか?」
「来てないな。でも登校してても部室には来ないんじゃないかなぁ」
「……何かあったんですか?」
 部室は相変わらず異様な雰囲気に包まれている。怯えているような様子の者もいれば、興奮しているような者もいる。
「裕子が死んだんだよ」
 男子生徒はけろりとした様子で言った。天気の話をするようなノリで話すので、二二はすぐに反応を返すことが出来なかった。パチクリと何度か瞬きをする。
「あっ、裕子ってのは、昨日ここで君に迫ってた女子生徒ね。分かる?」
「……ああ、はい。えっと、何故?」
「俺もさっき聞いたからよく知らないけど、殺されたらしいよ」
 殺された、と二二は口の中で反復した。現実味のない言葉に呆然とする二二を取り残し、男子生徒はぺらぺらと言葉を続ける。
「あいつ、男遊びがめちゃくちゃ激しくて、色々恨みも買ってたからなぁ。最近じゃ、ヤバいところにも顔を出してたらしいし。変な奴に尾けられてるって言ってたらしいから、そいつの仕業じゃないかなぁ」
 男子生徒はあまり衝撃を受けていないようだった。被害者の女子生徒とあまり親しくなかったのかもしれない。それとも彼女が日頃から事件に巻き込まれてもおかしくない生き方をしていたのだろうか。
 男子生徒はふと二二に視線を留めると、意味深な含み笑いを浮かべる。
「でも、結果的に良かったのかもね」
「はあ……」
「裕子の奴、君のことを狙ってたからね。既成事実を作ってしまえばこっちのもんだなんて言ってて、どこで手に入れたのか知らないけど、君の写真を持ってたし。あいつ、うちの高校じゃボス猿だったから、あいつが言い出したら誰も手出しできないところがあったんだよな。みんなあいつがいなくなってホッとしたんじゃないかなぁ」
「……そうですか」
 二二は素っ気なく返した。裕子のような下心を持った人物は今までもいたから、二二にとってそれは衝撃的事実でもなんでもなかった。ただ死んでくれて良かったとは思えなかったのは確かだ。
 二二は部室を後にした。憂鬱な気分だった。昨日出会った人物が誰かの手によって殺されたのだから、当然と言えば当然なのだが。
(……落ち込んでる場合でもないな)
 明日は土曜日で学校がない。今日を逃したら来週まで章との連絡手段が完全に断たれてしまう。その前にできることはしておきたい。
 その足で職員室へ向かい、二二は室内を見渡す。目当ての教師が在席している事を確認して、こっそりと入室した。
 職員室は騒然としていた。当校に所属する生徒が殺されたのだから当然だろう。まだ情報が入ったばかりなのか、要領の得ない言葉が飛び交い、ただただ混乱しているばかりの様子だった。だから二二がこっそり入っても誰も気付かなかった。
「島崎先生」
 目当ての教師は隅の方の席に座って、ガリガリと頭をかきながら、パソコンをガチャガチャといじっていた。島崎は四十歳くらいの体格の良い男性教師で、髪の毛を短く刈り込み、いつもジャージを着ていた。体育教師っぽいイメージに反して、担当授業は美術である。
「おお、六人部!」
 島崎は二二の顔を見ると、人懐っこく笑った。二二にとっては美術の授業くらいしか接点のない教師だったが、向こうは何かと二二の事を気にかけているため、意外と交流は多い。そして何より写真部の顧問でもある。章と二二に接点があり、そして二二に甘い教師といえば島崎しかいない。
「どうした?」
「ちょっと相談が……今はやめておいた方がいいですか」
 島崎はちらりと騒々しい職員室内に視線を飛ばして、少し悩むような素振りを見せたが、二二を追い払うようなことはしなかった。空席である横の椅子を引っ張ってきて、二二に座るように勧める。二二は素直に座った。
「で、相談って?」
「写真部に章って奴がいると思うんですけど」
「章? 章がどうした?」
 社交的な性格の章は、当然顧問にも認識されているようだ。
「章の自宅の住所を教えて欲しいんです」
 まずは直球にいく。もちろん島崎の渋い反応は予想範囲内だ。
「うーん。本人の許可なく、住所を教えるのはちょっとなぁ。ほら、最近は色々とうるさいんだ。電話番号だってロクに載せないだろ?」
「そう言えばそうですね」
「ところで、なんで住所なんて知りたいんだ?」
 二二は島崎の不信感を感じながら、用意しておいた返事を自然に返す。
「章と連絡が取れなくて。学校も休んでるみたいですけど、先生の方に連絡とか来てないですか?」
「連絡は来てないぞ。そもそもあいつ、無断欠席とか結構あったよな。またズル休みして遊びにでも行ってるんじゃないのか?」
「それならいいんですけど。最後に章と話した奴が言うには、なんだか様子がおかしかったようなので、ちょっと心配になって……」
 二二は慌ただしい室内に視線を向けて、すぐに島崎へ視線を戻した。
「オレはまだ噂でしか聞いてないですけど、事件が起こったって聞きました。もしかして章も……」
「おいおい、それは考えすぎだぞ」
 島崎はわざとらしいほど陽気な声を出して、元気付けるように二二の肩を叩いた。
「心配しすぎだ。今回の事件は、章とは全く関係のないことだぞ」
「……」
 確かに無理がある、と二二は自覚していた。章はもともと勉学に対して不真面目なところがある。無断欠席は普通にするし、遅刻も頻繁だった。テスト前は赤点回避のために渋々授業に出るような中途半端な不真面目っぷりではあったが、とても優等生とは言えない生徒だった。そんな生徒がたった二日学校を休んだところで、誰も心配しないだろう。
 黙り込んでしまった二二を島崎はじっと見つめていた。二二は考え込んでいて気付かなかったが、その粘りつくような執拗な視線は、教師と生徒という間柄には相応しくないものだ。
「……よし、わかった」
 急に島崎は陽気な声を出すと、ギュッと二二の両肩を掴んだ。
「俺が自宅に電話して確認してやろう」
「え?」
「章には六人部に連絡するように言っておくから、そんなに落ち込むな」
 馴れ馴れしく背中を撫でられて、二二はぎこちなく微笑みを返した。島崎の機嫌を損ねたくないという気持ちが先立って、背中をなぞる手を振り払いたい気持ちをぐっとこらえていた。
 島崎に礼を言って職員室を出る。撫でられた背中が今頃になってゾワゾワしていた。
(クロイがいれば、触られる前に手を払い退けてくれるのにな)
 思わずそう考えて、二二はますます憂鬱な気持ちになる。
(クロイ、今日も姿を見せないな。どこに行ったんだか……まさか、あの老婆にやられたなんてことは――)
「何してるの?」
 急に背後から声をかけられて、二二は思わず飛び上がった。ただあくまで表面上は冷静さを保ち、ぐるりと振り返る。
 声から予想はできていた。しかしすぐ後ろで姫守がにこにこと微笑んでいるのを見た時、二二は思わず溜め息を吐いてしまった。もちろん溜め息一つでは、姫守の笑顔はびくともしない。
「元気がないね」
「元気がないから、今日はもう帰ることにする」
 二二は遠回しにお前と話す気はないと伝えたつもりだったが、やはり姫守には通じず、にこにこ顔のまま、当然のように二二の横を歩いた。
 鼻歌を歌い出しそうな微笑みを浮かべる姫守を見ている限り、彼はまだ裕子の事を知らないようだ。横目で姫守の笑顔を盗み見しているとき、赤いものがちらりと見えて、二二は思わず息を飲んだ。
「おい、お前……」
 姫守は最早トレードマークと化しているストールを、今日も首元に巻いていた。ストールの隙間から赤いものがチラチラと見えている。二二が断りなくストールを掴んで引っ張ると、露わになった姫守の首元には、真っ赤な痣が浮かび上がっていた。間違いなく二二や茜たちと同じ痣である。
「この痣……」
「あれ? この痣、見えるの?」
 きょとんと目を丸くした姫守に、二二は思わず呆れ顔を浮かべた。
「気づいてたのにニコニコ笑ってたのか。随分と呑気だな」
「周りには見えないみたいだったから、下手に騒ぎ立ててもねぇ。ところで君にも出てるみたいだね?」
「お前にも見えるのか」
 どうやら姫守も他人の痣を見る力があるようだ。
 二二が茜と杏子にも同様の痣が出ていることを伝えると、姫守は既に状況を察していたのか、特に取り乱すことなく納得した。
「そういえば昨日、鉄男くんと会ったからついでに写真を送ってあげようとしたんだけど。妙に怯えててちょっと妙だと思ったんだよね。実はあの時点で痣が出ていたのかもしれない。彼はやけに猫背だから、首元はよく見えなかったんだけどね」
 それどころか他人の様子を報告するくらい余裕があったので、二二はちょっと安堵した。強気な茜はともかく、可哀想なくらい怯える杏子相手に怖がらせるような話は出来なかったが、姫守相手には遠慮なく出来そうだ。
「廃墟を訪れた全員の首に出ていると考えた方が良さそうだな」
「君は入らなかったのに不思議だねぇ」
「確かにそこが納得いかない」
「そうそう、実はそのことで君に色々相談したいことがあったんだ」
「相談?」
「この痣がでた切欠は、タイミング的にあの民家ってことは間違いないよね。それなら痣を消す方法もあそこにあるかも。民家のこと調べてみない?」
 姫守の言うことも一理ある。何より痣を消すという言葉が魅力的だ。二二が同意するように頷くと、姫守は嬉しそうににっこりと笑みを深くした。
「それじゃ、今夜は君の家に泊めてよ」
「は?」
「今時、調べ物なんてパソコンさえあれば家でもできるからね。でも意見交換は目の前にいないと、なかなか難しい。それに何が起きるか分からないし――」
「わかった」
 二二は何か考える間も無く、即座に言葉を返した。それもちょっと食い気味に。
「へっ」
 了承されるのが意外だったのか、姫守は変な声を出した。二二が不審そうに見上げると、姫守は目をパチクリとさせた後、誤魔化すように笑った。
 二二が先導するように歩き出したので、姫守はストールを首に巻き直しながら、二二の後を追った。

 二二は五階建てのマンションの最上階の角部屋に住んでいる。
 管理人は常駐していないが、エントランスはオートロック式で、監視カメラもついている。完璧なセキュリティとは言えないが、学生の一人暮らしにしては十分すぎるほどだ。
「随分といいところに住んでるんだね」
 エントランスで暗証番号を入力する二二を横目に、姫守はなんてことない世間話を始めた。
「一人暮らしって聞いてたけど」
「なんで知ってるんだ」
「章から聞いたんだよ。君の話はよくしているからね」
 二二は呆れを隠さず溜め息をついた。章に会ったら、簡単に個人情報を漏らさないように強めに注意しておく必要がありそうだ。
「両親が心配性なんだ。本当はバイト代で払えそうな安いアパートに住むつもりだったんだけど、反対された。バイトは禁止で、このマンションに住む約束で一人暮らしは許してもらったけど」
「まぁ、君はそうした方がいいだろうね」
「どういう意味だ」
「最近は物騒だねって話だよ」
 エレベーターに乗って五階へ向かう。鍵でロックを解除して部屋に入った。部屋には散らかすほど物もないので、急な客人にも慌てる必要はない。姫守をリビングダイニングのソファに座らせてから、電気ケトルでお湯を沸かす。この家の唯一のマトモな飲み物であるココアを二人分作ることにする。
 マグカップを二つ持って姫守の隣に座る。姫守は早速持ち込んだノートパソコンを開いて、民家について調べ始めていた。
「あの家については――」
 ココアを受け取った姫守はにっこりと微笑んだ。甘いものは嫌いではないらしい。
「住人が次々と変死したってことしか知らないんだ。それも、章がみんなに話していたのを聞いただけだしね」
 二二も同意するように頷いて、ココアを一口飲む。
「でも章はもっと詳しく知っているみたいだったね。本当は家の中を周りながら話すつもりだったみたい。そっちの方が雰囲気が出るからだろうね。気持ちはよく分かる」
「章の考えそうなことだ。でも、実際行ってみたら想像以上に怖い思いをして、話すような状況じゃなかったと」
「そうだろうね。あ、この事件かな?」
 姫守がノートパソコンの角度を変えて、液晶画面を二二に見せる。
 ネット記事を見ているのかと思いきや、どうやら個人サイトを見ているようだった。全国の怪事件を取り上げているオカルトサイトだ。流石に地名は伏せられていたが、載せている写真はあの民家のものだ。
「この家に住んでいたのは七人。世帯主の男性とその妻。それから父方の祖父母と、子どもが三人。事件が発生したのは一年前で、死亡したのは六人」
「六人? 生き残った奴がいるのか」
「お婆さんだけ死体が見つかっていない。行方不明らしいよ」
 二二の脳内に、あの不気味な声が脳内で再生される。写真に写り込んだ不気味な老婆の姿が鮮明に思い出される。黙り込んだ二二に姫守は頷いて見せた。
「ただの偶然ではなさそうだね。それにこの家族だけど、死に方が……」
 姫守は自らの首を促して、
「首をね、切られて、持ち去られていたらしい」
「首……」
 二二は無意識に自分の首に触れた。どす黒い赤で記された、まるで首を断ち切るような痣。もちろん偶然の訳が無い。
 姫守は相変わらず落ち着いていた。流石にニコニコ微笑むような話題でもないので、笑顔は引っ込めていたが、全く取り乱すことなく、二二を心配するような顔を見せている。二二はなんとか平常心を保ってココアを飲んだ。
「考えられるのは……」
「うん」
「行方不明の老婆が一家惨殺の犯人で、彼女が首を求めて、彷徨っているという可能性。この場合、老婆は霊的な存在になっていると思われる。廃墟を訪れたオレ達に目をつけて標的にした。痣は目印だろう。そういえば杏子が切り取り線みたいだって言ってたな……」
「言い得て妙だね。なんだかホラー映画みたいな展開だ。普通だったらそんな馬鹿な、と言うところだろうけど」
「実際に写真に老婆が写っているし、痣も出ている。鉄男と章には確認していないけど、多分出ているだろうな」
「そうだね。でも老婆に家族の首が切れるかなぁ。それとも悪霊じみた相手に、常識の物差しは通用しないとか」
「正直言うと、オレにも分からない。オレは見えるだけで詳しいわけじゃないし」
「えっ、見えるって?」
 大袈裟なくらい大きな声で聞き返してくる姫守に、二二はしまったと口を噤んだ。
 油断してつい「見える」なんてこぼしてしまったが、普通の相手にこんなことを言ったら「え、二二くんってそういうこと言うヤバい奴だったんだ」とドン引きするところだろう。しかし姫守は引くところか、引っ込んでいた笑顔を再び浮かべて、キスを迫るのかと疑うくらい、勢いよく二二に顔を寄せた。
「いいなぁ! そういうの大好きなんだけど、僕は霊感がないらしくてね。心霊スポットとかたまに行くけど、全く心霊現象に遭遇したことがないんだよ」
 早口でまくし立てて興奮する姫守に、二二は圧倒されて瞬きを繰り返した。
「……か、変わった趣味だな」
「どういうのが見えるの? やっぱり事故現場とかに多い?」
「いや、別にそういうのは……」
 なんでも見えるわけではない。ただ「居そう」な場所はなんとなく感覚的にわかる。
 そういう場所で、たまに向こうから姿を見せてくることもあったけど、それはこちらから相手の領域に踏み込んでしまった場合に限る。例えば事件現場に意図的に足を踏み入れたりとか、事故の原因を聞いて同情心を持ったりとか。切掛けは相手によって異なるから、気をつけていてもうっかり相手の領域に足を踏み入れてしまうこともある。そういう時はいつもクロイが守ってくれて、いつの間にか奴らは消えていた。
「見ようと思って見えるものじゃない。多分、互いを認識して初めて、見えるんだと思う。他の人はどうだか知らないけど、少なくともオレはそうだ」
「それなら、僕が心霊現象に遭遇しないのはなんでだと思う?」
「お前が霊に嫌われてるか、お前の霊感がすっからかんだからだろ」
「噛み合わない世の中だね。僕はいつでもウェルカムなんだけどなぁ。まぁ、そういう意味では今回のこれはものすごく貴重な体験をさせて貰ってるわけだから、お婆さんには感謝すべきなのかもね」
「本当にとんでもないことを言う奴だな」
 二二は呆れ返って溜め息を吐きながら、姫守のノートパソコンを勝手にいじって、事件の詳細を調べる。概ね姫守が言った通りの内容しか書かれていなかったが、気になった記述を見つけて手を止めた。
「実際にあの家で殺されたのは、三人だけなのか」
 てっきり全員があの家で殺されたのかと思っていた二二は目を瞬かせる。
「三男は小学校の校舎裏、次男は学校の帰路、父親は葬儀場、長男は自宅の浴室、祖父は自宅の和室……最後に殺された母親が、自宅のリビング。老婆はその後に行方不明か」
「次々と家族が殺されて、仕舞いには最後に残されたお婆さんも行方不明になっちゃったわけだから、呪われた家族が住んでいた家だって恐れられたみたいだね」
「全員が一気に殺されたわけじゃない?」
「らしいね。葬儀場で父親が亡くなっているし、きっと家族の葬儀の途中だったんだろうね。最後の三人が自宅で亡くなっているのも、危険を察した三人が家に閉じこもっていたからとも考えられるし」
 調べれば調べるほど不気味な事件だった。首を切られるという死に方は明らかに殺人だ。家族に恨みを持つ者の犯行とみなされ、警護もついたという話だ。しかし犯人は全く証拠も残さず、警官の目を盗み、誰にも見られることなく切り落とした首を持ち帰ったという。
 行方不明の老婆の顔写真は、ネット上に公開されていた。どこにでもいそうな七十歳くらいの老婆だ。二二はその写真を見た途端、寒気を覚えた。それは心霊写真に写っていた老婆だった。予想していたこととはいえ、いざ目の前にしてみると、やはり不気味さを覚えてしまう。
 この家族が狙われた切欠は老婆にあるのではないか。一人だけ行方不明であること、心霊写真に写っているのが老婆であること、そして恐らく声の主も老婆であることを考えると、そうとしか考えられない。
 老婆は首を求めて彷徨っている。そして次の標的は、軽率に老婆のテリトリーを侵した二二達だ。
 章は大丈夫だろうか、と二二は焦燥感にかられる。まさか既に――いや、章は実家暮らしのはずだから、彼の身に何か起これば家族が気付くだろう。そうすれば何らかの形で二二にも伝わるはずだ。だからまだ大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせる。
 ガチャ、という物音にハッと我に返る。
 いつの間にかソファを立った姫守が、勝手に冷蔵庫を開けていた。全く悪気のない様子の姫守は不思議そうに首を傾げた。
「牛乳しか入ってないけど、君はどうやって生きてるの?」
「オレの勝手だろ。勝手に開けるな」
「そろそろ夕食の時間だし、何か食べようよ。あ、ここにいかにも貰い物風の乾麺があるね。うどんくらいなら作れそうだ」
 姫守は勝手にキッチンに立って夕食作りを始めた。二二は文句を言いかけたが、処分に困っていた乾麺を使用してくれるならいいかと、開きかけた口を閉ざした。
 姫守の手際は意外と良かった。普段から家事をこなしているようだ。チャラそうに見えて、人は見かけによらない。不慣れな二二が手伝ったところで邪魔になるだけだろう。二二は大人しくソファに埋もれて調べ物を続けることにした。

 閉じていた目を開けた。
 いつもの夢であることを直感する。周囲は真っ暗だ。相変わらず一つも明かりがなく、自分の呼吸音しか生きている音が存在しない。
(……あれ?)
 二二は目を瞬かせた。
 夢の中の二二は、いつも寝室のベッドで身を丸くしていた。住み慣れた自宅は、真っ暗で視界が塞がれた状態でもすぐにそこだとわかる。嗅ぎ慣れた匂いや布団の感触、覚え切ったクロイの存在などで、すぐに分かる。
 でも今日は違った。二二は真っ暗な空間に立ち尽くしていた。
(ここはどこだ?)
 音を立てないように、そっと周囲を見渡す。期待したクロイの気配はどこにもなかった。どうやら暗闇の中に二二はたった一人のようだった。
 一人きりなら問題はない。見えないから一人だと言い切れないのが怖い。もしかして二二の後ろに誰か立っているかもしれない。もちろん何の気配もしないけど、もし相手が息を殺してじっとしていたら、二二には分かりようがない。
 震える息を吐き出す。なんとなく寒い気がして、二二は両手でそっと自分の腕を抱いた。その些細な動きですら誰かに勘付かれてしまうのではないかと、慎重になってしまう。
 ふと、前方に何かが浮かび上がっていることに気付く。
(あれは?)
 暗闇の中に、まるで置き去りにされたように、ぼんやりと光り輝く何かが存在している。その輪郭ははっきりと捉えることは出来なかったが、とにかく大きい何かが遠くにある、ということだけは分かった。
 人間というものは、深い暗闇の中では心細さのあまり無意識に明るい方へ向かってしまうものだ。二二は何かを考える間も無く、ぼんやりとした光源へ向かって歩き出していた。
 ふわふわとした足取りで、進んでいく。
 やがて光源の元に近付くにつれ、それが何なのか、理解する。
(樹……?)
 随分と立派な樹だった。幹周は十メートルくらいあるだろう。幹高は三十メートルくらいだろうか。こんもりと豊かに生い茂った枝葉の広がりは、四十メートルはありそうだった。まだ距離があるからはっきりとは分からなかったが、白っぽい実を沢山つけているように見える。光源に見えたのは、その実の白さのおかげだろう。
 二二は咄嗟にクリスマスツリーを連想した。白いボール型のオーナメントをたくさんぶら下げたツリーに、印象が似ていたからだ。子どもの頃の二二は、クリスマスに飾られるクリスマスツリーが――正確には細かな装飾がされたオーナメントが――好きだったので、咄嗟にそんなことを考えたのだろう。
 近くまで行ってみようと足を早めた。相変わらず出来るだけ足音を殺していくことは忘れなかったが、先ほどよりも、少しは緊張感が緩んでいた。恐らくクリスマスツリーを連想した影響で警戒心が薄れたからだろう。
 まだ距離はある。いつまで歩けばいいのだろうか。
 ふと瞬きをして、再び瞳を開けた瞬間、目の前に広がる景色に目を瞬かせた。
(ここは……)
 見慣れた寝室の天井だった。身を起こして周囲を見渡す。やはり二二の寝室だ。
 二二はベッドに横になり、眠っていたらしい。窓からは穏やかな太陽光が注がれている。時刻は九時過ぎを指していた。
 どうやら樹を間近で見上げる前に夢から覚めてしまったようだ。惜しいことをしたような気もしたが、夢に何か意味があるとも思えないので、さっさと忘れることにする。
 二二は欠伸をしながらベッドから立ち上がり、リビングダイニングを覗いた。ソファに姫守の姿はない。トイレや洗面室にもいないようだった。
「あいつはどこ行ったんだ……?」
 昨晩は姫守と一緒に夕飯の素うどんを食べた。そのあとは、姫守が夕食の片付けをして、その間に二二がシャワーを済ませた。髪をタオルドライしながら姫守のパソコンで調べ物を続けて――
 そこから二二の記憶はない。多分ソファで寝てしまったのだろう。ベッドまで移動した覚えは全くなかったので、見かねた姫守がベッドまで運んでくれたのだろう。
 姫守は帰ったのだろうか。しかし姫守のノートパソコンはテーブルの上にあったし、昨日彼が持っていたカバンもソファに置かれたままだった。財布だけ持って何処かに出かけたのだろうか。
(コンコン)
 突如響いた異音に、二二は思わず飛び上がった。だがすぐに自分の失態に苦笑する。今の音は明らかに玄関扉をノックする音だった。出かけていた姫守が帰ってきたのだろう。このマンションはオートロック式だから、一度外に出たら、鍵を持たない姫守は締め出されてしまう。考えればわかることだ。控えめに叩かれたのは、二二がまだ寝ていることを考慮したのかもしれない。手のかかる奴だ、と呆れながら二二は玄関に向かう。
 玄関扉を開ける前に、何気なくドアスコープを覗き、
「――ッ」
 二二は息を飲む。ドアスコープ越しに見えたのは、玄関扉の前に立つ老婆だった。
 花柄のカットソーと、灰色のスラックス。白髪混じりの髪の毛と折れ曲がった腰。写真に写ったそのままの姿で、老婆がそこに立っている。顔を不自然なほど曲げて、にっこりと微笑んだ顔を、二二に向けている。
 二二は思わず後退さった。咄嗟に片手で口元を押さえたのは、悲鳴を上げて老婆に気付かれないように、無意識の内に防衛本能が働いていたからだろう。
 音を立てないように、そっと玄関扉から離れる。老婆はまだ扉の向こうに立っているのだろうか。音も気配もない。扉にはロックがかかっているが、恐らく奴にはそんなもの通用しないだろう。入ろうと思えばいつでも入れる――老婆の笑みを思い出し、背筋に冷たいものが走った。
(ピンポーン)
 今度はインターホンが鳴る。懲りずに二二は飛び上がった。悲鳴をあげなかったのは、片手で口元を押さえたままだったからに過ぎない。
 モニターへ視線を向けると、エントランスからの呼び出しと出ていた。老婆が移動したのだろうか。玄関からエントランスへ移動したのなら、距離は離れたことになるので、大歓迎だった。
 確かめるべく思い切って応答ボタンを押すと、モニターに写し出されたのが姫守の姿だった。二二は安堵したのか脱力したのかよく分からない溜め息を吐いてしまった。そもそも姫守が外に出ているなら、エントランスの時点で中に入れないのは、よく考えれば分かることだった。
 モニターの向こうで、姫守は笑顔でこちらに手を振っている。呑気なものだ。二二は疲れた表情で解錠ボタンを押した。

