嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 ひとしきり泣き喚いて、涙も、声も、全部枯れ果てた頃。
 私はゆっくりと顔を上げ、冷たい床から立ち上がった。

 手の中に握りしめていた、インクの切れた赤ペン。
 もう二度と線を引くことのないそれを、私は筆箱の一番奥へとそっとしまった。棺に蓋をするように、静かにジッパーを引く。

 夕暮れの光が差し込む窓枠に手をついて、校庭を見下ろした。
 長く伸びた影の先に、憧れのあの人の元へと真っ直ぐに走っていく、小さな彼の背中が見えた。

「いってらっしゃい、先輩」

 もう一度だけ呟いて、制服の袖で乱暴に目元を拭う。
 防波堤は崩れ去ったけれど、最後に残った私のプライドが、これ以上の涙を許さなかった。
 私の、痛くて、苦しくて、どうしようもなく愛おしかった初恋は、ここで完全に幕を下ろしたのだ。

――
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 それから、数年の月日が流れた。

「あー、もう! だからこの構成じゃ読者の求めるカタルシスが足りないって言ってるでしょ!」

 通い慣れた大学の近くのカフェで、私はパソコンの画面とにらめっこしながら、バイトの編集者として相変わらず減らず口を叩くエネルギッシュな日々を送っている。
 あの日々から少しだけ大人になったけれど、生意気で口が悪いところは、どうやら治らなかったらしい。

 息抜きに立ち寄った、駅前の大型書店。
 ふらりと足を踏み入れた新刊コーナーで、平積みされた一冊の文庫本がふと目に留まった。

 帯には、大きく『大型新人デビュー!』の煽り文句。
 そして、その著者名には――私がかつて、何百回、何千回とノートの端に書き殴った、あの「先輩」のペンネームが印字されていた。

「……嘘でしょ」

 ドクン、と心臓が跳ねる。
 震える手でその本を手に取り、そっとページを開いた。
 そこに綴られていたのは、私が手伝ったあのコンクールの受賞作ではなく、彼が新しく書き下ろした完全な新作だった。

 活字を目で追っていくうちに、私は思わず目を見開いた。

 そこに描かれている「ヒロイン」は、あのマドンナ先輩のように、完璧でお淑やかで、美しいだけの女の子ではなかったのだ。

 主人公の書く文章にボロクソにダメ出しをして。
 深夜のファミレスで、ドリンクバーのメロンソーダを飲みながら一緒に原稿と戦って。
 憎まれ口を叩きながらも、誰よりも主人公の才能を信じ、その背中を力強く押してくれる――それは、あの頃の、騒がしくてバカバカしかった日常の空気をそのまま纏ったような、ひどく見覚えのある女の子だった。

「……相変わらず、文章のテンポが甘い。主人公がバカすぎるし」

 私は書店の真ん中で、思わずクスッと吹き出してしまった。
 手元に赤ペンがあったら、間違いなく真っ赤に染め上げていただろう。けれど、不思議と胸の奥が温かくて、たまらなく嬉しかった。

 一番最後のページ。
 『あとがき』を開くと、そこには短い感謝の言葉が綴られていた。

『この物語を、かつて俺に文章のイロハと、戦う覚悟を叩き込んでくれた最高の軍師に捧ぐ』

 その一行を読んだ瞬間、視界がふわりと滲んだ。

 恋愛としては、報われなかった。
 彼の隣に立つ「恋人」の席は、あの美しい人のものになった。
 けれど。彼のクリエイターとしての原点、あの一番熱くて、苦しくて、最高に楽しかった「戦友」という特等席は、誰にも奪われない。永遠に、私だけのものだ。

 本をそっと閉じ、胸に抱きかかえる。
 書店のガラス窓から、ふと外の空を見上げた。あの日、彼を見送って一人で泣き崩れた時のように、心の中にはまだ少しだけ、チクリとした古傷の痛みが残っている。

 晴れているのに、パラパラと天気雨が降っていた。

 平気な顔をして笑いながら、心の中ではずっと泣いていた。
 彼を勝たせるために、最後まで強がって、完璧な嘘をつき通した。

 ――それは、騒がしくて愛おしい日々に通り過ぎていった、嘘つきな天気雨みたいな恋だった。