石油ストーブの灯油が燃える特有の匂いが、狭い進路指導室に充満していた。
窓ガラスは外の冷気で白く結露し、指先でなぞれば簡単に水滴が滴り落ちていく。あの息苦しいほど熱を帯びていた夏から、季節はすでに二度目の冬を迎えていた。
「海野、お前の成績なら、都内のK大……海洋学部も狙えるぞ。理数系の科目、最近ぐんと伸びてるしな」
分厚い進路希望調査の紙をめくりながら、担任の教師が事務的なトーンで提案してきた。
海洋学部。
その言葉が耳に触れた瞬間、埃っぽい研究所の匂いと、暗闇の中で青白く発光していた水槽の星空が、脳裏を鮮やかに掠めた。
東京の大学で、海の研究をする。
もしその道を選べば、もしかしたらまたどこかで、あの少し抜けた笑顔の彼に会えるかもしれない。そんな淡い期待が、冷えた胸の奥で一瞬だけチリリと音を立てて燃えた。
けれど、私は膝の上で固く組んでいた両手をほどき、ゆっくりと、しかしはっきりと首を横に振った。
「いえ。私、文学部を受験します」
彼を追って同じ道に進むのは、あの日、夜の海に捨てたはずの「人魚の未練」だ。
私はもう、誰かの後ろ姿を追うために無理をして痛い靴を履くのはやめたのだ。私は私の足で、自分の人生の輪郭を描いていく。
教師のいぶかしげな視線を正面から受け止めながら、私は静かに息を吐き出した。
その日の夜。
エアコンの温風が乾燥した空気を循環させるリビングで、私は夕食の食器を片付ける母と向かい合っていた。
テレビのバラエティ番組の音が、無機質に部屋の隙間を埋めている。
「お母さん」
呼びかけると、スポンジを動かしていた母の手が止まった。
離婚してからずっと、私はこの人の前で「手のかからない、聞き分けのいい娘」を演じ続けてきた。波風を立てず、息を潜めて、決められた小さな水槽の中だけで泳いでいた。
でも、もうやめる。
「私、東京の大学を受験したい。……県外に出て、一人暮らしがしたいの」
初めて、自分の意志で水面を叩き割った。
母は目を丸くし、濡れた手のまま振り返った。いつもなら、ここで「お金がかかるから」とか「私を一人にするの」といった空気を読んで、言葉を飲み込んでいただろう。
けれど、あの夏、彼が「ただそこにいていい」と無言で肯定してくれたおかげで、私の喉の奥にこびりついていた呪いは解けていた。
私はまっすぐに、母の疲労の色が滲む瞳を見つめ返した。
数秒の沈黙の後、母は小さくため息をつき、そして、どこか諦めたように、けれど柔らかく微笑んだ。
「……そっか。凪が自分で決めたなら、応援するよ」
その瞬間、ずっと背負っていた見えない重りが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
私はもう、声を奪われたまま痛みに耐える人魚姫じゃない。本当の声を取り戻した、一人の人間なんだ。
〇
三月。
制服の胸元に造花のコサージュをつけたままの卒業式の帰り道。
春の柔らかい風が、まだ少し冷たい海面を撫でていく中、私は自転車のペダルを漕いでいた。
向かった先は、あの海沿いの高台。
錆びついた門を抜け、見慣れた引き戸の前に立つ。
南京錠がかけられたままの扉は、潮風に晒されてさらに色褪せていた。背伸びをして、曇ったガラス窓越しに中を覗き込む。
そこには、埃をかぶった床と、外されたままの蛍光灯がぶら下がっているだけの、ただの廃屋があった。
かつては、ここが私の世界のすべてだった。
彼がいて、冷たい麦茶があって、扇風機の風があった。どんなに息苦しい現実からも逃げ込める、完璧なシェルター。
でも、今の私の目には、そこはただの「懐かしい古い部屋」にしか映らない。
魔法はとうに解け、私はもう、逃げ込む場所を必要としていないのだ。
「……ありがとうございました」
誰にともなく、私は小さくお辞儀をした。
そして、踵を返し、海に背を向けてペダルを踏み込んだ。春の陽光が、私の背中を暖かく押してくれていた。
引っ越しの日の朝。
私は、キャリーケースを傍らに置き、バスターミナルに立っていた。
あの日、彼を見送ることができず、部屋の窓から遠い空を見つめていたのと同じ場所。
足元には、無理をして買ったヒールのサンダルではなく、自分の足の形にぴったりと馴染んだ、真新しいローファーを履いている。一歩踏み出しても、血が滲むような痛みはどこにもない。
足元に置いたカバンの中には、プチプチの緩衝材で何重にも包まれた、あの「水色のマグカップ」が入っている。
彼が私の人生に存在したという、たったひとつの、けれど確かな証。
排気ガスを吹き上げながら、東京行きの高速バスが滑り込んできた。
ドアが開き、ステップに足を乗せる。
『痛みを隠して背伸びをした夏は、もう遠い。』
振り返ると、故郷の海が朝の光を反射して、キラキラと眩しく輝いていた。
『彼がくれた優しさを御守りにして、私は私のサイズの靴で、新しい街へ歩き出す。』