 玄関扉のインターホンがもう一度鳴り、念の為ドアスコープで相手が姫守であることを確認してから、扉を開ける。姫守を招いて即座に扉を閉めた二二の素早い行動に、姫守はきょとんと目を丸くした。
「どうしたの?」
「いや、別に」
 玄関扉の前に老婆が居ましたなんて言ったら、相手に存在を察知していることを暴露してしまうような気がして、二二はしらばくれた。
「どこに行ってたんだ?」
「コンビニだよ。朝食もうどんってわけにもいかないからね」
 確かに姫守はコンビニのレジ袋を手に下げていた。朝食の概念がなかった二二は何度か瞬きを繰り返してしまう。
「朝食は別に……」
 いらない、と言いかけた二二だったが、微笑んだ姫守に手招きされて、つい口を噤む。
 姫守がソファに座ったので、つられて二二も横に座る。姫守はテーブルに次々と購入品を並べていった。トマトレタスチーズと書かれたサンドイッチに、野菜盛り沢山のサラダ、蜂蜜入りヨーグルトと、カットされたミックスフルーツ。それからペットボトルのお茶が二本だ。
「そういうと思ったから、軽めのやつも買ってきたよ。これなら食べれるよね?」
「……」
 何でもお見通しと言われているようで気に食わなかったが、二二は渋々と頷いた。むすっとした表情のままだが、素直に蜂蜜入りヨーグルトを手に取ると、姫守は嬉しそうに笑って、それから自分はサンドイッチに手を伸ばした。
「痣は相変わらず消えないけど、特にこれと言った怪奇現象は起きないねぇ」
 サンドイッチを大口で頬張りながら、姫守は気楽そうに笑い、自身の痣を指でなぞった。姫守の方には何も現象が起きていないらしい。二二は少なくとも三回は怪奇現象を体験したわけだが、やはり口には出さなかった。姫守は微笑みながら何も答えない二二を探るように見つめていた。きっと無表情の二二からは何も読み取れなかったのだろう。すぐに話題を変えるように言葉を続けた。
「事件の調査の方も、どこを調べても同じ情報しかなくて、進展なしだね。写真のお婆さんがどこの誰なのかわかっただけマシなのかもしれないけど」
「今の状態のままネットで調べ続けるには、無理がありそうだな。もう一度、現地に行ってみれば何か分かるんじゃないか」
「まあ、確かに……家具とかそのまま放置されてたし、何か手掛かりがあるかもしれないけどねぇ」
 少なくともこのままダラダラとネットで調べ続けるよりはマシだろう。二二は現地に足を踏み入れていないわけだし、実際に行ってみれば何か分かるかもしれない。二二はそう考えたが、姫守はあまり気が進まないようだった。珍しく歯切れの悪い返事をして、思案するようにサンドイッチに噛み付いた。
 やがてサンドイッチを食べ終えた姫守がサラダに手を伸ばした。「食べる?」と聞かれたが、迷わず「食べない」と返す二二。姫守は笑いながら、
「分かった。じゃあ、現地調査は明日にして、今日は自由行動ってことでいいかな」
「自由行動?」
「ちょっと気になることがあるから、先に調べておきたいんだ。今の曖昧な情報じゃ、現地に行っても見逃したり判断できないこともあるかもしれないからね。それに杏子ちゃん達にもいずれ状況を話す必要があると思うけど、今の状態じゃ話せるような内容もないし。そのためにももっと根拠あるちゃんとした情報を手に入れなきゃ。そうでしょ?」
 姫守の言うことも理解できなくもなかったが、難しく考えすぎというか、無駄にこだわりすぎているような気もした。完璧主義者なのか、それともあっと驚くような情報を手に入れて年下の女子達にいいところを見せたいのかもしれない。姫守は自分でも不自然なほど必死な態度であったことに気付いたのか、ちょっと困ったような微笑みを浮かべた。二二が曖昧に頷いて理解を示すと、姫守はようやくほっとしたように視線を逸らした。それから彼は付け加えるように、
「それに一旦家にも帰っておきたいしね」
「……なるほど」
 となると、二二はまたこの部屋で一人ぼっちになるわけだ。そう思ったが、もちろん二二は口にも顔にも出さない。
 自分も何処かに出かければいいのだ。そう思い直して、了承するように頷いた。
 
 姫守を送り出してから、二二も出かけるための身支度を始めた。ちなみに姫守が「いつでもいいから食べて」と言って残していったカットフルーツは、冷蔵庫の中だ。
 行く先は図書館にした。過去の新聞を無料で貸し出していることが理由の一つだが、自分のノートパソコンを持ち込んで調べ物をしていても違和感がないこと、つまり一人で調べ物をしなくても良い環境であることが、間違いなく図書館を選んだ理由だった。もちろん結果はあまり期待していないが、一人で何もせず部屋に篭るよりは、少なくとも精神的に救いのある行動に思えた。
 結果は想像通り、ほとんどゼロに近かった。わかったことといえば、一家惨殺に使用された凶器は全て同じものらしい、ということくらいだ。切断面からノコギリのようなものが使われたと推測されているようだ。その文面を読み、思わずノコギリを持った老婆を想像してしまい、二二は慌てて考えを振り払うように頭を振ったことは言うまでもない。
 暗くなる前に帰宅して、真っ先にテレビを点けた。無音だと色々と妙なことを想像してしまうからだった。音が出ればなんでも良かったから、チャンネルは変えずにリモコンはすぐに置いた。
 テレビにはニュース番組が写し出されていた。二二はニュース番組に流れる文字を無意識に目で追っていたが、すぐにハッと息を飲んだ。流れているのは県内ニュースである。
(本日の午後、同校に通う生徒二人が、同様の方法で殺害されているのが発見され――)
 二二は崩れ落ちるようにソファに座り込む。
 殺害されたと報道されているのは、見知った人物の名前だった。
 秋山章と川田茜……章と茜だ。何度見返しても見間違うことがない。
(被害者は、首を切断され、頭部を持ち去られていることから、同様の人物による犯行と見られ――)
 茫然とニュースを見ていると、急にパーカーのポケットが激しく振動し、二二は思わず飛び上がった。慌ててポケットを漁ると、スマートフォンが杏子からの着信を知らせていた。
「も、もしもし?」
 受話口から嗚咽まじりのか細い声が聞こえる。
『ふ、二二くん?』
「ああ、その……」
 二二は何度か呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせようと心がけた。自分が取り乱してしまったら、ますます杏子を不安にさせてしまうだろう。二二は無理して平静を保って言葉を続ける。
「ニュースを、見たんだな?」
『うん、見た……章と茜が……酷いよ……どうしてなの?』
「それは……」
 二二は言葉を詰まらせた。なんと声をかけたらいいのか分からなかった。二二自身もショックのあまり何も考えられなかったせいだろう。ただ茫然と杏子の泣き声を聞いていた。
 やがて杏子の泣き声が落ち着いてくる。何か話さなくていけない、と二二はぼんやり考えるものの、頭が真っ白で何も考えることが出来ない。
『二二くん……大丈夫……?』
 情けないことに杏子に心配されてしまう始末だった。二二は無言で頷き、少し経ってから電話で会話をしていることを思い出して、慌てて声に出した。
「あ、ああ、大丈夫……とはいえないけど、大丈夫だ。そっちは……」
『あたしも……おんなじ状態、かな……』
「そっか。電話してくれてありがとう……一人じゃ、耐えられなかったかも」
『ううん……あたしも。ありがとう……』
 ちょっとだけ杏子が微笑んだのが、電話越しでも分かった。
『……やっぱりこれって、あのお婆さんの仕業なのかな……?』
「多分……そうだと思う。昨日と今日で、色々調べてはいるんだけど……」
 現時点の情報を杏子に話そうと思ったが、不意に姫守の必死な訴えを思い出した。二二が勝手な真似をしたら姫守の怒りを買うかもしれない。それに彼の調査結果を待ってから話した方が混乱させなくて良いのは確かだ。
「まだはっきりとした情報はなくて。多分、明日になれば何かわかると思う。また現地に行って調べる予定だから」
『そうなんだね……そうしたら、あたしにも教えてくれる?』
「ああ、もちろん」
 この頃には、状況を整理できるくらいには、二二は落ち着きを取り戻していた。
「昨日……茜と話したか?」
 答えられなくても無理はない話題ではあったが、杏子は怯えつつも、きちんと受け答えをする。二二の役に立とうと、勇気を振り絞ってくれているのが二二にも伝わった。
『最後に会ったのは学校の帰りだよ……いつもの駅で別れたの。会ったのはそれが最後だけど、夜にメッセージで会話はしたよ』
「それは何時頃? どんな様子だった?」
『九時前だったよ。様子は……いつも通り、だったかな。あたしが怖がってるのをからかったり、励ましてくれたり……』
 杏子を励ます余裕があったというのなら、少なくともその時点では身の危険を感じる状態ではなかったということだろうか。茜は強がりの性格だったから、断定はできない。断言できることは、杏子と話した数時間後に老婆の襲撃を受けて、殺されてしまったということだけだ。
『……ねえ、あたしも殺されちゃうのかな……?』
 電話口から杏子の震える声。怯えて丸くなっている杏子の姿が鮮明に想像できる。
『どうしたらいいのかな……』
 二二は杏子を自分の家に呼ぶことを考えた。姫守もいるし、恐怖を共感できる人物が三人になる。少なくとも一人で怯えるよりはマシだろう。しかし三人いるからといって、老婆が首切りを諦めるとは思えない。むしろ餌を一か所に集めてしまう結果にならないだろうか。
「……オレは、今朝、例の老婆が自宅の玄関に立っていたのを見た」
 二二が暴露すると、電話の向こうで杏子が小さく悲鳴をあげたのが分かった。
「少なくとも、オレには近づいてきてる。だから……多分、オレとは会わない方がいいと思う。それなら安全とは、残念ながら言い切れないんだけど」
『二二くん、でも……一人暮らしなんだよね? 怖くないの?』
 杏子に一人暮らしだと話した覚えはない。またもやいつの間にか流出している個人情報に、二二は状況にそぐわず苦笑してしまう。
「大丈夫だ。いざという時は姫守を盾にして逃げるし……」
『伊邪和先輩が来てくれてるんだね。あの先輩ならお化けも得意そうだし、心強いかも』
「そっちは?」
『両親とお兄ちゃんがいるよ』
「じゃあ、しばらくは家族といるようにした方がいいと思う。オレ達よりよっぽど頼りになるだろうし。それになんとなくだけど、やっぱり一人でいるときの方が、奴は姿を見せることが多い気がするから」
『うん、分かった……二二くん、怖いと思ったら、すぐに電話してね。呼んでくれれば、あたしだってすぐに飛んでいくから』
 二二が杏子を心配しているつもりが、逆に二二が励まされている状況に気づいて、なんだか情けなくなってしまった。それでも杏子の優しさが嬉しかったから、二二は思わず微笑んだ。
「ああ、ありがとう……」
『それじゃあ、一回切るね。あんまり部屋にこもってると、お母さんとお父さんが心配するから』
「うん。また電話する」
『うん、またね』
 杏子との通話を終える。途端に深く息をついて、ソファに埋もれた。ニュースは既に天気予報に切り替わっている。
 杏子が悲しみながらも、まだ絶望に飲まれていないことが唯一の救いだった。茜といる時は、彼女の背中に隠れている印象が強かったが、女性というのは追い詰められると本来の強さを発揮するものなのかもしれない。あるいは意外と頼りのない二二を見て、自分がしっかりしなければと思い直しただけなのかもしれないが。どっちにしろ二二は彼女の強さに助けられていた。もし二二が一人だったら。或いは杏子が救いようのないくらい落ち込んでいたら。二二は立ち直れないくらい沈んでいただろう。
(……ボーッとしてないで、何かできることをしよう)
 少なくともそう考えることが出来るくらいの気力は残っていた。二二はリモコンを手に取って、チャンネルを変えた。まだ詳細は分かっていないのか、どこのニュースも同様のことしか報道しない。
(犯人は確実にあの老婆だ。痣の出ている人間の首を切りに来ているのは確かとして……茜は昨晩、杏子と話したあと二十一時以降に殺された。章はいつ殺された? 痣が出たのが昨日だから、章も昨日? ただ章は前から連絡がつかなかったから、それよりもっと前という可能性もある……)
 ニュースではまだ二人の死亡推定時刻は報道されていない。
 二二はふとテレビから視線をあげて、室内を見渡した。
 「…………」
 なんとなくだが、誰かに見られているような気がした。もちろん室内には誰の姿もない。老婆の姿もない。しかし部屋に誰もいないことを自分の目で確認しても、誰かにじっと見つめられているような嫌な気配は消えない。
 後頭部にねっとりとした視線を感じる。振り返っても誰もいないキッチンがあるだけだ。今度は背中にジッとした視線を感じて振り返る。やはり座り慣れたソファがあるだけだった。
(……考えすぎだ。相当気が滅入ってるな)
 無理矢理自分にそう言い聞かせて、二二は置いたばかりの鞄を再び手に取った。気分転換にコンビニにでも行って、夕食を買いに行こうと考えた。温かいものでも食べて気分を落ち着かせて、それからこれからのことを考えるべきだ。
 二二はテレビを消して、部屋の明かりを消し、少し考えてから再度電気を点けて、明るい室内を背に部屋を出た。帰った時に部屋が真っ暗だと、怖――気落ちしそうだと考えたからだった。
 一番近いコンビニはマンションから徒歩五分のところにある。気分転換にはちょうど良い距離だった。
 コンビニでお湯を注ぐだけのカップのコーンポタージュと、明日用の菓子パンを一つとってカゴに入れる。買い物を終えてコンビニを出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。夕飯時の住宅地のせいか人気はほとんどない。街灯の明かりを眺めながら、二二はゆっくりと歩いていく。
 二二はまた視線を感じて振り返る。
 もちろんそこには誰もいないと思っていた。部屋でも気のせいだったから、今回もそうだろうという程度の気持ちで。
 二二が振り向いた瞬間、黒い影がスッと電柱に隠れたのを見て、思わず足を止めた。
 姿ははっきりとは見えなかった。だからそれが例の老婆だったか確証が持てなかった。ただ人の形をしたものが、闇に塗れるようにして姿を隠したことだけは見えただけだった。しかし電柱の影に隠れているそれの、はっきりとした存在感と、じっとこちらの様子を伺う気配は感じとることが出来た。
「……」
 二二は一見すると無表情で固まっているだけだったが、脳内は大混乱だった。
 後を尾けられることはよくあることだ。だけどクロイのいない一人のときに、首に切り取り線のような痣があり、人ならざる者に付け狙われている状況で、尾行される経験は初めてだったから、二二が混乱するのも無理はなかった。
 二二は想像してしまった。電柱の向こうで老婆が息を殺し、二二の様子を伺っているところを。片手には血塗れのノコギリを持ち――章と茜の首を切り落としたノコギリだ――シワだらけの口元にうっすらと笑みを浮かべているところを。
「……っ……」
 二二は弾かれたように走り出した。もちろん電柱の影を覗き込む勇気など微塵もなく、逃げるように一目散にマンションへ向かった。
 意外にも二二は運動神経が良く、足は早い。但し体力があまりないので、長距離は走れない。幸いにもマンションまで数分の距離だったので、体力が尽きる前にエントランスへ辿り着くことが出来た。
 史上最速のスピードで暗証番号を入力してエントランスへ逃げ込み、タイミングよく一階で停止していたエレベーターに乗り込んで、五階のボタンと、閉まるボタンを素早く押す。エレベーターの扉が閉まり、上昇していく感覚を体で感じつつ、二二は荒い息を繰り返していた。汗をかいているのに、全身が震えるくらい寒かった。
 五階にたどり着いて駆け足で自室に逃げ込んだ。玄関先で靴も脱がず、その場で荒い息を繰り返す。
 大丈夫。エントランスは暗証番号を入力しないと侵入できない。部屋にはロックがかかっている。二二は自分に言い聞かせるように何度も脳内で繰り返す。人間ではない老婆にそんな物理的な障害が通用しないと思うが、そんなことを考えたら卒倒しそうだったので、二二は考えないことにした。
 ようやく呼吸が落ち着いてきたので、とにかく休憩しようと靴を脱ぎかけて、部屋が真っ暗で何も見えないことに気付く。二二は苦笑した。部屋の暗さにも気づかないくらい動揺していた自分を嗤い、明かりのスイッチを探しながら、ふと気付く。
 外出する前、電気を一度消して、それから点け直して部屋を出たはずだった。
 それとも無意識のうちに消してしまったのだろうか。
(いや、そんなことはない。絶対に)
 誰かが電気を消したのだ。何故そんなことをするのだろうか。そんなこと、わかり切っている。二二を怖がらせる為だ。或いは、暗闇に紛れて何かをするつもりなのか。何かとは何だ。もちろん、相手に気付かれぬうちに距離を詰め、首を狙うためだ。
 そこまで考えたところで、二二は再び部屋を飛び出していた。

