嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 机に突っ伏した先輩の頭から、重苦しい呼気が漏れる。

「書けない。一行も進まない」
「先輩、デートしたことないんですか」
「あるわけないだろ。察しろよ」

 放課後の部室。原稿用紙には『俺たちは駅前で待ち合わせをした』から先が一切紡がれていない。私は手元の赤ペンを机に投げ出し、腕を組んだ。

「想像力の欠如です。ヒロインとの甘い休日の情景すら構築できない脳みそは、一度ホルマリン漬けにして洗ったほうがいいですよ」
「お前、本当に当たりが強いな……」
「仕方ないですね」

 椅子から立ち上がり、彼を見下ろす。

「私が『練習台』になってあげます。明日、放課後。私の時間を三時間、先輩に差し上げます。最高に『萌える』デートをプレゼンしてください」

 ――

 翌日の放課後。駅前の時計塔の下。
 私服に着替えた彼は、落ち着きなく周囲を見渡し、何度も前髪を弄っていた。私と目が合うと、不自然に肩を強張らせる。

「あ、雨音。お待たせ」

 裏返った声が空気を震わせる。私は手元のバインダーに挟んだ用紙に、冷酷にペンを走らせた。

「待ち合わせの挨拶、マイナス五点。声帯のコントロールすらできていません。それに、その無駄に力んだ歩き方は何ですか。関節に油を差してきてください」
「お前、厳しすぎないか。これでも結構緊張しながら頑張ってるんだぞ」
「言い訳は不要です。さあ、私を極上の非日常へエスコートしてください」

 彼がリサーチしたという道程は、ひどく凡庸で、無防備なものだった。
 女子高生に人気のカフェ。無駄に照明の明るい雑貨屋。そして、雑多な音がひしめくゲームセンター。

 電子音が交錯するフロアの奥。彼はガラスケースに張り付き、クレーンのアームを真剣な目で操っていた。

「これ、いつも添削してもらってるお礼。絶対取るから」

 横顔を彩る原色のネオン光。ガラスに反射する彼の瞳は、原稿に向かっている時と同じ、ひどく真っ直ぐな熱を帯びていた。

 視線が、彼の横顔に縫い留められる。
 呼吸の仕方を、一瞬だけ忘れた。
 周囲の騒音が遠のき、ガラスケース越しに見つめる彼の輪郭だけが、異常なほど鮮明に網膜を灼く。

 ゴトン、と鈍い音が響いた。

「よしっ。ほら、雨音、これ」

 振り返った彼の手に、不格好なウサギのぬいぐるみが握られている。
 照れ隠しのように鼻の頭を擦る彼の手から、それを受け取る。
 指先が、微かに触れた。

 心臓が、内側から肋骨を激しく叩く。
 体温が急激に上昇し、足元が揺らいだ。
 私は咄嗟にぬいぐるみを胸に抱え込み、バインダーに目を落とした。

「……ぬいぐるみの渡し方が雑です。マイナス三十点。もっとこう、スマートに渡せないんですか」
「マイナスでかすぎだろ」
「でも――努力賞で、プラス二点です」

 喉から絞り出した音は、ひどく掠れていた。

 ――

 帰り道の公園。
 西の空が、ケチャップを踏んづけたみたいに真っ赤に染まっていた。伸びた影が、アスファルトを冷たく浸食していく。

 彼は満足げに両腕を伸ばし、振り返った。

「いやあ、今日の経験、絶対原稿に活かせるわ。雨音のおかげで、好きな人とのデートの解像度が一気に上がった気がする」

 無邪気な笑顔。
 その瞬間、私の内側で暴れていた熱が、急速に凍りついた。
 肺を満たす空気が、鋭利な氷の刃に変わる。気管が切り裂かれるような錯覚。

 ああ、そうだ。
 今日の三時間は、彼にとって「あの人」と歩く未来のための予行演習にすぎない。
 私が抱きしめているこのぬいぐるみも、彼が「あの人」に与えるであろう歓びの、質の悪い模造品だ。

「どうした、雨音」

 私は胸のぬいぐるみをさらに強く抱きしめ、首を横に振った。
 顔の筋肉を引きつらせ、完璧な「軍師」の仮面を再構築する。

「……そうですね。先輩のデート力、五点満点で『〇・五点』くらいにはなりましたよ」
「低っ。今日一日でそれっぽっちかよ」

 不満げに口を尖らせる彼を置いて、私は一歩、彼から距離を取った。
 夕陽が作る私の影が、彼の影からあっさりと切り離される。

 本当は、五点満点じゃ足りないくらい、狂おしいほどに楽しかった。
 その感情を、決して開くことのない分厚い蓋の底へ沈める。

 沈黙。
 ただ、靴底が小石を擦る乾いた音だけが、暮れなずむ公園に虚しく響いていた。