夏休みが始まって一週間。
予定表を真っ白に埋めたまま、私は茹だるような暑さの中を漂っていた。
地元の商店街は、海へ向かう観光客の車の列が吐き出す排気ガスと、古びたアーケードに籠った熱気で、息をするのも億劫になるほどに澱んでいる。
その歪んだ視界の先に、あまりにも見覚えのある、頼りない背中を見つけた。
「……また、迷子ですか」
声をかけると、山積みの段ボール箱とビニール袋を抱えて、今にも崩れ落ちそうになっていた瀬戸涼平が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを振り返った。
Tシャツの襟元は汗で色が変わっていて、眼鏡の縁が少しずれている。
「あ、凪ちゃん! 違うんだ、今日は迷子じゃないよ。機材と、あと生活用品を買い込んで戻ろうとしたんだけど……坂道、舐めてた。東京の平坦な道とは勝手が違うね」
そう言って苦笑する彼の足元では、スーパーの袋から溢れ出したトイレットペーパーのロールが、今にもアスファルトの熱に溶け出しそうに転がっていた。
二十四歳の大学院生。そんな肩書きからは程遠い、あまりにも無防備で、危なっかしい大人。
私は深くため息をつき、彼の腕から一番大きな段ボールを無言で奪い取った。
「あ、悪いよ。重いし、俺が自分で……」
「いいから。そんなふらふら歩いてたら、研究所に着く前に中身ぶちまけますよ」
先を歩く私の背中に、彼は「ごめん、助かるよ」と、どこか申し訳なさそうな、それでいて嬉しそうな声を投げかけた。
海沿いの高台に建つ海洋生物研究所は、かつては何かの保養施設だったという古い木造建築だ。
錆びた門をくぐり、湿った木の匂いが漂う玄関を抜けると、そこには生活感の欠片もない、無機質な実験器具と雑然とした書類の山が広がっていた。
「……ひどい。涼平さん、ここ、人が住む場所じゃないですよ」
私は手近な机に荷物を置くと、勝手に台所の冷蔵庫を開けた。
中にはコンビニの割り箸と、賞味期限の怪しいカット野菜、それに空のペットボトルが転がっているだけだった。
この人は、海月の研究には一生を捧げられるのかもしれないけれど、自分の生命を維持することには、驚くほど興味がないらしい。
私は呆れ果てて、買ってきたばかりの麦茶のティーバッグを取り出した。
「麦茶、作っておきますから。あと、その段ボールの中身、全部出していいですか」
「あ、ああ。お願いしてもいいかな。俺、片付けってどうも苦手で……。あ、それは海水のサンプルだから、そっちの棚に……」
彼が慌てて手を伸ばした、その時だった。
冷蔵庫のドアポケットにボトルを収めようとした彼の左手。
その薬指に、銀色の細い輪がはめられているのが、夕方の斜光を浴びて鈍く光った。
シンプルな、装飾のない指輪。
それが何を意味するのか、十七歳の私にだって、考えるまでもなく理解できた。
(……ああ。やっぱり、そうだよね)
特に、胸がざわめくことはなかった。
むしろ、パズルの最後のピースがピタリとはまったような、妙な納得感と安堵が全身に広がっていった。
指輪がある。つまり、この人には帰るべき場所があり、大切にすべき人が、東京にいるということだ。
それは、私にとって「安全」の証明だった。
親の離婚を見てからというもの、私はどこか大人という生き物を信用しきれずにいた。下心を持って近づいてくる男や、言葉巧みにこちらをコントロールしようとする大人の視線が、不快でたまらなかった。
でも、彼は違う。
この指輪という結界がある限り、彼が私を「女」として見ることはない。私を口説くことも、私の領域を侵すこともない。
私はただの「生意気な地元の高校生」でいられるし、彼はただの「少し抜けてる年上の友人」でいてくれる。
銀色の光は、私と彼の間にある、決して越えられないけれど、だからこそ守られている境界線のように見えた。
私は小さく鼻を鳴らして、わざとぶっきらぼうに言った。
「指輪、傷つきますよ。そんな雑に段ボール触ってると」
涼平は一瞬、自分の左手を見て、それから照れくさそうに笑った。
「あ、これ? そうだね。気をつけなきゃ。……凪ちゃんは、よく見てるね」