 ほとんど無意識のうちにコンビニまで走って戻った。
 明るいライトと賑わう店内を見て、二二はようやく我に帰った。自覚できるくらい取り乱していたので、二二は店内には入らなかった。少し距離を空けたところに立ち、荒い息を整えるべく呼吸を繰り返す。
 先ほどコンビニで買ったものや、それを入れた手提げの鞄は、どうやら玄関先に放り出して来てしまったらしい。つまり財布も家だ。幸いにもスマートフォンと家の鍵はポケットに入れていたので、手元にあった。
 二二がスマートフォンを操作し始めたのは無意識だった。昨日交換したばかりの姫守の連絡先を見つけた途端、通話ボタンを押したのも、ほとんど無意識だった。
『もしもし?』
 何回かのコール音の後、姫守が電話に出る。屋外にいるのか声が少し遠い。
 二二は声を出そうとしたが、ヒュッという息を吸う音しか出ない。焦って何度か呼吸を繰り返していると、電話の向こうで姫守が戸惑うような気配を見せた。
『どうしたの?』
「い、いや、別に」
 なんとか声が出た後は、冷静を保って話すことが出来た。
「今どこだ?」
『君の家の近くだよ。調べ物が終わったし、いろいろ話したいこともあるから、そっちに行こうと思ってね』
「どのくらいで着く?」
『もう近くだから、ほんの数分で――本当に大丈夫?』
「分かった。数分だな」
 しつこく心配してくる姫守を無視して通話を切る。
 数分で着くのなら二二も急いでマンションに戻らないといけない。また来た道を戻る羽目になったわけだが、流石にもう体力が限界で、頑張っても早足くらいのスピードしか出なかった。
 それでもマンションの入り口に着いたのは二二が先で、姫守が姿を見せたのは、それから二分程度後のことだった。急いで来てくれたのか、姫守の方も少々息を切らしている。
「大丈夫?」
 姫守がいつもの気楽そうな笑顔を引っ込めて、第一声がそれだったのも、無理はなかった。二二は自覚していなかったが、顔色は真っ青だったし、身体中は冷え切って、ガタガタと震えていた。相手が姫守でなく全く他人の第三者であったとしても、同じことを尋ねただろう。何も言わない二二を心配するように、姫守はゆっくりと背中をさすってくれた。島崎の時と違って、過剰なスキンシップと思わせない自然さで、むしろ身体が解れるような気さえする優しい手だった。
「ニュースを見たの?」
 姫守がまず心配したのはそれだった。確かにそれも原因の一つではある。二二は肯定とも否定とも取れる曖昧な反応をとった。
「それもあるけど」
「他に何かあった?」
 二二は打ち明けるべきか悩んだ。しかし今更しらばくれたところで何の意味もないと考え直し、全て素直に打ち明けることにした。もちろん、気のせいで済ませられる事象は省いておく。
 姫守は茶化すことなく二二の話を聞いてくれた。話し終えた後には、少し考える素振りを見せて、それからマンションを見上げる。
「確認してみようか」
「へっ、部屋をか」
「もしかして例のお婆さんが部屋にいるかもしれないからね。いなければそれでいいし、いるのなら、このままにしておけない」
 姫守に急かされて、暗証番号を入力してロックを解除し、エントランスへ入る。エレベーターで五階に上り、玄関のロックを鍵で開ける。二二が扉を開ける前に、姫守がさっさと扉を開けて、躊躇うことなく室内に入っていった。二二も慌てて後を追う。
 姫守は真っ暗でも戸惑うことなく、部屋の明かりのスイッチを押した。パッと明るくなる室内。途端に二二は飛び上がって、思わず姫守の腕を掴んだ。
「ま、窓が、開いてる」
 リビングダイニングのカーテンが開いており、真っ暗な夜空を映した掃き出し窓が少し開いていた。人一人が通れるような隙間だ。いくらものぐさな二二でも、窓を開けたまま出かけたりはしない。
 見たところ室内には誰の姿もない。咄嗟に身を隠すとしたらベランダしかない。二二は恐怖のあまり固まるしか出来なかったが、姫守は違った。スタスタと歩み寄ると、何の躊躇いもなく、ベランダへ続く掃き出し窓を騒々しい音を立てて開けた。
「ん〜」
 頭を出してベランダを見渡していた姫守は、つまらなそうに口を尖らせながら、掃き出し窓を閉めた。そして素早く寝室も覗き、ついでに他の部屋も全て調べて、やがて肩を竦めながら溜め息を吐いた。
「残念、誰もいないね」
「…………」
 二二は思わず呆れ顔を浮かべて、ソファに座り込んだ。
 部屋中を調べてくれたのは有り難いことだった。しかし、躊躇いもなくベランダに頭を突き出すなんてどうかしている。もしそこにノコギリを持った老婆が待ち構えていたら、どうするつもりだったのだろうか。まさか老婆とタイマンを張るつもりだったのだろうか。
 姫守はすっかりいつも通りになった笑顔を浮かべると、ごく自然な動作でキッチンに立ち、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。我が物顔の姫守に二二が怒る暇すら与えず、温かいココアを二人分手に持って、姫守は二二の横に座った。
「拍子抜けだったね。すごい形相のお婆さんが飛び出してくるとか、僕の首が吹っ飛ぶとか、窓が爆発するとか、いろいろなパターンを考えたんだけどなぁ」
 笑顔でココアを差し出され、二二はほとんど反射的にそれを受け取る。ココアの温かみを両手に感じ、二二は無意識のうちに強張っていた全身がほぐれていくのを感じた。
「……そんなに色々なパターンを考慮されたら、相手も意表を付くのが難しくなるだろうな」
「僕の態度がお化けに優しくないから、なかなか姿を見せてくれないのかな」
 不自然なほど呑気な姫守の態度はあえてで、二二の緊張を解こうとしてくれているのだろう。二二が見上げると、にこにこ顔の姫守が見守るように優しく見下ろしている。二二は精神的にかなり落ち着きを取り戻していた。気持ちを切り替えるように、深いため息を吐く。
「お前、ニュース、見たんだろ」
「少しだけね。テレビつけていい?」
 頷いで了承すると、姫守がリモコンを操作し、ニュース番組を流す。
 少しだけ報道の内容が変わっていた。死亡が確認されたのは章と茜。首がないとはいえ、間違いないようだ。写真部に所属する裕子も亡くなったばかりだったので、同校の生徒ばかり狙う連続殺人か――と民間のニュース番組では報道されていた。
 最初に取り上げられたのは章の事件だ。章が亡くなったのは水曜日の深夜。つまり肝試しから帰ったすぐ後に、すでに殺されていたということになる。ちょうど両親が旅行に出ていたため、発見が遅れてしまったらしい。発見者は被害者が所属する部活の顧問教師で、学校を無断欠席した生徒を心配して昨晩自宅を訪問したところ、室内の電気がついているにも関わらず応答がなく、不審に思い庭からリビングを覗いたところ、首なし死体となった章が倒れていたのを発見した――とのこと。
「部活顧問って……島崎のこと? いつもは生徒に無関心なのに、どういう風の吹き回しなんだか」
 姫守が不機嫌ともいえる声色でつぶやいた。姫守が島崎を呼ぶ響きは、突き放すような冷たい感じがあった。誰とでも上手く付き合うことが出来る器用な奴のように見えて、姫守にも苦手意識を感じる相手がいるらしい。
「オレが先生に相談したからだと思う。なんとか章と連絡を取りたかったから。電話してくれるとは言ってたけど、自宅まで様子を見に行ってくれるとは思わなかったな」
「ふーん」
 島崎が自宅まで行ってくれなかったら章の発見がもっと遅れていたかもしれない。二二も島崎には色々言いたいことはあるものの、素直に感謝すべきだろうと考えた。
 ニュースは茜の事件に移る。本日昼前のこと、いつもの時間になっても起きてこない娘を心配した母親が、娘の自室を覗いてみたところ、首なし死体となっていた茜を発見した、ということだった。死亡推定時刻は恐らく前日の二十四時前後という事。
 茜、章ともに抵抗した形跡や犯人の痕跡はなく、また自宅の施錠は問題なく、つまり外部からの侵入は困難な状況だったらしい。しかも茜の場合、同じ家に両親が居たにも関わらず、彼女の悲鳴は全く聞いていないという。
 次に、裕子の事件が取り上げられた。この件だけ既に報道済みで容疑者も判明していることから、最後に紹介されたようだ。
 突如テレビがブラックアウトする。
 どうやら姫守がリモコンを操作し、テレビを消したようだった。裕子の事件は今回の現象と関係がないから、余計な情報を入れて混乱しないようにと思ったのかもしれない。
「これ、僕が今日調べてきた資料ね」
 姫守は鞄から一冊のファイルを取り出し、二二の膝の上に置いた。たくさんの新聞の切り抜きがファイリングされていた。新聞の日付を見ると、最近のものから古いものまで、様々である。
「過去の事件を調べてたのか」
「うん。似たような記事を家で見た記憶があったから、探して来たんだ。ああ、事件のファイリング自体は父親の趣味なんだけどね。父はホラー作家だから、参考になりそうな猟奇的事件はこうしてファイリングしてあるんだよ」
「なるほど。その親にしてこの子あり、だな」
「影響はあるだろうね」
 姫守と会話しながら、二二は記事に目を通す。一番に飛び込んでくる見出しを見て、すぐに姫守の言いたいことを理解した。新聞の見出しはこうだ。「児童養護施設で児童首切り連続殺人」
「これって……」
「うん。こっちも見て」
 姫守が促した記事には、こう書かれていた。「大学生を狙った犯行か。首切り連続殺人」
 両者の事件とも、六人が首を切り落とされて殺害され、そして一人が行方不明となっていた。両者とも依然として犯人は捕まっていないらしい。
「例の一家と同じ、だよね」
「……そうだな」
「最近の事件しか見ていないから、この二つしか見つけられなかったけど。もしかして過去にも同様の事件があったのかもしれない」
「どういうことだ? 原因は老婆だと思っていたけど……」
 児童養護施設の子どもや大学生が、老婆と関係があるように思えない。ただ事件性だけが酷似しているだけで、他の共通点が見つけられない。
「もう一つ、気になる点がある」
 姫守はファイルをめくり、
「児童養護施設の行方不明者だけど、実は数年後に発見されてるんだ。もちろん首なし死体となって、だけど。問題はそこじゃなくて、見つかった時期にある。行方不明者は児童養護施設に暮らす中学生だったんだけど、彼の死体が見つかったのが、大学生首切りの事件が発生した直後だったんだ」
 姫守が促した新聞記事には、児童首切り事件で行方不明となっていた森山健二くん(十四歳)が、首なし死体となって発見されたと書かれていた。その日付は、大学生首切り事件で最後の被害者が行方不明となった日付と一致している。
「そして、大学生首切り事件で行方不明になったのが、当時大学三年生だった青年。彼の死体が見つかったのが――」
「例の老婆が行方不明になった日と一致してる……ってことか」
「その通り。もちろん、彼の首も切り取られていた。調べた限りじゃ、被害者の首はまだ一つも見つかっていないらしいね」
 二二は自分を落ち着かせるために、ココアを一口飲んだ。
「流石に偶然ではないよな」
「同じ犯人と見て間違いないだろうね」
「どの事件も六人が死んで、一人が行方不明になってる。そして次の事件が起こった直後に、行方不明だった一人の死体が見つかってる。つまり――」
「章と茜ちゃんが殺されたから、既に二人死んでる。君と僕、そして杏子ちゃんと鉄男くんが死ねば、これで六人だ。僕たちは六人で肝試しに行ったから、人数が足りない。もう一人誰かが――誰かは予想がつかないけど――行方不明になれば、きっとお婆さんの首無し死体が出てくるんだろうね」
 そして恐らく、行方不明になった誰かが、次のターゲットを求めて彷徨う役目を負うのだろう。六人を殺し、一人を自分の身代わりとするまで、役目から逃れることはできない。
「ずっと老婆が怪異の正体かと思っていたけど、実際は被害者だったわけか。怪異の本当の正体は不明だけど……そのサイクル自体が、怪異の正体かもしれない」
「君は霊感があるんだよね。お化けをやっつけたり出来ないの?」
 姫守の突拍子もない意見に、二二は思わず呆れ顔を浮かべた。どうやら本気で言ったわけではなく、姫守もちょっと笑っていた。
「オレは見えるだけだ。そもそも怪異には肉体があるわけじゃないから、やっつけるとかは無理だろ。殴ったってダメージがあるのかも分からないし」
「でも、テレビで除霊とかやってるよね」
「あれもどこまで本当なんだか……説得して退けたり、嫌がるものを用意して遠ざけたり、そのくらいなら出来るとは思うけど……」
 もちろんそれも簡単なことではない。二二は怪異とマトモに交流できる自信はないし、怪異が苦手な物なんて分からない。それでも検討する価値があると判断したのか、姫守は考え込むように腕を組んで見せた。
「退ける方法を探すっていうのが、今のところ一番現実的だね。お守りとかお札とか効くのかな?」
「さあ……でも、少なくともあの民家には老人が住んでいたし、和室の部屋もあったから、お守りとかお札くらいありそうなものだけど」
「確かに。それでもみんな殺されてしまったわけだから、誰にでも思いつくような撃退アイテムは効くか怪しいってことか」
「少なくとも、あの老婆……今回の怪異にはな」
「明日もう一回あの家に行く予定だったよね。お婆さんが本当の犯人じゃないことが分かったわけだけど、行く価値はあるのかな。君はどう思う?」
「うーん……」
 二二はココアを飲みながら思案する。老婆が全ての根源ではないことは確かだ。だから姫守の言う通り、民家に行ったところで意味はないかもしれない。ただ二二には気になることがあった。民家を調べれば、それが分かるかもしれない。
「行ってみてもいいんじゃないか。こうして過去の事件を調べ続けたところで、これ以上役立つ情報があるとは思えないし」
「類似した事件を調べていけば、死を回避した人に出会えるかもしれないよ?」
「死を回避した人は新聞に載らないだろ。遺族に話を聞くことができればそういう人物を見つけることも出来るかもしれないけど、ただの高校生のオレ達には無理だ」
「確かにそうか」
 姫守は完全に納得した様子はなかったが、
「まぁ、君が行くなら僕も行くよ」
 あっさり頷いて、ソファから立ち上がる。姫守はまた自然な動作でキッチンに立った。
「そろそろ夕食にしようか」
「そんな悠長なこと言ってないで、行くなら今から行った方がよくないか。まだそんなに遅い時間じゃないし」
「真っ暗な中、あのお婆さんがいる民家に行きたいのなら、止めないよ」
 思わず黙り込んだ二二に、姫守はにっこりと笑顔を向けた。
「じゃ、夕食だ。簡単なやつだけど、パスタの材料買ってきたから。食べるよね?」
「いや、オレは夕食買ってあるから」
「まさか夕食ってこれのこと?」
 いつの間にか姫守の手には二二の鞄がぶら下がっていた。中にはインスタントのコーンポタージュと菓子パンが入っている。
「これはオヤツだよね?」
「……コーンポタージュは違うだろ?」
「それだけじゃマトモな食事とは言えないけどね」
 姫守はそれ以上の追求を諦めて、問答無用で夕食を作り始めた。姫守の作る料理は美味いし――うどんしか食べたことがないが、少なくともインスタントのうどんよりは美味かった――、使用後のキッチンもきちんと片付けてくれるし、夕食代も浮くので、二二に拒否する理由が見つからなかった。
 夕食のことは姫守に任せて、二二は杏子へ連絡しようとスマートフォンを手に取った。約束した通り、現在までの調査結果を話しておこうと思ったからだ。ふと、姫守が自分で連絡したがるかもしれないと思い、手を止めてキッチンに立つ姫守へ視線を投げる。ちょうど二二を見ていた姫守と目があった。
「杏子ちゃんに連絡するの?」
 姫守は二二の行動を阻止するような素早い問いかけを投げる。抜け駆けされると思ったのかもしれない。やはり姫守は杏子に気があるのだろうか。
「情報は結構揃ってきたし、話す内容的にはもう十分だろ。お前はどうしてそう情報提供に慎重なんだ?」
「完璧主義なんだよ。興味のあることに関してはね。中途半端な情報だと思われたら恥ずかしいじゃない」
「あ、そう……」
 理解できない姫守の妙なこだわりに、二二は呆れ顔を浮かべてみせた。しかし恋愛心とかよりよっぽど姫守らしい返答だったので、内心では顔を綻ばせていた。
「それなら、お前から連絡すれば?」
「そうしよう。君はどこか抜けてるから、任せておくのも不安だしね」
「いちいち余計なこと言うな」
 ふと鉄男にも連絡すべきだと思いあたる。しかし彼の連絡先が二二のスマートフォンに登録されていないことに気づき、再び姫守に視線を向けた。杏子に連絡するという役目を奪い取って安心したらしい姫守は、料理の手を再開していた。
「なあ、鉄男の連絡先って知ってる?」
 もちろん駄目元で聞いただけだったが、彼は意外にも頷いて見せる。
「知ってるよ。杏子ちゃんのもね。この前の肝試しの写真を送るために聞いたから。君の友達かと思ってたけど、知らないの?」
「鉄男はオレじゃなくて章の友人だ」
「君は意外と友人が少ないなぁ」
「うるさい」
 何が楽しいのか、姫守はにこにこと笑っている。それから料理の手を止めずに、鼻歌混じりに言葉を続ける。
「それで? 鉄男くんにも情報を伝えるの?」
「鉄男にも痣も出ているか確認した方がいいだろうし、もしかして既に何か現象が起きているかもしれない。その場合は、きちんと情報を伝えた方がいいと思う」
「確かにね。分かった、あとで僕から連絡しておくよ」
 姫守が手際良くパスタを作り終えて、テーブルに並べた。トマト缶を使ったトマトクリームパスタだ。姫守と共にパスタを食べながら、こんな状況なのに呑気にパスタを食べていていいのだろうか、と二二はぼんやりと思った。
 トマトクリームパスタは甘めの味付けで美味しかった。

 姫守が杏子と鉄男に連絡を取っている間、二二は夕食の片付けをした。
 二二は片付けも是非とも姫守に任せようと思っていた。しかし「二人に連絡してくるね」と姫守がベランダへ消えてからしばらく戻ることはなかったので、渋々と二二が片付けをする羽目になっていた。
 締め切ったガラス戸の向こうからは、絶えず姫守の話し声が聞こえた。具体的な会話内容は聞こえなかったが、姫守の滞ることの知らない、まるで歌のように滑らかに紡がれる声を聞いていると、楽しい世間話をしていると錯覚しそうだった。
 二二が家事を終えて一息ついているところに、長電話を終えた姫守も戻ってくる。計ったとしか思えないタイミングだった。
 それからベッドに着くまで、幸いにも何も怪現象は起こらなかった。
 姫守は今日も二二の家に泊まるようだ。昨日に引き続き、二二は寝室のベッドで、姫守はリビングダイニングのソファで寝ることになる。部屋は違うとは言え、一人じゃないことに安心感を覚えたのか、二二は部屋のライトを消すことも躊躇わず、すんなり眠りにつくことができた。
「…………」
 それなのに夜中にふと目覚めてしまったのは、やはり心のどこかに恐怖心が残っていて、眠りが浅かったためだろう。真っ暗な天井を見つめながら、二二は「朝まで起きたくなかったのに」と内心で落胆した。
 そのまま身動ぎ一つせず再び目を伏せる。
 眠気は一向に訪れない。むしろ無意識のうちに、目を閉じたまま、まるで聞き耳を立てるように周囲の様子を伺ってしまう。隣の部屋で姫守が寝ている筈だが、物音一つしなかった。本当にいるのだろうかと不安になってしまう。
(まさかもう老婆にやられた……なんてことはないよな……)
 つい首なし死体を想像してしまい、二二は恐ろしい想像を振り払うように目を強く瞑った。もちろん二二は首なし死体なんて見たことがなかったから、お化け屋敷に転がっていそうな作り物の死体しか想像できなかったが。
 一度意識してしまうと、暗闇が怖く感じてしまう。このままでは不気味な想像ばかりして自分の首を締めるばかりなので、二二は部屋のライトをつけることにした。スイッチを押す為には、体を起こすことになる。仮に室内に誰かいた場合、二二が起きていることを知らせてしまうことになるが、それでも真っ暗な部屋でじっとしているよりマシだった。
 身を起こそうと決心して、目を開ける。そして気付く。
 ベッド脇に誰か――黒い影が立っている。
「っ……!!」
 あまりの衝撃に思わず悲鳴をあげたが、何故か声が出ない。喘ぐように呼吸を繰り返すだけだ。
 体を動かそうとしても、まるで金縛りにあったように身体がピクリとも動かない。動かせるのは視線だけだ。恐怖に打ち負けて閉じてしまいそうになる瞳を、勇気を振り絞ってこじ開けて、ベッドの脇に立つそれを見上げる。
 起きている二二の気配を察した姫守が、心配して様子を見に来たのだ。そう自分に言い聞かせたが、その黒い影は、どう見ても姫守にしては背が低い。それはまるで寝ている二二の顔を覗き込むように、腰あたりでぐにゃりと体を折っている。
「…………」
 黒い影が、グッと顔を寄せてきた。目尻が下がった人の良さそうな顔の老婆だった。うっすらと口元に微笑みに浮かべ、二二を見下ろしている。優しさの塊のような顔をしながら、その首元には、正体を表すようにグロテスクな赤で描かれた痣が一文字に走っていた。
 老婆が右手を少し持ち上げた。赤黒い錆が目立つ、小ぶりのノコギリを持っていた。
 老婆は笑みを貼り付けたまま、酷く億劫そうな動きでノコギリを持ち上げると、二二の首の上あたりまでそれを持っていき、
「…………」
 にぃっ、と笑みを深くした。今から切るよ、と宣言するように。
 真上に迫るノコギリを見つめながら、二二は必死に体を動かそうと踠いていた。しかし指一つピクリとも動かない。ただ荒い息を繰り返しながら、じっと、今にも振り下ろされそうなノコギリを見上げることしかできない。
(ばんっ)
 急に凄い音がして寝室の扉が開いたと思ったら、ぱっと部屋が明るくなった。二二は思わず眩しさのあまり目を閉じる。
「大丈夫?」
 再び目を開けた時には、先ほど老婆がいた場所に、姫守が立っていた。心配そうな顔を浮かべて二二の額に手を伸ばす。
「……熱はないね」
「……熱?」
 思わずきょとんとして聞き返す。二二が身を起こそうとすると、姫守がまるで病人を看病するように手を貸した。そして「ちょっと待ってて」と寝室を出ていくと、すぐに白湯とタオルを手に戻ってくる。
「はい、これ。飲んで」
 二二は大人しくマグカップを受け取り、白湯を飲んだ。その間、姫守は二二の額や首筋にせっせとタオルを押し当てていた。どうやら気づかないうちに、全身びっしょりと汗をかいていたらしい。
「気分は悪くない?」
「いや、別に……?」
「尋常じゃないくらい苦しそうだったけど……怖い夢でも見てたの?」
 どうやら姫守には老婆の姿が見えていなかったようだ。暗闇だったから見えていなかったのか、それとも姫守が鈍感すぎて見えていなかったのか、或いは二二が恐怖のあまり悪夢を見たのか――どれが正しいのか二二には判断がつかない。
「……声を出した覚えはないけど」
「確かに声は出してなかったね。ただ、凄く苦しそうに息をしていたから、何かの病気かと焦ったよ。たまたまトイレで起きて、君の様子に気づいたから良かったけど」
 どうやら怪奇現象ではなく病気を疑って部屋に飛び込んできたらしい。二二は呆れたように溜め息を吐いた。
「お前、そんなんだから怪奇現象に遭遇しても気付かないんじゃないか……?」
「えっ、怪奇現象だったの?」
「夢じゃなければ、だけど」
 二二は先ほどの体験を姫守に話して聞かせた。ほんの少しのプライドが邪魔して、暗闇が怖くて電気をつけようとしたところは意図的に省いた。あくまでふと目が覚めたらベッド脇に老婆が立っていたと話す。
「本当に夢じゃなかったのか、と改めて聞かれると……自信を持って頷けないんだけど。ただ、寝ていた自覚はなかったことは確かだ」
 姫守は黙って二二の話を聞いていた。いつものニコニコ顔ではなく、真剣に思案するような表情だ。やがて彼は自分をじっと眺める二二に気づいたのか、いつも通りにっこりと微笑んで見せる。
「夢か現実かはわからないけど、とりあえず邪魔して良かったことは確かだね。夢の中だとしても、そのまま首を切られていたら現実の君にも何か影響があったかもしれない」
「……それはそうだな。それにしても、どうしてオレばかりで、お前にはなんの現象も起こらないんだ?」
「君は最初から、お婆さんに目をつけられていた感じがするからねぇ」
 二二は民家で撮られた写真を思い出した。あの時点では二二は老婆の存在を知らなかったのに、既に老婆は二二を認識していた。もし中に入っていたら、一人目に殺されていたのは二二だったかもしれない。
「章が最初に殺されたのは……」
 二二は寝直す気にもなれなかったので、そのまま話を続けた。姫守も迷惑そうな素振りも見せず、話の続きを促すように頷いて見せる。
「あの時、あの場所にいた他の誰よりも、老婆のことを知っていたからなのかもしれない」
「誰よりも情報を持っている章が、他のターゲットに情報を漏らすことを警戒して、最初に潰しておいたということ? 確かに情報が広がれば広がるほど、みんな警戒して構えるわけだから、殺しにくくなるよね」
「アレがそこまで考えていたのかは分からないけど……ただ、章は最初から老婆の声も聞こえていたし、肝試しの晩には殺されていた。オレたちと比べると、随分と……なんというか、現象が早い気がして。それが情報量と比例しているんじゃないか」
「つまり、情報を知れば知るほど、怪異が近くなるということ?」
 姫守の言葉は二二の言いたいことそのものだったが、改めて言葉にされることによって、二二は気づく。杏子と鉄男には現在までの調査状況を報告している。全員が老婆の正体を、もっと言うと怪異の正体を知っていることになる。肝試しを企画した章は、事件のことはある程度は知っていたはずだ。つまり六人の家族が死んで、最後に行方不明となった老婆がいるという程度の情報。だがそれ以上の情報は知らなかったはずだ。今の二二達は、当初の章よりも多くの情報を持っていることになる。
 良かれと思って流した情報が、逆に杏子や鉄男の身を危険に晒してしまったのでは¬――思わず二二はサイドテーブルに置かれていたスマートフォンに手を伸ばした。電話するには非常識な時間ではあるが、そんな理由で躊躇っているような状況でもない。通話ボタンを押そうとすると、姫守がそれを妨害するように手を伸ばした。
「ちょっと待った。君が連絡することで、電話の向こうに悪い影響が出ることもあるんじゃない?」
 二二は咄嗟に「何を馬鹿な」と一蹴しかけたが、否定出来る材料もなかった。
 杏子は今のところ二二と違って怪異に遭遇していない。老婆に遭遇したばかりの二二が連絡することで、逆に杏子に悪影響を与えてしまうのではないか……姫守はそう言いたいのだ。
「それに、今連絡したところで側にいない僕たちに出来ることはほとんどない。側にいたって何が出来るか分からないくらいだしね。それなら今晩は大人しく体を休めて、明日になって助かるための調査を進めた方がいいと思うよ」
「確かに、できることはないけど、そんな悠長な……」
「杏子ちゃんが心配?」
「当然だろ。鉄男も心配だ。深く考えず怪異の情報を流してしまったから、向こうも怖い目にあっているかも知れない」
「心配なら、その分明日頑張るしかないね。ほら、今日はもう寝よう」
 手に持っていたスマートフォンを奪い取られ、半ば強引にベッドに横にさせられ、掛け布団をかけられた。二二が抵抗する間を与えない流れるような連続技だった。
 二二が文句を言い出す前に、姫守は容赦無く部屋のライトを消す。真っ暗になり、二二は思わず身構えてしまうが、姫守の気配は側から消えなかったから、あまり怖さは感じなかった。
「二人には、僕から連絡しておくから。おやすみ」
 姫守から連絡してくれるなら、きっと杏子も鉄男も安心できるだろう。ついそう安堵したのがいけなかったのか、それとも知らぬうちに疲れが溜まっていたのか、二二はいつの間にかまた眠りに落ちていた。

