八月の下旬。空はまだ高いのに、風に混じる熱気は少しずつ乾いたものへと変わり始めていた。
遠くの林から響くヒグラシの甲高い鳴き声が、まるで夏の終わりを急かすカウントダウンのように聞こえる。
いつものように錆びた引き戸に手をかけ、研究所のドアを開けた私は、その場で息を呑んで立ち尽くした。
あんなに散らかっていた部屋が、嘘のようにすっきりと片付いていたからだ。
床に散乱していた漁網も、机を占領していた貝殻の標本も、束ねられた延長コードも、すべて消え失せている。代わりに部屋の隅には、ガムテープで封をされた「東京へ送り返すための段ボール箱」が、無機質にいくつか積み上げられていた。
(ああ、本当に終わってしまうんだ)
頭ではとうに理解していたはずの現実を、こうして視覚的に突きつけられると、足元がすくむような感覚に陥る。
いつも私が座っていた扇風機の前のスペースも、床に刻んだはずの私の痕跡が消え去り、なんだか他人の場所のようにガランとして見えた。心の中にぽっかりと空洞が開いたような、強烈な寂しさが押し寄せてくる。
「あ、凪ちゃん、おはよう」
窓を開けて風を通していた涼平さんが、私の気配に気づいて振り返った。
その顔は、長かった夏休みの宿題を終えた少年のような、晴れやかな笑顔だった。
「おかげでデータ整理、今日で全部終わりそうだよ。本当に助かった」
「……そうですか。よかったですね」
「うん。だから、今日の夜、打ち上げ代わりに海で花火でもしようか。コンビニで買ってくるよ」
花火。
その響きに一瞬だけ心が躍りかけたが、直後に「打ち上げ」という言葉が持つ残酷な意味が胸を締め付けた。打ち上げ。つまり、これが彼と過ごす「最後の夜」になるということだ。
それでも私は、無理をして買ったヒールのサンダルで床を踏みしめ、口元にいつもの不敵な笑みを貼り付けた。
「いいですね。じゃあ、線香花火がいっぱい入ってるやつにしてください。私、派手なのは疲れるんで」
ただの生意気な妹分。
最後までその役を完璧に演じ切らなければ、私の中の何かが決壊してしまいそうだった。
その日の夜。
生ぬるい潮風が吹く暗い砂浜を、コンビニの袋を提げた涼平さんと二人で歩いた。
波打ち際から少し離れた乾いた砂浜は、ヒールのサンダルで歩くには絶望的に適していなかった。細いヒールが砂にズブズブと沈み込み、歩くたびに足首が捻れそうになる。
何より最悪だったのは、まだ塞がっていない踵の靴擦れの傷口に、容赦なく細かい砂が入り込んで擦れることだった。
「っ……」
一歩踏み出すたびに、目から涙が滲みそうになるほどの激痛が走る。
まるで、足の裏を無数の細かいガラスの破片で抉られているような痛み。これが、尾ひれを捨てて二本足を手に入れた人魚姫が味わった苦痛なのだと、身をもって理解した。
「足、歩きにくくない? そんな靴じゃなくて、いつものスニーカーで来ればよかったのに」
私の不自然な歩き方に気づいた涼平さんが、立ち止まって心配そうに足元を覗き込む。
大人の男の、見透かすような優しい目。
その視線に耐えきれず、私は痛みを隠してぐっと顔を上げた。
「これがいいんです。……たまには、こういうの履きたい気分なんですよ」
意地を張った声は、少し震えていたかもしれない。
痛くても、歩きづらくても、絶対に脱ぎたくなかった。少しでも大人びた「女性」として、彼の記憶の片隅に残りたい。ただの子供扱いで終わらせたくないという、不器用で、惨めで、切実な背伸びだった。
砂浜にしゃがみ込み、私たちは無言で線香花火に火をつけた。
チリチリと燃える小さなオレンジ色の光が、暗闇の中で二人の顔を淡く照らし出す。波の音と、火花が爆ぜる微かな音だけが、世界を支配していた。
火玉をじっと見つめていた涼平さんが、ポツリと、静かに口を開いた。
「俺、明後日の朝のバスで、東京に帰るよ」
ジュッ、と。
その言葉を聞いた瞬間、私の持っていた線香花火の火玉が、重力に耐えきれなくなったようにポトリと落ちて、湿った砂の上で短く音を立てて消えた。
手元が、急に暗闇に包まれる。
煙の匂いだけが虚しく漂う中、涼平さんの左手にある銀色の指輪だけが、遠くの街灯の光を反射して、氷のように冷たく光っていた。
(分かっていた)
線香花火はいつか必ず落ちて消えるし、この夏も終わる。
彼は、あの指輪の持ち主が待つ、本来の居場所へ帰っていく。
私がどんなに背伸びをして痛みに耐えても、その現実は一ミリも揺るがない。
踵の傷口が、心臓の鼓動に合わせてジンジンとひどく痛む。
でも、この痛みがなくなってしまえば、私が彼のために無理をして背伸びをしたことや、彼と過ごしたこの時間そのものが、すべて嘘になって消えてしまいそうで。
だから私は、血の滲む靴を脱ぐことができなかった。
