凄惨な戦場だった。午前二時十七分。二十四時間営業のファミリーレストラン。
眠りを求める網膜を暴力的に叩き起こす、無機質な蛍光灯の光。テーブルの上には、無惨に散乱した原稿用紙の死骸と、原色と泥水色が混在するグラスの塔が乱立している。
氷の溶けきった毒々しい緑色のメロンソーダ。酸化してどす黒く濁ったブラックコーヒー。甘ったるいシロップの匂いと焦げた豆の匂いが、安っぽい油の香りと混ざり合って肺の奥にへばりつく。
「……」
向かいの席に座る彼の眼球は、完全に焦点を失っていた。
背中を丸め、虚ろな眼窩の奥で限界を迎えた脳髄を無理やり稼働させている。キーボードを叩く指先の動きは、死後硬直を迎えた虫の痙攣に等しい。
私もまた、カフェインで無理やり中枢神経を覚醒させながら、右手で赤ペンを握りしめていた。プラスチックの硬い軸が、指の腹に深く食い込んでいる。
「……先輩」
私は手元の束から一枚の紙を引き抜き、冷酷な声帯を震わせた。
「この主人公がヒロインに想いを伝えるクライマックスの台詞、なんですかこれ」
「え?」
鈍い摩擦音を立てて、彼の首がこちらを向く。
「『俺はお前と光合成がしたいんだ』……完璧だろ。生命の神秘を感じないか?」
「感じません。ただの植物です。主人公を今すぐ鉢植えに埋めてください」
「なっ、なんでだよ! 愛の光を浴びて、二人で酸素を生み出していくっていう、壮大で文学的なメタファー……」
「意味不明です。ヒロインは二酸化炭素ですか。即刻、除草剤を撒いて根絶やしにしますよ」
手首を返し、原稿に刻まれた『光合成』の三文字を無慈悲な二重線で抹殺する。紙の繊維を引き裂くような、鋭い摩擦音が深夜の店内に響く。
睡眠不足と焦燥感が引き起こす、極度の語彙力欠乏症。コンクール応募締め切りを明日に控え、彼の脳みそは完全にバグを引き起こし、狂気的なポエムを垂れ流す、タチの悪い自動筆記人形と化していた。
「じゃあ、これはどうだ。『君の瞳のブラックホールに吸い込まれて、俺という存在の事象の地平線が……』」
「特異点から二度と帰ってこないでください。原稿が暗黒物質で埋まります。マイナス二万点」
「うっ……なら、『俺の心臓のBPMは、君という名のメトロノームで……』」
「うるさいです。循環器内科の受診を推奨します。不整脈ですね」
一刀両断。
私の容赦ない斬撃を浴びるたび、彼は「ああああ」と頭を抱え、再びキーボードに突っ伏しては痙攣するように指を動かす。
理不尽なまでのボケと、冷酷なツッコミ。
息をするように放たれる言葉の応酬。疲労とハイテンションが入り混じる、狂騒の夜。
テンポよく言葉の刃を突き刺していた私の前で、唐突に、彼の上半身が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「……十分だけ、寝かせて……」
額を原稿の山に沈め、彼は目を閉じた。数秒も経たないうちに、規則的な微かな呼吸音がテーブルを這い始める。
ピシャリ、と。
熱狂のパレードが突如として終わりを告げたように、世界から音が消失した。
饒舌なノイズが途絶えた途端、深夜のファミリーレストラン特有の、ひどく冷たくて重い空気が鼓膜にのしかかってくる。無機質な空調の低い唸り声。遠くの厨房から響く、硬質な食器の触れ合う音。
先ほどまでの騒々しさが嘘のような、圧倒的な静寂。
私は短く息を吐き、羽織っていた紺色のカーディガンを脱いだ。
立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出す。原稿のインクで汚れた無防備な背中へ、そっと布地を被せる。
顔を近づけた瞬間、彼の寝顔が、数十センチの距離で網膜に結像した。
長い睫毛が落とす、薄い影。規則的に上下する肩。微かに開いた唇から漏れる、無防備で温かい呼気。
視線が、彼の輪郭に縫い付けられる。
喉が張り付き、呼吸が極端に浅くなる。心臓が、肋骨の内側を硬い拳で叩きつけるように跳ねた。
視線を落とす。
彼の下敷きになっている原稿。
そこに並ぶ不器用で必死な言葉たちはすべて、彼が「あの人」に想いを伝えるためだけに紡いだ、ラブレターだ。
私が手ずから赤裸々に切り刻み、血を流しながら磨き上げている、私以外の誰かへの恋の結晶。
みぞおちの奥で、冷たくて鋭い刃物が内臓をゆっくりと掻き回すような、強烈な鈍痛が走る。視界の端が歪み、奥歯を噛み締める顎の筋肉が微かに震えた。
けれど。
今この瞬間。睡眠を削り、泥にまみれ、頭がおかしくなるような深夜の蛍光灯の下で、共に一つのものを創り上げているこの戦壕の中は。
この埃っぽくて、狂気じみていて、誰にも踏み込めない共闘関係だけは。
間違いなく、世界で私だけの特等席だった。
「うーん……光合成……」
微かに開いた唇から、ひどく間抜けな寝言がこぼれ落ちる。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。
私は唇を噛み、喉の奥から這い上がろうとする微かな熱を、唾液と共に飲み込んだ。
顔の筋肉を緩め、小さな呼気を漏らす。
窓の外は、まだ漆黒に沈んでいる。
こんなに馬鹿馬鹿しくて、狂おしくて、頭がおかしくなりそうな夜を。
