海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 波の音だけが、やけに大きく響く夜だった。
 八月の終わり。生ぬるい潮風が、湿った髪をなでて通り過ぎていく。

 私は、砂に足を取られるたび、奥歯を強く噛み締めた。
 今日のために無理をして買った、新しいヒールのサンダル。細いストラップが、すでに真っ赤に擦り剥けた踵(かかと)に容赦なく食い込んでいる。一歩踏み出すごとに、焼けた剣で足の裏を突き刺されるような鋭い痛みが走った。

『隣を歩くたび、剣の上を歩くように足が痛む。でも、彼に気づかれないように、私は平気な顔をして笑った』

 あの童話の人魚姫も、こんな痛みの中で踊っていたのだろうか。
 だとしたら、彼女はよほど勇敢だったか、あるいは、私と同じくらい救いようのない馬鹿だったに違いない。

「凪ちゃん、大丈夫? ちょっと歩くの早かったかな」

 隣を歩く涼平さんが、私の顔を覗き込むようにして足を止めた。二十四歳の彼は、私よりずっと高い位置から、いつもと同じ穏やかな眼差しを向けてくる。

「……平気ですよ。これくらい、なんてことないです」

 痛みを隠して、私は強気な笑みを浮かべて見せた。
 明日には、彼は東京へ帰ってしまう。この二ヶ月間、当たり前のように隣にいた彼の横顔を見るのも、これが最後だ。

 涼平さんが海を見つめながら、ふっと前髪をかき上げた。月明かりの下、その左手の薬指に、銀色の指輪が残酷なほど綺麗に光った。
 その細い金属の輪は、私と彼の間に引かれた、決して越えてはいけない境界線だ。

「凪ちゃんがいてくれてよかった」

 涼平さんが、静かに、そして優しく私を見つめる。

「君のおかげで、この夏は俺にとって特別な宝物になったよ。……ありがとう」

 その言葉が、私の胸を鋭く抉った。
 彼にとって、私は「特別な妹分」で、「良い思い出」でしかないのだと。そう、綺麗に総括されてしまったのだ。

 喉の奥まで、「行かないで」という悲鳴のような本音がこみ上げてくる。「私が、ずっと隣にいたい」と叫び出しそうになる。
 けれど私は、その声を力ずくで喉の奥に押し込んだ。

「私もです。……元気でね、涼平さん」

 私は、彼に一番見せたかった、最高の笑顔で嘘をついた。

 彼の幸せを、その指輪の先に待っている誰かとの未来を、私が壊すわけにはいかない。
 言葉にしてしまえば、この心地よい関係は終わってしまう。彼を困らせ、傷つけてしまうくらいなら、私は想いを告げないまま、静かに海に溶ける泡でいい。

 ――これは最初から結末が決まっていた、人魚姫の泡みたいな恋だった。

 遠くで波が弾ける音が聞こえる。
 涼平さんの穏やかな横顔を見つめながら、私の意識は、このひどい痛みが始まる前――彼に出会ったあの日へと遡っていった。

 痛くて、苦しくて、それでもどうしようもなく惹かれてしまった。

 ……彼に出会ったのは、蝉時雨がうるさい、ひどく眩しい初夏の日のことだった。