海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 お盆を目前に控えた八月の昼下がり。
 薄暗いリビングには、エアコンの低い駆動音だけが単調に響いていた。
 フローリングの床に座り込んだ私の目の前、安っぽい木目のダイニングテーブルの上には、折り目のついた千円札がポンと一枚置かれている。その横には、『お昼、適当に買って食べてね』という、母の走り書きのメモ。

 離婚してから、母は昼夜を問わず働き詰めだった。
 疲労の隈を目の下に張り付けた母親の前で、私は常に「手のかからない、聞き分けのいい娘」でいなければならない。それが、この狭い水槽の中で波風を立てずに生き延びるための、唯一の術だったからだ。
 けれど、誰もいないこの部屋に一人で取り残されていると、壁に染み付いた静寂が、真綿の紐ようにゆっくりと私の首を絞め上げてくる。

 息が、詰まる。
 私は千円札を無造作にジーンズのポケットへねじ込み、逃げるように玄関のドアを開けた。
 外に出ると、鼓膜を殴る蝉時雨と、アスファルトの照り返しが全身を焼いた。それでも、家のあの重たい冷気よりは、ずっとマシだった。

 自転車のペダルを、立ち漕ぎで乱暴に踏み込む。
 向かう先は決まっていた。海風の抜ける、あの錆びた引き戸の向こう側へ。

 研究所に着き、少しだけ乱れた呼吸を整えてから扉を開ける。
「……何してるんですか」

 開口一番、私の口から出たのは深いため息だった。
 埃っぽい板間の上で、涼平が大量の延長コードと古い漁網の絡まりに埋もれて、途方に暮れていた。

「あ、凪ちゃん! 助けて、これ知恵の輪状態になってて……ちょっと引っ張ったら、余計に締まっちゃったみたいで」
 情けなく眉尻を下げて助けを求めるその姿を見た瞬間、家を出てからずっと張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。
 私は何も言わず、彼の向かいに腰を下ろし、固く結ばれた結び目に爪を立てた。

 窓の外から聞こえる波の音。コードのゴムが擦れる微かな音。
 同じ「静けさ」なのに、家のそれとは全く違う。この部屋の空気は、どこまでも柔らかく、凪いでいる。

 格闘の末に網を解き終えると、私たちは私が買ってきた安い素麺を茹でて、向かい合って啜った。
 めんつゆの冷たさが、火照った喉の奥を滑り落ちていく。

 ブーッ、と。
 テーブルに伏せて置いていた私のスマホが、短い振動を立てた。
 画面を裏返すと、母からのメッセージが一件。
『今日も夜遅くなるから、夕飯適当にお願い』

 液晶の冷たい光が、私の顔を青白く照らす。
 分かっている。母が私のために身を粉にして働いていることなんて、痛いほど理解している。それでも、画面の文字列を見るたびに、私の中にぽっかりと開いた暗い穴が、冷たい風を吹き上げてくるのを止められない。

 私が無言でスマホを伏せ直したのを、涼平は黙って見ていた。
 「どうしたの?」とか、「お母さん、忙しいんだね」とか。大人がよく使う、薄っぺらな同情の言葉を、私は無意識のうちに身構えて待っていた。

 けれど、彼は何も聞かなかった。
 ただ、自分のガラス鉢に残っていた素麺を、菜箸でゴソッと掴み上げると、私の鉢へ無造作に移したのだ。

「ちょっ、何するんですか」
「俺、これ以上炭水化物摂ったら、午後のデータ整理で絶対に寝落ちしちゃうから。凪ちゃん、育ち盛りでしょ。責任持ってそれ食べて」

 有無を言わさぬ口調で押し付けて、彼はめんつゆを一気に飲み干した。
 私の事情に土足で踏み込むことはしない。可哀想だと憐れむこともない。ただ、私がそこにいることを肯定し、当たり前のように隣の空間を空けてくれる。
 その適当で素っ気ない優しさが、今の私にとっては、どんな慰めの言葉よりも深く肺を満たしてくれた。

 食後の気怠い午後。
 涼平はパソコンに向かってキーボードを叩き、私は定位置となった扇風機の前で、色褪せた海洋図鑑のページをパラパラと捲っていた。

 ふと顔を上げると、キーボードの上を滑る彼の左手が目に入る。
 薬指にはめられた、冷たい銀色の指輪。
 あそこには、私以外の誰かの体温が宿っている。彼には、帰るべき場所も、待っている人も、別の世界にちゃんと存在している。
 ここはただ、彼がひと夏を過ごすだけの、短い仮の宿に過ぎない。

 それでも今は、この場所だけが私にとって、唯一息継ぎができる水面だった。
 図鑑のインクの匂いを深く吸い込みながら、私はゆっくりと目を閉じる。

 ――どうかもう少しだけ、この夏が終わらないでほしい。

 首を振る扇風機の風が、私の前髪を静かに揺らして通り過ぎていった。