「……別に。目に入っただけです」
片付けを終える頃には、夕日が海に溶け出し、空は深い群青色へと染まり始めていた。
私たちは縁側に並んで座り、近所の商店で買った、一本数十円の安いソーダ味の棒アイスを齧っていた。
波の音だけが、等間隔で聞こえてくる。
沈黙は、驚くほど重くなかった。
涼平は、無理に会話を繋ごうとも、私の機嫌を伺おうともしない。ただ、遠くの水平線を見つめながら、ゆっくりとアイスを溶かしている。
「……何もないでしょ。この町」
私は膝を抱えたまま、ぽつりと溢した。
ずっと胸の奥に溜まっていた、言葉にするとひどく幼稚に聞こえる、この町に対する閉塞感。
「毎日同じ景色で、同じ人と会って。息が詰まるんです。早くどこか、もっと遠いところへ行きたい」
普通の大人なら、「若いうちはそう思うものだよ」とか、「ここは空気が綺麗でいいじゃないか」なんて、したり顔で説教を垂れるだろう。
けれど、涼平は少しだけ首を傾けて、穏やかに言った。
「そうだね。外から来た俺には、この海は奇跡みたいに美しく見えるけど。……でも、ずっとここに閉じ込められているって感じている凪ちゃんにとっては、ここはただの大きな檻なのかもしれない」
否定、されない。
その事実が、驚くほどスッと私の心に染み込んでいった。
彼は私を子ども扱いせず、一人の人間として、私の「退屈」を尊重してくれた。
研究所の古い木造の床を、冷たい海風が吹き抜けていく。
その風は、家にも学校にもない、驚くほどの風通しの良さを持っていた。
私は、自分が少しだけ深く呼吸できていることに気づいた。
背伸びをする必要もない。期待に応える必要もない。
指輪のある彼と、名前のない関係のままでいるこの場所は、私にとって初めて見つけた、誰にも邪魔されない秘密基地のようだった。
アイスの棒に残った甘い液を飲み込みながら、私は心の中で呟いた。
――彼と過ごす時間が、こんなにも居心地がいいなんて。
それが、後にどれほど残酷な執着へと変わっていくのかも知らずに。
私はただ、吹き抜ける潮風の心地よさに、身を任せていた。
予定表を真っ白に埋めたまま、私は茹だるような暑さの中を漂っていた。
地元の商店街は、海へ向かう観光客の車の列が吐き出す排気ガスと、古びたアーケードに籠った熱気で、息をするのも億劫になるほどに澱んでいる。
その歪んだ視界の先に、あまりにも見覚えのある、頼りない背中を見つけた。
「……また、迷子ですか」
声をかけると、山積みの段ボール箱とビニール袋を抱えて、今にも崩れ落ちそうになっていた瀬戸涼平が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを振り返った。
Tシャツの襟元は汗で色が変わっていて、眼鏡の縁が少しずれている。
「あ、凪ちゃん! 違うんだ、今日は迷子じゃないよ。機材と、あと生活用品を買い込んで戻ろうとしたんだけど……坂道、舐めてた。東京の平坦な道とは勝手が違うね」
そう言って苦笑する彼の足元では、スーパーの袋から溢れ出したトイレットペーパーのロールが、今にもアスファルトの熱に溶け出しそうに転がっていた。
二十四歳の大学院生。そんな肩書きからは程遠い、あまりにも無防備で、危なっかしい大人。
私は深くため息をつき、彼の腕から一番大きな段ボールを無言で奪い取った。
「あ、悪いよ。重いし、俺が自分で……」
「いいから。そんなふらふら歩いてたら、研究所に着く前に中身ぶちまけますよ」
先を歩く私の背中に、彼は「ごめん、助かるよ」と、どこか申し訳なさそうな、それでいて嬉しそうな声を投げかけた。
海沿いの高台に建つ海洋生物研究所は、かつては何かの保養施設だったという古い木造建築だ。
錆びた門をくぐり、湿った木の匂いが漂う玄関を抜けると、そこには生活感の欠片もない、無機質な実験器具と雑然とした書類の山が広がっていた。
「……ひどい。涼平さん、ここ、人が住む場所じゃないですよ」
私は手近な机に荷物を置くと、勝手に台所の冷蔵庫を開けた。
中にはコンビニの割り箸と、賞味期限の怪しいカット野菜、それに空のペットボトルが転がっているだけだった。
