嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 時は遡り――初夏。
 アスファルトを打ち据える暴力的な雨音が、図書室の窓ガラスを絶え間なく震わせていた。
 古い紙の匂いと、湿った制服の匂いが混ざり合う、薄暗い放課後。
 書架の奥で雨宿りをしていた私の足元に、くしゃくしゃに丸められた原稿用紙が転がってきた。

 視線を上げる。数メートル先の机で、見知らぬ男子生徒が頭を抱えていた。鉛筆を握りしめた右手を震わせ、何かを書き殴っては消し、苛立ちと共に紙を毟り取っている。
 私は足元の紙屑を拾い上げた。無意識に広げたそこには、乱暴で不格好な文字がひしめいていた。

 ひどく、拙い。
 けれど、紙面を突き破らんばかりの熱量だけが、異常なほどにこびりついていた。

「……ダサッ」

 喉からこぼれた音は、自分でも驚くほど冷たかった。
 彼の肩が跳ねる。血走った目が私を捉え、瞬く間にその顔が朱に染まった。

 彼は椅子を蹴立てて立ち上がり、私の手から原稿をひったくろうと腕を伸ばす。
 私はわずかに身を躱し、インクの滲んだ紙面を指弾した。

「語彙が完全に死んでます。構成は瓦礫の山。それに、この比喩……陳腐すぎて眩暈がします」
「なっ……」
「でも――」

 私は彼の目を真っ直ぐに射抜いた。

「何を伝えたいかだけは、嫌というほど分かります」

 言葉が、空中でぶつかり合う。
 激昂するか、原稿を奪い取って逃げ出すか。彼の反応を値踏みしていた私の予測は、次の瞬間、あっさりと粉砕された。
 彼は強く唇を噛み締め、両手で机を叩き、私に向かって深く頭を下げた。

「……じゃあ、どうすれば良くなるか教えてくれ!」

 プライドも何もない。泥臭くて、格好悪くて、ただひたすらに真っ直ぐな懇願。
 鼓膜の奥で、心臓が不規則な音を立てた。
 指先から、微かに体温が上昇していくのを感じる。私は咄嗟に顔を背け、手の中の原稿用紙を見つめ直した。

「……赤ペン、持ってますか」

 ――

 それから毎日、放課後の図書室は私たちの密室となった。
 彼のノートは日を追うごとに擦り切れ、ページは私の赤インクで無惨に切り刻まれていく。

「お前、マジで天才だな! ここ、すげえ良くなった!」
「先輩の脳みそが単細胞なだけです。これ、昨日も指摘した構造的欠陥ですよ。マイナス五千点」
「うっ……でも、直したら面白くなっただろ?」
「私の添削の賜物です」

 斜陽が書架の隙間を縫い、空中に舞う埃を黄金色に染め上げる。
 紙を擦るペンの音と、互いの呼吸だけが支配する空間。
 他人の入る余地のない、二人だけの閉鎖領域。
 私はいつしか、この埃っぽくてインクの匂いがする場所を、ひどく心地よいと感じ始めていた。

 ――

 決定的な亀裂は、唐突に訪れた。
 梅雨が戻ってきたような、息苦しく蒸し暑い雨の日のことだ。

「これ、新キャラの設定。どうかな」

 彼が自信満々に差し出してきた資料。
 それに目を通した瞬間、私の指先の血流が、ピタリと止まった。

 艶やかな黒髪。誰にでも分け隔てなく接する態度。笑うときに口元を隠す癖。
 活字の羅列が、鮮明な映像となって私の脳裏に結像する。
 学園の誰もが知る、日向を歩くあの美しい先輩の姿。

「先輩。これ――モデルがいるんですか」

 声のトーンを一定に保つよう、喉の筋肉を限界まで締め上げた。
 彼は少しだけ目を伏せ、照れくさそうに頬を掻いた。私が今まで一度も見たことのない、柔らかく、ひどく甘い熱を帯びた表情だった。

「……ああ。俺が小説書き始めたの、あいつに振り向いてほしかったからなんだ」

 ピシャリ、と。
 私と彼の間にあった心地よいノイズが、完全に消失した。

 無音。
 窓を叩き続けていたはずの雨音すら、私の鼓膜には届かない。
 視界の端が明滅する。肺に入り込む空気が、鋭いガラス片のように気管を切り裂き、胃の腑が鉛を呑み込んだように重く沈み込んでいく。

 私が削り出し、心血を注いで磨き上げている彼の言葉。
 それは、私に向けられたものではない。明確な別の誰かに届けるための、極上のラブレターだったのだ。

 息を止める。
 震えそうになる奥歯を、顎の骨が軋むほど強く噛み締めた。
 顔の筋肉を総動員して、いつもの「生意気な後輩」の仮面を顔面に貼り付ける。

 私の居場所は、彼の隣ではない。
 彼が紡ぐ『言葉』の隣なのだ。

 窓の外では、鉛色の空から無数の雨粒が落ち続けている。
 その冷たさを胸の奥底に封じ込め、私は再び、手の中の赤ペンを握り直した。

 ――なら、世界で一番の言葉にしてあげよう。それが、私の恋のやり方だ。