私は前を向き、自分の足で、新しい世界へと続く階段を上った。
窓ガラスは外の冷気で白く結露し、指先でなぞれば簡単に水滴が滴り落ちていく。あの息苦しいほど熱を帯びていた夏から、季節はすでに二度目の冬を迎えていた。
「海野、お前の成績なら、都内のK大……海洋学部も狙えるぞ。理数系の科目、最近ぐんと伸びてるしな」
分厚い進路希望調査の紙をめくりながら、担任の教師が事務的なトーンで提案してきた。
海洋学部。
その言葉が耳に触れた瞬間、埃っぽい研究所の匂いと、暗闇の中で青白く発光していた水槽の星空が、脳裏を鮮やかに掠めた。
東京の大学で、海の研究をする。
もしその道を選べば、もしかしたらまたどこかで、あの少し抜けた笑顔の彼に会えるかもしれない。そんな淡い期待が、冷えた胸の奥で一瞬だけチリリと音を立てて燃えた。
けれど、私は膝の上で固く組んでいた両手をほどき、ゆっくりと、しかしはっきりと首を横に振った。
「いえ。私、文学部を受験します」
彼を追って同じ道に進むのは、あの日、夜の海に捨てたはずの「人魚の未練」だ。
私はもう、誰かの後ろ姿を追うために無理をして痛い靴を履くのはやめたのだ。私は私の足で、自分の人生の輪郭を描いていく。
教師のいぶかしげな視線を正面から受け止めながら、私は静かに息を吐き出した。
その日の夜。
エアコンの温風が乾燥した空気を循環させるリビングで、私は夕食の食器を片付ける母と向かい合っていた。
テレビのバラエティ番組の音が、無機質に部屋の隙間を埋めている。
「お母さん」
呼びかけると、スポンジを動かしていた母の手が止まった。
離婚してからずっと、私はこの人の前で「手のかからない、聞き分けのいい娘」を演じ続けてきた。波風を立てず、息を潜めて、決められた小さな水槽の中だけで泳いでいた。
でも、もうやめる。
「私、東京の大学を受験したい。……県外に出て、一人暮らしがしたいの」
初めて、自分の意志で水面を叩き割った。
母は目を丸くし、濡れた手のまま振り返った。いつもなら、ここで「お金がかかるから」とか「私を一人にするの」といった空気を読んで、言葉を飲み込んでいただろう。
けれど、あの夏、彼が「ただそこにいていい」と無言で肯定してくれたおかげで、私の喉の奥にこびりついていた呪いは解けていた。
私はまっすぐに、母の疲労の色が滲む瞳を見つめ返した。
数秒の沈黙の後、母は小さくため息をつき、そして、どこか諦めたように、けれど柔らかく微笑んだ。
「……そっか。凪が自分で決めたなら、応援するよ」
その瞬間、ずっと背負っていた見えない重りが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
私はもう、声を奪われたまま痛みに耐える人魚姫じゃない。本当の声を取り戻した、一人の人間なんだ。
〇
三月。
制服の胸元に造花のコサージュをつけたままの卒業式の帰り道。
春の柔らかい風が、まだ少し冷たい海面を撫でていく中、私は自転車のペダルを漕いでいた。
向かった先は、あの海沿いの高台。
錆びついた門を抜け、見慣れた引き戸の前に立つ。
南京錠がかけられたままの扉は、潮風に晒されてさらに色褪せていた。背伸びをして、曇ったガラス窓越しに中を覗き込む。
そこには、埃をかぶった床と、外されたままの蛍光灯がぶら下がっているだけの、ただの廃屋があった。
かつては、ここが私の世界のすべてだった。
彼がいて、冷たい麦茶があって、扇風機の風があった。どんなに息苦しい現実からも逃げ込める、完璧なシェルター。
でも、今の私の目には、そこはただの「懐かしい古い部屋」にしか映らない。
魔法はとうに解け、私はもう、逃げ込む場所を必要としていないのだ。
「……ありがとうございました」
誰にともなく、私は小さくお辞儀をした。
そして、踵を返し、海に背を向けてペダルを踏み込んだ。春の陽光が、私の背中を暖かく押してくれていた。
引っ越しの日の朝。
私は、キャリーケースを傍らに置き、バスターミナルに立っていた。
あの日、彼を見送ることができず、部屋の窓から遠い空を見つめていたのと同じ場所。
足元には、無理をして買ったヒールのサンダルではなく、自分の足の形にぴったりと馴染んだ、真新しいローファーを履いている。一歩踏み出しても、血が滲むような痛みはどこにもない。
足元に置いたカバンの中には、プチプチの緩衝材で何重にも包まれた、あの「水色のマグカップ」が入っている。
彼が私の人生に存在したという、たったひとつの、けれど確かな証。
排気ガスを吹き上げながら、東京行きの高速バスが滑り込んできた。
ドアが開き、ステップに足を乗せる。
『痛みを隠して背伸びをした夏は、もう遠い。』
振り返ると、故郷の海が朝の光を反射して、キラキラと眩しく輝いていた。
『彼がくれた優しさを御守りにして、私は私のサイズの靴で、新しい街へ歩き出す。』
私は前を向き、自分の足で、新しい世界へと続く階段を上った。


