八月の終わりが近づき、夕暮れの空が日ごとに深い紫へと染まるようになっていた。
いつもなら、影が長く伸びる頃には「気をつけて帰りなよ」と追い返されるはずなのに、その日は違った。
「凪ちゃん。……今日は、もう少しだけ残っていかない?」
デスクの上の資料をまとめていた涼平さんが、不意に手を止めて振り返った。
その顔には、いつもの穏やかな微笑みではなく、何か重大な秘密を共有しようとする少年のような、無邪気な高揚が滲んでいた。
「凪ちゃんのおかげで、やっと準備ができたんだ。どうしても、見てほしくて」
彼に必要とされることが、こんなにも誇らしいなんて知らなかった。私は小さく頷き、自転車の鍵をポケットに突っ込んだ。
やがて、窓の外が完全に夜の色に塗り潰された頃。涼平さんは「いくよ」と短く告げて、研究所の照明をすべて落とした。
視界が、一瞬で闇に溶ける。
波の音だけが、開け放たれたサッシから室内に流れ込み、密閉された空間の静寂を際立たせる。
「これだよ」
暗闇の中で、涼平さんが水槽を覆っていた暗幕をゆっくりと引き剥がした。
その瞬間、私の瞳に飛び込んできたのは、息を呑むような青い光の群れだった。
水槽の中で、無数の小さな命が星屑のように瞬いている。
彼がこの夏、寝食を忘れて研究し、大切に育てていた発光性の海洋生物。揺らめく水流に合わせて、青白く、幻想的な光が、まるで銀河を閉じ込めたように空間を照らし出す。
「……すごい。綺麗……」
言葉が、震えた。
その淡い青い光は、隣に立つ涼平さんの横顔を静かに浮かび上がらせていた。顕微鏡を覗く時よりもずっと柔らかなその眼差しが、水槽の星空を愛おしそうに見つめている。
「ずっと手伝ってくれた凪ちゃんに、一番最初に見せたかったんだ。……ありがとう」
――一番最初。
その言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥で、ドクンと大きく心臓が跳ねた。
ただの暇つぶしだと思っていた。指輪のある、絶対に安全な相手だと思っていた。
なのに、青い光に照らされた彼の輪郭から、目が離せない。
顔に熱が集まり、肺が上手く酸素を吸い込めなくなる。闇の中で、自分の鼓動が雨音よりも大きく響いているような気がして、私は立ち尽くすことしかできなかった。
パチン、と。
無慈悲な音を立てて、天井の蛍光灯が灯った。
眩しさに目を細めた私の視界に、真っ先に飛び込んできたのは。
デスクに置かれた彼の手、その薬指で冷ややかに光る、銀色の輪だった。
冷や水を浴びせられたような感覚。
私はハッとして我に返り、火照った頬を隠すように乱暴に視線を逸らした。
「……まあ、毎日毎日、雑用につき合わされた甲斐はありましたね」
わざと生意気なトーンで言い捨てて、私は逃げるように鞄を掴んだ。いつもの私。可愛げのない、ただの生意気な高校生。そうでなければ、壊れてしまいそうだった。
帰り道、自転車のペダルを必死に踏み込む。
頬を撫でる夜風は十分に涼しいはずなのに、胸の奥に灯った微熱だけが、どうしても引いてくれない。
(違う。あれは、あの暗闇が変だっただけ。光が綺麗だったから、少し錯覚しただけ)
ハンドルを握る手に力を込める。
私は彼に恋なんてしていない。してはいけない。
だって、彼にはあの指輪がある。帰る場所も、愛する人も、ここではないどこかにちゃんとある人なんだから。
必死に心に鍵をかけて、私は夜の影の中をひた走った。
夏の終わりを告げる虫の声が、耳の奥で、ずっと鳴り止まなかった。
いつもなら、影が長く伸びる頃には「気をつけて帰りなよ」と追い返されるはずなのに、その日は違った。
「凪ちゃん。……今日は、もう少しだけ残っていかない?」
デスクの上の資料をまとめていた涼平さんが、不意に手を止めて振り返った。
その顔には、いつもの穏やかな微笑みではなく、何か重大な秘密を共有しようとする少年のような、無邪気な高揚が滲んでいた。
「凪ちゃんのおかげで、やっと準備ができたんだ。どうしても、見てほしくて」
彼に必要とされることが、こんなにも誇らしいなんて知らなかった。私は小さく頷き、自転車の鍵をポケットに突っ込んだ。
やがて、窓の外が完全に夜の色に塗り潰された頃。涼平さんは「いくよ」と短く告げて、研究所の照明をすべて落とした。
視界が、一瞬で闇に溶ける。
波の音だけが、開け放たれたサッシから室内に流れ込み、密閉された空間の静寂を際立たせる。
「これだよ」
暗闇の中で、涼平さんが水槽を覆っていた暗幕をゆっくりと引き剥がした。
その瞬間、私の瞳に飛び込んできたのは、息を呑むような青い光の群れだった。
水槽の中で、無数の小さな命が星屑のように瞬いている。
彼がこの夏、寝食を忘れて研究し、大切に育てていた発光性の海洋生物。揺らめく水流に合わせて、青白く、幻想的な光が、まるで銀河を閉じ込めたように空間を照らし出す。
「……すごい。綺麗……」
言葉が、震えた。
その淡い青い光は、隣に立つ涼平さんの横顔を静かに浮かび上がらせていた。顕微鏡を覗く時よりもずっと柔らかなその眼差しが、水槽の星空を愛おしそうに見つめている。
「ずっと手伝ってくれた凪ちゃんに、一番最初に見せたかったんだ。……ありがとう」
――一番最初。
その言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥で、ドクンと大きく心臓が跳ねた。
ただの暇つぶしだと思っていた。指輪のある、絶対に安全な相手だと思っていた。
なのに、青い光に照らされた彼の輪郭から、目が離せない。
顔に熱が集まり、肺が上手く酸素を吸い込めなくなる。闇の中で、自分の鼓動が雨音よりも大きく響いているような気がして、私は立ち尽くすことしかできなかった。
パチン、と。
無慈悲な音を立てて、天井の蛍光灯が灯った。
眩しさに目を細めた私の視界に、真っ先に飛び込んできたのは。
デスクに置かれた彼の手、その薬指で冷ややかに光る、銀色の輪だった。
冷や水を浴びせられたような感覚。
私はハッとして我に返り、火照った頬を隠すように乱暴に視線を逸らした。
「……まあ、毎日毎日、雑用につき合わされた甲斐はありましたね」
わざと生意気なトーンで言い捨てて、私は逃げるように鞄を掴んだ。いつもの私。可愛げのない、ただの生意気な高校生。そうでなければ、壊れてしまいそうだった。
帰り道、自転車のペダルを必死に踏み込む。
頬を撫でる夜風は十分に涼しいはずなのに、胸の奥に灯った微熱だけが、どうしても引いてくれない。
(違う。あれは、あの暗闇が変だっただけ。光が綺麗だったから、少し錯覚しただけ)
ハンドルを握る手に力を込める。
私は彼に恋なんてしていない。してはいけない。
だって、彼にはあの指輪がある。帰る場所も、愛する人も、ここではないどこかにちゃんとある人なんだから。
必死に心に鍵をかけて、私は夜の影の中をひた走った。
夏の終わりを告げる虫の声が、耳の奥で、ずっと鳴り止まなかった。