私は一生、忘れないのだろう。
眠りを求める網膜を暴力的に叩き起こす、無機質な蛍光灯の光。テーブルの上には、無惨に散乱した原稿用紙の死骸と、原色と泥水色が混在するグラスの塔が乱立している。
氷の溶けきった毒々しい緑色のメロンソーダ。酸化してどす黒く濁ったブラックコーヒー。甘ったるいシロップの匂いと焦げた豆の匂いが、安っぽい油の香りと混ざり合って肺の奥にへばりつく。
「……」
向かいの席に座る彼の眼球は、完全に焦点を失っていた。
背中を丸め、虚ろな眼窩の奥で限界を迎えた脳髄を無理やり稼働させている。キーボードを叩く指先の動きは、死後硬直を迎えた虫の痙攣に等しい。
私もまた、カフェインで無理やり中枢神経を覚醒させながら、右手で赤ペンを握りしめていた。プラスチックの硬い軸が、指の腹に深く食い込んでいる。
「……先輩」
私は手元の束から一枚の紙を引き抜き、冷酷な声帯を震わせた。
「この主人公がヒロインに想いを伝えるクライマックスの台詞、なんですかこれ」
「え?」
鈍い摩擦音を立てて、彼の首がこちらを向く。
「『俺はお前と光合成がしたいんだ』……完璧だろ。生命の神秘を感じないか?」
「感じません。ただの植物です。主人公を今すぐ鉢植えに埋めてください」
「なっ、なんでだよ! 愛の光を浴びて、二人で酸素を生み出していくっていう、壮大で文学的なメタファー……」
「意味不明です。ヒロインは二酸化炭素ですか。即刻、除草剤を撒いて根絶やしにしますよ」
手首を返し、原稿に刻まれた『光合成』の三文字を無慈悲な二重線で抹殺する。紙の繊維を引き裂くような、鋭い摩擦音が深夜の店内に響く。
睡眠不足と焦燥感が引き起こす、極度の語彙力欠乏症。コンクール応募締め切りを明日に控え、彼の脳みそは完全にバグを引き起こし、狂気的なポエムを垂れ流す、タチの悪い自動筆記人形と化していた。
「じゃあ、これはどうだ。『君の瞳のブラックホールに吸い込まれて、俺という存在の事象の地平線が……』」
「特異点から二度と帰ってこないでください。原稿が暗黒物質で埋まります。マイナス二万点」
「うっ……なら、『俺の心臓のBPMは、君という名のメトロノームで……』」
「うるさいです。循環器内科の受診を推奨します。不整脈ですね」
一刀両断。
私の容赦ない斬撃を浴びるたび、彼は「ああああ」と頭を抱え、再びキーボードに突っ伏しては痙攣するように指を動かす。
理不尽なまでのボケと、冷酷なツッコミ。
息をするように放たれる言葉の応酬。疲労とハイテンションが入り混じる、狂騒の夜。
テンポよく言葉の刃を突き刺していた私の前で、唐突に、彼の上半身が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「……十分だけ、寝かせて……」
額を原稿の山に沈め、彼は目を閉じた。数秒も経たないうちに、規則的な微かな呼吸音がテーブルを這い始める。
ピシャリ、と。
熱狂のパレードが突如として終わりを告げたように、世界から音が消失した。
饒舌なノイズが途絶えた途端、深夜のファミリーレストラン特有の、ひどく冷たくて重い空気が鼓膜にのしかかってくる。無機質な空調の低い唸り声。遠くの厨房から響く、硬質な食器の触れ合う音。
先ほどまでの騒々しさが嘘のような、圧倒的な静寂。
私は短く息を吐き、羽織っていた紺色のカーディガンを脱いだ。
立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出す。原稿のインクで汚れた無防備な背中へ、そっと布地を被せる。
顔を近づけた瞬間、彼の寝顔が、数十センチの距離で網膜に結像した。
長い睫毛が落とす、薄い影。規則的に上下する肩。微かに開いた唇から漏れる、無防備で温かい呼気。
視線が、彼の輪郭に縫い付けられる。
喉が張り付き、呼吸が極端に浅くなる。心臓が、肋骨の内側を硬い拳で叩きつけるように跳ねた。
視線を落とす。
彼の下敷きになっている原稿。
そこに並ぶ不器用で必死な言葉たちはすべて、彼が「あの人」に想いを伝えるためだけに紡いだ、ラブレターだ。
私が手ずから赤裸々に切り刻み、血を流しながら磨き上げている、私以外の誰かへの恋の結晶。
みぞおちの奥で、冷たくて鋭い刃物が内臓をゆっくりと掻き回すような、強烈な鈍痛が走る。視界の端が歪み、奥歯を噛み締める顎の筋肉が微かに震えた。
けれど。
今この瞬間。睡眠を削り、泥にまみれ、頭がおかしくなるような深夜の蛍光灯の下で、共に一つのものを創り上げているこの戦壕の中は。
この埃っぽくて、狂気じみていて、誰にも踏み込めない共闘関係だけは。
間違いなく、世界で私だけの特等席だった。
「うーん……光合成……」
微かに開いた唇から、ひどく間抜けな寝言がこぼれ落ちる。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。
私は唇を噛み、喉の奥から這い上がろうとする微かな熱を、唾液と共に飲み込んだ。
顔の筋肉を緩め、小さな呼気を漏らす。
窓の外は、まだ漆黒に沈んでいる。
こんなに馬鹿馬鹿しくて、狂おしくて、頭がおかしくなりそうな夜を。
私は一生、忘れないのだろう。

