海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 トタン屋根を打ち据える雨音が、鼓膜を塞ぐように部屋を満たしている。
 ゆっくり回る換気扇からは、急激に冷やされたアスファルトの青臭い匂いと、微かな土の香りが流れ込んできた。
 私は薄暗い部屋の隅で、膝の上に広げた『人魚姫』のページをゆっくりとめくっていた。波打った古い紙からは、カビと年月が発酵したような甘い匂いがする。

「うわ、懐かしい。それ」
 不意に頭上から声が降り注ぎ、肩が跳ねた。
 振り返ると、パソコンのキーボードを叩いていたはずの涼平が、縁の欠けた白い陶器のカップを片手に立っていた。カップの底で、溶けかけの氷がカランと気の抜けた音を立てる。
「俺が子どもの頃に読んでたやつだ。実家から資料を送ってもらった時に、親が間違えて隙間に詰めたんだと思う」
「……海洋生物の研究者が、人魚の絵本なんて持ってるから変なのだと思いました」
 私が呆れたように言うと、彼は「せっかくだから捨てずに取っておいたんだよ」と、悪びれもせずに笑った。

 彼の白いカップから漂う浅煎りのコーヒーの匂いが、古い紙の匂いと混ざり合う。
 私は絵本のページに描かれた、暗い海の底で泡になりかけている人魚の挿絵を指先でなぞった。

「昔から思ってたんですけど」
 雨音に負けないよう、少しだけ声を張る。
「このヒロイン、自己犠牲が過ぎますよね。自分の声を魔女に差し出してまで陸に上がるなんて、どう考えても割に合わない」
 涼平は私の隣にしゃがみ込み、絵本を覗き込んだ。彼の体温が、雨で冷えた空気をわずかに押し退けて伝わってくる。
「まあ、童話だからね。でも、声を出せないせいで王子様に想いを伝えられなくて、結局別の国の姫と勘違いされたまま結婚されちゃうのは、やっぱり可哀想だよね」

 大人の男の、どこか他人事のような優しい声。
 それが無性に鼻について、私は絵本をパタンと閉じた。分厚い表紙が重なる乾いた音が、雨音に吸い込まれる。
「声を出せないなら、文字を書けばいいじゃないですか。砂浜の砂に木の枝で書くとか、やり方はいくらでもあるのに。想いを伝えないで、勝手に『彼の幸せのために身を引きます』なんて、ただの自己満足ですよ」

 吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
 私なら、絶対にこんな馬鹿な真似はしない。声を失ってまで、報われない場所に縋り付くなんて理解できない。

 涼平は私のドライな言葉に気を悪くするどころか、喉の奥でくくっと笑った。
「凪ちゃんは現実的だなあ」
 彼はカップに口をつけ、薄くなったコーヒーを飲み込む。
「でもさ。歩くたびにナイフで刺されるように足が痛むのに、王子様と一緒にいたいからって、必死に痛みを隠して笑ってるんだよ。すごく健気で、ちょっと泣けると思わない?」

 その横顔は、絵本の中の王子様よりもずっと無防備で、残酷なほど穏やかだった。
「……大人はロマンチストですね」
 私は視線を逸らし、短く息を吐いた。
 馬鹿みたいだ。痛みを隠して笑うなんて、何の解決にもならないのに。

 やがて、屋根を叩く雨音が少しずつ輪郭をぼやけさせ、遠ざかっていった。
 雲の切れ間から、彩度の高いオレンジ色の夕日が、錆びたアルミサッシを通り抜けて床に長い影を落とす。
 濡れたアスファルトが熱を取り戻し、むせ返るような湿気が部屋を満たし始める。それを合図にしたかのように、遠くの林からヒグラシの甲高い鳴き声が一斉に降り注いできた。

 私は段ボールの底に絵本を戻し、定位置である首振り扇風機の前へと戻った。
 涼平さんも立ち上がり、再びパソコンのモニターと向き合う。
 キーボードの上を滑る彼の左手が、夕日の光を鋭く反射した。薬指に食い込むような銀色の輪が、私の網膜をジリジリと焼く。

 彼には、帰る場所がある。彼を待つ人が、あの指輪の向こう側に確かに存在している。
 私が彼の特別になれる日なんて、永遠に来ない。
 それが分かっているからこそ、私と涼平さんは、おとぎ話のような悲劇とは無縁の場所にいられる。
 彼が私を女として見ることはないし、私が彼のために声を失うこともない。

 私は絶対に、人魚姫みたいに馬鹿な選択はしない。
 温くなった水色のマグカップを両手で包み込みながら。

 ――そう、本気で信じていたんだ。