 深い眠りから覚醒したのは、スマートフォンの着信音が鳴り響いたためだった。時刻は朝の七時。あまり寝た気がしないが、いつの間にか朝になっていたらしい。
「も、もしもし」
 着信相手は杏子だった。すぐさま電話の向こうで安堵の吐息が聞こえた。
『二二くんっ、良かったぁ』
「ああ……昨日は大丈夫だったか?」
『うん。ちょっと……変な音がして、怖かったけど……なんとかなったみたい』
 杏子の表現が明らかに控えめすぎるということは、彼女の震える声を聞くだけで明らかだった。やはり情報を共有したのが良くなかったのだ、と二二は後悔した。耐えきれず謝罪の言葉を口にすると、杏子は二二の暗い気持ちを吹っ飛ばすようにころころと笑い声をあげた。
『二二くんが謝ることじゃないよ。元はと言えば、軽々しく肝試しに行った自分達が悪いんだから。二二くんはあたし達を助けようと色々頑張ってくれてるんだよ』
「いや、でも……オレ達が教えた情報のせいで、怖い思いをさせたのは確かだし……」
『二二くん一人で背負いこむ必要はないんだよ。あたしだって二二くん達に色々任せっきりになってるけど、本当は自分でなんとかしなきゃいけないことなんだもん』
 話し声を聞きつけてきたのだろう。寝室の扉を開けて姫守が顔を覗かせる。その口は「朝食できたよ」と言っている。当然のようにキッチンを使う姫守に苦笑しつつ、頷いて返しておく。
「ありがとう。その……ちょっと、気が楽になった」
『ううん。それでね、二二くん』
「うん?」
『今日、またあの家に行くんだよね。それなら、あたしも連れて行って欲しいの』
「えっ!?」
 思わず大きな声を出してしまったせいで、怪訝そうな姫守がまた部屋を覗いてくる。どうしたの、と目で問いかけてくる姫守を首を振って追い返す。
『ダメかな?』
「いや、もちろん、だめじゃない。それにその、……正直、居てくれた方が心強い」
 杏子と話していると彼女の優しさにじんわりと心が癒されていくのを感じる。彼女が一緒に行動してくれたら、どれほど助かるだろう。二二の素直な意見に、杏子は嬉しそうに笑みを漏らした。
『えへへ、良かったぁ』
「でも、いいのか。危ないかもしれない」
『それはお互い様だよ』
「そういえばそうか」
 二人は思わず笑いをこぼした。
「じゃあ、行くときにまた連絡する。準備しておいてくれるか」
『うん。じゃあ、また後でねっ』
 通話を終了してリビングダイニングを覗く。テーブルには、昨日残ったトマト缶を利用したトマトスープと、焼いたパン、それからすっかり忘れて冷蔵庫に放置されていたカットフルーツがセッティングされていた。
「随分と盛り上がっていたね」
 キッチンに立つ姫守がなんとも言えない眼差しを向けてくる。様子を伺うような、推し量るような眼差しだ。二二が柄にもなく大きな声を出したので、何かあったのか心配になったのかもしれない。
「杏子ちゃんは大丈夫だった?」
「ああ。鉄男には連絡したか?」
「さっき連絡してみたけど、首はまだ繋がっているみたいだったよ。夜に一悶着あったみたいで、だいぶパニクってはいたけどね」
 やはり何事もなくというわけにはいかなかったらしい。それでも全員がまだ生きていることは喜ばしいことだった。もちろん楽観視はできない。このまま怪奇現象が続けば、杏子や鉄男はもちろん、二二だって精神的に持たないだろう。
「まぁ、考え込んだって解決するわけでもないし、とりあえずご飯でも食べよう」
 こんな状態でも姫守はニコニコ顔で呑気だった。しかし彼の気楽さに救われているのも確かだ。二二は反論せず頷いて、ソファに座った姫守の横に腰を下ろした。
「この後、例の民家に行くんだったよね」
 姫守の問いかけに、二二はスープをすすりながら頷く。
「じゃあ、一旦家に戻って車を取ってこないとなぁ」
「途中で杏子を拾ってもらってもいいか」
「いいけど……杏子ちゃん、くるの?」
 頷いて肯定を示すと、怖がりの杏子が同行することが余程意外だったのか、姫守はちょっと妙な沈黙を挟んだ。それから何か思いついたようにぱっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、鉄男くんも誘ってみるか。痣ができた仲間同士で話せば、少しは気分転換になるかもしれないし」
「そうだな。声をかけてみてくれ。けど、無理強いはするなよ」
「嫌だなぁ、僕がそんな男に見える?」
「笑顔で有無を言わさず強制してくるような男に見える」
 二二が真顔で答えると、姫守は「鋭い!」と笑って、パンを頬張った。

 朝食を終え、姫守が鉄男と連絡を取る。鉄男は同行を申し出たようだ。拒否される可能性も十分にあったが、一人で怯えるよりマシと思ったのかもしれない。
 とりあえず学校の最寄り駅で集合となった。家まで車を取りに戻った姫守が、二二達を回収してくれる手筈となっている。
 二二が駅の正面口で待っていると、小走りに駆け寄ってくる軽やかな足音が聞こえた。杏子かと思い顔を上げると、ちょうど目の前で足を止めたのは鉄男だった。全力疾走してきたのか、鉄男は肩で荒い息をしていて、顔も真っ赤だった。
「む、六人部さん」
 鉄男とはあまり親しくないこともあり、彼は遠慮して二二を苗字で呼ぶ。二二は鉄男の名前しか知らないので、遠慮なく名前で呼んでいた。これは名前だけで紹介した章が悪かったのだが、今では文句を言う相手もいない。二二は挨拶の代わりに軽く頷いて見せると、鉄男もつられて頷いた。
「昨日は大丈夫だったか」
「ああ、まぁ……」
 鉄男の首筋にも切り取り線のような赤い痣が見えた。それを気にしているのか、鉄男はいつもより酷い猫背で、正面から見るとほとんど首筋が見えない程だった。
 鉄男は周囲を気にするように、頻繁に辺りを見渡していた。老婆がいないか心配になっているのだろう。たまに居心地の悪そうに二二にも視線を飛ばしてくる。二二は動揺を顔に出さないので、こんな状況にも関わらず冷静に見えて、不気味に映ったのかもしれない。
 黙り込む鉄男に、二二も無理に声をかける気にもなれず、長らく無言が落ちた。
「お待たせっ」
 やがて杏子が姿を見せる。今までワンピースとかミニスカートとか、女子らしい服装が多い杏子だったが、今日はチュニックシャツに短パンを合わせた、動きやすそうな服装だった。
「おはよう、二二くん」
「おはよう」
 杏子が来てくれて少々緊張が解けたのか、二二は無意識のうちにホッとしたような微笑みを浮かべる。杏子は怯えを上手に隠して、強い意志を持った眼差しで二二を見上げた。
「今日はがんばろうね。あたし、絶対にみんなが助かる方法を見つけるから」
「ああ、そうだな」
 二二がこくんと頷くと、杏子は張り切ったように小さな拳を握った。杏子は鉄男の存在に気づいていないのか、そもそも認識していないのか、視線すら向けようとしない。鉄男は寂しそうな顔をして二二に視線を寄越した。改めて紹介するのも逆に変な気がしたので、二二は「鉄男もがんばろう」とさり気なく鉄男の存在をアピールした。杏子は鉄男の方を見たものの、特に何も言わなかった。
 そこで姫守が運転する車が到着し、二二達は車に乗り込んだ。
 前回は遠足のノリで下道を通って行ったが、今回は少しの時間も惜しいので、有料道路を利用する。おかげで民家へ到着したのは午前中の早い時間だった。
 前回同様、姫守は堂々と隣の空き地に車を停めた。今回は駐車場を探しているような余裕もなかったので、二二も文句は言わなかった。
 日曜日の住宅街にも関わらず、周辺には人っ子ひとり姿が見えない。妙だと思う反面、好都合であるのは確かだ。周辺の住民が現れる前に、二二達は不気味さに足を竦める暇も無く、そそくさと民家に侵入した。
 玄関扉は木を組み重ねた格子戸だ。鍵は前回訪れた時から既にかかっていなかったらしい。土間には靴脱ぎ石があり、土間を上がれば木造りの廊下が奥まで続いている。あのような事件さえ起きなければ、古民家として人気が出そうな風情のある造りだった。
 日中とはいえ、電気も通っていないし、完全に締め切っているため、室内は暗かった。二二達は各自スマートフォンのライト機能を用意する。
「さて、どこを調べようか」
 自然と年長者である姫守が主体となって話を進める。
「二手に分かれるようか? 車を長時間停めておくと、周りの住民に不審に思われるからね」
「あまり少人数にはなりたくないけど……時間をかけたくないのは、確かにその通りだな。二手に分かれて、手早く調べよう」
 二二も同意すると、姫守はにっこりと微笑んだ。相変わらず彼は怖がる様子を何一つ見せない。杏子は気丈に振る舞ってはいるが、流石に恐怖を隠しきれないらしく、二二の後ろで小さく震えていた。鉄男に至っては気の毒なくらい顔色を真っ青にして、恐怖のあまり歯をガチガチと鳴らしていた。
「姫守と鉄男、オレと杏子で分かれよう」
 二二が提案する。怯えきる鉄男と落ち着いた姫守を組ませた方がいいと判断したのだが、意外にも意見を申したのは鉄男だった。彼は口をぱくぱくとさせながら、遠慮がちに片手を上げて、
「お、俺は、六人部さんと組みたい……っす」
 声をひっくり返しながらも主張する鉄男に、二二は目を丸くした。先ほどの気まずい無言もあったので、てっきり鉄男は組むなら先輩の姫守か女子の杏子がいいのかと思ったのだが、どうやらそんなこともないらしい。
 姫守なら杏子を任せても安心なので、二二としては反対する理由もない。姫守の意見を伺うようにチラリと視線を飛ばすと、彼は真面目な顔をして二二の視線を受け止めた後、そっと耳打ちしてきた。
「君は大丈夫?」
「……何が?」
「明らかに君が一番狙われているよね。鉄男くんじゃ相棒として頼りないんじゃないかな」
 姫守ははっきりとは口にしなかったが、二二は察した。自分と行動した方が安全ではないかと、姫守は言いたいのだ。姫守と行動している時はほとんど怪異に遭遇しないことは、二二も薄々気づいていた。
 二二だって出来るならそうしたかった。だからと言ってここで頷くわけにはいかない。二手に分かれた方が明らかに効率が良いし、怯えている杏子と鉄男を組ませるわけにもいかないからだ。
 二二が拒否するように首を振ると、姫守は「仕方ないなぁ」と苦笑した。
「分かった。じゃあそのペアで行こう。杏子ちゃんもいいかな?」
「あ、ハイ。大丈夫です」
「じゃあ僕と杏子ちゃんは一階を調べるから、二階はよろしくね」
 姫守の割り振りによって担当箇所が決まる。
 二二は先導を切って二階へと続く階段を登りながら、姫守の気遣いに心底感謝した。長男が殺された浴室も、母親が殺されたリビングも、祖父が殺された和室も、十中八九、一階にあると思われるからだ。
 階段を登るたび、みしりみしりと、不気味な音をあげる。慎重に歩を進めながら、二二は考える。二階にあるとしたら、子供部屋、あとは両親の寝室くらいだろうか。広めの和風住宅だから、各階ごとにトイレもあるかもしれない。
「わっ」
 視界が悪い状態で考え事をしていたのがいけなかったらしい。足を踏み外し、身体がぐらりと傾く。
 背中から階段を滑り落ちる前に、咄嗟に片手を伸ばして手すりを掴んだ。幸いにも怪我はなく、一段落下しただけで済んだ。
「だっ、大丈夫っすか」
 後ろから鉄男がオロオロとしつつも体を支えてくれる。二二は恥ずかしくなって何度も頷いた。もちろん表情は変えず、あくまで無表情を貫いている。
「大丈夫だ」
「あのー……俺が前を歩くっす」
 あんなに怖がっていた鉄男にすら気を使わせてしまっている事実に気付いて、二二は物凄く恥ずかしくなってしまった。とはいえ例の如く表情は変えない。
「いや、大丈夫」
「じゃあ、その……落ちてきたら受け止めるんで。遠慮なく、そのー……落ちてきていいって言うか」
 二二は思わず口元に笑みを浮かべた。久々に鉄男の陽気な性格を垣間見た気がしたからだ。鉄男自身は面白いことを言った自覚はないのか、真面目な顔をして階段の上部を歩く二二を見上げている。実際のところ、二二が落ちたら鉄男も巻き込まれて落ちると思うが、二二は有り難く頷いておいた。
 慎重に階段を登る。今度は無事に二階へ辿り着くことが出来た。
 一階も薄暗かったが、それでも玄関の格子戸から光が入っていたから、まだ明るく感じられた。それに比べて二階は、どこもカーテンがきっちりと閉められており、ほとんど真っ暗に近い。スマートフォンのライトを使って慎重に進む。
 二二は最初に目に入った部屋に入ることにした。扉は木作りの引き戸だ。室内は和室かと思いきや、フローリングの洋室だった。古民家風の外観に反して随分と近代的な感じがするから、もしかしたら夫婦が両親と同居する際に、和室を洋室にリフォームしたのかもしれない。
 締め切られたカーテンを開けようかと悩んだが、やめておいた。周辺の住民が不審に思うかもしれないからだ。
 洋室の中央には色あせたダブルベッドが置かれていた。どうやらここは両親の寝室のようだ。調べられる場所は、ベッド脇のサイドテーブルと、クローゼットくらいだろうか。二二がクローゼットを開いたので、自然と鉄男はサイドテーブルの引き出しを調べ始める。
 クローゼットの中には多くの衣服が残っていた。
「ところで……」
 無言で室内を漁るのも怖いだけなので、二二は鉄男に声をかけることにした。
「どうしてオレと組みたいって言ったんだ? その……オレは頼りないだろう。それに、鉄男だったらてっきり女子と組みたいのかと……」
 自分で自分を頼りないと言うのも情けない話だが、事実だから仕方がないと二二は割り切った。鉄男はサイドテーブルを漁りながら、ちょっと困ったように猫背を酷くして、ゴニョゴニョと口の中で言葉を返した。
「女子は……確かに好きだけど、流石にこう言う場所では、みっともない姿を見せちゃうだけだし……」
「ああ……確かにそうかも。姫守はああ見えて先輩だから、気まずいだろうしな」
 つまり消去法で二二を選択したわけだ。二二はそれで納得したが、鉄男は否定するように首を振った。サイドテーブルにめぼしいものがなかったのか、引き出しをしまい、のそりと移動して二二を手伝うようにクローゼット内を覗き込む。
「俺……あの先輩、ちょっと苦手っす」
「それは奇遇だな。オレも苦手だ」
 二二は思わず笑った。しかし鉄男は笑わず、機嫌を伺うようなオドオドとした瞳で二二を見つめ、すぐに恥ずかしそうに顔を逸らした。
「な、なんであの人、あんなに楽しそうなんすか」
 鉄男の照れ臭そうな顔は、すぐに嫌悪感に埋め尽くされた。
「章と茜ちゃんが死んだって言うのに……楽しそうに、不気味な話をベラベラ喋って。昨日なんか、俺もすげぇ怖い思いしてるんすよ。それなのにあの人、今朝電話してきたと思ったら、羨ましいなぁって笑って、怖い話まで聞かせてきて。正直、気持ち悪ぃっすよ」
 二二は黙り込んだ。姫守には申し訳ないが、全くフォロー出来なかった。
 しかし姫守にだって良いところはある。それを知らぬまま鉄男に気持ち悪い認定をされてしまったら、流石にかわいそうだろう。
「確かにあいつは……ええと、妙な趣味というか、変な感性というか。そう言うところはあるけど」
 クローゼットにはめぼしいものはなかった。扉を閉めて、鉄男をチラリと見上げる。
「いざと言う時は、躊躇わず助けてくれるぞ。そう言う意味では、すごく……いい奴というか、オレよりよっぽど友人思いの奴だと思う」
「……俺は、六人部さんの方が信用できるっす」
「え? あ、ありがとう……」
 二二は思わず恥ずかしそうに礼を口にした。直後に空気が読めない発言だったかと後悔するが、今更訂正するのも変だったので、二二はそのまま黙り込んだ。鉄男も何も言わなかった。
 無言のまま寝室を出て、隣の部屋を覗く。こちらも和室をリフォームしたらしい洋室だった。シングルベッドと学習机がある。教科書からして高校生の部屋らしいと言うことは分かった。
「なあ、一つ気になってることがあるんだ」
 学習机の引き出しを開けつつ、二二はまた鉄男に声をかける。鉄男が少なからず信用してくれているらしいと分かったので、二二が気になっていることを相談してみようという気になっていた。
「一連の事件のことは、姫守から聞いてるよな」
「一応、ざっとなら……」
「被害者は、どう言う基準で選ばれているんだと思う?」
「え?」
 鉄男は捜索の手を止めて、メガネの向こうで眠そうな目をパチクリとさせた。
「えーっと……首に痣が出来た人?」
「痣ができる条件は?」
「……お化けの存在を知った人?」
「そう。それしか考えられない。けど……」
 二二は捜索の手を止めて思考を巡らせる。
「大学生や児童養護施設の被害者達は分かる。オレ達のように肝試しに行って知ったんだろう。けどこの家の被害者はどうだろう。家族全員で肝試しに行くとは考えにくいし、切っ掛けはなんだったのか……」
「た、確かに……」
「現場に行っていない家族にも、例えば体験談とかを通じて怪異が感染した可能性もある。でもそんな簡単な条件じゃ、他の事件で近しい人物しか死んでいないのが不自然だ。もっと限定的な条件があると思った方がいいんじゃないか……と思ったんだけど」
「……その条件を、ここで探そうってことっすね」
 鉄男が言いたいことを理解してくれたので、二二はコクリと頷いた。鉄男は心当たりを探すように、視線をキョロキョロと彷徨わせた。
「それって、俺達……六人部さんにも当てはまることなんですもんね?」
「ああ。オレ達に共通することのはずだ。つまり、現場を訪れることは条件に含まれないと証明されている。オレは入る前に帰ったから」
「うーん。それじゃ、やっぱり心当たりはないっすね……」
 児童養護施設の子どもたちが施設の大人には明かさないもの。大学生たちが仲間内だけに明かすもの。一家全員が知り得るもの。全く想像もつかない。二二は止まっていた捜索の手を再開させ、学習デスクの引き出しを開ける。鉄男もつられて捜索を再開させた。
 学習デスクの引き出しには、すぐ目に入る位置に白い封筒が入っていた。高校生が使うようなノートや文房具の上にそれがあり、まるで慌ててそこにしまったような様子だったので、思わず手に取った。
 中身をライトで照らす。どうやら中に入っているのは家族旅行の写真のようだ。封筒から取り出して、学習机の上に広げて見る。見たこともないくらい綺麗な海で遊ぶ子ども達の姿。海鮮丼を大袈裟なくらい感激して食べる母親の写真や、温泉に入浴して一服中らしい父親の写真があった。旅館の夕食だろう、豪華な和食を前にして楽しそうに笑いあう子どもたちの写真もある。祖父母の姿はないようだ。きっと祖父母に留守を任せ、家族五人で出かけた旅行なのだろう。高校生にもなる大きな子どもがいる家庭にしては珍しいくらい、仲の良い家族だ。
(これだけ仲が良ければ、家族で肝試しに行くことも有り得るか? いや、両親だけならともかく、祖父母も同行することはないか……)
 悶々と考えつつ、見ているだけで楽しげな様子が伝わってくる写真を、一枚ずつライトで照らしていった。
 とある一枚の写真を目にした時だ。妙な違和感を覚えた。
(なんだ?)
 パッと見たときの印象は、変哲もない風景写真、と言うものだった。
 レトロでこぢんまりとした喫茶店が写っている。恐らく車を走らせている途中、休憩がてらに入った、旅行先の喫茶店だろう。当事者たちにとっては思い出のある一枚なのだろうが、他人の二二にとっては、とるに足らない風景写真にしか見えない。
 しかし何かが気になる。二二は写真をじっと見つめる。
 喫茶店の横には薄暗い路地が続いていた。写真の被写体は喫茶店だから、裏路地はほとんど見切れている。その裏路地に誰かが立っている。白のビッグTシャツにブラックデニムといったラフな服装を着ている。髪は焦げ茶色。年齢は二十歳くらいの、細身の男性だ。キャンプやバーベキューを楽しむような、元気あふれる大学生、と言ったような外見である。反して顔は無表情だ。生気のない瞳で、カメラの方をじっと見据えている。彼の首元には横一文字に赤い線が引かれていた。
「これ……」
 カラカラになった喉から無理矢理声を絞り出し、写真から顔をあげる。鉄男の意見を聞きたかった。鉄男はクローゼットを漁っていたが、二二の呼びかけに気づいて、顔をあげる。
「この写真――」
「ひぃ!!」
 鉄男が急に悲鳴を上げて飛び上がったので、二二も驚いて言葉を止めた。鉄男は顔を真っ青にして、クローゼットに張り付いていた。彼の視線は二二の方に向いていない。二二は反射的に彼の視線を追い、
「っ……!!」
 出入り口の引き戸が、少しずつ、開いていた。
 隙間の向こうには真っ暗な闇が広がっている。ライトを向けて引き戸の向こうを確認する勇気なんて、勿論あるわけがなかった。二二も鉄男も身動ぎすることすら出来ず、少しずつ開いていく引き戸を見つめていた。
(開けるな、開けるんじゃない――)
 二二は無意識のうちに脳内で呪文のように繰り返していた。もちろん引き戸を自らの手で閉めると言う選択肢は皆無だった。姫守がこの場にいたら、躊躇いもなくその選択肢を選んで――いや、躊躇いもなく引き戸を開けて外を確認していただろう。
 十センチほど開いた時だ。唐突に、ピタリと、引き戸は動きを止めた。
(止まった……?)
 すぐさまホッと安堵してしまったのも仕方がないだろう。二二と鉄男は無意識のうちに視線を交わした。お互い言葉にはしなかったが、恐らく言いたいことは一致していた。つまり「早く部屋を出よう」だ。
 二二が足音を殺して一歩踏み出した。引き戸を掴もうとして、手を伸ばし、

「く、びぃ――」

 消え入りそうな声が聞こえて、ピタリと動きを止めた。
 老婆の声だった。まるで泣いているような、甲高く、か細い声。
 首、と言ったことは深く考えなくても分かった。
 思わず息を止めて、じっと引き戸の隙間を睨む。相変わらずそこには闇が広がり、何も見えない。
 いや、闇に慣れた目は、嫌でもそれに気づいていた。床に近い位置――少し開いた引き戸から、二つの目が覗いていた。
 まるで、床に横に転がって顔の上半分だけをこちらに覗かせているような、不気味な体勢で。
 老婆は目尻を下げ、瞳しか見えない状態でも、笑っているとわかった。
 しかしその、瞬きもせずにジッと室内を見つめる二つの黒目は、まるで悪意の塊のようなドス黒い――

