海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 鼓膜を突き破らんばかりの蝉時雨が、容赦なく降り注いでいた。
 アスファルトからは陽炎が立ち上り、遠くの景色をぐにゃりと歪ませている。吸い込む空気は熱を帯びて肺の奥まで焼けつくようで、肌に張り付く制服のブラウスがひどく疎ましかった。

 七月の初頭。この町の夏は、暴力的なまでの光と熱を伴ってやってくる。

「……暑い」

 誰もいない海沿いの坂道を、私は独り、自転車を押して歩いていた。
 錆びついたガードレールの先には、凪いだ海がどこまでも広がっている。地元の人間にとっては、それはただの「見飽きた壁」でしかない。
 永遠なんてどこにもない。両親がバラバラになったあの日、私はそう悟った。この海だって、いつか干上がるか、あるいはすべてを飲み込んで消えてしまう。そんな醒めた思考だけが、私の頭の中で澱(おり)のように溜まっていた。

 ふと、視線の先に不釣り合いな影を見つけた。

 海沿いのバス停。潮風でボロボロになったベンチの横で、一人の男が大きなキャリーケースを傍らに置き、スマホの画面と格闘している。
 白のTシャツにチノパンという、あまりにも無防備な格好。都会の空気をそのまま持ち込んだようなその姿は、この寂れた田舎町ではひどく浮いて見えた。
 近づくにつれ、男が焦燥に駆られた様子で、何度も額の汗を拭っているのが分かった。

「……迷子ですか?」

 通り過ぎざま、私はため息を隠さずに声をかけた。お節介を焼きたいわけじゃない。ただ、そのあまりに情けない背中が、熱に浮かされた風景の中で妙に目障りだったのだ。

 男が弾かれたように顔を上げた。
「えっ!? あ、ああ……ごめん。驚かせて」

 眼鏡の奥の瞳が、困惑したように揺れている。私よりずっと年上のはずなのに、その表情には大人の余裕なんて微塵も感じられなかった。
「あの、この近くに『海洋生物研究所』っていう施設があるはずなんだけど……地図アプリがこの辺りでフリーズしちゃって。もう三十分くらい、ここで立ち往生してるんだ」

「研究所?」
 私は眉をひそめて、彼が指差したスマホの真っ黒な画面を見た。
「ここからだと、その道を行ったら山越えですよ。徒歩でその荷物持って行くつもりなら、研究所に着く前に干からびますね」

「ええっ、山越え!? うそ、嘘でしょ……?」
 男は漫画みたいに大げさに肩を落とした。
「そんな……あっちの案内板には、すぐそこみたいに書いてあったのに……」

「この町の『すぐそこ』は、車で五分の意味です。歩く距離じゃないですよ」
「参ったな。タクシーも全然通らないし……」

 情けなく笑うその顔は、どこか幼い子供のようだった。都会から来たエリート大学院生だと後に聞かされることになるけれど、この時の私には、ただの「手のかかる大きな迷子」にしか見えなかった。
 突き放してそのまま帰ることもできた。けれど、太陽に炙られて真っ赤になった彼の首筋を見ていると、なぜか妙な居心地の悪さを感じて、私は自転車のハンドルを握り直した。

「……ついてきてください。自転車押してなら、裏道から十五分くらいで行けますから」

「本当? 助かるよ! ……ええと、君は?」
「海野……凪です。いいから、早くしてください」

 私はわざと冷たく言い放って、歩き出した。

 海沿いの細い路地を、私たちは並んで歩く。
 潮の匂いに混じって、彼からは石鹸のような、清潔でどこか頼りない香りがした。
「俺、瀬戸涼平。東京の大学院から、この町の海月(くらげ)の調査に来たんだ。二ヶ月間、そこの研究所に泊まり込みでね」

「海月? そんなの、その辺の波打ち際にいくらでも浮いてますよ。ゴミみたいに」
 私が素っ気なく返すと、彼は意外そうな声を上げた。

「ゴミだなんて。海月はね、自分の力では泳げないんだ。ただ潮の流れに身を任せて、漂っているだけ。でもね、その透明な体の中に、世界の神秘が全部詰まっているような気がしないかな?」

 彼は立ち止まり、キラキラと輝く海面を見つめた。その瞳には、私がとうに捨て去ったはずの、純粋な熱量が宿っている。
「この町の人にとっては当たり前の景色かもしれないけど……俺にとっては、ここは宝箱みたいなんだよ。君が当たり前だと思っている波の音も、砂の感触も、全部、誰かにとっては奇跡みたいなものなんだ」

 その瞬間、私の胸の奥で、カチリと小さな音がしたような気がした。
 冷たく凍りついていたはずの世界が、彼の言葉という熱を帯びて、ほんの少しだけ色づいていく。
 大人なのに、どうしてそんなに真っ直ぐな目で、何もないこの町を肯定できるんだろう。
 眩しすぎて、直視できない。私は逃げるように視線を足元へ落とした。

「……変な人」
 呟いた言葉は、けたたましい蝉時雨にかき消された。

 やがて、潮風に晒されて外壁の剥げた、古い研究所の建物が見えてきた。
「着きましたよ」
「ああ、ありがとう! 凪ちゃんのおかげで、行き倒れにならずに済んだよ」

「……凪ちゃん、って」
 勝手に名前を呼び捨てにされたことに、胸の奥がざわつく。

「あ、ごめん。馴れ馴れしかったかな?」
 彼は屈託のない笑顔で、頭をかいた。
「凪ちゃん。海の町にぴったりの、静かで、綺麗な名前だね」

「……別に。普通です」
 私は心臓の鼓動が速くなるのを必死に抑えながら、素っ気なく背を向けた。
 初めて、自分の名前を誰かに「綺麗」だと言われた。それだけで、肺の奥が酸素を求めてひくついている。

「また会えるかな。俺、明日から毎日あそこの桟橋でサンプル採ってるから」
「……気が向いたら」

 私は逃げるように自転車に跨り、ペダルを漕ぎ出した。
 背中越しに、「ありがとう、凪ちゃん!」という明るい声が追いかけてくる。

 この時の私は、まだ気づいていなかった。
 いや、たとえ視界に入っていたとしても、それが何を意味するのか、想像すらしていなかった。

 キャリーケースの持ち手を握り、大きく手を振る彼の左手。
 その薬指で、夏の暴力的な日差しを反射して、残酷なほど無機質に光る銀色の指輪の存在に。

 ――それは、人魚姫が声を失う前に見た、束の間の黄金色の夢だった。