鼓膜の奥に、昨日聞いたばかりの彼の声がこびりついて離れない。
低くて、甘くて、穏やかな、あの大人の男の声。
恋心を自覚した翌日。私はいつものように研究所へ直行するのをやめて、駅前のショッピングモールに立ち寄っていた。
冷房の効いた明るい店内。靴屋のショーウィンドウの前で、私は足を止めた。
ガラスの向こう側に飾られていたのは、華奢なストラップのついた、少し大人びたヒールのサンダルだった。
今までなら、絶対に見向きもしなかったデザインだ。私のクローゼットには、動きやすいTシャツと、履き慣れたスニーカーしかない。海辺の町を自転車で走り回る「ただの地元の高校生」には、それで十分だったから。
けれど、あのスニーカーを履いたままでは、私は一生、彼にとっての「手伝いに来る地元の妹分」から抜け出せない。あの電話越しの甘い声が向けられる世界には、永遠にたどり着けない。
自分の足には合わないことくらい、試着する前から分かっていた。
それでも私は、少しでも彼に「女性」として見られたくて、財布に入っていたなけなしのお小遣いをはたき、そのサンダルを買ってしまった。
まるで、愛しい人のいる陸へ上がるために、自分の尾ひれを魔女に差し出したあの人魚のように。
新しいサンダルに履き替えて、研究所へと向かう坂道を登る。
普段なら自転車で一気に駆け上がる道も、ヒールに慣れていない今日は、歩いて登るしかなかった。アスファルトの僅かな凹凸を拾うたびに、足首がぐらりと不安定に揺れる。歩くスピードはいつもの半分以下だ。
それでも、この靴を履いて彼に会うのだと思うと、胸の奥が少しだけ誇らしくて、同時にひどく怖かった。
潮の匂いが濃くなり、見慣れた錆びた引き戸の前に立つ。
深呼吸を一つして、扉を開けた。
「……おはようございます」
「あ、おはよう。凪ちゃん」
顕微鏡から顔を上げた涼平さんは、いつものようにふんわりと笑い、そして私の全身を見て少しだけ目を丸くした。
「おっ。今日はなんか雰囲気違うね。大人っぽいじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
気づいてくれた。大人っぽいって、言ってくれた。背伸びをして買った甲斐があったと、頬が熱を帯びるのを感じた。
しかし、私の淡い期待は、続く彼の無邪気な言葉によって一瞬で粉々に打ち砕かれた。
「もしかして、このあと彼氏とデートとか? いいなあ、青春だねえ」
悪気なんて微塵もない、からかうような笑顔。
それが、鋭い刃物のように私の胸の真ん中を深く抉った。
彼にとって、私は「恋愛対象」ではない。どこまで背伸びをしたところで、他所で恋愛を楽しむべき「若い女の子」の枠を出ることはない。あの銀色の指輪の向こう側にいる婚約者への誠実さが、彼と私の間にある「絶対に越えられない壁」の厚さを、これでもかと見せつけてくる。
喉の奥が、焼けつくように熱くなった。
泣き出してしまいたい衝動を必死に呑み込み、私は冷めた声を作って言い放つ。
「……そんなんじゃありません。ただの気分です」
本当の気持ちを喉の奥に押し込めて、私はまた一つ、自分の声を奪った。
いつものように、研究所の雑用が始まる。
しかし、作業を手伝うために部屋の中を行き来していると、徐々に足元に違和感が広がり始めた。
無理をして買ったサンダルの細いストラップが、踵に深く食い込んでいる。歩くたびに擦れ、ジンジンとした熱を帯びた痛みが走る。
靴擦れだ。
皮が剥け、チリチリと血が滲むような痛みが、足を踏み出すたびに脳天へ突き抜ける。
それでも私は、「痛い」と口に出すことはできなかった。自分で選んだ背伸びのせいだと知られたくなくて、顔を顰めることすら許されず、平気な顔を作って歩き回った。
流し台の前に立ち、彼と私のマグカップを洗う。
体重をかけるたびに、踵から鋭い痛みが這い上がってくる。
彼に追いつきたくて、子供の靴を脱ぎ捨てた。
でも、無理をして手に入れた足で歩く世界は、一歩踏み出すたびに、鋭い剣で何度も刺されるように痛い。声を出せないまま、笑って痛みに耐えるしかない。
蛇口から流れる水で、マグカップの泡を洗い流す。
足元の激痛と、胸の奥で渦巻く惨めさ。
それでも。
こんなにも痛くてもいいから、私は、もう少しだけこの人の隣にいたいと思ってしまったんだ。