「頂戴ね――てつお……」

「えっ……」
「うわあああああっ!!」
 思わず二二が声をあげたのと同時に、鉄男の凄まじい絶叫が響いた。
 バタン、と言う物凄い音がしたので振り返ると、鉄男の姿が消えていた。息を飲んだが、すぐさまクローゼットの中に逃げ込んだのだと理解する。二二はクローゼットに駆け寄った。
「お、おい、鉄男……」
 開けようとするが、クローゼットの開き戸をいくら引いてもびくともしなかった。鉄男が内側から押さえているのだ。扉越しに鉄男のガタガタと震える振動が伝わってくる。仕方がなく開けることは諦めて、クローゼットを背にした二二は、再度引き戸の方を向き直る。
「あ……」
 いつの間にか、引き戸はきちんと閉まっていた。
(いなくなった……?)
 恐る恐る見つめていたら、急に引き戸が勢いよく開いたので、二二は飛び上がった。
 開けたのは姫守だ。珍しく取り乱したような表情をしていたが、クローゼットの前で固まっている二二を見つけて、安堵するような笑みを浮かべた。
「大丈夫? 凄い悲鳴が聞こえたけど……」
「悲鳴はオレじゃない。鉄男が……」
 ちらりとクローゼットへ視線を向けると、姫守は拍子抜けしたような表情を浮かべた。鉄男が意味もなくクローゼットに篭り始めたと思われたのかもしれない。二二が状況を説明しようとすると、その時になってようやく、杏子が駆けつけた。
「二二くんっ、大丈夫!?」
 顔を真っ青にして心配してくれる杏子に「大丈夫」と頷き返して、それから姫守を睨む。心配して駆けつけてくれたのは嬉しかったが、杏子を置いてくるなんてあまりにも非情すぎる。二二の非難めいた視線に気付かなかったのか、或いは気付いていて気付かないフリをしたのか、姫守はにこりと微笑み返しただけだった。二二は諦めるように溜息を吐く。
「鉄男、もう大丈夫だ」
 二二はクローゼットに向き直り、怖がらせないように、なるべく優しい声で語りかける。
「あいつはもう消えた。今の内にここから出よう」
「…………」
「鉄男?」
 何度か声をかけているうちに、ギッチリ閉められていた扉が、ゆっくりと開いて行った。鉄男が内側から抑えていた手をようやく離したようだ。
 鉄男はクローゼットの中で、コートや学生服の衣類に挟まれて、縮こまっていた。顔色は恐怖のあまり真っ青で、唇は真っ白だった。ガタガタと全身を震わせて、じっと耐えるように床を見つめている。
「もう引き上げようか」
 鉄男の様子を見て、探索の続行は難しいと判断したのか、姫守がそう提案する。誰も反対はしなかった。
 二二と姫守で鉄男を支えてやり、民家を出る。姫守の運転で十分ほど車を走らせてから、コンビニの駐車場に停車した。
「飲み物でも買ってくるよ」
 姫守はそう言って車から出ていく。助手席に座っていた二二も、外の空気を吸いたくなって車を出た。杏子も後に続いて出てきたが、鉄男は車の中で俯いたまま動かなかった。
「……なあ」
 二二がこっそりと杏子に話しかけると、彼女はポッと頰を赤くして、照れ臭そうに二二を見上げた。
「なぁに?」
「この写真、あの民家で見つけたんだけど……どう思う?」
 二二が差し出したのは、民家で見つけた例の写真だった。あんな騒ぎが起こって誰かに見せるタイミングもなかったので、落ち着いたら相談しようとこっそりと持ち出していたのだった。甘い打ち明け話ではなかったが、杏子はガッカリすることなく、積極的な様子で写真を覗き込んだ。彼女は直ぐに不気味な人影に気づいて、表情を曇らせる。
「これ……行方不明だったって言う大学生の人じゃないかな?」
「やっぱりそう思うか」
「うん。あの家に住む家族を襲ったのは、その人なんでしょ?」
「老婆が行方不明になった日に死体が見つかっているから、恐らくそうなんだと思う……うわっ」
 急に伸びてきた手が強引に写真を奪い去っていったので、二二は思わず飛び退いてしまった。
 二二と杏子の会話を盗み聞きしていたのだろう。いつの間にか車から降りていた鉄男が、奪い取った写真を、食い入るように見つめていた。目をギラギラとさせて、ガチガチと鳴る歯を無理に噛み締めて写真を見るその様子は、尋常じゃない。
「て、鉄男……大丈夫か?」
「……」
 鉄男は血走った目で二二を見つめた。目つきは鋭かったが、二二を責めていると言うより、恐怖のあまり表情が強張っているような顔つきだった。
「六人部さん、さっきの……」
「ど、どうした?」
「さっき言ってた条件って、これ(・・)じゃないっすか」
 直ぐに鉄男の言いたいことを理解して、二二も写真に目を落とした。家族旅行の写真なら、例え祖父母が旅行にいかなかったとしても、家族全員が目にした可能性がある。逆に言えば、家庭用のフォトプリンターで印刷したのなら、家族以外の目に触れなかった可能性が高い。写真なら、児童養護施設の子どもや、同じ大学に通う大学生が、仲間内だけで見せあったのも納得がいく。例えば肝試しで撮れた心霊写真なら、尚更大人には見せないだろう。
「写真が……怪奇現象を捉えた写真を見るのが、条件……?」
 二二は無意識に首元に触れる。二二は民家の敷地に入っていない。あの民家で何が起こったのかも知らなかった。けれども、老婆が映り込んだ写真は見た。そう言えば、写真を見たその日の夜から、怪奇現象が始まっていた……。
「ちょ、ちょっと待って。そんなことが、お化けに狙われちゃう条件って言いたいの?」
 杏子が混乱を隠せない様子で口を挟む。
「そんな簡単な条件じゃ、たまたま写真を見ちゃった人が巻き込まれちゃうこともあると思うんだけど」
「それを言ったら、六人部さんもあの家に入ってないっす」
「そうだけど……ちょっと待って。この前亡くなった先輩も、もしかしてそうなの?」
 亡くなった先輩、と言うのが、写真部に所属していた裕子を指していることは、二二にも直ぐに理解できた。しかし裕子と今回の怪奇現象を結びつける理由が分からない。二二の戸惑いに杏子が気付く。
「二二くん、ニュース見てないの? あの先輩も、首を切られて亡くなったんだよ」
「えっ……」
「肝試しとは全く関係ない人だったし、ちゃんと容疑者もいたから、怖い偶然だなって片付けちゃったんだけど……」
 二二は唖然として言葉を失った。章と茜のニュースに気を取られていたし、裕子に関しては、きっと人間関係のもつれが原因による殺人なんだろうと決め付けていたせいか、彼女の死因まで調べようとも思わなかった。彼女まで首を切られて殺されていたと知っていたら、可能性を排除することなんてしなかっただろう。二二はきちんとニュースを見ていなかったことを悔やんだ。
 鉄男の言う「条件」が正しく、裕子は巻き込まれて死んだと仮定しよう。章に茜、写真部の裕子、そして二二、姫守、杏子、鉄男。六人死んで、一人が行方不明になるためには、人数はぴったりと当てはまる。
「怖い顔してどうしたの?」
 コンビニから戻ってきた姫守が、場違いな陽気な声で言った。二二が顔を上げるより早く、写真を掴んだままの鉄男が、猫背のまま姫守に詰め寄る。
「い、伊邪和先輩、れ、例の写真」
「え? 写真って?」
「あ、あの、ば、婆さんが写ってる写真」
 鉄男はやたら震える声で言って、ゴクリと大きな音を立てて唾を飲み込み、喉を潤した。それでも震えは治まらなかったが、鉄男は構わず続けた。
「写真部の、あの、こ、殺された女の先輩に……み、見せたんすか?」
 鉄男の詰め寄るような問いかけに、姫守は場違いなほどいつも通りで、きょとんとしていた。それから「ああなんだ、そんなこと」と言うように、ゆるりと口元を緩めて、
「もちろん。見せたよ」
 姫守は驚くほど悪気なく微笑む。彼はまだそれが示す意味を知らないのだから、それも仕方がない反応かもしれない。
「あの写真を撮ったのは、そもそも彼女のリクエストだからね」
「や、やっぱり……!」
 鉄男は持っていた写真を姫守に投げつけた。それはとても攻撃的な動作だったから、二二は思わず二人の間に入った。
「お、おい、鉄男。やめろ」
「なんでっすか! 無関係の先輩が死んだのも、俺が狙われてるのも、こいつが写真を見せてきたせいなんすよ!」
「ま、まだそうと決まったわけじゃないだろ。仮にそうだとしても、こいつに悪意があったわけじゃない」
「悪意!? 悪意がなかったら人を殺してもいいのか!!」
 苦しみや恐怖が全て詰め込まれたような声だった。
 鉄男の言っていることはめちゃくちゃだ。霊の存在は姫守のせいじゃない。それでも彼の心情を思うと、同情できてしまうから、言い返すことができない。鉄男をこれ以上傷つけるべきではないと思ってしまう。
 二二が何も言えずに黙り込んでいると、後ろから肩を引かれた。不自然なほど落ち着いた様子の姫守が、まるで礼を言うように優しい微笑みを二二に向けた。そしてスッと優しさを消した冷たい微笑みにすり替えて、鉄男を見下ろす。
「どうして僕のせいなのかな?」
 鉄男は少したじろいだが、直ぐに怒りの感情を取り戻して、姫守を睨みつけた。
「お前が俺に写真を見せたからだ! 茜ちゃんにも見せたんだろ! だから彼女は死んだ! お前が殺したようなものじゃないか!!」
「なるほど、写真を見ることが、怪異のターゲットになる条件って言いたいんだね」
 鉄男の怒りを真正面から受けても、姫守はピクリとも表情を変えなかった。
「例えそうだとしても、どうして僕のせいになるのかな。僕が君の首を狙っているわけじゃないよ?」
 まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調だった。それはとても優しげであったが、見下すような響きもあったのは、きっと気のせいではない。
「確かに僕が見せた写真が切欠だったかもしれない。ただそれは単なる切欠だ。例えば茜ちゃんが交通事故で死んだとする。その道路を歩くように提案したのは僕だ。僕はその道路が、交通事故の多発している危険な道路だと知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。だけどそれは重要じゃないよね。車さえなければ彼女は死ななかったんだから。けれど鉄男くんは、茜ちゃんを轢いた車の運転手ではなく、道を選択した僕を責めた。君がやっていることはそう言うことだよ?」
 姫守はゆっくりとした口調であったが、鉄男の反論を許さない妙な気迫があった。
「僕が君に心霊写真を見せたのは至極当然の成り行きだ。君も肝試しのメンバーだったんだからね。僕の言いたいことが分かるかな。切欠を理由に責めるつもりなら、肝試しに参加した自分自身を責めるべきだろう?」
 怒りに染まった鉄男は、当然ながら姫守の言い分を理解できなかった。感情を制御できず、ブルブルと震えて姫守を睨むことをやめない鉄男に、姫守は呆れたように視線を外した。まるで「こんなことも分からないのなら、もうお前に価値はない」とでも言うような冷たい態度だった。
 そして半ば独り言のように溢す。
「そもそも、こんなことすらも覚悟できていないのなら、軽々しく肝試しなんて来るべきじゃなかったんだよ」
「……っ……」
 誰かが漏らした、息を飲んだような呼吸音が聞こえた。姫守は何事もなかったかのように、にこりと微笑んで、一同を見渡す。
「さぁ、帰ろうか」
 姫守は返事を待つこともなく、運転席に乗り込んだ。
 二二は思わず鉄男の表情を盗み見する。鉄男は顔を真っ赤にして、全身をブルブルと震わせていた。彼はしばらくジッと地面を睨んでいたが、二二の視線に気付いたのか、顔を上げる。二二を見る眼差しに少なからず敵愾心のようなものも感じた。だからと言って突き放すことも出来ず、二二は敵ではないことを訴えるような眼差しで鉄男を見上げた。
「鉄男、とりあえず、一旦は帰ろう。ここにいても仕方がない」
「…………」
 鉄男は探るような眼差しで二二を見ていたが、やがて首を左右にふった。もう怒り狂うような感情は、彼の表情からは伺えなかった。
「俺は……いいっす。一人で帰るんで」
「え、で、でも……一人じゃ危ないかもしれない。あいつと居るのは嫌かもしれないけど、せめて家までは……」
「六人部さん、ありがとう」
 鉄男は下手くそな微笑みを浮かべてそう言うと、二二達に背を向けて、とぼとぼと歩き出した。
 呼び止めて無理やりにでも車に乗せるべきだろうか。どんどんと遠ざかっていく鉄男の背中を見つめながら、二二は迷った。鉄男の背中は酷く弱々しく見える。呼び止めて欲しいようにも見えるし、二二を拒絶しているようにも見える。二二には正解がわからなかった。だから結局、より簡単な選択肢を選んでしまう。つまり、無言で鉄男を見送った。もちろん一人で去っていく鉄男に、運転席で待っている姫守も気付いていただろうが、彼は何も言わなかったし、視線も向けなかった。
「二二くん」
 二二と同様に鉄男の背中を見守っていた杏子が、ギュッと二二の手を握った。
「あたし達も、帰ろう?」
「ああ……じゃあ、車に」
「ううん。一緒に、電車で帰ろう」
「え?」
 目を瞬かせて杏子を見下ろす。杏子は二二にやっと聞こえるような声で、囁くように言った。
「あの先輩、なんだかおかしいよ」
「……姫守が?」
「先輩の言っていること、多分間違ってはいないんだと思う。でもあたしは、すごく怖がってる鉄男くんにあんなことを言うなんて、普通は出来ないと思うの……そう、普通じゃないよ。それに、まるで死んじゃった茜と章が、自業自得みたいな言い方……」
「それは……確かにあいつの言い方はキツかったかもしれない。でも、あいつだって鉄男に言い返しただけで、そんなことを言うつもりはなかったんだと思う。分かるだろ?」
 確かに姫守は切欠を作ったかもしれない。しかし彼自身が言うとおり、それは単なる切欠に過ぎないし、そもそも姫守に悪意があったわけではないから、彼一人を責めるのはお門違いだろう。この言い争いに限って言えば、一方的に怒りの感情をぶちまけた鉄男に非がある。姫守はそれに対し、冷静に――無駄に言い過ぎのように思えたが――対処したに過ぎないのだから。
「わかってるの。わかってるけど……」
 杏子は納得できなそうに言葉を濁した。何か二二に伝えたいことがあるが、上手く言葉にできない、そんな様子だった。
 やがて杏子はすがるように二二を見上げた。繋ぐ手に更に力が込められる。
「お願い、二二くん。あたしと一緒に帰ろう」
「…………」
 二二の脳内は目まぐるしく回転した。
 選択を迫られている。非常に唐突に、そしてとてつもなく重要な選択を。
 二二にとって杏子は大事な友人だ。一緒にいると安心する。吊り橋効果かもしれないが、女子と居てこんなに安心できるのは初めてかもしれない。杏子のことを思えば、彼女の願いに受け入れたかった。それでも即座にそうしなかったのは、内心で姫守のことを友人だと認めていたからだろう。
 今までの出来事が思い出される。姫守がいなければ二二はもう死んでいたかもしれない。当然のように二二を助けてくれる姫守を、どうしても切り捨てることができない。
「……ごめん」
 二二は杏子の手を離した。
「オレは、理由もなくあいつの信頼を裏切りたくない」
「……ううん、いいの」
 杏子は寂しそうに笑っただけで、それ以上何も言わなかった。彼女が鉄男のように去ってしまう前に、二二は逃げ道を塞ぐように言葉を続けた。
「一緒に帰ろう。姫守が家まで送ってくれる筈だから」
「……ありがとう。二二くんは、優しいね」
 杏子は拒否せず、車に乗ってくれた。とりあえず一人で帰すことにならなくて安心はしたが、帰りの車中、杏子は思い詰めたように何も喋らなかった。姫守は相変わらず空気を読まず鼻歌を歌っていた。
 杏子を家まで送り、車内は二二と姫守の二人きりになる。杏子が寂しげに手を振る姿を思い出しながら、二二は憂鬱な気持ちで溜め息を吐いた。
「少し意外だったなぁ」
 前方から目線を外さず、姫守は穏やかな口調で言った。彼は全くもっていつも通りだった。鉄男との言い争い程度では、彼の毛の生えた心臓にはピクリともダメージを与えられないらしい。二二はまた溜め息を吐く。先ほどとは心情の異なる溜め息だった。
「何が?」
「君が僕を庇ってくれたことだよ」
「別に庇ったつもりはない。ただ鉄男が言い過ぎだと思ったから……」
「それが庇ったって言うんじゃないの?」
「うるさい。お前だって、鉄男にあそこまで言う必要はなかっただろ」
「そうかもね」
 姫守は曖昧に濁して、自分の非を認めなかった。ここで姫守を責めても意味がないと思ったので、二二もそれ以上何も言わなかった。
 やがて二二の住むアパートに到着する。帰りも有料道路を使用したから、まだ昼過ぎの時刻だった。姫守は車を付近の有料駐車場に停めて、すぐに二二と合流した。
 自室のリビングダイニングでソファに座り、昨日買ったまま食べるのを忘れていた菓子パンを頬張る。少し遅い昼飯となったわけだが、不思議と空腹は感じていなかった。今も菓子パンの甘味よりもクドさが口につき、うっかり気を抜けば食べる手が止まってしまいそうだった。
「少し休んだら?」
 見かねた姫守がそう提案する。姫守はコンビニで購入したサンドイッチを頬張っていた。
「いや、大丈夫」
 マグカップに注いだ牛乳を一口飲んで、口の中の菓子パンを無理やり飲み込む。
「それより鉄男のことが心配だ」
「彼は一人で帰ったからね。あの辺りは交通の便も悪いし、電車で帰るとしたら、結構かかるんじゃないかな」
「それもあるけど。老婆が鉄男の名前を呼んだんだ。多分、次に狙われているのは鉄男なんだと思う」
「そうなんだ?」
 姫守はさほど驚かなかった。鉄男の狼狽ぶりを見ていたから、なんとなく察していたのかもしれない。
「じゃあ、とりあえず彼が無事に家に辿り着いたか確認しないとね」
「鉄男の連絡先を教えてくれ。オレから連絡する」
「いいよ、僕から連絡するから。君は休んでなよ」
「あんなやりとりがあった後で、よくもそんな事が言えるな」
 二二は心底呆れ返ったが、姫守からしてみれば大した出来事ではなかった証拠なのかもしれない。それとも疲れている二二を気遣って言ってくれているのだろうか。多分両方なんだろうと思う。
「鉄男がお前の連絡に反応するかな」
「知らない番号からの連絡も警戒するかもしれないよ?」
「確かにそうかもしれないけど」
「よし、じゃあこうしよう。まず僕から連絡してみる。メールがいいね。君が心配して連絡を取りたがっていることを強調しておけば、何らかの返事が来るんじゃないかな。そこに君の連絡先を載せてもいいし」
「なるほど。それはいいかもしれない」
 それでも連絡が来なかったら、もう向こうに連絡する意思はないと言うことだ。そうなった場合、残念ながら二二達にできることはほとんどなくなってしまう。
「鉄男くんの心配もいいけど、自分達の心配もしないとね」
 姫守は片手でメールを打ち始めつつ、全く滞ることなく会話を続けた。もちろん合間にサンドイッチを頬張ることも忘れない。
「あの写真を見せたのは、オレ達六人と、写真部の先輩だけか?」
「そうなるね」
「章にも見せたんだよな?」
「見たと確認したわけじゃないから、断言はできないけどね。あそこで撮った写真は彼に送る約束をしていたから、僕は中身をきちんと確認する前に、とりあえず全部送りつけたんだよ」
「それなら章が見た可能性は高いな」
「あの時の章の心情を考えると、そうだろうね。怖い怖いと思いながら、もしかしてこの写真のなかに声の主が写り込んでいるのかもしれないなんて考えて、怖いもの見たさに、写真をうっかり眺めて……なんて事がありそうだ。よし、送信完了」
 鉄男にメッセージを送り終えた姫守は、スマートフォンをテーブルに置く。
「君は、本当に写真を見ただけで、ターゲットにされると思う?」
 姫守が首の痣を促しながら、問うように首を傾ける。二二は少し間黙って姫守を見つめ、そして力なく首を左右にふった。
「あまり納得はいってない」
 そうだろうね、と言うように、姫守は満足げに微笑んで見せる。姫守は二二の内に隠れる引っ掛かりに気付いていたのかもしれない。
「それは何故?」
「あまりにも条件が簡単すぎるから、だと思う。例えば大学生の場合だと、心霊写真なんて撮れたら、喜んで人に見せびらかすだろ。それこそSNSに写真をアップするかもしれない。それなのに実際死んだのは同学の大学生のみだ」
「交流が極端に少ない寂しいタイプの大学生だったかもしれないよ?」
「そうかもしれない。それとも、彼らに心霊写真だったという自覚がなかったのかもしれない。なんてことない風景写真に、実は……なんてパターンだとしたら、当事者が見てもわからなかったかも」
「そうだとしたらとても恐ろしいことだと思うけど、どうだろうね。この写真を見る限りじゃ、この怪異は自己主張が激しそうだ」
 姫守はポケットから例の民家で発見した写真を取り出した。どうやら鉄男に投げつられたそれを、姫守はちゃっかり回収していたらしい。二二は同意するように頷いた。
「オレもそう思う。怪異は認識されてこそ、存在感を増すとしたら、尚更だ。風景写真に紛れ込む必要がない」
「幽霊が隠れて写真に写り込むのは、まずなさそうだね」
 姫守は不意に自分と二二のマグカップを手に取って、立ち上がった。話に夢中で気づかなかったが、二つのマグカップは既に空だった。
 姫守はキッチンに立ち、手慣れた動作で電気ケトルでお湯を沸かし始めた。この光景はもう日常的と化している。
「君が言う通り、怪異に狙われる条件は写真ではなさそうだね」
「或いは、写真だけでは条件が不足しているのかもしれない。問題は例の写真部の先輩だ」
「裕子のこと?」
 姫守はココアを入れる手を止めて、肩を竦めて見せた。
「裕子のことは、僕もうっかりしていたよ」
「オレも関係のない事件だと決めつけて、調べもしなかった。彼女も今回の怪異の被害者だと思うか?」
「そうだろうね。偶然にしては出来過ぎているし」
「お前は彼女に写真を見せただけだろう? まさか怪異のことをペラペラ喋ったんじゃないだろうな」
「それは無理だ。君と事件を調べ始める前に、裕子は死んでるんだよ?」
「それもそうか……」
 姫守はマグカップを二つ手に持って戻ると、二二の横に座り直した。マグカップを差し出しながら、でも、と言葉を続ける。
「章が喋った可能性はあるね。章は写真部に入り浸っていたから、自分が挑もうとしている肝試しの話を、雑談の一環として口にしてもおかしくない。可愛い女の子がいっぱいいるから、調子に乗ってついベラベラとね」
「章らしい話だ」
 マグカップを受け取りながら、二二は思わず口元を綻ばせた。しかし章が既に亡くなっている現実を思い出し、すぐに笑みは消えてなくなった。沈んだ表情を浮かべたつもりはなかったが、姫守が気を使うような表情を見せたので、少しは顔に出ていたのかもしれない。二二は意識して無表情を作った。
「章は彼女と親しかったのか? その……あまり章が好むタイプではなさそうだったけど」
「二人はそこまで親しかったわけじゃないけど、写真部で誰かに話した内容は、あっという間に裕子に伝わるからね。直接話してなくても、可能性は十分あるよ」
 二二は写真部に所属する男子生徒が、裕子のことをボス猿と表現していたことを思い出した。
「なるほど。その可能性はありそうだな。怪異に狙われる条件としては、怪異に対しての最低限の情報と写真――というより姿を視認することかも――ってことになるんだろうか」
 それでもまだ条件としては緩いように思える。例えば、章の持っていた情報は、一家が首を切られて惨殺され、老婆が行方不明になっていることくらいだろう。しかしその程度の情報なら、ニュースをチェックしている人なら知っている筈だ。誰にでも知りうる事ができる程度の情報が、果たして条件として成り立つのだろうか。
 これ以上この件について考えても、何の進展も見込めなそうだ。二二は首を振って頭をクリアにさせると、また別の気がかりについて思案することにした。
「写真部の先輩が今回の怪異に巻き込まれて死んだと仮定すると、他にも気になる事が出てくるよな」
 二二は温かいココアを一口飲んでから、通学用の鞄に入っていたノートとシャープペンを引っ張り出して、思いついたことを書き出し始めた。
「写真部の先輩が亡くなった時刻って、もうニュースに出てるのか?」
 書き出しながら独り言のように呟くと、意図を察した姫守はすぐさまスマートフォンで記事を検索して答える。
「一昨々日、つまり木曜日の二十三時三十分から二十四時の間らしいよ。前後の時間に裕子と会っている人物がいるから――ちなみにこの人が容疑者なんだけど――時間は間違いないらしい」
「老婆の犯行をなすりつけられたわけか。その人も気の毒だな」
 頷きながらざっと書き進め、簡単にまとめられたところで、シャープペンを置いた。

 一日目(水曜日)肝試しに行った日。水曜日から木曜日の深夜に章が殺される。
 二日目(木曜日)裕子が二十三時三十分〜二十四時の間に殺される。
 三日目(金曜日)茜が二十四時前後に殺される。
 四日目(土曜日)特になし。
 五日目(日曜日)本日。今のところ何もなし。

