モラトリアムな恋の終焉

 ろくでもない。ほんとうにろくでもない提案が、眼前の彼女から飛び出してきたものだから、私は思わず「え、なんて?」と聞き返してしまった。

「だからさ、私と彼氏をシェアしようよ。そっちだって、あいつがいないと困る感じやろ? それ、私もやし。だからさ、私と半分こにしようよ」

 眉をひそめる私に、彼女はきっぱりと言い切った。
 私は激しく困惑する。「あまりにも倫理観がない」「おかしすぎる」……そんなことを考えながら、私は、まじまじと、目の前の女性――私の彼氏の彼女(・・・・・・・・)という謎の属性を持つ相手のことを、あらためて眺めてしまった。

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 彼女……斎藤理恵と出会ったのは、ほんの数十分前のことだ。

 大学の講義が終わり、「今日はこのあとに予定もないし、図書館にでも行って本でも読もうかな」などと考えていた私の元に、聞き慣れない声が降ってきた。

「あの……小野さんですよね? 小野秋子さんですよね?」

 視線を上げると、面識のない女子学生が立っていた。
 大学に入学して三か月。同学年の顔ぶれはだいたい把握しているつもりだったが、目の前の彼女は、これまで一度もキャンパスで見かけた記憶がない。「こんな子、いたっけ?」「何の用だろう」と少し警戒しながら、「そうですけど」と短く返事をした。
 すると、彼女は私の警戒心をさらに跳ね上げるような言葉を、事もなげに口にした。

「実は、亀岡のことで話したいことがあって。亀岡大樹って知ってますよね?」
「あ、えっと……彼の、お知り合いですか?」

 思わず口調が尖った。この時点で、私は得体の知れない嫌な予感を抱いていた。

 ――亀岡大樹というのは、つい数週間前から付き合い始めたばかりの、私の恋人だ。
 出会いのきっかけは、大学入学後に始めた「小論文の添削」のバイトだった。週に一度、中高生が書いた答案をまとめて受け取り、空き時間を使って「日本語がおかしい」「構成がわかりにくい」といった赤字を入れる。添削を終えた原稿を事務所へ持っていくと、社員が内容を確認し、「今回の添削は丁寧だった」「次回はここを意識して」といったフィードバックをくれる。その確認作業が終わるまで、私たちバイトスタッフは事務所の片隅で待機していなければならなかった。
 彼と出会ったのは、その手持ち無沙汰な待機時間だった。
 読書をして過ごしていた私に、隣に座った彼が「その作家、僕も好きなんです」と声をかけてきた。共通の趣味、同じ年齢、そして同じバイト――いくつもの共通項が重なり、会話が弾むようになるまで時間はかからなかった。少しずつ距離が縮まり、数週間前にようやく付き合うことになったのだ。

 そんな恋人の名前を呼び捨てにする彼女。どう考えても不穏な気配しかしない。

「ここで話すのも、ちょっとあれやし……。小野さんに、亀岡のことで相談したいことがあって……」

 彼女は複雑な笑みを浮かべつつも、周囲をはばかるように声を潜めた。ろくでもない予感は、この瞬間に確信へと変わった。

「……じゃあ、カラオケでも行きます? そのほうが、話しやすいですよね」

 私の提案で、私たちは大学近くの格安カラオケボックスへと向かった。
 受付を済ませ、狭い個室に入るまでの間、何を話せばいいのかわからず「梅雨が明けて急に暑くなりましたね」「暑くなるのは嫌ですね」「大学の講義、1限目はしんどいですね」と、どうでもいい話で場を繋いだ。
 けれど、内心では心臓がうるさいほどに鳴っていた。
 “修羅場”。
 マンガやドラマの中でしか見たことのない文字列が、私の頭の中をぐるぐると、恐ろしい速さで駆け巡っていた。