低くて、甘くて、穏やかな、あの大人の男の声。
恋心を自覚した翌日。私はいつものように研究所へ直行するのをやめて、駅前のショッピングモールに立ち寄っていた。
冷房の効いた明るい店内。靴屋のショーウィンドウの前で、私は足を止めた。
ガラスの向こう側に飾られていたのは、華奢なストラップのついた、少し大人びたヒールのサンダルだった。
今までなら、絶対に見向きもしなかったデザインだ。私のクローゼットには、動きやすいTシャツと、履き慣れたスニーカーしかない。海辺の町を自転車で走り回る「ただの地元の高校生」には、それで十分だったから。
けれど、あのスニーカーを履いたままでは、私は一生、彼にとっての「手伝いに来る地元の妹分」から抜け出せない。あの電話越しの甘い声が向けられる世界には、永遠にたどり着けない。
自分の足には合わないことくらい、試着する前から分かっていた。
それでも私は、少しでも彼に「女性」として見られたくて、財布に入っていたなけなしのお小遣いをはたき、そのサンダルを買ってしまった。
まるで、愛しい人のいる陸へ上がるために、自分の尾ひれを魔女に差し出したあの人魚のように。
新しいサンダルに履き替えて、研究所へと向かう坂道を登る。
普段なら自転車で一気に駆け上がる道も、ヒールに慣れていない今日は、歩いて登るしかなかった。アスファルトの僅かな凹凸を拾うたびに、足首がぐらりと不安定に揺れる。歩くスピードはいつもの半分以下だ。
それでも、この靴を履いて彼に会うのだと思うと、胸の奥が少しだけ誇らしくて、同時にひどく怖かった。
潮の匂いが濃くなり、見慣れた錆びた引き戸の前に立つ。
深呼吸を一つして、扉を開けた。
「……おはようございます」
「あ、おはよう。凪ちゃん」
顕微鏡から顔を上げた涼平さんは、いつものようにふんわりと笑い、そして私の全身を見て少しだけ目を丸くした。
「おっ。今日はなんか雰囲気違うね。大人っぽいじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
気づいてくれた。大人っぽいって、言ってくれた。背伸びをして買った甲斐があったと、頬が熱を帯びるのを感じた。
しかし、私の淡い期待は、続く彼の無邪気な言葉によって一瞬で粉々に打ち砕かれた。
「もしかして、このあと彼氏とデートとか? いいなあ、青春だねえ」
悪気なんて微塵もない、からかうような笑顔。
それが、鋭い刃物のように私の胸の真ん中を深く抉った。
彼にとって、私は「恋愛対象」ではない。どこまで背伸びをしたところで、他所で恋愛を楽しむべき「若い女の子」の枠を出ることはない。あの銀色の指輪の向こう側にいる婚約者への誠実さが、彼と私の間にある「絶対に越えられない壁」の厚さを、これでもかと見せつけてくる。
喉の奥が、焼けつくように熱くなった。
泣き出してしまいたい衝動を必死に呑み込み、私は冷めた声を作って言い放つ。
「……そんなんじゃありません。ただの気分です」
本当の気持ちを喉の奥に押し込めて、私はまた一つ、自分の声を奪った。
いつものように、研究所の雑用が始まる。
しかし、作業を手伝うために部屋の中を行き来していると、徐々に足元に違和感が広がり始めた。
無理をして買ったサンダルの細いストラップが、踵に深く食い込んでいる。歩くたびに擦れ、ジンジンとした熱を帯びた痛みが走る。
靴擦れだ。
皮が剥け、チリチリと血が滲むような痛みが、足を踏み出すたびに脳天へ突き抜ける。
それでも私は、「痛い」と口に出すことはできなかった。自分で選んだ背伸びのせいだと知られたくなくて、顔を顰めることすら許されず、平気な顔を作って歩き回った。
流し台の前に立ち、彼と私のマグカップを洗う。
体重をかけるたびに、踵から鋭い痛みが這い上がってくる。
彼に追いつきたくて、子供の靴を脱ぎ捨てた。
でも、無理をして手に入れた足で歩く世界は、一歩踏み出すたびに、鋭い剣で何度も刺されるように痛い。声を出せないまま、笑って痛みに耐えるしかない。
蛇口から流れる水で、マグカップの泡を洗い流す。
足元の激痛と、胸の奥で渦巻く惨めさ。
それでも。
こんなにも痛くてもいいから、私は、もう少しだけこの人の隣にいたいと思ってしまったんだ。