「分かっているのはこんなところだな。気になるのは、やっぱり土曜日か」
 水曜日、木曜日、金曜日と連続で死人が出ている――しかも死亡した時間帯がほぼ一致している――のに対し、土曜日だけ何も起こっていない。それとも一日に一人ずつ死んでいるのは、偶然に過ぎないのだろうか。
「あ」
 スマートフォンを弄っていた姫守が、思わずと言ったように声をあげたので、二二は顔を上げた。
 てっきり鉄男から連絡が来たのか思いきや、それにしては、眉を寄せ、じっと考え込むように口を噤んでいるという、ちょっと妙な顔をしている。
「どうした?」
 首を傾げる二二に、姫守は無言でスマートフォンの画面を差し出す。それを覗き込んで、二二も思わず「えっ」と声を上げた。スマートフォンの画面に映し出されたのは「また同校で殺人事件! 今度は写真部顧問が被害者!」というニュース記事だ。
「これって……」
「島崎だね」
 姫守は驚くほど冷静だった。さすがに笑ってはいなかったが、感情の読み取れない顔をしていた。予想外の名前に動揺を隠しきれない二二の様子を目の前にして、余計に冷静さを取り戻したのかもしれない。二二は姫守の様子につられるようにして、なんとかポーカーフェイスを保った。
「詳細は出てるのか?」
「殺されたのは昨日。君が気にしている土曜日だよ。島崎の奥さんが二十三時まで彼が生きているのを確認している。死んでいるのが発見されたのは、その一時間後の二十四時。もちろん、首を切られた状態でね」
「……どういうことだ?」
 その死に方や時間帯から、島崎が怪異の被害者であることは疑いようがなかった。
「オレは島崎先生に章のことを相談したけど、具体的な話は何もしていないのに」
「肝試しの話くらいは聞いていたかもしれないよ。写真部の顧問だから、耳に入ってもおかしくはない」
「それだけじゃ写真部の全員がターゲットになるだろ。島崎先生は章の事件の第一発見者だ。そこで何か見たんじゃないか?」
「あるいは、警察から何か重要な情報を聞いたとか?」
 二人で可能性を挙げて行ったが、しっくりと来る仮説は出ない。やはりまだ二二と姫守が気づいていない何かがあるのかもしれない。
「でもこれで、四日連続で犠牲者が出たことになるわけだね」
 姫守は島崎に対して何も思わないらしく、けろりとした様子で言った。
 二二だって島崎の事が特別好きというわけでもなかったが、やはり自分が相談したせいで巻き込んでしまったのだから、どうしても気にしてしまう。二二が思わず暗い感情を吐き出すような溜め息を吐くと、姫守は労わるような優しい眼差しになった。
「さっきも言ったけど、悪いのは怪異であって、切欠を作った人のせいじゃないよ」
「……ああ、そうだな」
 コクリと頷いたが、暗い気持ちは払拭されない。島崎の立場だったら、訳のわからない怪異よりも、切掛けを作った二二を責めるだろう。例え内心で何が悪いのか理解していたとしても。
(……そういえば)
 島崎が死んだことにより、犠牲者は四人となった。
 あとは二人死んで、一人が行方不明になれば、恐らく老婆にまつわる怪異は終了する。そして現時点で痣が出ている事が判明しているのは、鉄男と杏子、そして二二と姫守の四人だ。
(一人だけ助かる……)
 思わず鉄男と杏子の顔がよぎった。二人は姫守を警戒していた。無理もないだろう。こんな状況にも関わらず、姫守は場違いにも楽しげに微笑み、呑気に怪奇現象を待ち構えているのだから。普通の観点で見れば、異常な人物に見えるだろう。二二が姫守を警戒しないのは、彼が怯えないのはその趣味趣向のおかげだと理解していたし、彼に何度も助けられているからだ。実際に危険な状況に駆けつけてくれたこともあったし、精神的に不安定な時、彼の余裕のある様子に励まされたことも少なくない。
 だが、その精神的な落ち着きが――例えば、自分だけが助かることを確信している故のものだったとしたら?
(……そんな馬鹿な)
 二二は自らの考えを失笑した。仮に姫守が一人だけ助かることを確信しているとしたら、なぜ二二を助けてくれるのか。二二が犠牲にならなければ首が一つ足りなくなってしまう。しかし姫守は泊まり込んでまで、二二の助けになろうとしてくれている。
「どうかした?」
 黙り込む二二を心配するかのように、姫守が顔を覗き込んでくる。一瞬とはいえ、まさか自分が疑われていたなんてこと考えもしていないような、人のことばかり心配している表情だった。二二はなんでもないように首をふる。例え一瞬だとしても姫守を疑ったことは、勘付かれたくなかった。
「それより、これでハッキリしたな。恐らく今晩も、誰か襲われるんだろう」
「鉄男くんだね。今までの傾向から、時間は間違いなく二十三時から二十四時の間だ」
「鉄男からの連絡は?」
「まだ来ない。追加で今の情報も送っておくよ。この時間帯、一人にならないように注意していれば、もしかして回避できるかもしれないからね」
 再びスマートフォンをいじり始める姫守を横目で見つつ、二二も自分のスマートフォンを手にとった。二二のところにも鉄男からの連絡はなかったが、杏子からメッセージが来ていた。
『二二くん、ニュース見た?』
 メッセージはそれだけだったが、彼女の言いたいことはすぐに理解した。
『ああ。島崎先生だよな。これで四人目だ』
『写真を見たのかな?』
『少なくとも、こちらには心当たりはない。肝試しの話は章経由で知っていたかもしれないけど』
 その文章を送った後、二二は少し悩むように手を止めた。 一日一人ずつ死んでいる事実と、危険と思われる時間帯を杏子に伝えるべきかと考える。怯えさせてしまうのは確かだが、それでもやはり、知っていた方が少なくとも身構えることは出来るだろうと判断し、返事も待たずにその内容を送った。杏子はしばらく沈黙していた。
 その間に姫守は鉄男にメッセージを送り終えて、ノートパソコンを取り出していた。きっと関連ニュースを調べるつもりだろう。二二はその様子を眺めていた。
 やがて杏子からメッセージが届く。
『情報ありがとう。その時間は、お父さんとお母さんから離れないようにするね』
 文面は非常にすっきりとした印象のものだった。この短い文章を打つために、一体どれだけのことを考えて、どれだけのことを堪えたのだろうか。向かい合っていれば杏子が何を考えているのか少しは分かったかもしれない。
「メール見た?」
 急に姫守が問いかけてくるので、二二はスマートフォンから顔を上げて眉を寄せた。
「何で?」
「学校からメールが来てるよ。明日からしばらく休校らしいね」
 姫守に言われて初めて気づいたが、学校から休校を知らせるメールが届いていた。パソコンでメールを確認していた姫守は、苦笑じみた表情を浮かべる。
「まあ、四人も死んでるから当然か。むしろ休校の判断が遅いくらいだね」
「とても行く気分になれないから、助かったけど」
「そうだね」
「何を調べているんだ?」
 姫守は相変わらずパソコンのキーボードを打つ手を止めていなかった。しかし二二と話す時は、視線をこちらに向けることは忘れない。
「何か新しい手がかりがないか調べてるんだよ。首ばかり狙う幽霊、六人というキーワード。今のところそれらしいものはヒットしていないけど」
「なるほど、怪異の手がかりか」
 何もない場所から怪異は生まれない。原因となる何かがある筈だ。それが分かれば、怪異を防ぐ方法も見つかるかもしれない。
(ピンポーン)
 急にインターホンが鳴ったので、二二は無表情のまま飛び上がりそうになった。なんとか堪えたが、実際は数センチくらい飛んでいたのかもしれない。二二を横目で見た姫守が、笑いを堪えたような変な顔をしていた。
「僕が出ようか」
 姫守が立ち上がりかけたが、二二は首を振って遠慮する。
「老婆が来るには早い時間だろ」
「それを数秒前の君に言ってやりたいよ」
 姫守の茶化しを無視して、モニターを覗き込む。どうやらエントランスからの呼び出しのようだ。
(宅配便か?)
 頼んだ覚えはなかったが、両親が連絡なく荷物を送ってくることは珍しいことではなかった。数日前に消化した乾麺も例外なく両親の仕送りである。
 応答ボタンを押すと、モニターには見覚えのない男性が写っていた。
 年齢は三十歳くらいだろうか。髪の毛を金に染めていて、白いワイシャツを着崩しているのが見える。釣り上がった鋭い目と、自信を貼り付けたように口端が上がった口元。モニター越しでも分かるガッチリとした体型は、ジムや習い事で鍛え上げられたものというより、喧嘩に明け暮れた結果というような印象を覚えた。一言で表現すると、道の真ん中を威張って歩いているような、ガラの悪い男だった。
「……どちら様ですか」
 二二が居留守を使わなかったのは、最悪なパターン――つまり老婆が立っているような――よりはマシだと考えたからだ。それでも応答の声に警戒の色を含んでいたのは、男の身なりを考えたら、仕方のないことだろう。
『ああ、どーも』
 男はニヤニヤと笑ってモニターを見つめた。向こうからは二二の顔は見えない筈だが、まるで見透かされたような気持ちになり、二二は思わず警戒を強めた。
『六人部さん、六人部二二さんのお宅ですか』
「そうです……」
『私、こういうものですけど』
 男は似合わない口調でそう言うと、黒っぽい手帳をモニターに掲げて見せた。
 それは警察手帳だった。写真の部分には、金髪男から想像できない、黒髪の若々しい男が写っていた。とても同一人物には思えないので、この手帳が一体この男の何を証明しているのか、二二は理解できなかった。
『お友達のことで、ちょっと話を聞かせてください』
 男はニヤリと笑ってそう言った。二二は無言で解錠ボタンを押す。ポケットに手を突っ込んだまま、堂々した様子でエントランスへ入っていく男の姿を眺めながら、やっぱりさっきの手帳は見間違いなのではないかと思った。

 玄関先で警官を自称する男を目の前にしながら、二二はもう一度掲げられた警察手帳をまじまじと眺めてしまった。
 巡査部長と役職があり、その下に「築地(つきじ)虎次郎(こじろう)」と名前があった。役職も名前も、目の前の男と一致しない。但し写真の方は、よくよく見ると少しだけ面影を残しており、目の前の男と同一人物であることがかろうじて理解できた。
 築地の方も、それこそ穴が開くんじゃないかと言うほど、まじまじと二二を見ていた。
「えらいべっぴんさんだな」
 築地が警察らしからぬ感想をこぼしたので、二二は思わず嫌悪感を露わにしてしまった。隣に立っていた姫守が、薄っぺらい微笑みを貼り付けた。
「知らなかったなぁ。警察って無駄口を叩くほど暇なんですね」
 姫守がさらりと辛辣なコメントを吐いた。島崎の時も感じたが、姫守はどうやら年上の人間が嫌いらしい。警察に喧嘩を売るような度胸のない二二は、慌てて姫守の前に立った。
「それで、話っていうのは……」
 言いかけて、玄関先で話す内容でもないかと我に返り、
「狭いですけど、よかったら中にどうぞ」
「おお、ではお言葉に甘えて。飲み物は冷たいやつだと有り難いな」
 築地は図々しい態度で部屋に上がり込んだ。築地をリビングダイニングに案内し、ソファに座らせる。
 飲み物を用意するためにキッチンに立とうとしたが、既に姫守がコップに水道水を入れて、築地の前に置いていた。いつものニコニコ顔で生温い水道水を出す姫守も恐ろしかったが、水を飲んで「不味いな」と隠しもせず文句を言う築地もとんでもない男だと思った。
 二二はクッションを引っ張り出してきて、床に座った。姫守は築地を眺めるように立っていた。
「話っていうのは、やっぱり首切り事件のことですか」
 二二が切り出せば、築地は肯定するように頷いて、二二と姫守に順番に視線を向けた。
「二二くんと、姫守くんは久しぶり」
 築地は親しみのこもった視線を向けたが、伊邪和は素っ気なく目礼を返しただけだった。どうやら二人は顔見知りらしい。姫守の無礼すぎる態度はいくらなんでも説明がつかないと二二も感じていたから、これでようやく納得がいった。
「二人は知り合いなんですか」
 二二の問いかけには、築地ではなく姫守が素早く答えた。
「僕の父が事件に巻き込まれたことがあってね。その時に少し話をしただけだよ」
 姫守は「この話題は終わり」というように腕を組んだ。二二は頷いて返して、それ以上踏み込むことはやめておいた。築地も姫守の心情を察したのか、大人らしくさらりと話をすり替えた。 
「姫守くんが二二くんと知り合いだとは思わなかった。二人は仲が良いのかな」
「ええ」
 姫守が二二に答える隙を与えない素早さで答えた。
「彼とは友人です。それがなんでしょう?」
 口調は丁寧で微笑みすら浮かべていたが、挑戦的と言うか、反抗的と言うか、そう言った印象を与える投げやりな態度だった。築地が怒り出すのではないかと二二は気が気ではなかったが、若者の――と言うより姫守の――反抗的な態度に慣れているのか、築地は気にした様子もなく続けた。
「姫守くんの家を何度か訪ねたんだが、ずっと留守でね。二二くんの家にいたのか?」
「ええ、そうです」
「それは何故かな?」
 築地は金髪の派手で攻撃的な外見に似合わず、警官らしい優しげな口調で話した。しかし音色には決して優しさなどなく、まるで二二たちに過ちがあることを決めつけたうえで隠し事を探るような不躾さ、そして二二たちを子ども扱いするような見下しも感じられた。これは意図的にこうした態度になっているのではなく――或いは反抗的な姫守への子どもじみた反撃かもしれないが――警察という特殊な立場上、染み付いてしまった習慣のようにも思えた。
 姫守は間を置かずに笑顔で答えた。
「ここは学校も近くて便利なので、泊めさせてもらっていました。特に最近は事件のことがあって彼も怖がっていたから。友人が殺されたんだから、当然の流れじゃないですか?」
「なるほど、確かに不自然ではないな」
 築地は確認するように、二二に視線を向けた。二二が付け加えるべきこともなかったので、無言で頷いておく。
「君たちは友人の章くんが亡くなった当日、彼と会っていたそうだね」
「僕の運転で肝試しに行きましたよ」
 また姫守が先に口を開いた。姫守は堂々と肝試しと答えたが、要は廃墟への不法侵入である。築地に咎められてもおかしくはなかったが、彼は今回の事件以外に興味がないのか「そうそう、肝試しに行ったんだったな。いやぁ、若いっていいね」と笑っただけだった。
「確か、一昨日亡くなった茜ちゃんも参加していたんだったか。男女で肝試しなんて、青春真っ盛りだな。いいねえ。それは二二くんも一緒に?」
「彼は体調不良で帰りました」
 二二の話だったが、やはり笑顔の姫守が答えた。
「なので、彼は肝試しには参加していませんよ」
「本当に?」
 築地がまた確認するように二二の顔を見つめるので、二二も再び頷いた。築地は疑うことなく頷き返した。もしかしたら既に調べがついているのかもしれない。二二はタクシーを使って帰っているし、マンションの監視カメラにも姿が写っているはずだ。
「章くんを最後に見たのはいつだったか覚えているかな?」
 築地の問いは姫守に向いていた。姫守は相変わらず立ったまま、言葉に詰まることもなく、章を車から下ろしたと言う駅名を口にする。
「時間は……確か二十二時過ぎくらいかな」
「その時、章くんの様子は?」
「元気がないようでした。肝試しが思ったよりも怖かったんじゃないですか?」
「ふぅむ。鉄男くんも同じようなことを言っていたな」
「鉄男に会ったんですか?」
 二二が思わず口を挟む。それは切羽詰まった様子だったので、築地は疑うべく相手を見つけたように眉を寄せた。
「被害者と接点のあった人には話を聞くことにしているからな。ちょうどここに来る前に彼とは話したが、それが何か?」
「あ、ええっと」
 姫守がフォローしようと口を開きかけていたから、そのまま黙っていればうまく誤魔化してくれただろう。しかし二二の脳内は「なんとかして鉄男の状態を聞きたい」に埋め尽くされていて、冷静さを失っていた。
「て、鉄男がすごく怯えていて」
 二二は無意識だったが、ヘーゼルの瞳を不安気に曇らせ、焦りのあまりソワソワと築地を見上げるその様は、不信感よりも庇護欲を与えるものだった。心なしか築地の二二を見つめる視線が優しげになったので、二二はほっとして言葉を続けた。
「連絡もつかないから、心配だったんです。鉄男は章と仲が良かったし……」
「友達思いなんだな」
 答えた築地の口調も、警官らしい探るような響きは消えて、まるで年の離れた弟を相手にするような優しいものとなっていた。だから二二も安心して言葉を続けた。
「鉄男は、家にいましたか? 先ほどまで会っていて、すごく様子が変だったので、無事に帰宅出来たのか心配していて」
「その点は心配しなくて良い。先ほどちょうど帰宅したようだった。ご両親も一緒にいたし、彼のことは任せて良いだろう」
「そうですか……それなら良かった」
「ただ、あまり調子は良さそうではなかったな。それに妙なことを口走っていたし」
「妙なこと?」
「次は自分が殺されるとか、犯人は人間じゃないとか」
 二二は思わずドキリとして言葉を詰まらせた。動揺を顔に出さないように心がけたが、経験豊富な警察官を誤魔化せたとは思えない。築地は何か言いたげに二二を見つめていたが、無理に問い詰めるようなことはしなかった。
「犯人に心当たりはあるかな?」
 築地の問いかけに、姫守が「やれやれ」というように肩をすくめた。
「ニュースでは容疑者が出ていたようですけど?」
「ああ、彼はこの事件とは無関係だよ。まぁ、頻繁に暴力沙汰を起こしていたみたいだったから、無罪放免ってわけにはいかないが」
「それなら、僕たちには想像がつきませんね」
「あの、築地さん。鉄男なんですけど」
 会話に割り込んだ二二に、嫌な顔一つせず対応する築地。
「うん?」
「怯え方が、尋常じゃないと言うか……だからというのも変なんですけど、しばらく彼を保護してもらうことはできないんですか?」
 一家惨殺事件でも警護はあったらしいが、それでも一家は殺されてしまった。警護など意味がないのかもしれない。それでもないよりはマシだろうし、鉄男の精神状態にもプラスの方向に強く影響するだろう。
 築地は二二を安心させるように、力強く頷いて見せた。
「彼は確実に何かを知っている。保護とは少し意味合いが違うかもしれんが、常に何人かが彼の周囲を見張っているから、心配しなくていい」
「……そうですか」
 ホッとして微かに微笑んで返せば、築地は満足げに頷いた。
 程なくして築地は帰って行った。彼と話をした限りでは、警察は二二達を容疑者としてみなしてはいないようだった。アリバイが既に調査済だったからかもしれない。あるいは、章達の死因は非常に特殊であるゆえに単純な無差別殺人とでも考えている可能性もある。
 二二がソファに埋もれ、築地が置いて行った名刺を眺めていると、隣に腰掛けた姫守が深い溜め息を吐いた。
「君は随分と得な外見をしているよねぇ」
 それが皮肉を言うような態度だったので、二二は聞き返すように姫守を見上げた。
「何が?」
「さっきのヤクザ刑事、最初は探るような気に食わない態度だったのに、君と会話した途端に鼻の下を伸ばしていたから」
「お前の態度が悪かったから機嫌を損ねていただけだろ」
「まさか。僕はとっても素敵な笑顔を浮かべていたじゃない」
 姫守は真面目に言っているのか、ふざけて言っているのか、判断のつきにくい微笑みを浮かべていた。二二はどうでもよくなって話を逸らした。
「鉄男が無事に帰宅したことは確認できて良かった」
「相変わらず連絡は来ないけどね」
「警察も来たようだし、それどころじゃないのかもしれないだろ。とりあえずオレたちは出来ることをやろう」
 それから二人は引き続き怪異の手がかりを探したが、結果はやはり芳しくなかった。
「目新しい情報はなし」
 姫守は凝り固まった肩をほぐすように伸びをした。
「わかったとすれば、僕たちが既に知っている三つの事件以外で、似た事件は見つけられそうもないってことくらいかな。事件を追っていけば根源が分かるかもと思ったけど、それも無理そうだ。最近生まれた出来立てホヤホヤの怪異なのかなぁ」
 姫守は溜め息混じりにノートパソコンを閉じると、ソファから立ち上がった。
「気分転換に外食しない?」
 いつの間にか外は薄暗くなっていた。夕食にはいい時間だ。完全に調査に行き詰まっていたし、冷蔵庫の中は空に近く、どうせ買い出しのために外出が必要だったから、二二に断る理由もなかった。

 二人でマンション近くのファミレスで手早く夕食を済ませた。
 すっかり暗くなった夜道を二人で歩く。時刻は二十時を過ぎたところだった。事件が起きると思われる時間までまだ余裕はあるが、数時間で怪異の対処方法が考えつくとは思えない。
 ふと姫守が意味ありげに後方に視線を送っていることに気付いて、二二もつられて後方を見る。この辺りは住宅街なので人通りが少なく、歩行者は二二達しかいなかった。後は少し離れたところに車が停車しているだけだ。他に気にすべきものはない。もちろん老婆の姿も見えない。
「……どうした?」
 それでも姫守だけ何かが見えた可能性も考えて、心配になって姫守を見上げる二二。二二のヘーゼルの瞳が不安気に曇っていることに気付いたのか、姫守はわざとらしいくらいの笑顔を浮かべて見せた。
「違うって。君は本当に心配症だなぁ」
「お前が意味深に後ろを気にしているから」
「尾けられているのは確かだからね」
「え?」
 ギョッとしてまた振り返る。すると停車していた車の運転席の窓が空いて、ニョキッと腕が飛び出してきた。追うように姿を見せたのは派手な金髪だ。車から顔を覗かせたのは築地だった。笑顔を浮かべて二二に手を振っている。戸惑いを隠せぬまま、半ば反射的に軽く礼を返して、視線を前方に戻す。
「なんで警察がオレたちの後を?」
 二二は無意識のうちに声を潜めた。もちろんこの距離では話した内容が築地に届くわけがない。姫守はあえて後ろの築地にも伝わるように、わかりやすく肩をすくめた。
「さあね。少なくとも身を隠すつもりはないようだし、警護のつもりじゃない?」
「確かに鉄男の警護は頼んだけど……なんでオレ達まで」
「君の様子が不安気で心細そうに見えたから、善意でやっているんじゃないの? あのヤクザ刑事、暇そうだったしねぇ」
「言っておくが、こんな状況にも関わらず笑ってるお前の方が異常だからな」
 二二が嫌味っぽい態度を取っても、姫守は全く気分を害した様子はなかった。その優しさを築地にも発揮すればいいのに、と二二は真剣に思った。
 築地の警護の甲斐もあって、二二と姫守は無事にマンションに帰宅した。二人でソファーに座り、時間まで待機する。
「今更だけど、時間になったらお婆さんが首を切りに僕達の前に現れるってことだよね?」
 姫守は二つの小皿の上に盛り塩を作っていた。もちろん効果なんて期待していない。ただ手間がかからないし、役に立たなかったとしても害になりようがないし、なにより暇つぶしになるというのが姫守の主張だった。二二は山型に盛られていく塩を眺めながら頷く。
「そうだろうな」
「わー、楽しみだなぁ。なんだかんだ言って、僕は彼女の姿をきちんと見たことがないからね」
「本当にお前の気が知れない」
「でも目の前に現れてくれるなら、チャンスだと思わない?」
「チャンス?」
 姫守は綺麗に盛った塩を左右対象になるように玄関扉の前に置いた。
「相手は一人、こっちは二人だよ? それに向こうは女性で、僕たちは男だ。腕力の差は大きい。例え君がモヤ――小柄でもね。戦えば勝てるかもしれないよ」
 人の良さそうな笑顔からは予想もつかない、攻撃的な発言をしてのけた。それだけじゃなくて、とんでもなく失礼なことを言いかけた気がする。二二は不愉快さをアピールするように顔をしかめたが、悪気なくにこにこと微笑む姫守を見て、結局は反論する気も失せてしまった。
「勝ち目はなさそうだけどな。明らかに体型で勝っている島崎先生だってダメだったんだ。ニュースでは抵抗した様子がなかったと言っていたし、なんらかの方法で動けなくさせられると考えた方がいいと思う」
「なるほどね。例えば金縛りとか?」
「そう、金縛り……」
 頷きながら二二は気付いた。老婆が枕元に立った時、金縛りのように身体が動かなかったことがあった。あの時は姫守が来てくれたから事なきを得たが、もし彼がいなかったら、声を上げる間もなく、首を切られていたかもしれない。
 章達も同じ状況で殺されたのかもしれない。指一つ動かすことも叶わず、声も出せない状況で、老婆が持ったノコギリで首を切り落とされる――それなら現場に争った形跡がないのも、同じ家に住む家族が悲鳴一つも聞かなかった理由も、頷ける。
 そろそろ二十三時になる。
 二二はソファに座り直しながら、深い溜め息を吐いた。室内は適温だと言うのに、指の先が冷え切ってゾッとするような寒気を感じた。二二は思った以上に自分が緊張していることに気付いてますます深い溜め息を吐く。いつも通りの様子の姫守が、二人分の暖かいココアを淹れてテーブルに置いた。
 ちょうど二十三時になった。
 姫守は時計など見ていない様子でココアを一口飲み、
「魔除けとかなら手軽で安価だから、どうせなら試しておけばよかったかもね」
「そうかもな」
「そうだ、いい手を思いついたよ」
「何が?」
 カタッと物音がした。二二は思わず飛び上がった。
 音の発信源はキッチンの方からだった。ただの軋み音だったかもしれないし、もしかしたらそこに何かいたのかもしれない。少なくとも今は、誰の姿もないことは確かだ。姫守はピクリとも笑顔を動かさなかった。
「代わりの首を用意すればいいんだよ」
 姫守がけろりと言ってのけた言葉を、物音に気を取られていた二二は流しかけた。数秒後にようやく言葉の意味を飲み込んで、聞き返すように姫守を見る。姫守はいつも通り笑っていた。一瞬のうちに、無関係でありながら殺されてしまった、写真部の裕子や、島崎の顔を思い出される。
「か、代わりの首が、なんだって?」
「マネキンとか、人間によく似たものを用意すれば、もしかして騙されてくれるんじゃないかって話だよ」
 姫守はやっぱり笑っていた。ようやく、緊張をほぐすための冗談だということに気付いた二二は、苛立ちを込めた溜め息を吐き出した。
「脅かすな。人間の生首でも用意する気なのかと思った」
「うわぁ、随分と猟奇的な想像をするね」
「お前ならやりかねない気がする」
「で、マネキンの首はどう?」
「そんなものに騙されてくれると思うか?」
「騙されてくれるかもしれないじゃない」
 姫守はノートパソコンを開くと、マネキンを求め、ショッピングサイトを眺め始めた。あまりにもいつも通りの姫守に、二二は呆れるのも忘れて、むしろホッとしてしまった。二二だけだったら、首を切られる前に、緊張のあまり精神がどうにかしてしまっただろう。姫守の能天気ぶりには本当に感謝しなくてはならない。例えマネキンヘッドのページを真面目に眺めるちょっとおかしな先輩でも。