「なんかさ、あれやんね。“こいつなんやねん”みたいになってるよね?」

 カラオケの個室に入るなり、彼女は、言葉を崩して、そういった。その瞬間、私は少し気持ちが楽になった。つられたように、私もふっと表情をゆるめた。

「正直にいうと、割と……。「誰やねん」「なんやねん」みたいにはなってます」
「そりゃ、そうやろな」

 軽く彼女も笑った。個室に入るまでの会話で、彼女の名前が斎藤理恵ということ。他大学の学生であること。私と同じ大学一年生であることを知った。わざわざ他校から私を特定して大学に乗り込んできた。その事実だけで、面倒なことが起きていることは想像できた。

「うーん。どういったらいいんやろ。まぁ、たぶん察してると思うけど……私もタイちゃんと――亀岡と付き合ってるねん」

 理恵は意を決したように言って、自分のスマホを操作して、画面を私に差し出した。そこには、亀岡と彼女のツーショットが映っていた。背景は、先月オープンしたばかりの駅ビル。亀岡は、私に見せるのと同じ、穏やかな笑顔を浮かべている。

「ですよね……」
「まぁ、察しがついてたよな」
「そりゃまぁ……。わざわざうちの大学に乗り込んできた時点で、そういう流れやろうな、とは思ってました」

 理恵は肩をすくめて笑った。そして、彼とのなりそめをゆっくりと語り始めたのだった。

「私ら、サークルが一緒でさ……。このへんの大学生でやってる“映画研究会”っていうサークルがあるんやけど、そこで知り合って。好きな映画監督が同じやったことがきっかけで仲良くなって……」

 理恵の話を総合すると、どうやら亀岡大樹という男は、「大学生になったからには絶対に彼女を作りたい」という強固な意志を持っていたらしい。それで、タイパを意識したのかは定かではないけれど、サークルで理恵を、バイト先で私を、それぞれ「いいな」と思って同時進行で口説いていたらしい。
 彼としては二股をかける気なんてさらさらなく「どちらかと付き合えればいい」と、思っていたら、予想に反して二人とほぼ同時に付き合うことになってしまい、真相を打ち明ける勇気も誠実さもないまま、なし崩し的に二股を始めてしまった……というのが事の真相のようだった。
 理恵は、大樹がデート中にこそこそとスマホを操作しているのを目撃して、なんとなく怪しさを感じたのだという。そして、彼のスマホを勝手に操作して、私の存在を知ったようだった。

「あほらしい。同時進行で口説くとか……迷惑すぎるわ」

 ようやく絞り出した私の言葉に、理恵は「ほんま。ほんま。あほやねん」と大きく頷きながら、どこか楽しげに目を細めて私を見た。

「で、ここからが本題なんやけど。小野さん、あいつと別れる気ある?」
「えっ……それは……」

 即座に「はい」とは言えなかった。

 二股をかけられた時点で、彼には愛想が尽きていた。そもそも私は、彼に本気で惚れていたわけじゃない。「大学生になったんだし、彼氏がいてもいいかな」「趣味が合うし、お試しで付き合ってみようか」くらいの軽い気持ちだった。熱烈に惚れて……彼以外は考えられない! というような気持ちで付き合っていたわけではない。

 だから、別れてもいいはずなのだけれど……別れられない理由があった。

 それは、友人たちに「彼氏ができた!」と得意げに報告してしまっていたことだ。だって、大樹はレベルの高い大学の学生だったのだもん。かなり賢い国立大学に通っていたから「賢い彼氏ができた!」と、はしゃいで、周囲に報告してしまったのだ。
「えー! 国立大の彼氏とかすごい」「かっこいい!」と友人たちに言われて、かなり得意にもなっていたのだ。それなのに……付き合って数週間で、「二股されてたので名門国立の彼氏とは別れました」なんて、惨めすぎて言いたくない。まぁ、話のネタとしては面白いかもしれないけれど、たった数週間で彼氏と別れたなんて話は、私にはちょっと笑い話にできない。