消えてしまった線香花火の持ち手を、ただ、強く握りしめ続けることしかできなかった。
遠くの林から響くヒグラシの甲高い鳴き声が、まるで夏の終わりを急かすカウントダウンのように聞こえる。
いつものように錆びた引き戸に手をかけ、研究所のドアを開けた私は、その場で息を呑んで立ち尽くした。
あんなに散らかっていた部屋が、嘘のようにすっきりと片付いていたからだ。
床に散乱していた漁網も、机を占領していた貝殻の標本も、束ねられた延長コードも、すべて消え失せている。代わりに部屋の隅には、ガムテープで封をされた「東京へ送り返すための段ボール箱」が、無機質にいくつか積み上げられていた。
(ああ、本当に終わってしまうんだ)
頭ではとうに理解していたはずの現実を、こうして視覚的に突きつけられると、足元がすくむような感覚に陥る。
いつも私が座っていた扇風機の前のスペースも、床に刻んだはずの私の痕跡が消え去り、なんだか他人の場所のようにガランとして見えた。心の中にぽっかりと空洞が開いたような、強烈な寂しさが押し寄せてくる。
「あ、凪ちゃん、おはよう」
窓を開けて風を通していた涼平さんが、私の気配に気づいて振り返った。
その顔は、長かった夏休みの宿題を終えた少年のような、晴れやかな笑顔だった。
「おかげでデータ整理、今日で全部終わりそうだよ。本当に助かった」
「……そうですか。よかったですね」
「うん。だから、今日の夜、打ち上げ代わりに海で花火でもしようか。コンビニで買ってくるよ」
花火。
その響きに一瞬だけ心が躍りかけたが、直後に「打ち上げ」という言葉が持つ残酷な意味が胸を締め付けた。打ち上げ。つまり、これが彼と過ごす「最後の夜」になるということだ。
それでも私は、無理をして買ったヒールのサンダルで床を踏みしめ、口元にいつもの不敵な笑みを貼り付けた。
「いいですね。じゃあ、線香花火がいっぱい入ってるやつにしてください。私、派手なのは疲れるんで」
ただの生意気な妹分。
最後までその役を完璧に演じ切らなければ、私の中の何かが決壊してしまいそうだった。
その日の夜。
生ぬるい潮風が吹く暗い砂浜を、コンビニの袋を提げた涼平さんと二人で歩いた。
波打ち際から少し離れた乾いた砂浜は、ヒールのサンダルで歩くには絶望的に適していなかった。細いヒールが砂にズブズブと沈み込み、歩くたびに足首が捻れそうになる。
何より最悪だったのは、まだ塞がっていない踵の靴擦れの傷口に、容赦なく細かい砂が入り込んで擦れることだった。
「っ……」
一歩踏み出すたびに、目から涙が滲みそうになるほどの激痛が走る。
まるで、足の裏を無数の細かいガラスの破片で抉られているような痛み。これが、尾ひれを捨てて二本足を手に入れた人魚姫が味わった苦痛なのだと、身をもって理解した。
「足、歩きにくくない? そんな靴じゃなくて、いつものスニーカーで来ればよかったのに」
私の不自然な歩き方に気づいた涼平さんが、立ち止まって心配そうに足元を覗き込む。
大人の男の、見透かすような優しい目。
その視線に耐えきれず、私は痛みを隠してぐっと顔を上げた。
「これがいいんです。……たまには、こういうの履きたい気分なんですよ」
意地を張った声は、少し震えていたかもしれない。
痛くても、歩きづらくても、絶対に脱ぎたくなかった。少しでも大人びた「女性」として、彼の記憶の片隅に残りたい。ただの子供扱いで終わらせたくないという、不器用で、惨めで、切実な背伸びだった。
砂浜にしゃがみ込み、私たちは無言で線香花火に火をつけた。
チリチリと燃える小さなオレンジ色の光が、暗闇の中で二人の顔を淡く照らし出す。波の音と、火花が爆ぜる微かな音だけが、世界を支配していた。
火玉をじっと見つめていた涼平さんが、ポツリと、静かに口を開いた。
「俺、明後日の朝のバスで、東京に帰るよ」
ジュッ、と。
その言葉を聞いた瞬間、私の持っていた線香花火の火玉が、重力に耐えきれなくなったようにポトリと落ちて、湿った砂の上で短く音を立てて消えた。
手元が、急に暗闇に包まれる。
煙の匂いだけが虚しく漂う中、涼平さんの左手にある銀色の指輪だけが、遠くの街灯の光を反射して、氷のように冷たく光っていた。
(分かっていた)
線香花火はいつか必ず落ちて消えるし、この夏も終わる。
彼は、あの指輪の持ち主が待つ、本来の居場所へ帰っていく。
私がどんなに背伸びをして痛みに耐えても、その現実は一ミリも揺るがない。
踵の傷口が、心臓の鼓動に合わせてジンジンとひどく痛む。
でも、この痛みがなくなってしまえば、私が彼のために無理をして背伸びをしたことや、彼と過ごしたこの時間そのものが、すべて嘘になって消えてしまいそうで。
だから私は、血の滲む靴を脱ぐことができなかった。
消えてしまった線香花火の持ち手を、ただ、強く握りしめ続けることしかできなかった。