 非常に長く感じる一時間が過ぎて、ようやく日付が変わった。
 二二も姫守も無事だ。妙な物音は一度したが、それ以降は怪奇現象と思われる事象は発生しなかった。
 二二は日付が代わってすぐに杏子に連絡を入れた。彼女は無事だった。家族に囲まれて過ごしていたからか、怪奇現象も起こらなかったと言う。鉄男からは相変わらず折り返しの連絡は来ていない。杏子が無事であったことの安堵と、鉄男の心配を同時に感じていると、急に電話が鳴ったので、二二は飽きもせずに飛び上がった。
 着信相手は知らない番号だった。鉄男かもしれない。躊躇いもせず通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『二二くんか?』
 鉄男とは似ても似つかない、頼り甲斐のある大人の低い声が聞こえた。二二はすぐに察する。日中に訪問してきた警察官、築地だ。彼の名刺を受け取った際、二二の連絡先は教えていた。
『無事か?』
 築地の声には、隠しきれない焦りが含まれていたから、二二は言葉に言い表せない不安を覚えた。
「だ、大丈夫ですけど……」
『そうか、よかった。実は――』
 築地が言い辛さで言葉を詰まらせたのか、あるいは現実を拒否する二二の心理のせいか、築地が再び言葉を紡ぐまで随分と間が開いた気がした。
『――鉄男くんが亡くなった』
 二二は頭を金属バットで殴られたような衝撃を覚える。ソファに座っていたから良かったが、立っていたら倒れ込んでいたかもしれない。
「……どうして」
 真っ白の頭でなんとか言葉に出来たのは、それだけだった。
『二十三時五十五分頃、ご家族と共にリビングにいた鉄男くんが、急に叫び声を上げて部屋を飛び出したらしい。待機していた警察官が叫び声を聞きつけて駆けつけた時は、もう彼は自宅のトイレで死んでいた。部屋を飛び出してからほんの数分の話だ。今までの被害者と同様に、首を切られた状態の胴体だけが現場に残されていて、頭部はまだ発見できていない』
「……犯人の姿は誰も見ていないんですよね?」
『周辺にいた警察官はもちろん、ご家族も何も見ていない。鉄男くんが何に驚いて、何から逃げ出したのか。それすらわかっていない。二二くん――』
 築地は言葉を切った。もし築地が目の前にいたら、心内を探るような警察官の目をしていたに違いない。
『君は何か知っているような気がしているんだ。もし私の勘が外れていないのなら、小さなことでもいいから、教えて欲しい』
「……オレには何もわかりません」
 嘘ではない。二二だって相手が何者か、何が目的なのか分からない。それでも築地の声色には、相変わらず労わるような優しげなものを感じたから、二二は再び口を開く気になった。
「本当にわからないんです。でも……」
『でも?』
「次に狙われるのは、杏子か、……オレだと思います」
『……分かった。ありがとう。必ず守ろう』
 築地はそれだけ言うと、通話を切った。
 二二が姫守の名前を出さなかったのは意図的だった。狙われているのが分かっていて姫守がけろりとしていたら、築地が不審に思うのではないかと、咄嗟に考えたからだった。むしろ怯える二二を気遣って泊まり込んでくれている先輩、と思わせた方が自然だ。それに二二と姫守は常に行動を共にしている。警護の対象にならないとしても、二二と居るのだから問題ないだろう。
「鉄男くんが死んだんだね?」
 電話が終わるのを待っていた姫守が、静かな声で問いかけた。二二は小さく頷いて、築地の話した内容を淡々と伝える。姫守は黙ってそれを聞いていた。相変わらず自分の感情よりも二二の感情を優先するような、神妙な面持ちだった。
「酷い顔色だよ。明日に備えて、今日はもう寝た方がいい」
「……そうだな」
 鉄男には申し訳ないが、今晩はもう老婆に狙われる心配はない。速やかに睡眠を取って明日に備えた方がいいだろう。何よりも、何もかも忘れて眠りたかった。

 鉄男が死んで、これで犠牲者は五人となった。あとは一人死んで、一人が行方不明になれば、老婆の怪異は終了する。
 杏子は家族と神社にお祓いに行ったらしい。二二も誘われたが遠慮しておいた。効果に対して懐疑的だったこともあったし、姫守がいたら杏子の負担になるかもと思ったからだ。
 杏子には警護のため女性警察官が家の中まで張り付いていると言う。こちらでは築地が玄関扉の外で待機していた。マンションの外にも何人かいるとも言っていた。物理的な壁が怪異に通用するとは思えなかったが、それでも呼べばすぐに来てくれる状況は二二にとって支えになった。
 二二はソファに横になって、床に座り込んで段ボールを解体する姫守を眺めていた。段ボールは宅配便で届けられたもので、小柄な人なら潜めそうなほどの、結構な大きさのものだった。大きさが大きさだったので、築地が不審がって中を検め、問題がないことを確認していた。ちなみに築地は正気を疑うような顔をして姫守と段ボールを見比べていた。
「本当にそれ、買ったんだな」
 段ボールの中には、ヘッドマネキンが二つ、気泡緩衝材に包まれて入っていた。毛髪も目玉も歯もない、あるべき場所に凹凸だけが作られたマネキンだ。帽子やジュエリーを販売している店舗で、商品を飾るために使用されているようなやつである。二二は築地が変な顔をするのも無理はないと思った。
 姫守は相変わらず笑っている。冗談で購入したのか、真面目にマネキンが老婆に通用すると信じ込んでいるのか、判断のつかない態度だ。
「備えあれば憂いなしってね。意外と安かったし」
 二つのヘッドマネキンをテーブルに並べて、真面目な口調を取り戻して続けた。
「馬鹿みたいなことかもしれないけど、何もしないよりはいいからね。実際に僕たちにできることはとても少ない。逆を言えば、やれることが少ないなら全てやっておくことはできる。その内一つでも役に立つかもしれないよ」
「神社のお祓いも行っておいた方がよかったかもな」
「ありがたいお札でも手に入るかもね」
 姫守は分かり易く皮肉を口にした。二二も神社をフォローするつもりはなかった。
 テーブルの上のスマートフォンの着信音が鳴る。二二のスマートフォンだ。ソファに寝転んだ二二が手を伸ばすより早く、姫守がそれを拾い上げて、二二に差し出した。受け取ってスマートフォンを確認すると、着信相手は母親だった。ニュースで事件を知った両親が、心配して電話をかけてきたのだろう。
 流石に母親との会話を姫守に聞かれたくない。通話ボタンを押す前に、二二がソファから身を起こそうとすると、それよりも早く姫守が立ち上がった。
「僕はちょっと買い出しに行ってくるよ」
 姫守は携帯と財布だけ持って、素早く部屋を出て行った。玄関扉の向こうで姫守と築地が言葉を交わしている声が聞こえる。何を言っているまでは聞こえないが、抑制のない素っ気ない声の調子から、事務的な会話が交わされただけだと予想ができた。
 二二は通話ボタンを押した。すぐに受話口から母親の泣きそうな声が飛び出してくる。それから二二は、入れ替わり受話口に現れる母親と父親を宥めるのに、尽力しなければならなかった。
 二二は決して自分に危険はないことを何度も繰り返し――実際は事件の渦中にいるのだが、もちろん言うつもりはない――ようやく納得した両親との通話を終えた時は、一時間以上時間が経っていた。
 疲れ切ってソファに寝転がり目を伏せる。二二はすぐにまどろみ始めた。
 やがて玄関先から気配がして、それが姫守の帰宅だと確認できた時、二二は我慢できずに眠りに落ちた。

 二二が目覚めたのは十九時を過ぎた頃だった。
 いつのまにかベッドで横になっていた。ベッドに移動した覚えがなかったので、多分姫守の仕業だろう。再びベッドに横になったら、また眠れる自信があった。そして同時に、二十三時までに起きることができない自信があったので、二二は二度寝を諦めた。
「ああ、起きたの?」
 姫守は読んでいた本から顔をあげた。二二は寝ぼけ眼をこすりながら姫守の横に座る。テーブルには二二のスマートフォンが置いてあった。眠りこける前に手から抜け落ちて床に転がったのは覚えている。きっと姫守が拾い上げてテーブルに置いたのだろう。
 視線を姫守の手元にうつす。姫守が読む本はハードカバーの分厚いもので、カバーがしてあってタイトルは分からなかった。
「何を読んでるんだ?」
「ホラー小説だよ」
「現実を見れば十分ホラーなのに、わざわざ読む必要あるのか」
「これを読むと落ち着くんだよ」
 姫守は落ち着いた微笑みを浮かべながら、本を鞄の中にしまった。
「夕食にしようか」
 二二が起きるのを待っていてくれたのだろう。姫守は既に温めてあったシチューとパンをテーブルに並べた。パンは柔らかく、シチューは優しい味だった。食欲のない二二を気遣って負担の少ない献立にしてくれたのかもしれない。
「体調は大丈夫?」
「ああ。オレが寝ている間に、何か変わったことはあったか?」
「日が暮れる前だったかな。あの警官が部屋まで入ってきたよ。何か変わったことは無いか、念のためチェックするんだって言ってね。結局なにもなくて……ああ、君がソファで寝ているのに気づいて、ベッドまで運んで帰って行ったよ」
「……そんな気まずい話は聞きたくなかった」
「僕は目につくところに置いておきたかったから、勝手なことをするなって言ったんだけど。あの警官は風邪をひくとか寝違えるとかなんとか言って、譲らなくてね」
「…………」
 二二はついには黙り込んだ。呑気に眠っている間にそんな会話がされていたなんて、考えるだけで情けなさのあまり赤面してしまいそうだった。こんなことが起きるならちゃんと起きていれば良かった、と二二は心底後悔する。
「あとは、杏子ちゃんと少し話したよ」
 何気なく付け加えられた姫守の言葉に、二二はびっくりしてパンを詰まらせそうになった。
 意外な展開ではあるが、姫守は杏子に避けられようと気にしないだろうから、彼の気が向けば連絡することもあるだろう。
「杏子は何か言ってたか?」
「君の心配をしてるくらいだったかな。君が疲れて寝込んでることを伝えたら、遠慮したのかすぐに電話は切られちゃったよ」
 多分気まずくて切ったのだと二二は思ったが、わざわざ言う必要もないので黙っていた。
 寝ている間に杏子から連絡が来たかもしれないと思い、念のため確認したが通知はなかった。杏子は起こしたら悪いと遠慮するようなタイプのように思えたから、意外感はなかった。
 不意に隣から手が伸びてきたかと思ったら、二二の手の中からスマートフォンを奪っていった。二二が思わず非難するように姫守を見上げると、彼は聞き分けのない子どもをあやすような優しい口調で言った。
「先に食べちゃいなよ。冷めるよ。ただでさえ君は食べるのが遅いんだから」
「……最後の余計な一言がなければ、素直に頷くんだけどな」
 とはいえ、作ってもらった食事を前にスマートフォンを弄っていた二二が悪いことは確かなので、大人しく従う。黙々と温かいシチューを口に運んだ。
 二十二時半を過ぎた頃、築地が現れて、部屋の中の最終確認をした。築地は絶対に外に出ないようにと釘を刺して、また玄関扉の定位置に戻って行った。扉の前にいるんだから外出すればすぐ分かるだろうに、と姫守は嫌味を言った。二二は築地はいつ休んでいるんだろう、と親切な警察官の健康を心配した。
 二十二時五十分になった。
 二二はスマートフォンを眺めながら、杏子に連絡を入れるか悩んでいた。何かが起きるとしたら二十三時を過ぎてからだろう。きっと杏子は息が止まるくらい怯えているに違いない。連絡を入れて杏子を励ますべきだ。そう考えながら通話を躊躇していたのは、その行為が自己満足ではないかと恐れていたからだった。杏子は家族と警察官に守られている。二二なんかよりもよっぽど頼れる相手が周りにいる。二二が連絡を入れれば、二二は杏子を励ませたと安心するだろう。しかし実際は杏子の余裕をほんの少し奪い、杏子に励まされるのは二二である。
 二二はスマートフォンをテーブルに置いた。姫守は横目で二二の行動を見守っていたが、何も言わなかった。
 二十三時になった。
「ようやく…………」
 姫守が何か呟いた。極端にかすれたような低い声だったので、二二にはよく聞き取れなかった。
 見上げると、いつもの呑気な微笑みは引っ込んでいて、喧嘩を売るような鋭い瞳をしていた。流石の姫守でも緊張するらしい。二二は姫守の人間らしさを垣間見た気がして、こんな状況にも関わらずちょっと安心してしまった。
 二十三時五分になった。
 部屋は静まり返っている。
 二二は怪異のことを考えた。首を集める怪異。今のところ、それくらいしか分かっていない。
 何故、首を集めるのか。
 何故、一人だけが首を切る役目を負わされるのか。
 何故……。
 不意に目眩を感じて二二はまぶたを伏せた。瞬きの瞬間に老婆がひっそりと距離を詰めているかもしれないと考えて、無意識のうちに隣にいるはずの姫守の存在を探した。微かに姫守の存在を感じてほっと安堵した。
 二二はゆっくりと瞳を開けた。
「……ッ……」
 いつの間にか室内が真っ暗になっていて、二二は息を飲んだ。
 二二はソファに座っていたはずだが、いつの間にか二二は立っていた。足元の感触がそれを訴えている。
 二二は自室にいたはずだ。しかし鼻に香るのは見知らぬ匂い。いつの間にか全く見知らぬ場所に立ち尽くしていた。
 真っ暗だ。一つの明かりもない。何一つ音もない。
 これはいつもの夢だとすぐに理解した。
(……まさか、オレ、寝たのか?)
 唖然として考える。たった一瞬の瞬き。その一瞬で自覚なく眠りに落ちてしまうなんて、いくら疲れていたとしてもありえない。
 それでも、この暗闇はいつもの夢だと確信できた。肌を撫でる独特の空気感、まるでこの世に生者は二二しかいないような本物の暗闇。
 ふと、微かな物音がした。まるで誰かが身動ぎしたような音。二二がそれを理解する前に、何かが二二の腕を掴んだ。二二は驚愕のあまり飛び上がる。思わずそれを振り払おうとしたところで、
「ちょっ、暴れないでよ。僕だよ」
 聞き慣れた声がしたので、二二はピタリと動きを止めた。声がした方向を見るが、相変わらずの暗闇のせいで何も見えない。それでもなんとか掴まれた腕を頼りに位置を予想し、顔を寄せる。ようやく暗闇の中に立つ姫守の姿を見つけた。
「落ち着いた? 急に暴れるから、殴られるかと思ったよ」
「こ、こんな場所で急に掴んだら、誰だって驚くだろ……」
 反抗的な態度で返しつつも、安堵の溜め息を吐くことをやめられなかった。一人じゃないだけでも、こんなにも心強い。相手が動じない姫守なら尚更だ。
「こんな場所って言うけど、ここは君の部屋じゃないの?」
 姫守は落ち着いた声で言った。薄らと見える彼の表情も、だいぶ落ち着いている。そのおかげで二二も落ち着いて対処することができた。
「オレの部屋じゃない。ここは……オレにもはっきりとしたことは言えないけど、夢でよく見る場所なんだ」
「夢? でも君は現実の存在だよね? 君の吐息も感じるし、微かに震えてるのも分かる。こんなにリアルな夢はないよね?」
 二二は吐息が感じるほど近い距離を自覚して身を離したが、姫守は痛いくらい強く掴んだまま、決して二二の腕を離さなかった。真っ暗な世界で二二の位置を把握しておきたい故の行動とも取れたが、思考に没頭した末に、腕を掴んでいることすら自覚していないようにも見えた。
 姫守はぶつぶつと低い声で続ける。
「うん。夢じゃないと断言できる。だけど現実でもなさそうだ。音が何もしない。まるで水の中のように、なんだか全てがゆっくりと流れてる気がする。場所が転移した? 死後の世界なのか? それとも精神世界?」
「お、おい?」
「はっきりとしたことはわからないけど、とにかく、これは素晴らしいことだよ。僕もこんな体験できるなんて、本当にすごい。君のおかげだ!」
 姫守が急にはしゃいだ声を出したと思ったら、二二の腕を引っ張って、まるで子どもを褒め称えるように抱擁した。びっくりした二二はすぐさま姫守を突き放して、不愉快を露わにして見上げる。
「お、お前、ここまで来ると、ホラー趣味も行き過ぎだぞ」
「ああ、ごめんごめん。非現実的な体験ができていると思ったら、つい嬉しくてはしゃいじゃって……」
「はしゃいでる場合じゃない。この世界に、自分以外の人間が現れたのは初めてなんだ。一体何が起こってるのか……」
 突き放した拍子に姫守は二二の腕を離していた。声が聞こえるうちに居場所を把握しておいた方がいいだろう。二二は手探りで姫守の体を探した。やがて指先が姫守の袖口に触れたので、そのままそこを掴む。
「お前が隣にいたから、巻き込んだのかもしれない」
「隣にいるだけで巻き込めるなんて、本当に凄いよ」
「とにかくこの場所から出ないと。いつもだったら、時間が経てば勝手に現実に戻れるところだけど……」
 ふと視界の隅で何か動いた気がして、二二は視線を向ける。
 いつの間にか暗闇の中に白いものがぼんやりと浮かんでいた。
(あれは……)
 シルエットしか見えなかったが、あの特徴的な形は、いつの日か夢の中で見た大樹だと、すぐにわかった。
 樹はだいぶ離れた場所にあるようだ。思わず吸い寄せられるようにして歩き出す。姫守の袖口を掴んだままだったので、彼も引っ張られるようにして歩き出した。
 無音の世界を、二人分の足音を響かせて歩く。 
 光源は、樹の実が放つぼんやりとした白い光だけだった。姫守の姿も見えない。彼がそこにいると確信させるものは、足音と、掴んだ袖口の感触だけだった。
 姫守は何も言わずについてきていた。二二が取り憑かれたように歩き出したから、黙って様子を見ているのかもしれなかった。或いはこの異様な雰囲気に飲まれているのかもしれない。いずれにせよ、騒がずに着いてきてくれるのは有り難いと二二は考えた。この空間に何が潜んでいるか分からないからだ。
 どれくらい歩いただろうか。
 大きな樹が目の前に広がる。異様に枝葉の広がりのある立派な樹だ。白っぽい大きな実をたくさんつけている。やはり以前夢の中で見た樹に違いなかった。
 まだ距離はあったが、だんだんとその姿がクリアに見えてきていた。
「これは――」
 何の実だろう、と言いかけて、二二は思わず言葉を止めた。
 白い実。それは、予想以上に大きな球体だった。
 灰色のような、くすんだ白のような、死んだ色。窪みが二つあった。そこに眼球が残っているものもあれば、完全に抜け落ちているものもあった。鼻はほとんどが原型を留めて残っていた。唇はどれも白色に近くて、歯は揃っているものもあれば、抜けてしまっているものもあった。髪は全て抜け落ちていて、肌が腐食しているものもあった。
 首から下の胴体はなかった。どれも顔の下で切り落とされており、頭部だけが樹にぶら下がっていた。その数は数えきれないほどあった。
 白い実に見えたそれは、全て人間の頭部だった。
「うっ……」
 理解した途端、急激な吐き気に襲われて、思わず地に膝をついた。悲鳴なのか胃液なのかよく分からないものを堪えながら、視界に何も映すまいと、必死に地面を睨む。幸いなことに口からは何も飛び出して来なかった。しかしこのまま死んでしまうのかと錯覚するくらい、全身の寒気が止まらなかった。
「大丈夫?」
 姫守はいつも通り落ち着いていた。ホラー好きの彼は、グロテスクな光景に見慣れているのかもしれない。気遣うような表情で、座り込んでしまった二二の顔を覗き込み、そっと背中を摩ってくれた。二二は無言のまま頷いたが、再び顔をあげる勇気は出せなかった。
 姫守が躊躇いもなく樹を見上げたような気配がする。表情は見えなくなったが、声は相変わらず落ち着いたものだった。
「すごい数だね。全て人間の頭だ。一つ一つの頭部が発光しているように見えるけど、どういう仕組みなんだろうね。まるで皮膚の下に照明でも仕込んでるみたいだ」
「……よくまじまじと見られるな」
「まあ、僕は慣れているからね」
 姫守は声色にふざけたものを混ぜたが、無神経な発言だと思い直したように、話を変えた。
「この樹を見つけた時は、君はあまり驚いた様子はなかったね。むしろどんどん近寄って行くから、操られているんじゃないかって心配になったよ」
「ああ……この樹を見るのは、二度目なんだ。一度目は、近くに行く前に目が覚めてしまったから。こんな樹だとは夢にも思ってなかったけど」
「そう。君にはお膳立ては不要って訳だ。やっぱりすごいね」
「え?」
 聞き返したが姫守は何も答えなかった。恐る恐る二二は顔をあげて姫守の姿を探すと、同時に二二の側に腰を落とした姫守が、人差し指を口元に当てた。静かに、というような動作。瞬時に不安を覚えた二二は、反射的に姫守の袖をまた掴んだ。
「ど、どうした?」
「誰か来る。足音が……」
 二人は黙り込んだ。姫守が言うように、ざっ……、ざっ……、と言う足音が、遠くの方から聞こえていた。
 随分とゆったりとした歩みだった。足の悪い人、或いは疲れ切って足を引きずっている、そんな印象を与える足音だ。
 樹の周りはうっすらと明るかったが、遠くまで照らすような眩さはなかった。足音の主は、暗闇に塗れている。
 やがてぼんやりとした照明の下に現れた姿を見て、二二は思わず息を飲んだ。
 暗闇から現れたのは老婆だった。相変わらず、花柄のカットソーと手に持ったノコギリが不釣り合いだった。彼女の唐突な登場に二二が悲鳴をあげなかったのは、彼女の縋るようなはっきりとした視線が、真っ直ぐ樹に向けられていたからだ。
「あぁ……」
 老婆は、溜め息のような、懇願のような、弱々しい声を絞り出した。彼女はまるで最後の力を振り絞るように、一歩一歩、歩みを進めている。
 やがて老婆が枝葉の下に辿り着く。
 老婆はノコギリを持つ手をゆっくりと挙げて、赤黒く染まったそれを、自身の首元にピタリと当てた。二二は咄嗟に視線を落として、また地面を睨む。すぐに耳に届いたのは、まるで何か硬いものを捻るような、ギチギチ、と言う鈍い音。そしてブチブチと何かが切れる音。二二は耳を塞いだ。
「な、何が――」
「お婆さんが、自分の首を……」
 視線を逸さなかった姫守が、反射的に状況を答えようとしたが、急に冷静になったように、言葉の途中で口を閉ざした。しかし彼が最後まで言わなくても、老婆が何をしているのか、二二にも容易に想像が出来てしまった。
 やがて、ボキッと言う鈍い音がして、それから、グチャっと言う湿っぽい音と共に、何か重いものが地に落ちた。二二が少しだけ視線をあげると、離れ離れになった胴体と頭部らしき物体が、それぞれ転がっているのが見えた。
「……あ」
 姫守が何かに気付いたような声を上げるので、二二もつられてそちらを見る。樹の枝がするりと伸びてきて、地に転がっている老婆の頭部にくるりと巻きついた。まるで意思のある人の腕のような動きだ。枝はしっかりと老婆の頭部を捕まえると、ヒョイっと抱え込むようにして引き上げていった。
 まるで元からその場所にあったように、老婆の頭部は樹の実の一つに収まった。全て真っ白の実の中で、唯一まだ色を残した実だった。これから髪の毛が抜け落ち、唇の色を失い、開いたままの目玉はゴロリと落ちるのかもしれない。当然だが過程を確認する勇気のない二二は、すぐにまた視線を地に落とした。
「見つけた」
 樹を見上げたままの姫守が不意に呟いた。低く小さな声だったが、それはやけに暗闇に響いて感じた。
「な、何だ?」
「頭だよ」
「……頭があるのは知ってる」
「今回の犠牲者たちの顔が……章たちの頭が、ここにある。樹にぶら下がっている」
 二二は反射的に顔を上げかけたが、すぐに強い意思で再び俯いた章たちの無残な頭部を見てしまったら、きっと一生後悔することになるだろう。二二は震える声をなんとか絞り出した。
「あ、章たちの……?」
「頭はここに集められていたんだね。警察がいくら探しても見つからないわけだよ」
「じゃあ、この樹は……」
「僕たちが探していた、怪異の本体だろうね」
 この立派な樹が怪異の正体。まるで白い実をつけるように、人の頭部が鈴生りとなったこの樹が。
 すべての元凶が目の前にいるというのに、二二は視線をむけることすらもできない。
 二二は自分の情けなさを自覚しつつも、自分の弱さを認めるように瞳を伏せた。それは目の前の現実から逃れるための逃避に近かった。
「あっ」
 また姫守が声をあげた。今度は意表をつかれたような声だったので、二二はすぐに瞳を開けて、姫守の姿を探した。
「えっ?」
 今度は二二が驚愕の声を上げる番だった。
 いつの間にか視界は明るくなっており、見慣れた室内の光景が広がっていた。二二と姫守はソファに横並びで座っていた。テーブルにはスマートフォンとヘッドマネキンが二つ、記憶通りの場所に置いてある。
「……現実世界に戻ったのか?」
 二二は半ば無意識にスマートフォンを手に取って時刻を確認する。ちょうど日付が変わったところだった。
(ピンポーン)
 同時にインターホンが鳴って、二二は驚愕のあまりスマートフォンを取り落とした。モニターを確認しようと思う間もなく、玄関扉を激しく叩く音がする。
「二二くん! 大丈夫か!?」
「つ、築地さん?」
 小走りに駆け寄って玄関扉を開けて、二二が顔を覗かせると、築地は明らかに安堵した様子で、脱力したように玄関扉に寄り掛かった。
「ああ、よかった……姫守くんも無事だな?」
 答える前に、ゆっくりと追いかけてきた姫守が二二の後ろに立つ。二人の無事を確認してから、築地は疲れたような深い溜め息をついた。その様子は二人の無事を喜ぶものにしては不穏な空気を漂わせていた。
「今、杏子ちゃんを護衛している警官から連絡があった……」
「……まさか……」
「二十三時五十五分だ。目を離したのは、ほんの一瞬だった。飲み物でも入れようと思ったんだろう。杏子ちゃんはちょっと席を立って、キッチンの方へ行った。もちろん警官もすぐに後に続いた。でも、彼女は――」
 築地は歯が砕けるのではないかと思うくらい強く食いしばって、悔しさを滲ませながら吐き捨てた。