「そうやんな。あんな彼氏でも、彼氏は彼氏やもん。いろいろと事情があるよなぁ……」

 私の迷いを見透かしたように、理恵はニヤリと笑った。そして、まるで天気の話でもするような気軽さで言ったのだった。

「じゃあさ、私と彼氏をシェアしようよ。お互いにお互いのことを許してさ、このままあいつには二股をしといてもらおうよ」

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「いやいや。ちょっと待って。彼氏をシェアするってどういうこと?」

「そのまんまの意味。お互いにタイちゃんが二股してるのを見て見ぬふりして、このまま交際をしていようよ! って提案してるねん」

 理恵は、さらっととんでもないことを言った。私はあっけにとられる。彼氏をシェアする? 浮気を黙認する? 私にはない発想だったし、そんなことは考えてもみなかった。

「私もな、タイちゃんと別れられへん理由があるねん。サークルに2個上の先輩がいるんやけど、その人がちょっと女性関係にだらしなくて……新入生にうっとうしい絡みかたしてくるねん。一応、先輩やからさ、あんまり強く言えへんやん」

 理恵は軽く肩をすくめて、手元のグラスについた結露を、細い指先でなぞった。

「で、タイちゃんがおってくれたら助かるねん。先輩も、さすがに同じサークル内に彼氏がおる後輩は誘ってこうへんと思うわけ。あいつを彼氏っていう『盾』にしておけば、面倒な虫除けになって、楽しくサークル活動ができるわけ。それに……」

 そこで一度言葉を切ると、理恵は私の目をごく自然に覗き込んだ。

「そっちだって、今すぐ別れるのは嫌やろ? いろいろと事情もあると思うし。それに、そもそも私らは別に悪くないやん。悪いのは同時進行で女の子を口説いてたタイちゃんやん。やったら、私らだけで結託して、あいつのこと都合よく利用し倒せばいい。そう思わへん?」

 理恵の言葉は、まるで魔法のような説得力を持っていた。
 道徳的には、絶対に「ろくでもない」ことだ。けれど、彼女が口にする「盾」だの「利用」だのという言葉は、不思議と私の胸にストンと落ちたのだ。

「でも、そっちはいいの? 彼氏を他の女とシェアするなんて嫌じゃない? ふつうは、修羅場になって取り合うものじゃない?」

 思わず口をついて出た私の疑問に、理恵は意外そうな顔をして、それから鼻で笑った。

「あほらしい。だってさ、よく考えてみて。所詮、大学生の恋愛やで。大学一年生のときの恋人と結婚する人なんて、そんなにおらんわ。どうせ、数年付き合ったら別れる運命なんやし、いちいち必死になって取り合う価値なんてないやろ」

 あまりにも冷めた、けれどぐうの音も出ないほど現実的な回答だった。彼女にとって恋愛は、人生のすべてではなく、あくまで生活を円滑にするための「機能」に過ぎないのかもしれない。
 確かに、それならいいのかもしれない。どうせ結婚する予定もない、大学生の期間だけのモラトリアムな関係だ。そこまで真面目に考えなくてもいいのかもしれない。

「じゃあ、やってみようかな。うまいこと二人でシェアしよう」

 私が腹を括ってそう告げると、理恵は「そうこなくっちゃ!」と満足げに身を乗り出した。

「大樹には秘密にしとくんだよね。黙ってるってことで合ってるよね?」 
「そう。あいつには何も言わん。自分が一番賢く立ち回っとると思わせておけばええねん」

 理恵は人差し指を唇に当て、「しー」と言って不敵に笑った。その顔は、まるで新しい遊びを思いついた子供のように楽しげだった。

「とりあえず、インスタにタイちゃんの顔写真を載せるのはナシ! 共通の知り合いが見てややこしいことになったら困るから……。彼氏が実在しているのか疑われるのが嫌なら、服とかカバンをさりげなく映り込ませるようにしよ」

