海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 昨日の夜、暗闇の中で跳ねた心臓の音は、ただの気の迷いだ。
 そう自分に証明するためだけに、私は今日もペダルを漕いで、あの高台の研究所へと向かった。

 引き戸を開けると、いつものようにカビと潮の混じった匂いが私を包み込む。
「あ、いらっしゃい。凪ちゃん」
 顕微鏡から顔を上げた涼平さんは、寝癖をそのままにした、いつもの少し抜けたお兄さんの笑顔だった。
 その間抜けな顔を見た瞬間、私はホッと息を吐き出した。

 ほら、やっぱり私は彼を大人の男性としてなんて見ていない。昨日のは、ただ暗闇と光の演出に酔っただけ。そう自分に言い聞かせながら、私はわざといつも以上にぶっきらぼうに鞄を置いた。
「相変わらず散らかってますね。今日こそはちゃんと片付けてくださいよ」
「うっ。善処します……」

 苦笑いしながら、彼が冷蔵庫からいつもの麦茶を取り出し、私の水色のマグカップに注いでくれる。
 トクトクという涼やかな音が響く中、不意に、グラスを握る彼の左手が視界に入った。
 薬指にはめられた、銀色の指輪。
 それを見た瞬間、昨日まではただの「安全の証」でしかなかったはずのその輪が、チクリと鋭く胸の奥を刺した。
(……気のせいだ)
 私は痛みを誤魔化すように、冷たい麦茶を一気に喉へ流し込んだ。

 決定的な瞬間は、静かな午後の作業の合間に訪れた。

 机の上で、不意に涼平さんのスマートフォンが短い振動音を立てた。
 何気なく画面に目を落とした彼の顔から、スッと、あの「気のいいお兄さん」の表情が抜け落ちた。
 代わりに浮かび上がったのは、私がこの夏、一度も見たことのない顔だった。
 目尻がひどく優しく下がり、口元に甘やかな笑みがこぼれる。それは、誰かを心の底から愛おしいと思う人間の、無防備で柔らかい表情。

「あ、ごめん。ちょっと電話、出てくるね」

 私には見せたことのない顔のまま、彼は足早に研究所のテラスへと出て行った。

 動いてはいけない。聞いてはいけない。
 頭では分かっているのに、ざわつく胸の鼓動に突き動かされるように、私は少しだけ開いた窓のそばへと足を踏み出していた。
 蝉時雨に混じって、窓ガラスの向こうから彼の声が聞こえてくる。

『うん、大丈夫。こっちの生活にも慣れたよ』

 耳に届いたその声は、私を子ども扱いする時の、あの少しおどけたトーンではなかった。
 ワントーン低く、落ち着いた、甘く響く声。
 それは間違いなく、「大人の男」が、「妻になる女性」に向ける声だった。

『……うん。俺も会いたい』

 心臓を、素手で鷲掴みにされたような感覚だった。

『ちゃんと食べてるから心配しないで。うん、指輪もちゃんとはめてるよ。傷つけないように気をつけてる』

 優しい笑い声が、夏の空気に溶けていく。
 それは、私が絶対に立ち入ることのできない、完璧に完成された「二人の世界」だった。あの指輪の向こう側にいる女性に対する、絶対的な愛情と誠実さが、言葉の端々から残酷なまでに滲み出ている。

 息が、できなかった。

 彼が私に向けてくれていた優しさは、ただの「迷子に対する親切」と変わらなかったのだ。
『一番最初に見せたかった』
 昨日、私をあんなにも有頂天にさせたあの言葉すら、東京の彼女への揺るぎない想いと比べれば、砂粒のようにとるに足らないものだった。

 自分についていた嘘が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
 恋なんてしていない。安全な大人だ。そうやって言い訳の壁を積み上げてきたけれど、本当はずっと前から気づいていた。
 私はもう、この「誰かのものになっている彼」を、どうしようもなく好きになってしまっている。

「ごめんごめん、待たせたね」

 電話を終えた涼平さんが、テラスから戻ってきた。
 その顔にはもう、先ほどの甘い熱はなく、いつもの「少し抜けたお兄さん」の笑顔が張り付いていた。
 それが今は、ひどく遠くて、残虐なものに見えた。

 私は水色のマグカップを強く握りしめ、顔を伏せた。

 馬鹿みたいだ。
 あんな絵本のヒロインみたいに、絶対に馬鹿な恋はしないと笑っていたのに。

 好きだと声を出せば、この居心地のいい場所は一瞬で崩壊し、彼に嫌われる。
 でも、この熱を飲み込んで笑い続けるには、息ができないほどに苦しくて、痛い。

 気がついた時にはもう、私はあの愚かな人魚姫になっていた。
 痛みを隠して歩き出す、呪いのような恋が、こうして幕を開けたのだ。