嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 あの部室での「覚悟」から数週間。
 次の大きなコンクールに向けた執筆が本格化し、私たちの部室は完全に「戦場」と化していた。

 かつてこの部屋を満たしていた、他愛のない雑談や呆れ混じりの笑い声は、もう微塵も残っていない。
 密閉された空間に響くのは、先輩がキーボードを叩き壊さんばかりの勢いで打ち鳴らす異常な打鍵音と、私が紙の束に赤ペンを走らせる、カリカリという鋭い摩擦音だけ。

 差し入れに買ってきたアイスコーヒーの氷はとうに溶け切り、グラスの表面から滴り落ちた水滴が机に小さな水たまりを作っている。しかし、私たちは二人ともそれに気づくことすらできないほど、極限の集中状態にあった。

「……第三章プロット、全部ボツです。書き直し」

 私は容赦なく、彼が徹夜で書き上げた数万字の原稿に、ページを跨ぐほどの巨大なバツ印を書き込んだ。

「……理由は?」

 かつてなら「鬼! 悪魔!」と泣き言を並べていたはずの先輩は、文句一つ言わない。ただ、血走った真っ赤な目を真っ直ぐに私に向け、次の指示を待っている。

「ヒロインへの想いが、言葉面だけで綺麗事すぎます。もっと泥臭くて、みっともなくて、それでも彼女に手が届きたいという執着……『エゴ』をむき出しにしないと、読者の心臓には絶対に刺さりません」

 冷徹な軍師の仮面を被り、私は的確に彼の弱点を抉る。
 それはつまり、彼に対して「もっと彼女を愛していると証明しろ」と要求し続けているのと同じだった。

 原稿用紙に赤ペンを滑らせるたび、自分の指先から血が流れているような錯覚に陥る。
 先輩の描くヒロインが魅力的になればなるほど、先輩の綴る言葉が洗練され美しくなればなるほど、私の胸の奥はズタズタに引き裂かれていく。彼がヒロイン(マドンナ)へ向ける強烈な愛の証明を、私自身の手で研ぎ澄ませていくという、途方のない拷問。

 けれど同時に、私が突きつける常軌を逸した厳しい要求に彼が必死に食らいつき、想像を遥かに超える素晴らしい文章を叩き出してくるたび。
 私の内側で、軍師としての「強烈な誇り」と、二人だけの「共闘関係の悦び」が恐ろしい熱を持って泡立つのだ。
 恋心としては最悪の地獄にいるのに、編集者としては最高の歓喜を味わっている。この矛盾した業の深さが、私をこの部室に縛り付けていた。

 ――深夜。
 不意に打鍵音が止んだかと思うと、先輩は限界を迎えたように机に突っ伏し、泥のように眠りに落ちた。

 微かな寝息を立てるその丸まった背中を見つめる。
 あの、深夜のファミレスで見せた光景と同じ構図。けれど、あの時の温かくて、呆れるほど楽しくて、バカバカしかった夜の空気はもう、ここにはない。あるのはただ、血を吐くようなヒリヒリとした痛切な静寂だけだ。

 私は静かに席を立ち、彼がたった今書き上げたばかりの新しい章の原稿を手に取った。

 活字を目で追う。
 一行、二行、三行。

「……っ」

 息が、詰まった。
 そこにあったのは、私の厳しい指摘を見事に昇華し、先輩の魂そのものを削り出してインクに変えたような、圧倒的に美しく、狂おしいほどに切ない文章だった。
 不格好で、泥臭くて、けれどどうしようもなく誰かを愛しているという、むき出しの叫び。

 ポツリ、と。
 原稿用紙に、透明な染みができた。
 自分が泣いているのだと気づいたのは、視界が完全に滲んで文字が読めなくなってからだった。

 すごい。本当にすごい。
 これなら絶対に勝てる。どんな審査員でも、そしてあの人(マドンナ)の心だって、絶対に動かせる。

 彼が、天才へと近づいていく。
 私の手によって、世界で一番純粋なラブレターが完成していく。

 ――それは、私の恋が完全に息の根を止めるまでの、残酷なカウントダウンだった。