「……あ、うん。そう、やね。SNSは、確かにそうかも。ややこしいことになりそう」

 私は濁った返事をした。理恵はというと、カバンから手帳を取り出し、カレンダーを開いた。

「私は、火曜と木曜の夜が暇やから、タイちゃんとサークル終わったあとに遊んだりすることが多いねん。そっちは? タイちゃんがおったほうがいい時間ある? シフトを組もうよ」

「シフトって……。めちゃくちゃやん」

 私は思わず噴き出してしまう。目の前でテキパキと「不誠実な彼氏の運用方法」を決めていく彼女が、どうにも面白かったのだ。
 共通の彼氏を巡って戦うはずのライバルが、いつの間にか、複雑な共同プロジェクトの相棒に見えてくる。こうして、私たちの奇妙な「三角関係」が幕を開けた。

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 彼氏をシェアすることにした私たちは、定期的にカラオケや喫茶店などで「報告会」を開くようになった。お互いにデート中に、相手と出会うことがあったらマズいので、デートの予定を共有して、相手がデートをしている場所は避けるようにしていた。

「そういえば、先週の土曜日やねんけど、アキとタイちゃんってイタリアン行ったんやんね? あの日、タイちゃんってば私とランチにパスタ食べたんよ。あいつ、2食連続でイタリアン食べたことになるなぁ」
「大樹ってそういうドンくさいところあるよね。私と夜にイタリアン食べるのわかってるんやから、ランチは和食とかにしたらいいのに」

 そんな他愛ないことを報告しあって、大樹の愚痴を言い合ったりした。本来ならば、彼氏をめぐって争うべき相手なのだけれど、私は理恵との関係に心地よさのようなものを感じてしまっていた。あっという間に親しくなって、互いのことを「アキ」や「理恵」と呼び合うようになっていた。

 なお、大樹のほうも二股をかけることになれてきたのだろう。私たちと付き合い始めて2か月もする頃には、精神的な余裕もでてきたのか、なかなか変わったことをすることもあった。大学の前期試験が終了する頃のことだ。

「なあ、これ見て。昨日、タイちゃんがくれたプレゼント」

 その日の報告会で、理恵が差し出したのは小さなハンドクリームだった。

「あ……。それ、私が愛用してるハンドクリームやん。なんで理恵に渡してるん?」
「やろ? 私が最近、「手が乾燥する」って話してて、そしたらプチギフトでくれたんやけど。要は、アキが「このハンドクリームがいいよ」と言ってた情報をそのままパクって『気が利く俺』を演出してるんやわ。ほんま、効率ええというか、なめとるというか……」

 理恵と私は一緒になって笑ってしまった。彼のほうも彼のほうで、二股をかける旨味を享受しているようだった。

「なんか、タイちゃん見てると、なにしとん(・・)ねんってツッコミたくなることあるわ」

 わざと怒ったような口ぶりで理恵が言う。私はというと、彼女の「とん」という言い方に、ひそかに面白さを感じる。私も理恵も、大阪の大学に通うために、大阪で一人暮らしをしているのだが、理恵の出身は京都で、私の出身は神戸なのだ。京都と大阪と神戸では、使われている関西弁が微妙に異なっている。
 しかし、長く一緒にいるうちに、いつのまにか私の神戸特有の「とん」という関西弁の言い回しが移っているようだ。私自身も京都特有の少し柔らかいイントネーションの関西弁の言い回しが移っていると感じることがあった。

「人間関係って、口癖をうつしあうことやなぁ。いややわ。タイちゃんにも大阪弁のアクセントうつされてるし」

 いつかそのことを指摘したときに、理恵はそんなことを言って笑ったものだった。
 彼氏である大樹にも私の口癖が移っていることはあった。しかし、私は彼氏の彼女(・・・・・)である理恵が、私の口癖やイントネーションをなにげなく口にするときのほうが、不思議な喜びを感じていた。