海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 八月も半ばを過ぎると、家の中にはじっとりとした生ぬるい空気が淀むようになる。
 パート明けの母が、リビングのソファで薄いタオルケットを被って微睡んでいる。シンクには朝食の食器が水に浸されたまま、洗われるのを待っていた。
 テレビのワイドショーが垂れ流す無機質な音から逃れるように、私はそっと玄関のドアを閉めた。

 自転車のペダルを漕ぐ足は、迷うことなく海沿いの高台へと向かっていた。前カゴには、近所の農家のお婆ちゃんから押し付けられた、不揃いで泥のついたトマトが冷やされたままビニール袋に入っている。
 ただの手ぶらで行く口実としては、十分すぎる重さだった。

 潮風で錆びついた研究所の引き戸を、少しだけ力を込めて開ける。
「……お邪魔します」
 アルコールと古い紙、それに微かな磯の匂いが混ざった空気が鼻腔をくすぐる。
 部屋の奥で、顕微鏡のレンズを覗き込んでいた涼平が顔を上げた。寝癖のついた柔らかそうな髪が、首振り扇風機の風に揺れている。

「あ、いらっしゃい。凪ちゃん」

 まるで、ついさっきまでそこにいた家族を迎え入れるような、あまりにも自然な声。そこには「どうして来たの」という警戒も、「よく来たね」という過剰な歓迎もない。

 私は返事の代わりに、手の中のビニール袋を軽く持ち上げてみせた。
「トマト、もらったんで。食べるなら冷やしておきますよ」
「ほんと? 助かる。今ちょうど、頭が糖分と水分を欲してたところなんだ」

 彼はそれだけ言うと、再び顕微鏡へと視線を戻した。
 私は勝手知ったる他人の台所で、流し台のスポンジを手に取り、泥だらけのトマトを洗い始める。蛇口から流れる水の音が、静かな部屋に吸い込まれていく。
 冷蔵庫からいつかの麦茶のボトルを取り出し、備え付けの安っぽいグラスに注ぐ。
 カラン、と。グラスの中で溶けかけた氷が、涼やかな音を立てた。

 そのグラスを自分の分だけ持って、私は彼の作業机の少し離れた端に腰掛けた。彼がピンセットで微小な貝殻を分類している横で、私は無言のまま、水槽のガラス面についた水滴をタオルで拭き取っていく。

 学校の教室にいると、ひどく呼吸が浅くなる時がある。
 誰かの顔色を窺い、相槌のタイミングを計り、面白くもない話題に唇の端を上げて笑う。そうしなければ、狭い水槽の中では生きていけないからだ。
 けれど、この古びた木造の部屋には、そんな息苦しさは微塵もなかった。
 沈黙が、全く恐ろしくない。
 規則的に首を振る扇風機のモーター音。等間隔で寄せては返す波の響き。そして、彼がノートにシャーペンを走らせる、カリカリという乾いた摩擦音。
 言葉なんて交わさなくても、空間が柔らかく凪いでいる。

「……ふう。一段落」

 不意に、涼平が大きく伸びをした。背骨がポキリと鳴る音がして、彼が眼鏡を外して目頭を揉む。
 私は黙って、冷やしておいたトマトを不揃いな櫛形に切って皿に並べた。塩を入れた小さな小鉢を添えて机の端に置くと、彼は「おっ」と子どものように目を輝かせた。

「いただきます。……ん、美味い。生き返る」
 真っ赤な果肉に齧り付く彼の口元から、透明な果汁が滴る。指先をペロリと舐める仕草は、東京のエリート大学院生という肩書きからは酷く遠く見えた。

「……涼平さんって、どうしてこういう研究してるんですか」

 私もトマトの端を齧りながら、ふと口にしていた。塩の辛味と、青臭い甘さが舌の上に広がる。
「ん? 海月とか、海洋生物?」
「はい。もっとこう……お金になりそうなこととか、華やかなこととか、いくらでもあるじゃないですか。わざわざこんな何もない田舎に来てまで」

 涼平は皿の上のトマトを見つめたまま、ふふっと短く笑った。
「そうだね。周りの奴らも、みんなお洒落な企業に就職したり、最先端のラボに行ったりしてるよ。でもさ……俺、子どもの頃から、潮だまりをずっと眺めてるのが好きだったんだよね」
「……潮だまり」
「そう。岩の隙間に残った小さな水たまりの中に、ヤドカリとか、小魚とか、得体の知れないイソギンチャクとかがひしめき合ってる。あの小さな宇宙を一日中見てても、全然飽きなくて。……俺、その頃のまま、ただ体が大きくなっちゃっただけなんだ」

 照れくさそうに笑うその目尻には、細い皺が寄っている。
 私にとって「大人」という生き物は、いつも何かに疲弊しているか、あるいは自分の価値観を上から押し付けてくるだけの、得体の知れない宇宙人だった。
 でも、目の前でトマトの種をこぼさないように啜っているこの人は、違う。
 肩の力が抜けていて、嘘がない。大人の皮を被った、ただの「涼平さん」という一人の人間だ。

 気づけば、窓の外の光は濃いオレンジ色に傾き、遠くの林からヒグラシの鳴き声が夕立のように降り注いでいた。
「……帰ります。日が暮れるから」
 空になった麦茶のグラスをシンクに下げて、私は鞄を肩にかけた。

「あ、もうそんな時間か。ごめんね、手伝わせちゃって」
 涼平は椅子から立ち上がり、私に向かって軽く手を振った。
「助かったよ。また明日も、暇だったらおいで」

 絶対に来てほしいと縋るわけでも、来るなと拒絶するわけでもない。
 いつでもそこにある、開けっ放しの扉。

「……暇だったらですね」
 私は素っ気なく返して、引き戸を閉めた。

 外に出ると、夕暮れの生ぬるい海風が、私の火照った頬を撫でていった。
 あの部屋には、私に愛想笑いを求める人も、無理に背伸びをしろと強要する人もいない。左手に銀色の指輪を光らせた、少し不器用な人が、冷たい麦茶と一緒にそこにいるだけだ。
 肺の底に溜まっていた重たい空気を、ゆっくりと吐き出す。

 ペダルに足を乗せながら、私は思った。
 ――明日もまた、あの冷たい麦茶を飲みに行こう。

 この時の私にとって、そこはただ、息を潜めてやり過ごすための、私だけの小さなシェルターだったのだ。