原稿をポストに投函してから数週間後。
季節は巡り、高くなった秋の空から、乾いた風がグラウンドの砂埃を巻き上げていく。
体育祭の当日。
出番を終え、白いテントの陰に座り込んでいた私の右手は、ひどく手持ち無沙汰だった。
数ヶ月間、私の指先には常に赤ペンの硬い感触があった。彼と私を繋ぐ唯一の口実であった「添削」という日課が消失した今、心の中にぽっかりと穴ができたような、奇妙な喪失感が胃の底に居座っている。
「おーい、雨音」
不意に頭上から降ってきた声に顔を上げる。
先輩が、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを二本持って立っていた。
目の下にあったひどい隈はすっかり消え去り、原稿のプレッシャーから解放された彼の表情は、秋の空のように晴れやかだった。
「お疲れ。はい、これ」
「……ありがとうございます」
差し出されたボトルを受け取る。表面に浮かんだ水滴が、指先を冷たく濡らした。
彼が私の隣に、無造作に腰を下ろす。肩と肩が触れそうな距離。以前なら「パーソナルスペースの侵害です」と文句を言っていたはずなのに、今日の私はなぜか、その言葉を飲み込んでしまった。
その時、グラウンドの中央から鼓膜を震わせるような大歓声が上がった。
昼の部を飾る、三年生のチアリーディングのパフォーマンスが始まったのだ。
「あ……」
隣で、先輩の喉が小さく鳴った。
視線の先。ポンポンが太陽の光を反射して弾ける中、フォーメーションの中心でひときわ鮮やかに笑う人がいた。
艶やかな髪、誰をも惹きつける完璧な笑顔、そして指先まで洗練されたしなやかな動き。
同性の私から見ても、息を呑むほどに美しい。それは紛れもなく、先輩が文字を尽くして描き出し、私が赤ペンで削り出して磨き上げた「あの小説のヒロイン」の、完全オリジナルだ。
隣を盗み見る。
先輩は、グラウンドの彼女から完全に視線を奪われていた。
彼の手の中にあるペットボトルの結露が滴り落ち、体操着のズボンに濃い染みを作っているのに、彼自身は瞬きすら忘れている。
熱を帯びた、ひどく真っ直ぐな瞳。
私は、その目を知っている。
深夜のファミレスで、頭を掻き毟りながら一行の文章をひねり出そうとしていた時の、あの狂気じみた情熱と同じ光だ。
原稿という媒介を失った彼の熱は今、一切のフィルターを通さず、一直線に「現実の彼女」へと注がれている。
「……やっぱり、あいつはすげえな」
歓声の隙間に、ぽつりとこぼれ落ちた無防備な本音。
「なんか、手が届かないっていうか……住む世界が違うみたいだ」
眩しすぎるものを見るような彼の横顔に、みぞおちの奥がぎゅっと収縮する。
鈍い痛みを麻痺させるように、私は息を短く吸い込み、口角を完璧な角度に吊り上げた。
「そんなことないですよ」
いつもの、生意気で優秀な『軍師』のトーン。声の震えは、ミリ単位で抑え込んだ。
「先輩の小説の中の彼女のほうが、もっとずっと魅力的でしたから。作者がそんな弱気でどうするんですか。マイナス百点ですよ」
私の言葉に、先輩は驚いたように目を丸くし、それから照れくさそうに笑った。
「お前……ほんと、容赦ないけど、そういうとこすげえよな。サンキュ」
グラウンドではパフォーマンスがクライマックスを迎え、割れんばかりの拍手が巻き起こっている。
先輩もまた、心からの歓びを湛えた顔で、グラウンドの彼女へ向けて強く両手を打ち鳴らし始めた。
その眩しい横顔を見つめながら、私は自分の心に冷たい麻酔の針を突き立てていく。
痛覚を鈍らせ、この掻き毟られるような痛みを「日常」へと変えるための、防波堤の基礎工事。
彼の恋する顔を、世界で一番近くで見られる。
彼が誰かを想って流す言葉の血脈に、一番初めに触れられる。
それが、軍師である私の特権だ。彼女には決して座ることのできない、私だけの特等席なのだと、必死に自己暗示をかける。
掌に食い込むほど、ペットボトルを強く握りしめた。
私は、この痛みに慣れなくちゃいけない。
いつか必ず来る『その日』に、完璧な笑顔で、世界で一番残酷なお祝いを言うために。