「消えてしまった……」

 築地はそのあとも何か言っていたが、ほとんど二二の記憶には残っていなかった。気がついたら彼の姿はなくて、玄関扉は閉まっていた。
(――消えた?)
 二二は茫然と玄関に立ち尽くしていた。
 章、裕子、茜、島崎、鉄男……これで五人。六人が死んで、一人が行方不明になるサイクルのはずだ。今回の被害者は首を切り落とされて殺されなければならない。しかし杏子は行方不明になった。何かがおかしい。二二の知らない何かが起こっている。
 後ろに立っていた姫守が、大きく息を吐きだした音が聞こえた。
「やっぱり杏子ちゃんは駄目だったか。せっかく頑張ったのに、残念だったね」
 振り返ると、姫守はいつも通りの優しい笑顔を浮かべていた。
 二二はあっと声を上げた。姫守の首元の痣がすっかり消えている。二二が指摘するまでもなく、姫守は既に痣が消え失せたことを知っているかのように微笑んで見せた。
「六人が死んで、一人が消えたんだ。これでもう君は大丈夫だよ。鏡を見てみたら? 君の痣も消えている」
 二二は言われるがまま玄関扉の横に立てかけてある姿見へ視線を移した。確かに首元の痣はすっかり消え失せていた。
「ろ、六人……? でもまだ、五人……」
「六人だよ」
 二二の言葉を遮ってまで、姫守ははっきりと断言した。
「章、裕子、茜ちゃん、島崎、鉄男くん、そして――僕の父親」
「え……」
「僕の父親は死んでいるんだ。首を切られてね」
 姫守はまるで夕飯の献立でも話しているようにいつも通りで、自分がどれだけ突飛なことを言い出しているか、自覚していないようだった。二二が唖然と見上げていると、彼はちょっと困ったように笑って見せる。
「そんな顔しないでよ。君に秘密にしていたのは、君を守るためなんだよ」
「ど、どういう意味だ……?」
「君も知ってるでしょ。怪異にまつわる情報を知れば知るほど、怪異は近くなる。父親の存在は最後まで内緒にしておきたかったんだ」
 つまり意図的に重要な情報を伏せることで二二を守ってくれていた、ということだけは、かろうじて二二にも理解できた。混乱した二二を置き去りにしたまま、姫守は続ける。
「それに、父親が一人目の犠牲者であることを明かしたら――」
 姫守の声は不思議な響きがある。まるで油断を誘うような穏やかな声だ。
「肝試しの前から僕の首に痣が出ていたことを、勘付かれてしまうかもって思ってね」
「え……?」
 二二は言葉の意味が飲み込めず、固まっていた。
「ネタばらしをしてあげようか?」
 姫守は自分の手持ちを見せびらかすように、芝居がかった動作で両手を広げた。それはまるで、待ち望んだ舞台を目の前にした役者のようにも見えた。
「父さんが死んだのは一年前だ。僕は父さんが死んだ理由を知っていた。本人から話を聞いていたからね」
 姫守は鞄からハードカバーの本を取り出した。カバーは取り外れていたから、すぐに表紙が目に飛び込んできた。グロテスクな首をたくさんつけた大きな樹のイラスト――そして「鈴生りの樹」と言うタイトル。
「怪異の正体を正しく言えば、この本と言うことになるんだろうね。そして怪異を生み出したのは僕の父だよ。ちなみにこの本は書店にも並ばない自費出版本だったから、いくらネットで調べても出てこない」
 姫守はまるで宝物を扱うような丁重な様子で、鞄に本を仕舞い込んだ。
「最初の事件は全くの偶然だった。本を寄付した児童養護施設で、まるで本の内容に沿うような怪事件が起こったんだ。本の影響に違いないと父は歓喜してね。同じような事件が起こることを期待して沢山の人に本を見せたけど、何も起こらなかったんだ」
 固まったまま何も言わない二二を眺めて、姫守は気遣うような優しい視線を向けたが、話すことはやめなかった。
「そのうちに、また同じような怪事件が起きた。死んだのは文系部に所属する学生だった。部長が大層な心霊マニアらしくてね。父の本をどこからか手に入れて部室に並べていたんだ。父を盲信していた彼は、部員を連れて聖地として廃墟となった児童養護施設を訪れていたようなんだ。そこで父はまさかと思って、別の集団に同じことを試した。それが例の家族だね。すると今度こそ、実験は成功したんだ」
 二二は震える息を吐き出した。喉がカラカラになっていたが、構わず口を開く。
「肝試しと本が、怪異の発動する条件だって言いたいのか」
「正確に言うと、少し違うよ」
 姫守は二二が会話に参加したことを喜ぶように、にっこりと微笑む。
「本を読むことは条件にならない。遊び半分の肝試しにも意味がない。怪異が実際に存在し、怪異に殺されるのではないか……そう信じることに意味がある。実際例の家族も最初は子どもしか痣が出なかったからね。子どもは感受性が強いから信じやすいんだろう。彼が死んで、家族旅行の写真に不気味な人物が写り込んでいることに気付いて、ようやく全員に痣が出たわけだけど」
 姫守は優しげな微笑みを崩して、嘲笑うような表情を浮かべた。
「そこで初めて父さんの首に痣が浮かんだんだ。笑えると思えない? 父さんは自分の本が怪異の原因に違いないと期待していたくせに、内心では全く信じていなかったんだよ。父さんは今さら馬鹿みたいに怯え始めて、僕に全ての経緯を話した。僕は簡単に信じたよ。だって証明するように父さんが死んで見せたからね。でも僕は――」
 姫守は自身の首元にそっと触れた。その首にはもう痣が浮かんでいない。
「僕は、痣が浮かんだのにも関わらず、全く怪異に遭遇しなかった。何故かはわからない。生まれつきの体質かもしれないし、僕が全く恐怖心を持たなかったからかもしれない。それでも最初は気長に待てばいいか、なんて思えたけど……そのまま一年が経ってしまったから、流石の僕も焦り始めてね。いいタイミングで現れたのが章だった。肝試しで行く場所を紹介してくれなんて話を持ちかけてきてね。この機会を利用しようと思ったんだ。章にこの本を貸して――もちろん父の本であることは伏せてね――民家の家族が本と同じように死んだらしい、なんて面白おかしく話したら彼はすぐに乗ってきたよ。きっと章も最初はお遊びのつもりだったんだろう。痣も出ていなかったしね。でも現地に行って雰囲気に飲まれたのか、声が聞こえたなんて言い出してね。その時に痣が浮かんだのを見たよ」
 そして章は死んだ。それは姫守の予定通りの出来事だった。
「でもそこで、妙なことが起き始めた!」
 姫守は急に声を弾ませた。まるで無邪気な子どものような全く悪意のない、ただ嬉しさだけを前面に表現したような笑顔を浮かべた。
「僕が撮った写真に怪異が写り込んだんだ! 僕の写真に! こんなこと今まで一度も起こらなかったのに! これは本当に素晴らしいことだよ!」
 それから姫守は慕うような、愛着を持った眼差しを二二に向けた。
「すべて君を中心に起こっていたことだよ。君は怪異の内容を何も知らない。それなのに写真に怪異が写り込み、アレは一心不乱に君を見ていた。アレは最初から君の首を狙っていたんだよ。だから君は、写真を見て怪異の姿を認識しただけで、痣が現れたんだ」
「だから……お前は、オレに近づいたのか。側にいれば、怪奇現象に遭遇できると思ったから?」
「もちろん最初はそうだったけど、早いうちから目的を切り替えたよ。つまり、君を守るための行動が最優先になった。君は怪異を寄せつけるけど、身を守る術を持っていないようだったから。すぐにやられてしまうと思って」
 今まではクロイが二二を守っていた。急にクロイがいなくなったことで、二二を守る防壁がなくなったのだから、二二が怪異に対して異常なほど無防備に見えてしまったのも無理はない。
「杏子たちに痣が出たのは……? みんな痣が出た時点では、写真を見たくらいで肝心の怪異の正体を知らなかったはずだ。お前の説明じゃ辻褄が合わない」
「それは実に簡単な話だよ。彼女達は最初から怪異の正体を知っていたからね」
「は……?」
「知っていたのは、首をぶら下げた大きな樹のイラストと、本のタイトルくらいだけどね。この本は章に貸しておいたんだ。最初に本の内容を少し伝えておいて、現地でこの本と同じように家族が死んだことを伝えれば、きっとみんな凄く怖がるんじゃないかな――そんな風に言ったら、章は喜んで乗ってきた。杏子ちゃんあたりが君に話す可能性があったけど、章はいかにもみんなを怖がらせようって感じで話すから、逆にみんな胡散臭いと感じたみたいで、都合が良かった。後は写真を見せて、この老婆が章の――君たちの首を狙っているのかもしれない、あの本と同じようにね、なんてほのめかしておくだけで、彼女たちはすんなり信じた。やっぱり現地に行った人は信じやすいから助かるね。簡単な仕事だったよ」
(……姫守は何を言っているんだろう?)
 話についていけない二二のぼんやりとした表情を見て、姫守は優しく笑って、ゆっくりと説明するように話を続けた。
「つまりね、章が死んだ次の日は、痣が出ているのは君と僕だけだったんだ。君がそこまで無防備だとは思わなかったから、僕は少し焦った。このままじゃ次に狙われるのは君だからね。だから鉄男くん達にも痣を出させることにした。でもそれだけじゃ君を守る盾には力不足だ。そこで裕子に全ての情報を伝えたんだ。父の書いた本の話、怪異の正体、そして現実に起こった怪事件を全て伝えて――」
「なっ……」
 二二は荒い息のような声をあげた。何度か呼吸を繰り返し、無理矢理に感情を落ち着かせて、震える声を絞り出した。
「なんで……あの先輩は、関係ないだろ。なんでそこまで……」
「まぁ、確かに関係はないね。だからこそ、彼女に痣が出る可能性は低かったけど、試してみて損はない。彼女なら全てを伝えても、君に情報を漏らす心配はないからね」
「まさか、島崎先生も……?」
「彼は章の死体を見ていたから、比較的信じ易くて助かった。まぁ、別に誰でもよかったんだけど。僕と君が助かるためには、後二人を巻き込む必要があったからね。実は言うと、他にもいろいろ保険はかけてあったんだけど、結局みんな信じてくれなくてね」
 裕子や島崎は、そんな理由で巻き込まれたというのか。杏子たちも、姫守が意図的に情報を流したせいで標的にされた。それに悪意がないとはいえ――いや、悪意があれば、人間的に思えてどれほど安心できただろう。悪意がないからこそ目の前で優しげに笑う青年が恐ろしい。二二はゆっくりと後退りして、姫守から距離をとる。二二は怯えた表情をしていたから、姫守は心外だと言うように目を見張った。
「なんでそんな顔するの?」
 二二が非情な人間と思わせるような、悲しげな表情だった。
「君が無事なのは僕のおかげだよ? この六日、僕がどれだけ君のことを気遣って、君のために行動してきたと思ってるの?」
「……何のために、他の人を犠牲にしてまで、オレのことを?」
「何度も言ってるでしょ。君を守るためだよ」
 鈍感にも程があるよ、とでも言うように、姫守は呆れた視線で二二を見据えた。
「君は特別なんだよ。怪異を寄せつける。怪異に好かれる才能を持っている。僕にないものを持っている。だから僕は君のそばで怪異を楽しみつつ、同時に君を守ったんだ」
「オレには……お前の行動が、オレのためとは思えない」
 一言を発するたびに、二二の心臓は激しく鼓動した。
 目の前の存在が恐ろしい。つい先ほどまで普通に会話できていたことが信じられない。でも黙り込んでいたら彼の行動を肯定したように思えてしまって、二二はどうしても口を開かなければならなかった。
「お前の行動は、全部、自分勝手な、自分のための行動だ」
 姫守が怒り出したらと思うだけで身の竦むような思いがしたが、姫守はいつも通りの、軽口を叩くような様子で笑みを浮かべた。
「君はいつも痛いところをつくよねぇ。まあ、いいよ。確かに君を守ろうと思ったのは僕の勝手な判断だ。君に守ってくれと頼まれたわけじゃない。でも、君だって死にたかったわけじゃないでしょ?」
「それは……」
「僕がいなかったら、とっくに死んでいたよね?」
「……確かに、そうだけど――」
「結構大変だったんだから、少しくらいお礼を言ってくれてもいいんじゃない? ほとんどまともに寝てないし、外出中だってずっと君のことを見守っていたんだから」
「……それは……確かに、感謝してるけど……」
 流されて頷きかけていた二二は、ふと違和感を覚えて言葉をとめる。外出中も見守っていたというのは、どういう意味だろう。
「僕はずっと、君を見守っていたよ」
 姫守は玄関横にあった置き時計を手に取った。
「これには小型の隠しカメラを仕込んであるんだ。つまり、パソコンさえあれば、リアルタイム遠隔監視ができるんだよ」
「……は?」
「他の部屋にも、幾つか置かせてもらったから。どの部屋にいたって僕は君を見守ることができる。君が外出する時は、仕方がないから僕も用事を切り上げて、急いで君のもとへ駆けつけてあげていたんだからね。全く、君は怖がりのくせに無防備に夜のコンビニで出かけるんだから」
「……え? な、なんで?」
「なんでって? 一人じゃ危ないからだよ」
「…………」
 二二は目の前が真っ白になったような錯覚を覚えた。今まで見ていたものが、すべて紙にかいた紙芝居だったような、信じていたものが崩れ去っていくような衝撃。
 二二を守るために、姫守が善意だけを持って行動していたのは事実だろう。そこに悪意は全くない。ただ姫守は、よくあるトロッコ問題――複数人を助けるために一人を犠牲にするか、なにもしないか、というやつ――で、ジレンマなく線路を切り替えることができるのだ。その一人が二二であったから、姫守は躊躇なく六人を犠牲にした――そして彼はいつもの微笑みを浮かべてこう言うのだ。よかったね、僕のおかげで助かったでしょ、と。
「……頼む、出てってくれ」
 二二は震える声を無理矢理に絞り出して、壁にすがるようにしてなんとか立っていた。
「お前には、確かに、助けてもらった。だから……築地さんに連絡して、お前を無理矢理ここから追い出すような真似は、したくない」
「……まぁ、いいけど」
 姫守はまるで子供の癇癪に付き合う母親のような、困ったような微笑みを浮かべていた。全く自分に原因があるとは考えてもいないような様子だ。
「たまには一人になりたい時もあるだろうからね」
 だから全く検討外れなことを言われても、二二はもう傷つかなかった。
「何かあったら、すぐに駆けつけるよ。大丈夫、合鍵は持っているからね」
「なんで……いや、もう、それはいい。いいから――」
 姫守は手早く自分の荷物をまとめると、玄関扉を押し開けて、最後にいつも通りの笑顔を二二に向けた。
「また明日ね」
 そうやって姫守は、すっかり静まりかえった夜道を、全く躊躇することなく帰って行った。まるで、明日も二二と笑い合えることを疑わないような調子だった。
「……」
 二二は泣かないようにぐっとこらえていた。まるで泣いたら現実に負けを認めるようだと感じているかのように。それでも忌まわしい置き時計を伏せることを忘れなかった。本当は壊してやりたかったけど、そんな気力はどこにも残されていなかった。
 
(ガシャンッ)

 急に大きな音がして、思わず体を硬くした。
 恐る恐る振り返ると、寝室に続く扉の前に、何かが落ちていた。それはボールペンだったり、ティッシュケースだったり、ベッド横の置いてあった時計だったり、或いは、指先ほどの大きさしかない、超小型のカメラそのものだったりした。転がっているそれらは、全てめちゃくちゃに破壊されていた。
 寝室の扉が少し開いていた。
 そこから真っ黒で細長い手がニュッと伸びていて、まるでたった今、握っていたものを解放したように、拳を中途半端に開かせていた。
「……クロイ?」
 二二の呼びかけに応えるように、開いた手は再び拳を握り、そして静かな動作で寝室へ消えていく。二二はすぐに駆け寄って寝室を覗いた。真っ暗な室内にはクロイの姿はなかったが、明らかな存在感は感じた。
 クロイが戻ってきた。そしてクロイは早速、二二のために姫守の仕掛けた小型カメラを全て破壊してくれたのだとすぐに理解した。
(クロイ、良かった……)
 苦しい現実は何も変わっていない。それでも側に寄り添ってくれる味方が一人でもいることが、無条件で二二を守ってくれる存在がいることが、二二を心から安心させた。
 張り詰めていた緊張が解れたせいか、ドッと疲れを感じて、二二は思わずベッドの方へ視線を向けた。憔悴しきった身体はこのまま寝てしまいたいと主張するが、パンク寸前の精神は、もう少し冷静になってから寝るべきだと主張する。
 結局二二はベッドから離れた。このまま寝ても、きっと悲しい悪夢を見るだけだと思ったからだ。とはいえ、現実を直視するには精神が疲労し過ぎていると感じた。こんな状態で、例えば、姫守の意図的な行動によって章達が死んでしまったことや、最後まで二二を気遣ってくれていた杏子が行方不明となってしまったことを考えたら――
 急に存在感を増した、大きくてとんでもなく重い真っ暗な感情が、胸を押し潰しているような感覚を覚える。チカチカするほど目頭が熱くなって、じわじわと涙が滲み、あっという間に視界を支配する。熱い何かが喉から飛び出てきそうだった。
 二二は考えを振り払うように、勢いよく頭を振った。考えないようにしないと、今にも叫び出しそうだった。
 忘れるのではない。耐えられるようになるまで、考えないようにするのだ。
(熱いシャワーでも浴びて、すっきりさせよう……)
 そして寝る前に、温かいミルクを飲んで、心を落ち着かせてから眠ろう。朝一番で鍵を変えて、それから築地に状況を聞いて、そして両親に連絡しよう。一度実家に戻るのもいいかもしれない。
 着ていた服を脱いで、浴室に入った。
 無意識のうちに、浴室鏡に映る自分の姿を見つめた。首の痣は消えていた。紛れもなく老婆にまつわる怪異は終了したのだ。そして今度は杏子が……これ以上は、今は考えるべきではない。
 温かいシャワーを全身に浴びながら、頭を真っ白にさせる。しばらくそうしているうちに、ようやく余裕が生まれてきた。少なくとも水道代が勿体無いと思えるくらいの余裕が。
 シャワーを止める。十分に温まったので、もう出ようと浴室ドアに目を向けた。
 浴室ドアの擦りガラスの向こうに、クロイが二二を見守るように仁王立ちしている。二二は口元に小さな笑みを浮かべた。クロイはいつも二二がシャワーを浴びている間、そこに立っていたことを思い出したからだ。数日間留守にしていたくせに、戻った途端、クロイは何事もなかったかのようにいつものルーチンワークをこなすつもりらしい。
 ふと、ガラッと、扉が開くような音がした。
「え?」
 浴室ドアが、ほんの数センチほど、開いていた。
 真っ黒な四本の細長い指が、浴室ドアの枠にかけられていた。擦りガラスの向こうでは、真っ黒な影が、変わらず仁王立ちしている。先ほど見た光景と違うのは、浴室ドアに伸びた細長い腕だけ。
「クロイ……?」
 呼んでも返事はない。それはいつものことだ。でも、クロイが浴室に入ってきたのは初めてのことだった。
 カラ、と乾いた音が鳴った。ドアがまた少しだけ、開いていた。
「クロイ……」
 彼は本当にクロイなのだろうか?
 擦りガラス越しに見える、その影のような姿がよく似ているだけで、彼がクロイだと言う保証はない。
「クロイだよな……?」
 彼は何も答えない。二二の反応を眺めるようにそこに立っている。
 身体が冷え切っていくのを感じた。抑えていた恐怖がまた全身を支配していく。クロイだったら二二を怖がらせるような真似はしない。
 確かに今まではそうだった。だが、これからもそうである保証は、どこにもない。
 クロイは本当に良心的で善意的な存在なのだろうか。
「……っ……」
 思い切って浴室ドアを開け放つ。誰もいなかった。
 二二は濡れた体に構わず服を着る。寝室に飛び込んで、室内の様子を探る余裕もなくすぐさま電気を点けた。電気が点いた明るい室内には、真っ黒な影が隠れるような隙間はない筈だ。二二は電気をつけっぱなしのまま、ベッドに潜り込んで、布団を被った。
(オレはなんで怯えてるんだろう。あれはクロイだ。あれは……)
 音もなく室内の明かりが落ちた。今までだったら、電気の消し忘れと勘違いしたクロイが善意で消したのだと苦笑しただろう。けれど今は、とてもそんな風に思えなかった。
 影が紛れやすい暗闇では、彼が何をしたって二二にはわからない。
 温めたはずの体は、まるで凍えているように、ガタガタと震えていた。
 真っ黒の室内で、二二はただひたすら祈るように、朝が来るのを待った。