嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 放課後。私はいつもの部室へ続く階段を通り過ぎ、渡り廊下の先にある図書室の扉をくぐった。
 かつて、土砂降りの雨の日に、不格好な原稿と格闘する彼と出会った場所。
 図書室の隅の席に座り、適当な文庫本を開く。活字の羅列をただ目でなぞるだけの、無意味な時間。

 コンクールの原稿は、もう手元にない。
 だからこれは、予行演習だ。
 遠くない未来、彼が「あの人」の隣で笑うようになった時。私が一人で放課後をやり過ごすための、心の準備。

 カチ、カチ、カチ。

 壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく鼓膜を叩く。
(今頃、先輩は一人で何をしているだろうか)
 そんな考えがふと脳裏を過り、私はひどい自己嫌悪と共に本へ視線を落とした。

 その時だった。
 図書室の静寂を乱暴に切り裂く、慌ただしい足音が近づいてきた。
 顔を上げると、息を切らした先輩が立っていた。制服のネクタイは曲がり、額には微かに汗が滲んでいる。

「お前……っ、なんで部室に来ないんだよ! 探したぞ!」
「……シーッ。図書室ですよ。声帯のボリューム調整もできないんですか」

 私は顔色一つ変えず、冷たい声で応じた。

「それに、添削する原稿もないのに私が行く理由、ありませんよね? 私は晴れて自由の身なんです。邪魔しないでください」
「っ……」

 突き放すような私の言葉に、先輩はひどく傷ついた捨て犬のような顔をした。

「理由がないと、一緒にいちゃダメなのかよ……」
「えっ」

 予想外の反撃に、息が詰まる。
 先輩は私の隣の椅子を引き、どさりと重い音を立てて座り込んだ。

「原稿がないと、不安で落ち着かないんだよ。結果発表が近づくにつれて、なんかもう頭がおかしくなりそうで……。お前と口喧嘩でもしてないと、息が詰まる」

 彼は両手で顔を覆い、情けない声で白状した。

「結果が出るまででいい。頼むから、俺の不安を紛らわせる『相棒』でいてくれよ」

 ――結果が出るまででいい。
 その言葉は、私にとって抗えない麻薬だった。
 彼に「必要とされている」という甘い歓喜と同時に、「結果が出た瞬間、この関係は完全に終わる」という残酷な死刑宣告。
 胸の奥で、相反する二つの感情が激しくせめぎ合い、内臓を鋭く締め付ける。

 私は小さく息を吐き、読んでいなかった文庫本をパタンと閉じた。

「……仕方ないですね。不安で泣き出しそうな先輩のお守りをしてあげます」
「ほんと!? サンキュ、お前ならそう言ってくれると思ってた!」

 パッと顔を輝かせる彼を睨みつけ、私は席を立った。

 二人で並んで、いつもの部室へと続く廊下を歩く。
「ていうか、さっきの本、逆さまだったぞ」
「うるさいです。そういう高度な読書法なんです」
 他愛のない、いつもの言い合い。
 先ほどまで図書室で感じていたあの凍えるような孤独感が、彼の体温と声で、嘘のように満たされていくのを感じていた。

 一人になるための予行演習は、ひとまず失敗だ。
 彼が私を必要とする限り、私は決して彼から逃げられない。

 夕陽が差し込む廊下で、少しだけ前を歩く彼の背中を見つめる。

(優しい先輩。あなたが私を無邪気に引き止めるたび、私の中で取り返しのつかない『毒』が回っていくことに……どうか最後まで、気づかないで)