海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 地下鉄の階段を上り切ると、ムッと淀んだ都会の熱気が全身に絡みついてきた。
 ビルとビルの間から切り取られたような四角い空は、すでに赤紫色の夕暮れに染まり始めている。車の排気ガスと、遠くで降ったらしい夕立のアスファルトの匂いが混ざり合い、ひどく息苦しい。

 あの海辺の町から上京して、五年が経っていた。
 大学を卒業し、都内の小さなデザイン事務所で働き始めた私の足元では、自分の足のサイズにぴったりと馴染んだ本革のパンプスが、コンクリートのタイルを小気味よく叩いている。
 どれだけ歩き回っても、もう踵から血が滲むことはない。靴擦れのかさぶたはとうの昔に剥がれ落ち、そこにあったはずの傷跡すら、今ではもう綺麗に消え去っていた。

 涼平さんのことを思い出すことは、日常の中ではほとんどなくなった。
 ただ、今日のように不意に夏の匂いを孕んだ風が吹いた時だけ、ふと、あの古びた研究所の埃っぽい空気と、ぬるい麦茶の味を思い出す。
 どこかで元気にしているだろうか。あの指輪の向こう側にいた人と、穏やかな生活を送っているだろうか。
 胸を刺すような痛みはもうない。それは琥珀に閉じ込められた標本のように、ただ美しく、静かな記憶として私の中に沈んでいた。

 涼を求めるように、私は駅前の大型書店へとふらりと足を踏み入れた。
 空調の効いた冷たい空気と、インクと新しい紙の匂いが鼻腔を満たす。仕事柄、装丁を見るのが好きだった私は、新刊が平積みされた実用書・図鑑のコーナーの前で自然と足を止めた。

 数ある色鮮やかな表紙の中で、その一冊だけが、まるでそこだけ深海に繋がっているかのように静かな群青色を放っていた。
 帯には『暗闇を照らす、微小な命の軌跡』という端正な明朝体の文字。
 タイトルは、『水中の星空』。

 ふと、著者の欄に目を落とす。

 ――瀬戸 涼平。

 その文字が網膜を焼いた瞬間。
 私の心臓は、五年という歳月を軽々と飛び越え、あの夏の暗闇で響いた時と同じように、ドクン、と大きく、痛いほどに跳ね上がった。

 無意識のうちに、私の指先はその群青色の本へと伸びていた。
 少しだけ震える手で、分厚い表紙を開く。
 艶やかな黒いページの中央に、青白く、幻想的な光を放つ無数の点が浮かび上がっていた。ウミホタル、発光性の小さな海月たち。
 それは間違いなく、あの息の詰まるような夏の夜、彼が研究所の暗闇で私に一番最初に見せてくれた、あの小さな水槽の中の星空だった。

 ページをめくる音が、自分でも驚くほど大きく聞こえる。
 息を止めたまま、私は巻末の「あとがき」へと指を滑らせた。

 そこには、彼の研究を支えてくれた恩師や同僚たちへの、彼らしい誠実で丁寧な感謝の言葉が並んでいた。
 そして、その次の一行。
『日々の生活を支え、どんな時も一番近くで励ましてくれた妻へ。深い感謝を捧げます』

 ああ、やっぱり。
 彼はあの指輪の誓い通り、彼女と結ばれ、共に歩んでいるのだ。
 その事実を活字として突きつけられても、不思議と絶望はなかった。ただ、遠い国の美しい物語の結末を見届けたような、静かな安堵だけがあった。

 本を閉じようとした、その時だった。
 少しだけ空いた行間の下に、最後の一段落が記されているのが見えた。

『――そして』

 活字を追う私の視線が、不意に、ピタリと止まる。

『あの夏、古い研究所で水色のマグカップを傾けながら、僕の退屈な日々に魔法をかけてくれた、生意気で優しい女の子へ。
 君がいなければ、僕はこの光の美しさに、気づくことはできなかった』

 周囲の喧騒が、遠くへ引いていく。
 空調の音も、レジの電子音も、すべてが分厚い水の壁の向こう側へと消え去り、耳の奥で、激しい波の音だけが鳴り響いた。

 視界が、急激に歪む。
 ポタリ、と。
 自分の手の甲に、生温かい水滴が落ちて弾けた。

 私は、泡になって消えたわけじゃなかった。
 声を出さずに、ただ痛みを隠して笑っていたあの時間は、決して無駄ではなかった。
 彼の人生という広大な海の中で、私がいたという痕跡は「ただの妹分」として片付けられたのではなく、こんなにも美しい星空の一部として、永遠に残り続けていたのだ。

 あの日、彼を想って踵から流した血も。
 彼を傷つけないためについた、可愛げのない嘘も。
 喉の奥で噛み殺した、不格好な悲鳴も。

 すべてが今、五年という長い歳月を超えて、静かに、優しく報われていく。

 私は本をパタンと閉じ、それだけを持ってレジへと急いだ。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を店員に見られないよう、必死に俯いたまま財布を開く。

 紙袋を胸に抱きしめて書店の自動ドアを抜けると、外はすっかり夜の帳が下りていた。
 都会の空には、星ひとつ見えない。
 けれど、私の腕の中には、彼が残してくれた色褪せない星空がある。

 声に出さなかった私の恋は、決して暗い海の底で無意味な泡になって消えたわけではなかった。
 あの時の私の我慢は、自己犠牲は。彼の中で魔法となり、こうして美しい光となって、永遠に輝き続けている。

 だから私も、もう振り返らない。
 私サイズの、どこも痛まないこの靴で、私の世界を堂々と歩いていく。

 夜風が、火照った頬の涙跡をひんやりと撫でていった。
 私は胸に抱いた群青色の本越しに、遠い遠い、あの波音のする町へ向かって小さく呟いた。

「――ありがとう、私の涼平さん」

 それは、最初から結末が決まっていた、人魚姫の泡みたいな恋だった。
 けれど、その儚く弾けた泡の奥底には、どんな宝石よりも眩しい、一生消えない光が残されていたのだ。