涼平さんが東京へ帰る前日の午後。
私は、鉛のように重い足を引きずりながら、海沿いの坂道を登っていた。
無理をして履き続けているヒールのサンダルは、すでに私の踵の皮膚を無残に擦り剥いている。一歩踏み出すたびに、ズキリと芯に響くような痛みが走るけれど、靴を脱ぐことだけはどうしてもできなかった。
潮風に錆びついた研究所の引き戸に手をかけ、ゆっくりと横に滑らせる。
カラカラという乾いた音が響いた直後、私の視界に広がった光景に、呼吸が浅く止まった。
何もない。
あんなに足の踏み場もないほど散らかっていた漁網も、机を占領していた貝殻の標本も、書き散らされたノートの束も。彼が覗き込んでいた重たい顕微鏡すら、すべてが姿を消していた。
壁際には、ガムテープで厳重に封をされた無機質な段ボール箱が、整然と積み上げられている。
常に部屋の空気を震わせていた、古い冷蔵庫の低いモーター音がしない。
そこにあるのは、ただの埃っぽくて古い、ガランとした空き部屋だった。
ひと夏の間、私を外の世界から守ってくれていた秘密基地は、もうどこにもない。魔法は、すっかり解けてしまっていた。
「あ、凪ちゃん。いらっしゃい」
開け放たれた窓辺で、海風を部屋に通していた涼平さんが振り返った。
彼は私の顔を見ると、足元に置いてあった小さな紙袋を拾い上げ、差し出してきた。
「これ、凪ちゃんのマグカップ。綺麗に洗っておいたから、持って帰ってね」
手渡された紙袋の底で、あの安っぽい水色の円柱が、コトリと乾いた音を立てた。
受け取った指先から、体温が急速に奪われていく。
あの水色のマグカップは、この場所に私が存在していいという、最後の痕跡だった。
彼の人生という名の段ボール箱の中に、私が入り込む隙間なんて、最初から一ミリも用意されていなかったのだ。このマグカップと一緒に、私は彼の世界から綺麗に締め出された。
そんな残酷な現実を、彼は一切の悪意なく、いつもの穏やかな笑顔で手渡してくる。
私がいつも座っていたパイプ椅子も、とうの昔に片付けられていた。
私たちは、埃の拭き取られた板張りの床に、少しだけ距離を空けて直接座り込んだ。
冷蔵庫の中身を片付けられているため、いつもの氷の鳴る冷たい麦茶はない。涼平さんがコンビニの袋から取り出したのは、表面に水滴ひとつついていない、常温のペットボトルのお茶だった。
一口含むと、生温かい苦味が舌の上に広がった。
それは、私の喉の奥にこびりついている感情と、ひどくよく似た味がした。
「なんか、全部片付いちゃうと寂しいね」
ペットボトルを見つめながら、涼平さんがふとこぼした。
私は紙袋の持ち手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。少しでも気を抜けば、声が震えてしまいそうだった。
「……そうですね。これでやっと、静かになります」
可愛げのない、ひねくれた妹分。
必死に喉を締めて絞り出したその言葉に、涼平さんは「ははっ」と短く笑った。
「凪ちゃんらしいな。……でも、俺は楽しかったよ。手伝ってくれて、本当にありがとう」
大人の男としての、嘘のない、心からの感謝。
その言葉が、どんな拒絶よりも鋭く私の胸を抉る。彼にとって私は、最後まで「良い思い出の一部」でしかないのだと、最後通牒を突きつけられたようだった。
開け放たれた窓の向こうで、空の色がゆっくりと移り変わっていく。
燃えるような茜色が水平線の彼方へ沈み込み、代わりに、すべてを飲み込むような深い群青色の闇が這い上がってくる。
涼平さんが静かに立ち上がり、名残惜しそうに遠くの波頭を見つめた。
「明日の朝一のバスで帰るから、この海を見るのは、今夜が最後だ」
彼はそう言うと、私に向かって振り返り、ゆっくりと右手を差し出した。
「凪ちゃん。最後にもう一回だけ、一緒に海辺を歩かない?」
差し出されたその大きな掌。
それに縋り付いてしまえば、どんなに楽だろうか。
けれど私は、踵に食い込むサンダルの鋭い痛みをギュッと噛み殺し、彼の手は取らずに、自らの震える足で立ち上がった。
これが、最後――。
剣の上を歩くようなこの痛みを抱えたまま、私は彼に、一番綺麗な嘘をつく。
ただの生意気で可愛い妹分として、彼の記憶の中で、永遠に笑い続けるために。
