海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 朝、目を覚ますと、窓から差し込む光が昨日までとは少しだけ違っていた。
 空は高く、薄い絹を引いたような雲が遠くへ流れている。暴力的な熱気は影を潜め、風の端っこには、すでに微かな秋の気配が混じっていた。

 枕元に置いたスマートフォンの時計が、始発のバスがターミナルを出発する時刻を告げる。
 私はベッドに座り込んだまま、ただじっと、その数字が刻一刻と進んでいくのを見つめていた。

 本当は、顔を見に行きたかった。
 最後に一目だけ、朝の光の中の彼を目に焼き付けておきたかった。けれど、もし今バスターミナルへ駆けつけて、彼のあの困ったような、優しい笑顔を見てしまったら。
 昨夜、剣の上を歩くような痛みに耐えて作り上げた「物分かりのいい妹分」の仮面は、一瞬で崩れ去ってしまうだろう。泣いて、縋って、彼の指輪を拒絶して、彼を困らせてしまう。

(これで、いい)

 私は窓の外の、彼を乗せて走り去ったであろう遠い空に向かって、声に出さずに「さようなら」と告げた。
 私の初恋は、昨夜の海に、真っ白な泡として全部置いてきたのだ。

 午後の日差しを浴びて、私は自転車を走らせた。
 足元はもう、あの窮屈で痛いサンダルではない。履き慣れた、底の厚いキャンバス地のスニーカーだ。ペダルを漕ぐ足取りは驚くほど軽く、風を切る感覚さえ心地よいはずなのに、胸の真ん中だけが重い鉛を呑み込んだように沈んでいる。

 坂道を登り切り、いつもの研究所へ辿り着いた。
 けれど、錆びた引き戸には無機質な南京錠がかけられていた。

 窓越しに中を覗き込んでも、そこにはもう、人の気配は微塵も残っていなかった。
 ガタガタと鳴っていた古い扇風機の音も、顕微鏡に向かう彼の丸まった背中も、机の上に散らばった難解なノートも。
 あんなに騒がしく鳴いていたヒグラシの声も今は薄れ、代わりに波の音だけが、やけに大きく、冷たく響いている。

 私は鍵のかかった冷たい扉にそっと額をつけた。
 もう、あの名前を呼んでも返事はない。水色のマグカップで、ぬるい麦茶を一緒に飲む時間も二度と来ない。
 彼が本当にいなくなってしまったという事実が、遅れてきた衝撃のように全身を駆け巡った。
 乾いていた瞳の奥が熱くなり、私は誰に見られることもない空き家の前で、初めて声を殺して泣いた。



 九月になり、新学期が始まった。
 蝉の声が消え、赤とんぼが空を舞うようになっても、世界は何事もなかったかのように回り続けている。
 息苦しいけれど平和な、教室の喧騒。チョークが黒板を叩く音。

「凪、夏休み何してたの? 全然遊んでくれなかったじゃん」
 休み時間に友達からかけられた言葉に、私は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「うーん……別に。家の手伝いとか、そんな感じ」
 曖昧に笑って誤魔化す。
 この胸の奥にある、あの暗闇で見た水中の星空も、海辺でついた綺麗な嘘も。誰にも言えない、私だけの秘密の宝物。

 体育の授業の後、着替えながらふと足元を見た。
 スニーカーを履いて歩く日常の中で、あんなにひどかった踵の靴擦れは、いつの間にか厚いかさぶたになっていた。
 もう、歩いても痛くない。
 あんなに鮮明だった痛みが消えていくことは、心が癒えている証拠なのだと分かっている。けれど、彼と一緒にいたことを証明する唯一の「印」すら失われてしまうようで、私は剥がれかけなかさぶたを、少しだけ寂しく指先でなぞった。

 放課後。夕暮れに染まる自分の部屋で、私は机に向かっていた。
 手元には、あの日、研究所から持ち帰った「水色のマグカップ」がある。
 冷蔵庫から出してきた冷たい麦茶を注ぐと、カラン、と氷が乾いた音を立てた。

 一口飲む。
 氷の入った麦茶はキリリと冷たくて、彼が淹れてくれたあのぬるい麦茶とは、似ても似つかない味がした。

(彼が帰る場所に、私の居場所はない)

 マグカップの底に溜まった結露を指先でなぞる。
 それでも、あの日々が幻じゃなかったことだけは、このマグカップが知っている。
 私が自分を削ってまで彼を愛そうとしたこと、そのために背伸びをしたこと。そのすべてが、今の私の一部になっている。

 もう、足は痛まない。
 かさぶたの下で、新しい皮膚は確実に再生を始めている。

 私はマグカップを置き、窓を開けた。
 流れ込んできた秋の夜風を深く吸い込み、私は再び、自分の靴で歩き出す準備を始めた。

 ――私はまた、私のサイズのスニーカーで、私の世界を歩いていく。