この人は、海月の研究には一生を捧げられるのかもしれないけれど、自分の生命を維持することには、驚くほど興味がないらしい。
私は呆れ果てて、買ってきたばかりの麦茶のティーバッグを取り出した。
「麦茶、作っておきますから。あと、その段ボールの中身、全部出していいですか」
「あ、ああ。お願いしてもいいかな。俺、片付けってどうも苦手で……。あ、それは海水のサンプルだから、そっちの棚に……」
彼が慌てて手を伸ばした、その時だった。
冷蔵庫のドアポケットにボトルを収めようとした彼の左手。
その薬指に、銀色の細い輪がはめられているのが、夕方の斜光を浴びて鈍く光った。
シンプルな、装飾のない指輪。
それが何を意味するのか、十七歳の私にだって、考えるまでもなく理解できた。
(……ああ。やっぱり、そうだよね)
特に、胸がざわめくことはなかった。
むしろ、パズルの最後のピースがピタリとはまったような、妙な納得感と安堵が全身に広がっていった。
指輪がある。つまり、この人には帰るべき場所があり、大切にすべき人が、東京にいるということだ。
それは、私にとって「安全」の証明だった。
親の離婚を見てからというもの、私はどこか大人という生き物を信用しきれずにいた。下心を持って近づいてくる男や、言葉巧みにこちらをコントロールしようとする大人の視線が、不快でたまらなかった。
でも、彼は違う。
この指輪という結界がある限り、彼が私を「女」として見ることはない。私を口説くことも、私の領域を侵すこともない。
私はただの「生意気な地元の高校生」でいられるし、彼はただの「少し抜けてる年上の友人」でいてくれる。
銀色の光は、私と彼の間にある、決して越えられないけれど、だからこそ守られている境界線のように見えた。
私は小さく鼻を鳴らして、わざとぶっきらぼうに言った。
「指輪、傷つきますよ。そんな雑に段ボール触ってると」
涼平は一瞬、自分の左手を見て、それから照れくさそうに笑った。
「あ、これ? そうだね。気をつけなきゃ。……凪ちゃんは、よく見てるね」
「……別に。目に入っただけです」
片付けを終える頃には、夕日が海に溶け出し、空は深い群青色へと染まり始めていた。
私たちは縁側に並んで座り、近所の商店で買った、一本数十円の安いソーダ味の棒アイスを齧っていた。
波の音だけが、等間隔で聞こえてくる。
沈黙は、驚くほど重くなかった。
涼平は、無理に会話を繋ごうとも、私の機嫌を伺おうともしない。ただ、遠くの水平線を見つめながら、ゆっくりとアイスを溶かしている。
「……何もないでしょ。この町」
私は膝を抱えたまま、ぽつりと溢した。
ずっと胸の奥に溜まっていた、言葉にするとひどく幼稚に聞こえる、この町に対する閉塞感。
「毎日同じ景色で、同じ人と会って。息が詰まるんです。早くどこか、もっと遠いところへ行きたい」
普通の大人なら、「若いうちはそう思うものだよ」とか、「ここは空気が綺麗でいいじゃないか」なんて、したり顔で説教を垂れるだろう。
けれど、涼平は少しだけ首を傾けて、穏やかに言った。
「そうだね。外から来た俺には、この海は奇跡みたいに美しく見えるけど。……でも、ずっとここに閉じ込められているって感じている凪ちゃんにとっては、ここはただの大きな檻なのかもしれない」
否定、されない。
その事実が、驚くほどスッと私の心に染み込んでいった。
彼は私を子ども扱いせず、一人の人間として、私の「退屈」を尊重してくれた。
研究所の古い木造の床を、冷たい海風が吹き抜けていく。
その風は、家にも学校にもない、驚くほどの風通しの良さを持っていた。
私は、自分が少しだけ深く呼吸できていることに気づいた。
背伸びをする必要もない。期待に応える必要もない。
指輪のある彼と、名前のない関係のままでいるこの場所は、私にとって初めて見つけた、誰にも邪魔されない秘密基地のようだった。
アイスの棒に残った甘い液を飲み込みながら、私は心の中で呟いた。
――彼と過ごす時間が、こんなにも居心地がいいなんて。
それが、後にどれほど残酷な執着へと変わっていくのかも知らずに。
私はただ、吹き抜ける潮風の心地よさに、身を任せていた。


