海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 お盆を過ぎると、海辺の町には特有の気怠さが漂い始める。
 スマホの画面が白く発光し、短い振動が掌を震わせた。画面には、同じクラスの女子からの短いメッセージ。
『明日、駅前のモール行かない? 新作のフラペチーノ飲みたい』
 私は数秒だけ画面の文字を見つめ、迷うことなく文字を打ち込んだ。
『ごめん、家の手伝いがあるから。また今度ね』
 送信ボタンを押して画面を伏せると、罪悪感よりも先に、安堵の息が漏れた。
 エアコンの効いたショッピングモールで、興味もないクラスの男子の噂話に相槌を打ち、空っぽのグラスの底をストローでかき回す。そんな息苦しい水槽での遊泳に耐える必要は、今の私にはない。

 ペダルを漕ぐ私の足は、もはや「暇つぶし」や「お裾分け」といった言い訳の衣すら脱ぎ捨てていた。
 毎日、当たり前のように海沿いの坂道を登り、あの錆びた引き戸を開ける。
『彼には、指輪がある』
 銀色に光るその揺るぎない結界が、私の行動を完璧に正当化していた。私がどれだけ入り浸っても、これはただの「夏休みの手伝い」。彼が私を女として意識することはないし、私も彼に期待することはない。何の間違いも起きない、一番安全で無害な時間の使い方だ。
 私はそう、信じ切っていた。

 研究所の引き戸を開けると、微かにカビの匂いが混じった古書の香りと、潮の匂いが迎えてくれる。
「……涼平さん、机の上の資料、本棚に片付けちゃっていいですか」
「あ、ごめん! 助かる。……というか、最近なんか俺よりこの部屋の使い勝手、分かってるよね」
 顕微鏡から目を離した涼平が、苦笑いを浮かべて首の後ろを掻いた。
「涼平さんが散らかしすぎるからです。昨日分類した貝殻、まだそこに出しっぱなしですよ」
 私は呆れたふりをして言い捨てると、いつものように流し台へと向かった。
 プラスチックの乾いた水切りカゴの隅には、私が百円均一の店で買ってきた、安っぽい水色のマグカップがぽつんと置かれている。その隣には、涼平が使っている縁の欠けた白い陶器のカップ。
 私はその二つのカップを並べ、冷蔵庫から出した麦茶を注ぐ。冷えた液体がカップの底に当たる、トクトクという低い音が響く。
 この水色のマグカップは、私がここに存在していいという、彼が暗黙のうちに発された許可証のようだった。定位置となった首振り扇風機の前で、私は自分の冷ややかな麦茶をひとくち飲み込む。喉を通る冷たさが、心地よかった。

 その時だった。
 窓の外の光が、唐突に翳った。
 先程まで容赦なく降り注いでいた刺すような日差しが、分厚い鉛色の雲に飲み込まれていく。直後、アスファルトの熱が急激に冷やされるとき特有の青臭い匂いが鼻を突き、トタン屋根を叩く暴力的な雨音が世界を塗り潰した。
 ゲリラ豪雨。夏の終わりの、熱を持った重い雨だ。

「うわ、すごい雨。窓、閉めるね」
 涼平が慌てて立ち上がり、ガタつくアルミサッシを閉めて回る。
 雨音によって、この古い木造の研究所は、外の世界から完全に切り離された。分厚い水の壁に守られた、二人だけの密閉されたシェルター。
 窓ガラスを打ち据える雨の激しさに反して、室内の空気は驚くほど静かで、甘やかな安堵に満ちていた。

「これじゃ、しばらく帰れませんね」
「そうだね。少し薄暗いけど、まあいいか」
 涼平は再びパソコンのモニターに向かい、キーボードを叩き始めた。
 私は手持ち無沙汰になり、部屋の隅に積まれたままになっていた、彼が東京の大学から送ってきた手付かずの段ボールの山に目を向けた。
「涼平さん、この段ボールの中身、適当に分けていいですか」
「んー、うん。適当に分けといて。後で確認するから」
 完全に私を信用しきっているその背中を見つめながら、私はガムテープを剥がし、埃っぽい段ボールの底へと手を伸ばした。

 分厚い専門書やファイルに挟まれて、その底には一冊の古い本が眠っていた。
 装丁の角は擦り切れ、ページは湿気を含んで波打っている。
 色褪せた表紙には、海の底で上を見上げる少女の絵。
 タイトルは、『人魚姫』。
 海洋生物の研究者らしいといえばらしい、古びた童話の絵本だった。

 カビと古い紙の匂いが、指先からふわりと立ち昇る。
 私は手を止め、その群青色の表紙をじっと見つめた。
 薄暗い部屋の中で、雨音だけが耳元で鳴り続けている。

 子どもの頃に読んだきりの、愚かで可哀想な人魚の物語。
 声を失い、歩くたびに剣の上を歩くような痛みに耐え、それでも最後には愛する人に選ばれず、海の泡となって消えてしまう。

 この時の私は、自分が絶対に守られた安全な場所にいると信じきっていて。
 このおとぎ話が、どれほど残酷な結末を迎えていたのかを、すっかり忘れていたんだ。

 雨に沈む密室の中で、私は何かに導かれるように、その重い表紙をゆっくりと開いた。