季節は巡り、高くなった秋の空から、乾いた風がグラウンドの砂埃を巻き上げていく。
体育祭の当日。
出番を終え、白いテントの陰に座り込んでいた私の右手は、ひどく手持ち無沙汰だった。
数ヶ月間、私の指先には常に赤ペンの硬い感触があった。彼と私を繋ぐ唯一の口実であった「添削」という日課が消失した今、心の中にぽっかりと穴ができたような、奇妙な喪失感が胃の底に居座っている。
「おーい、雨音」
不意に頭上から降ってきた声に顔を上げる。
先輩が、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを二本持って立っていた。
目の下にあったひどい隈はすっかり消え去り、原稿のプレッシャーから解放された彼の表情は、秋の空のように晴れやかだった。
「お疲れ。はい、これ」
「……ありがとうございます」
差し出されたボトルを受け取る。表面に浮かんだ水滴が、指先を冷たく濡らした。
彼が私の隣に、無造作に腰を下ろす。肩と肩が触れそうな距離。以前なら「パーソナルスペースの侵害です」と文句を言っていたはずなのに、今日の私はなぜか、その言葉を飲み込んでしまった。
その時、グラウンドの中央から鼓膜を震わせるような大歓声が上がった。
昼の部を飾る、三年生のチアリーディングのパフォーマンスが始まったのだ。
「あ……」
隣で、先輩の喉が小さく鳴った。
視線の先。ポンポンが太陽の光を反射して弾ける中、フォーメーションの中心でひときわ鮮やかに笑う人がいた。
艶やかな髪、誰をも惹きつける完璧な笑顔、そして指先まで洗練されたしなやかな動き。
同性の私から見ても、息を呑むほどに美しい。それは紛れもなく、先輩が文字を尽くして描き出し、私が赤ペンで削り出して磨き上げた「あの小説のヒロイン」の、完全オリジナルだ。
隣を盗み見る。
先輩は、グラウンドの彼女から完全に視線を奪われていた。
彼の手の中にあるペットボトルの結露が滴り落ち、体操着のズボンに濃い染みを作っているのに、彼自身は瞬きすら忘れている。
熱を帯びた、ひどく真っ直ぐな瞳。
私は、その目を知っている。
深夜のファミレスで、頭を掻き毟りながら一行の文章をひねり出そうとしていた時の、あの狂気じみた情熱と同じ光だ。
原稿という媒介を失った彼の熱は今、一切のフィルターを通さず、一直線に「現実の彼女」へと注がれている。
「……やっぱり、あいつはすげえな」
歓声の隙間に、ぽつりとこぼれ落ちた無防備な本音。
「なんか、手が届かないっていうか……住む世界が違うみたいだ」
眩しすぎるものを見るような彼の横顔に、みぞおちの奥がぎゅっと収縮する。
鈍い痛みを麻痺させるように、私は息を短く吸い込み、口角を完璧な角度に吊り上げた。
「そんなことないですよ」
いつもの、生意気で優秀な『軍師』のトーン。声の震えは、ミリ単位で抑え込んだ。
「先輩の小説の中の彼女のほうが、もっとずっと魅力的でしたから。作者がそんな弱気でどうするんですか。マイナス百点ですよ」
私の言葉に、先輩は驚いたように目を丸くし、それから照れくさそうに笑った。
「お前……ほんと、容赦ないけど、そういうとこすげえよな。サンキュ」
グラウンドではパフォーマンスがクライマックスを迎え、割れんばかりの拍手が巻き起こっている。
先輩もまた、心からの歓びを湛えた顔で、グラウンドの彼女へ向けて強く両手を打ち鳴らし始めた。
その眩しい横顔を見つめながら、私は自分の心に冷たい麻酔の針を突き立てていく。
痛覚を鈍らせ、この掻き毟られるような痛みを「日常」へと変えるための、防波堤の基礎工事。
彼の恋する顔を、世界で一番近くで見られる。
彼が誰かを想って流す言葉の血脈に、一番初めに触れられる。
それが、軍師である私の特権だ。彼女には決して座ることのできない、私だけの特等席なのだと、必死に自己暗示をかける。
掌に食い込むほど、ペットボトルを強く握りしめた。
私は、この痛みに慣れなくちゃいけない。
いつか必ず来る『その日』に、完璧な笑顔で、世界で一番残酷なお祝いを言うために。