私は、鉛のように重い足を引きずりながら、海沿いの坂道を登っていた。
無理をして履き続けているヒールのサンダルは、すでに私の踵の皮膚を無残に擦り剥いている。一歩踏み出すたびに、ズキリと芯に響くような痛みが走るけれど、靴を脱ぐことだけはどうしてもできなかった。
潮風に錆びついた研究所の引き戸に手をかけ、ゆっくりと横に滑らせる。
カラカラという乾いた音が響いた直後、私の視界に広がった光景に、呼吸が浅く止まった。
何もない。
あんなに足の踏み場もないほど散らかっていた漁網も、机を占領していた貝殻の標本も、書き散らされたノートの束も。彼が覗き込んでいた重たい顕微鏡すら、すべてが姿を消していた。
壁際には、ガムテープで厳重に封をされた無機質な段ボール箱が、整然と積み上げられている。
常に部屋の空気を震わせていた、古い冷蔵庫の低いモーター音がしない。
そこにあるのは、ただの埃っぽくて古い、ガランとした空き部屋だった。
ひと夏の間、私を外の世界から守ってくれていた秘密基地は、もうどこにもない。魔法は、すっかり解けてしまっていた。
「あ、凪ちゃん。いらっしゃい」
開け放たれた窓辺で、海風を部屋に通していた涼平さんが振り返った。
彼は私の顔を見ると、足元に置いてあった小さな紙袋を拾い上げ、差し出してきた。
「これ、凪ちゃんのマグカップ。綺麗に洗っておいたから、持って帰ってね」
手渡された紙袋の底で、あの安っぽい水色の円柱が、コトリと乾いた音を立てた。
受け取った指先から、体温が急速に奪われていく。
あの水色のマグカップは、この場所に私が存在していいという、最後の痕跡だった。
彼の人生という名の段ボール箱の中に、私が入り込む隙間なんて、最初から一ミリも用意されていなかったのだ。このマグカップと一緒に、私は彼の世界から綺麗に締め出された。
そんな残酷な現実を、彼は一切の悪意なく、いつもの穏やかな笑顔で手渡してくる。
私がいつも座っていたパイプ椅子も、とうの昔に片付けられていた。
私たちは、埃の拭き取られた板張りの床に、少しだけ距離を空けて直接座り込んだ。
冷蔵庫の中身を片付けられているため、いつもの氷の鳴る冷たい麦茶はない。涼平さんがコンビニの袋から取り出したのは、表面に水滴ひとつついていない、常温のペットボトルのお茶だった。
一口含むと、生温かい苦味が舌の上に広がった。
それは、私の喉の奥にこびりついている感情と、ひどくよく似た味がした。
「なんか、全部片付いちゃうと寂しいね」
ペットボトルを見つめながら、涼平さんがふとこぼした。
私は紙袋の持ち手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。少しでも気を抜けば、声が震えてしまいそうだった。
「……そうですね。これでやっと、静かになります」
可愛げのない、ひねくれた妹分。
必死に喉を締めて絞り出したその言葉に、涼平さんは「ははっ」と短く笑った。
「凪ちゃんらしいな。……でも、俺は楽しかったよ。手伝ってくれて、本当にありがとう」
大人の男としての、嘘のない、心からの感謝。
その言葉が、どんな拒絶よりも鋭く私の胸を抉る。彼にとって私は、最後まで「良い思い出の一部」でしかないのだと、最後通牒を突きつけられたようだった。
開け放たれた窓の向こうで、空の色がゆっくりと移り変わっていく。
燃えるような茜色が水平線の彼方へ沈み込み、代わりに、すべてを飲み込むような深い群青色の闇が這い上がってくる。
涼平さんが静かに立ち上がり、名残惜しそうに遠くの波頭を見つめた。
「明日の朝一のバスで帰るから、この海を見るのは、今夜が最後だ」
彼はそう言うと、私に向かって振り返り、ゆっくりと右手を差し出した。
「凪ちゃん。最後にもう一回だけ、一緒に海辺を歩かない?」
差し出されたその大きな掌。
それに縋り付いてしまえば、どんなに楽だろうか。
けれど私は、踵に食い込むサンダルの鋭い痛みをギュッと噛み殺し、彼の手は取らずに、自らの震える足で立ち上がった。
これが、最後――。
剣の上を歩くようなこの痛みを抱えたまま、私は彼に、一番綺麗な嘘をつく。
ただの生意気で可愛い妹分として、彼の記憶の中で、永遠に笑い続けるために。


